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【23】君と手をつないでいたかった「ときめく気持ち」

    実家に帰るとすぐにと、母が私の顔を覗き込むようにして
    「どうだった?」
    と尋ねてきたが、私はわずかに頷き、
    「うん、後でね」
    とだけ返した。我ながら気のない返事だったと思う。

    でも、それが今回何も得られていないと言うことを物語っていた。私はどう話そうか迷っていた。

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    私は習慣の手洗いうがいを済ませたあと、柚香を母に任せてそのまま廊下を抜け、間借りしている「元」私の部屋へと上がる。

    バッグを舞香が学習机がわりにしているコタツの上に投げ出し、ふと姿見の前に立った。
    独身の時は この鏡で自分の姿を見るのが日課だった。
    髪一本の乱れも許せなくて何十分もこの鏡の前で髪や化粧の乱れを直した。いわば私の戦友、魔法の鏡な様な存在だった。

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    若い時は、魔法の鏡から「今日も完璧!いってらっしゃい!」と言ってもらえている様で鏡の前に立つのが楽しかっけど、先日帰ってからは 「あら?またシワが増えたわね?あらら、もう若くないのね」と言われているようで ココに立つのが嫌だった。

    でも、今日は何かが違って見えた。

    髪をかきあげ、そっと唇に指をあてる。
    鏡の中の姿は まだ若すぎたあの頃のように頬を赤らめて 唇と瞳が潤んで、優しい表情をしていた。何より肌が瑞々しく感じた。
    自分で言うのも恥ずかしいけれど 若々しくて可愛くなったような気がした。

    私は、くるりと一回転してみた。
    スカートの裾がふわっと揺れる。
    まるで、十代の頃に恋をしたときのような、くすぐったい浮ついた気持ち。
    でも・・・彼と一緒に歩くのなら、このワンピースは少し落ち着きすぎているかな。

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    妹の部屋に「お姉ちゃん使っていいよ」と言われた洋服がかかっていた。
    言われたときは「年が違いすぎるから私には無理だな」と思ったけれど、袖を通してみたいと思った。

    妹の部屋で、隠れるようにワンピースを何着か試してみる。

    これは私にも似合うかも。私、まだ・・・若く見えるかな。
    あの人・・・ライス君は、キレイって言ってくれるかな?

    鏡の前で髪を束ねてみたり、振り返ってみたり、私は彼の姿を想像しながら胸が高鳴っていた。
    少女のときめきがよみがえった。

    けれど、そんな気分も長くは続かなかった。
    鏡を見て微笑んでいる自分。その顔をまじまじと私は見つめる。
    「・・・バカみたい」
    鏡の中の自分をじっと見つめているうちに、徐々に現実の輪郭が戻ってくる。

    目尻のシワ、気にしていたほうれい線。
    見慣れた“中年の女性”が、そこには確かに立っているのだ。

    「きっと、騙されたんだよね。浮かれてたのが馬鹿みたい」

    ため息と一緒に、口からその言葉が零れた。
    確かにライス君には触れられた。でも、チャムには触れていない。
    あれも何かの――演出だったのかもしれない。

    「瑛太の作った映像?プログラム?あれも芝居? まさかね。でも・・・…」

    頭の中で否定と肯定がせめぎあう。
    さっきまでの浮かれた気持ちは、まるでガラス細工が崩れたように、一瞬で冷めてしまった。

    「こんなおばさん、誰も好きにならないよね?」

    呟くように言って、私はそっと鏡から目を逸らした。

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    気持ちを切り替えるように、私は母の家事を手伝おうとキッチンへ降りた。

