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観察対象【創作】

    財布野紐ゆるみ

    もともと感情を出さず、何を考えているのかわからない先生だった。あまり表情も変わらず、淡々と授業をして、黙々と答案用紙を返す。

    チョークなのに彼女の板書は僕がノートを取るより速いし、テストでは文章の体をなしていない、穴ぼこだらけの穴埋め問題を出す。里田先生は、そんな先生だった。

    美人だ、と盛り上がってる友達もいたけど。僕は正直、苦手だった。あの先生には、授業中に話す言葉に感情が乗っていなかった。

    白い肌。何も言わずに黒板に参考資料の表を貼り付ける動作。無機質な表情。

    一度、下校のときに先生が車に乗っているところを見たことがある。彼女はスマホをいじりながら信号待ちをしていて、青になってからも動かず後ろの車にクラクションを鳴らされていた。そのときも、表情はそのままだったと思う。

    これまで十数時間と同じ教室で過ごしたうえで、なおどんな温度の人かがまったくわからないところが、どこか不気味だった。

    * * *

    この日の二時限目は、世界史だった。

    世界史担当の山野辺先生は、いつもどうでもいい話を挟む人だった。僕にはあまり興味のない、野球チームの話が多かった。

    その日、授業の終わり際にぽつりと言ったのは、普段と違う話題だった。

    「そういや、生物の里田先生な。タヌキ食ったって言ってたぞ。」

    教室がざわつく。誰もが冗談だと思った。

    「いや本当に。轢かれてたやつ拾ってきて、鍋にしたって雑談で話してた。」

    何人かが笑った。でも、笑いは長く続かなかった。山野辺先生は、それ以上何も言わなかった。言ったあと、ただ「変わってんな、あの人」とだけ言い、難しそうな顔で資料を束ねて、教室を出ていった。

    ──うちのクラスは、次の時間が生物だった。

    里田先生は、何事もなかったみたいに教室に入ってきた。白衣の袖に、うっすらとシミがある気がした。

    「これ、回して。」

    そう言って、机の上にかごを置く。中で何かが跳ねた。蓋を開けた瞬間、飛び出しかけたのは、カエルだった。すぐに網にぶつかって、鈍い音を立てる。

    「ちゃんと見ときな。」

    先生はかごを、最前列のひとりの席に置いて、見たら後ろに回すようにと指示した。

    離れたところから見ても、そのカエルがかなり大きいことがわかる。カエルは暴れ続けていた。そのたびに、網に顔を打ちつける。

    ──パシ、パシ。

    前の席の女子が、小さく息を呑んだ。自席にかごが置かれた瞬間、ひと際大きな跳ねる音を立てられて、泣いてしまった子もいた。

    先生は、無視してまた表を黒板に貼り付けていた。僕はその手元だけを、見ていた。

    順番に回ってくる。誰もが目を逸らせない。その生物から。僕も見た。生き物に興味がないわけではないが、なるべく見ないようにして、次の席へかごを回した。別になにかに触れたわけではないのに。手を洗いたかった。

