メインコンテンツへスキップ
見出し画像

鬼が泣いた夜

    もなみ流久


    山姥の台所


    外は、木々をなぎ倒すような酷い嵐。

    山姥は台所で一人、ゆっくりとコーヒーを淹れていた。
    そのとき、扉を叩く音もなく、大きな影が転がりこんできた。

    あばら骨が浮き出るほど痩せこけ、
    角も片方折れかかった、飢えた鬼だった。

    鬼はもう、何日も何も食べていなかった。

    空腹に耐えられず、村の蔵を壊し、
    食べ物を奪おうとした。

    けれどそこで見たのは、
    自分よりも小さな、震える老夫婦が、
    最後の一握りの米を分け合おうとする姿だった。

    ——奪えば、生きられる。
    けれど、奪えば、この者たちが死ぬ。

    どうしても手が動かなかった。

    鬼は何も盗まず、逃げ出した。
    そして命からがら、山姥の元へ辿り着いたのだった。

    山姥は何も聞かなかった。

    ただ、鉄鍋でコトコトと煮込んでいた
    滋味あふれる温かなスープを差し出した。

    鬼は獣のようにそれを啜った。

    一口ごとに、喉が焼けつく。

    「苦いかい。
    それは、お前の心が“優しさ”に驚いているんだよ」

    その言葉に、鬼の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。

    ⸻

    鬼が泣いた夜


    その夜、鬼は初めて泣いた。

    空腹が満たされたからではない。
    誰も傷つけずに済んだという安堵と、
    それでも消えない飢えの苦しさが、
    涙となって溢れ出たのだった。

    やがて鬼は、眠りに落ちた。

    嵐が過ぎ、静けさが戻る頃。

    「あいつ、奪わなかったな」

    山姥が振り向くと、
    いつの間にか、赤い顔の天狗が梁に腰掛けていた。

    山姥は何も言わない。

    天狗は、ただ一度だけ頷くと、
    音もなく姿を消した。

    ⸻

    天狗の下駄


    朝。

    鬼が目を覚ますと、
    戸口に小さな下駄が揃えて置いてあった。

    昨夜の天狗の下駄だった。

    鬼はそれを履いてみた。

    すると——
    あれほど重かった身体が、
    嘘のように軽くなっていた。

    鬼は、しばらくその場に立ち尽くした。

    それから、振り返り、深く頭を下げた。

    何も言わずに。

    そして、山を下りていった。
    その足跡は、昨日よりも少しだけ軽かった。


    ***

    こちらの企画に参加させていただきました。

    #3つのお題に空想のひらめきを



     
     
     
    関東地方の北の方に暮らして、半世紀超。 夕暮れ時の連なる山々に癒されています。 そして、ふと目に映った風景の中で暮らす自分を想像するのが好き。

    あなたへのおすすめ