    するとちょうどそのタイミングで、舞香を迎えに行っていた父が戻ってきたところだった。

    手洗いとうがいを済ませ、無言で食卓につく。
    父は、私に何も聞かなかった。それがありがたかった。

    それでも、私は話さずにいられなかった。

    「……もしかするとね。近いうちに、戻るかも」

    ぽつりと切り出した自分の声に、自分がいちばん驚いた。戻りたいのは瑛太とやり直したいからではないのだ。ライス君と会いたいから。彼に触れられたいから。

    「疑念は・・・まだ晴れたわけじゃないんだけど、でも・・・瑛太も、家族としてやり直すことを考えてるみたいだったし」

    まるで、予定していた筋書きをなぞるように、私はべらべらとしゃべっていた。
    もともと、こうなるつもりだった。
    彼がクロでもシロでも――もし「やり直したい」と言われたら、自分はそう答えるつもりだった。

    父は、ちらりと私の顔を見た。
    その視線に詰問も評価もなかった。ただ、静かに言った。

    「そうだな。子供には親が必要だもんな」

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    胸がぎゅっとなった。
    結婚も、出産も、私の人生だ。
    だけど、私の選択で、両親や娘が不幸になったり、悲しむ姿は見ていられない。
    私ができる唯一の親孝行――それは、「私がちゃんと幸せであること」。
    そしてそれを、私なりに見せること。

    舞香は、黙ったままご飯をつついていた。
    「私はもうあの家に戻らない」なんて強がりを言うかと思っていたのに、彼女は一言も口にしなかった。

    柚香は、話の意味がまだよくわかっていないらしく、コロコロと笑いながらごはんをこぼしていた。

    私はふと、自分の胸にそっと手を当てた。
    ライス君のこと、小麦のこと、そして――瑛太との未来。
    答えを出すには、まだもう少し時間が必要だと思った。

    夏でもないし、こんな脚なんて誰にも見られるわけじゃない。何かを期待しているわけでもない。
    それでも、女性としてきちんとしていたくて私はお風呂で丁寧に脱毛をした。

    大事なところも 丁寧に。
    大事なところだから、手を抜きたくはなかった。清潔にしておきたくて。
    「綺麗」でいたくて。
    生まれたての子供なような体に。
    綺麗と言ってもらえる体にした。
    彼に悦んでもらえるように。

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    お風呂上がりのブローも、いつもより念入りに。
    結ぶ仕草をしてみたりして、思わず鏡の前で髪を見つめた。
    髪を結んだときに、ちょっとだけしわが伸びて目じりが上がったような気がした。
    楽だからとショートボブにしたけれど――少し、伸ばしてみようかな。ふと、そんな言葉が口をついて出た。
    爪・・・ネイルしてみたいな。そしたら褒めてくれるかな・・・と思ったところでもう一人の自分が「誰に?」と問い返してきた。わかってるくせに。

    * * *


    翌日、駅前のショッピングセンターで、つい衝動的に買ってしまったレース付きの下着。誰に見せるでもない。
    実家に帰ったからってずぼらな女にはなりたくなかった。「ちゃんとした自分」でいたかった。

    洋服も見たかったけれど、今日は柚香もいる。それは夜になってから、ゆっくりスマホで探そうと思った。

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    柚香を寝かしつけたあと、布団の中でファッション通販のページを開いた。持っている洋服と言えば 仕事用のオフィスカジュアル以外はしまむらで買ったTシャツやトレーナーばかりだった。仕事用の服だってHoneysだ。
    でもHoneysはデザインも可愛いしなんと言っても安い。働く女性の味方だ。意外とオフィスで使える洋服の品ぞろえが多いからお気に入りだ。

    本当に朝から晩まで、家で家事をして仕事に行って、夜も帰ってきたら家事をして、子供たちの明日の準備をして・・・。慌ただしい毎日の中でおしゃれなんて二の次だった。

    スマホのアプリもだいぶログインしていなかったから、ログインパスワードを求められてパスワードを忘れてログインに時間がかかった。
    やっと開けたショッピングサイトのアプリはポイントが失効していた。

    でも、こうやっておしゃれな洋服を眺めていると楽しい。
    新たな自分を発見できそうな気がする。

    今はこんなのが流行っているんだな。
    これかわいい。
    お気に入りに入れとこ。
    どんどん時間が過ぎて行った。

    昨日までの、あの憂鬱な気分は何だったのだろう。私はそんなに軽い女ではないのに、単純な女ではないのに・・・彼、素敵だったな・・・。
    ライス君に惹かれているのを自覚し始めていた。

