メインコンテンツへスキップ
見出し画像

イヤホンと帰り道【創作】

    財布野紐ゆるみ

    下校の道すがら、優人は耳に小さな黒いイヤホンを差し込んでいた。

    それは、もともと自分が母にプレゼントしたものだった。
    入院中、少しでも退屈がまぎれるようにと。

    母が亡くなったあと、荷物のなかにそのまま残っていたのを、今も大切に使っている。

    今日もお気に入りの曲が流れる。
    街の音を遠ざけ、ただ自分だけの世界をつくってくれる。

    横断歩道の手前で信号が青に変わった。歩き出そうとした、そのとき。
    ふいに、右耳のイヤホンが沈黙した。

    ついさっきまで普通に聴こえていたのに。
    首をかしげ、立ち止まる。

    その瞬間。
    右側から風を切るような轟音が突き抜けた。

    大型の車がブレーキ音も荒々しく、横断歩道へ飛び込んでいく。
    前を歩いていた人々が悲鳴を上げ、ざわめきが広がった。

    優人は、歩き出す一歩を遅らせていた。
    イヤホンが、まるで何かを止めてくれたようだった。

    彼は耳元に手をやり、しばらく動けずに立ち尽くした。
    夕暮れのざわめきが戻る中、右耳の沈黙だけが、不思議にあたたかく寄り添っていた。


    あなたへのおすすめ