
温もりがくれたもの
AM5:00
タイムカードを押したあと、いつものように裏口から駐輪場に出る。
ヘアネットを外した頭が妙に軽くて、肩だけがまだライン作業のリズムを覚えている。
白い蛍光灯の通路を抜けると、朝の空気が冷やっとしていて、思ったよりも静かだ。
「佐倉さん、お先に」
弁当工場の同僚が車の窓越しに声を掛けてくる。
「お疲れ様」
私の自転車は、いつもの場所で斜めに傾きかけている。
サドルに手をかけると、ビニールの表面が夜露で少し冷たかった。
工場を出て自転車を漕ぐ。
信号待ちの車は数えるほどしかない。
ペダルを踏むたび、空は夜から朝へ、ゆっくりと色を変えていく。
ハンドルを持つ手が温まる頃、辺りはすっかり朝に生まれ変わった。
—帰ったらすぐシャワーを浴びようか、それとも何か食べようか?
そんなことを、ぼんやり考えながら自転車を走らせる。
朝の住宅街に、自転車のチェーンだけが小さく鳴る。
いつもは通り過ぎるコンビニの
「焼きたてパン」
ののぼりが目にとまる。
私は小麦とイーストの甘く香ばしい匂いにつられ、焼き上がったばかりのパンを買った。
アパートの階段を2段上がった所でいつもは足が止まり、ひと息つくけれど今朝は、コンビニの袋に気分が上がる。
—こんな事で…
笑えるくらいの小さな出来事だ。
アパートの部屋はまだ目覚めていない。
カーテンと窓を全開にする。
朝日に照らされて、埃がゆっくりと泳いでいた。
シャワーを浴びる。
体に染みついた工場の揚げ油や出汁の匂いが、お湯といっしょに流れて行く。
濡れた髪をタオルで拭きながら
お湯を沸かす。
—今朝は紅茶を淹れよう
コンビニの袋から出したパンは、まだ少し温かい。
指先に溶けたバターの匂いが残る。
サクッ。
乾いた音のあと、バターの匂いだけが口の中に残った。
紅茶の湯気の向こうの窓から子供たちの笑い声が聞こえる。
私の一日が終わろうとしていた。
PM9:00
タイムカードを押す。
チーフに来月のシフトの希望用紙を出す。
「これお願いします」
「分かった」
「佐倉さん。昼間の希望が入ってるけど….」
「はい」
そう答えた自分の声が、少しだけ軽く感じた。