    LINEの通知が鳴った。「ライス君?」と思ったが瑛太からだった。ライス君が私のLINEを知っているわけがない。
    1人で苦笑いした。

    「今日は、ちゃんと話せなくてごめん。」

    「ううん。チャムって名乗る女の子が出てきたじゃない。
    私もびっくりしたよ。」

    「うん。そのことなんだけど……ライスに会わなかった?」

    「え……どうして?」

    「いや、君が帰ったあと、今度はライスと名乗る男が現れてさ。
    ライスってのは前に僕が飼ってた犬の名前。
    離婚のとき元妻にお願いして手放した犬なんだけど。
    その男が、楓さんって素敵だねって言ってて……。ちょっと心配になった。」

    「あなたは、なんて返したの?」

    「楓は僕の妻だ。それよりも君は本当にライスなのか?ときいたら消えてしまった」

    「……そう。」

    そこで会話は止まった。

    私は、ライス君と既に会ってしまっていることを――言えなかった。
    当然、キスをしたなんて・・・言えるはずがない。そんなことをしてしまったら、私はもう私は瑛太と元に戻れなくなる。

    でも、私は 本当に瑛太と元に戻りたいのだろうか・・・。
    家に帰るバスの中で気が付いて くすぶっていた私の中の気持ち。

    キスを・・・した。してしまった。
    ううん。私から求めたわけじゃない。
    彼のほうから。

    でも、本当は――もう一度、会いたい。
    あの笑顔に。あのまなざしに。
    彼は、また私に微笑んでくれるだろうか?

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    胸の奥が熱くなる。
    私は、うずくような体をそっと抱えるようにして、深く布団をかぶった。
    私は、瑛太の事を責められない・・・。

    * * *

    翌日、瑛太から電話があった。
    スマホが鳴っているのはわかっていたが、ちょうど仕事の電話の最中だったため出られず、不在着信の表示だけが残った。
    (なんだろう……?)

    すぐにかけ直したい衝動にかられながらも、職場のデスクから個人的な電話はできない。
    私は「トイレ行ってきます」とだけ言って席を立ち、スマホを持って廊下の奥の誰もいない場所へ移動した。そして、着信履歴をタップしてコールをかける。

    すぐに繋がった。

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    「もしもし、楓?ちょうどよかった。今LINE打ってたとこだったんだ」
    瑛太の声は、いつもより少し急いていた。

    「何かあったの?」

    「うん、今日、小麦を見てもらえないかな? 急に大阪に行くことになって。こないだ納品したデータでトラブルがあったみたいで、リモート対応じゃどうにもならなくて」

    「そうなんだ……大変だね」

    「でも、前のこともあるし……君が小麦に会いたくないんじゃないかって、少し気になってて。無理なら、ペットホテルに預けるから」

    私は少し間を置いてから、なるべく自然に返した。

    「ううん、預かる。というか、私が今日はそっちに泊まる事にする。それで良い? そっちで私が見た方が、小麦も落ち着くと思うし。環境が変わると体調崩すかもしれないから。舞香と柚香は突然だから、実家にお願いする。」

    「そう? 助かるよ。鍵は——」

    「持ってるから大丈夫。」

    「そうだったね。ありがとう。ほんと、助かるよ」


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    通話を終えた私は、胸の奥に静かに期待の灯がともるのを感じていた。
    小麦を預かる理由なんて、本当はただの口実にすぎない。
    私の心は、あの青年――ライス君に、また会えるかもしれないという希望でいっぱいだった。


    自宅に戻ると、柚香が玄関まで駆け寄ってきた。
    事前に母にはLINEで連絡していたので父が柚香を迎えに行ってくれていた。
    直接家に戻ってもよかったのだが、舞香や柚香の顔を見てから行こうと思ったからだ。