    終わると、板書タイムがはじまった。

    「ウシガエルは、食用として、食べられるものとして日本に持ち込まれました。けれども、管理しきれず逃げたりして、在来種にも影響を……。」

    手早く書きながら、淡々と説明をする。僕は要所要所だけ書き写し、半分くらいはあきらめた。

    * * *

    たぶん、その日からだった。教室に、なんだか変な匂いが残るようになったのは。

    生臭いような、田舎の山のような匂いだった。空気にもじっとりとしたものが混じり、弁当を持参する子は、日に日に減っていった。

    先生がまた別の何かを持ってきたのは、翌週だった。今度は完全に透明なケースだった。

    中には、見たことのない虫が何匹も蠢いている。白くて小さくて、教壇のその中身は僕の席から、よくは見えない。

    「今日はこれね。」

    それだけ言う。

    説明は少ない。ただ「見ろ」と言われる。先生は今日は、黒板に何も貼らず、見張るようにこちらに顔を向け、教室隅の椅子に座っていた。

    近くに回されると、嫌でも見ないわけにはいかない。男の僕ですら、間近で見ると叫んでしまいそうだった。蠢いていたのは、細長く白い芋虫のようなもの。

    しかし、叫んだり、驚いたり、気味悪がったりしてはいけない空気を、里田先生はつくっていた。腕を組み、目を見開いてかごが教室中を移動するたび目で追っていた。

    虫と土の混ざった匂いが鼻をかすめ、少し気分が悪くなりながらも目線をそらさず、息を止めて数秒数えたあと、僕は次の席に回した。

    里田先生の視線が移っていくのをこっそり確認し、僕が胸をなでおろしていた。かごが手元に戻ると、相変わらず表情を変えずに彼女は言った。

    「あんまり気味悪そうに見るんじゃない。食べれるもんなんだよ。」

    最初、意味を理解するのが遅れた。食べられる虫の意味で言ったということに気づくまで僕の中で時間が止まっていたと思う。無論、目の当たりにして、食べる気にもなれない。

    かごを教壇に置くとき、彼女の口角が上がっているように見えて、僕の背中は凍えるように冷えた。

    かごはそこに置かれたまま、授業が進行した。正直、板書を取る気にもなれなかった。

    * * *

    里田先生の「観察」の授業は、他のクラスでも同様に行われていた。「やめてほしい」という声は、学年主任や職員室にまで届いていたはずだ。しかし、「授業の一環」ということで、彼女はやり方を曲げなかった。

    教室の匂いは、どんどん濃くなっていった。窓を開けても消えない。
    服にまで染みつく、生臭さ。湿った土と、鉄の混じったような。

    さらに翌週に持ち込まれたのは、大きめの瓶だった。中で何かが沈んでいる。赤い、どろどろした、何か。

    生徒はみな、嫌な予感はしていた。だからこそ、その瓶に何を入れているのかを、誰も聞けなかった。もとより、聞いてはいけない気がした。

    この日も、気の弱い女子のひとりが泣き出した。

    「もう無理……。」

    小さな声だった。でも、教室は静まり返っていたから、はっきり聞こえた。里田先生は、その声のほうを見た。怒るでもなく、慰めるでもなく、ただ見ていただけだった。表情は、なかった。

    「……これ、回して。」

    それだけ言って、またケースを持ち上げる。中のどろりとしたものが、かすかに動いた。

    ──みなが「観察」の覚悟を決めた、そのときだった。

    ジリリリリリリリリ……!!

    火災の非常ベルが鳴り響く。

    途端に、里田先生は顔色を悪くし、教室に瓶を置いたまま走って出て行ってしまった。

    そこいらの物にぶつかりながら、人とは思えない傾いた身体で逃げるようにいなくなった。あとで前の席のやつに聞いたところ、苦しそうに顔をゆがめていたそうだ。

    教室がざわつきはじめるまで、少し時間がかかったと思う。

    非常ベルは結局、誰かが誤って鳴らしたとのアナウンスがすぐに流れた。

    しかし、里田先生は戻ってこなかった。校内の駐車場に、通勤用の車を残したまま、いなくなってしまったらしい。

    残された赤いどろどろの瓶は、次の時間の担当の先生が持っていってくれた。

    里田先生はその日を境に、学校へ姿を見せることはなくなった。

    * * *

    次に生物を教えてくれた先生は、悪い先生ではなかったと思う。観察の授業はなかったし、板書もゆっくりだった。

    でも、正直あまりその先生のことを覚えていないし、結局、僕の高校生物の成績は、悪いままだった。

    あとになって、里田先生のことを他の人に話すと、「怖い話」「気味の悪い話」とよく言われた。

    カエルの観察も、虫の観察も、まあ勉強の一部と言えなくはない。あの先生は、今はどうなったのかはわからないが、彼女なりに自分の授業をやっていたつもりだったのかもしれない。

    それでも、彼女がいなくなるきっかけを作った非常ベルに、僕は感謝していた。

    あの赤いどろどろの瓶をまじまじと見なくて済んだことが、ではない。あのときの自分であれば、視界に入り込んだものを、感情を殺して入り込まないように遮断することはできたと思う。

    僕が怖かったのは、非常ベルが鳴らなかった場合……彼女が走り去らなかった場合に、瓶を回収したあと、教壇でその瓶を見つめて何か言うかもしれなかったことだ。

    もし、彼女がこう言っていたら。

    「食べれるもんなんだよ。」

    それだけは、絶対に聞きたくなかったと思う。


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