    「ママ、おかえりー!」
    いつもどおりの明るい声
    「ただいま、ゆず」
    柚香をぎゅっとハグする
    「ばぁばが言ってた。またどっかいくの?」

    「ちょっとね、パパのおうちにコムちゃんのお世話に行くの。パパ、急にお仕事で遠いとこに行くことになっちゃって」

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    案の定、柚香は頬をふくらませて言う。
    「ゆずもいく!」

    私はしゃがんで、彼女の目を見てやさしく話しかける。

    「でもさ、ゆず、ばぁばとお風呂入って、じぃじと3人で寝るって、昨日約束してたよね?」

    「……したけど」

    「ママ、すぐ帰ってくるから。小麦ちゃんにも、ゆずが会いたがってたってちゃんと伝えるね。あとでテレビ電話しよ?」

    柚香はしばらく考えてから、しぶしぶうなずいた。

    「……わかった。でも、ゆずのぶんもなでなでしてね」

    「もちろん、いっぱいなでなでしておくよ」

    その様子を見ていた母が、茶の間から声をかけてくる。
    「向こうに一泊するの? こっちに連れてくれば良いのに」

    母の言葉に、私は首を振って笑った。

    「ううん、小麦は環境の変化で体調を崩しやすいから。家で私が見てたほうがいいと思って。こないだ行ったときも、瑛太ひとりで結構散らかしてたし、ちょっと掃除もしてこようかなと思って」

    「なるほどね。まぁ、他人の家ってわけじゃないし、楓がいいなら。気をつけてね」

    「うん。舞香と柚香のこと、お願いね」

    「わかってる。行ってらっしゃい」

    母と会話しながらも、私の心の中では別のことが動いていた。
    昨日の午後――ライス君と、あの不意打ちのようなキスを交わしたときから。
    まるで自分の中の「何か」が静かに目覚めたよ。私自身その「何か」の正体はわかっている。その「何か」を期待しているから行くのだ。

    昨日、可愛いレースの下着が目に入った瞬間、なぜかそれが必要な気がした。柚香が一緒だったから、言い訳のように「ママもかわいいのが着たいな~」なんて言いながら買ったけど、こんなに早く出番が来るなんて思っていなかった。

    昨夜。
    スマホでファッション通販を眺めていて、一着のワンピースに目が止まった。少し若い子向けのデザイン。
    でも、心が勝手に動いた。「今の私が着たら、どうなる?」そう思って、気がつけば“購入する”ボタンを押していた。

    そして今日――

    午後に瑛太から「小麦を預かってもらえないか」と連絡が入った。
    出来すぎているくらいのタイミングだった。けれど、それが何かの罠でも私はその罠に抗うつもりはなかった。

    自室にファッション通販の段ボールが置いてあった。母が置いておいてくれたのだ。
    「届いてる。」
    わくわくしながら開封して、さっそくワンピースに袖を通してみる。勿論、昨日のランジェリーも。

    鏡の中には――
    いつもよりほんの少し、背筋が伸びて見える私がいた。初めてこんな大胆なランジェリーを身につける。いつもと違った部分が刺激され,期待感とで私の芯が少し熱くなるのがわかった。

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    ワンピースは可愛らしすぎるかもと思っていたデザインだったけど、意外としっくりくる。
    肩のラインも、スカートの丈も、どこか自分の“女”を優しくなぞるようで、着ていて心が弾んだ。

    夜にわざわざ着替えるなんて、少し気が引けたけれど、ちょうど家族は夕食の支度でバタバタしていた。誰にも見られずに済んだのは幸運だった。

    「いってきます」

    ドアから顔だけ出して声をかけると、柚香が「ギューして」と走ってきた。
    私のワンピースを見て、目をまんまるくして言った。

    「ママ、きれい!」

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    その一言だけで、胸がぽっと熱くなる。

    私は、少しだけおしゃれをした自分に、そっと微笑みかけた。
    そして、瑛太のいない家へと向かう足取りは、自然と軽く、そして、どこか恋する少女のように――早くなっていた。


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