
発達性協調運動障害の息子との楽しい子育て⁉️
自分の良いところは「出来ないことを駄目だと思っていないところです」と言える33歳になる息子。
この言葉は私にとって最高のほめ言葉なんです。
小さい時から「ママだけだよ僕を褒めてくれるの」と言っていた二男。
そんな息子は
在胎28週でマクドナルドの結紮術を受けた母のお腹の中で、37週と3日で出生するまで頭が固定されたままでした。
産科の医師からは「頭部が圧迫されている状況なので、障害が残る可能性があるかもしれない」と言われました。
私は看護師で、結婚前は産科・小児科の混合病棟で勤務していたため、多くの出産に立ち会い、障害を抱えて生まれてくる命にも出会って来ていました。
いざ自分がその言葉を聞いた時、
とにかく、自分に言い聞かせるように毎日
「どんな状況でも、母は大丈夫だからね」とお腹に話かけていました。
無事にというか、結紮した糸を外し子宮口が半分開いた状態で1週間かけて出て来た息子は頭はのびて、顔は浮腫んでいましたが大声で泣いて、五体満足で産まれて来ました。産まれた時から笑える子でした、このぶちゃ可愛い息子の顔を見ていると皆笑顔になりました。
3歳上のお兄ちゃんは弟のことを可愛がり毎日本を読んであげていました、お腹に居たときから、ゴジラのごっちやんとお腹の子に名前をつけて、たくさん話しかけていたからでしょうか、とにかくお兄ちゃんが居ないと大泣きでした。
産まれてから、1歳くらいまでは特に気になることは無かったのですが、1歳を過ぎでも、つかまり立ちはするのですが、なかなか一歩が出ず、1歳半で歩き始めました。
ウルトラマンやゴジラが大好きで、ショーを見に行ってウルトラマンが近づいて来ると大泣きをして、いつも私はウルトラマンに謝っておりました。大きなものが苦手てなので
大好きなウルトラマンでも、近づいて来ると怖かったようです。
花束も駄目でした、レストランとかで窓際に綺麗にディスプレイされた花が飾られていますが、その席に通されると大泣きなので、
決まったお店で食事をすることが多かったです。
そういうこだわりが沢山ありました。
ビデオを一緒に見ていても、途中でトイレに行きたくなると、自分で一時停止をして、帰って来ると巻き戻してしまいます、えー続きから見ようよと言うと
大丈夫と言って最初から上映が始まるのです。
1歳半を過ぎたくらいから、私が仕事を始めたので病院内の院内保育にお世話になっていましたが、朝は大泣き、お昼は食べない、
母よりもお兄ちゃんがいないので、兄が帰って来るまでストライキ状態です。
勤務していた病院の隣に幼稚園があり、上の子はその幼稚園から保育園に帰って来るシステムで大変助かっておりました。
お兄ちゃんが帰って来ると別人に変身する二男であります。残していたお昼を食べて、何事も無かったように遊んでいたようです。
2歳の時に父親の転勤で札幌から大阪に転居しました。その頃から、あらこの子見えているのかしら?と思うことがあり、眼科を受診したのですがまだ小さいので分からないと言われ様子をみるように言われます。
テレビを見る時に近づいて見ているので、離れるように言っても、直ぐに近づいているため「見えないの?」と聞くと「大丈夫」と言われてしまいます。
どんなことを聞いても大抵「わかんない」
「知らない」「大丈夫」と、返事が返って来ます。割と発達障害の子供あるあるで、漠然と話しかけると会話になりません。
細かく聞いてみると「ビデオで何を見たの?」と聞くと「カクレンジャー」カクレンジャー世代ではないのですがお兄ちゃんが好きだったので、いつも一緒に見ていました。「カクレンジャーの中でどのカクレンジャーが好きなの?」と聞くと「レッドだよ」「カクレンジャーを見るときにいつもテレビに近ずくのはどうして?」「だって見えないんだもん」そうか、やっぱり見えないんだ。
大阪に転居して、病院も良く分かりませんでしたが、上の子の幼稚園の先生に聞いて
大阪府母子センターを受診しました。
色々検査をして、弱視ですねと言われ、左目が、見えていないので、右目にアイパッチをすることになりました。
その少し前から、転居後も私は仕事を始めていたので保育園に通っていたのですが、眼科の医師から眼にシールを貼って行くといじめの対象になることがあるので園の先生にお伝えくださいとのことでした。
眼にシールを貼り眼鏡をかけて登園した息子に、クラスの子が「目にシール貼ってん?」「なんでなん?」息子「目わるいからやでぇ」と言うと「ふ~ん、かっこええなぁ」と言われ「うん」と上機嫌な息子でした。
担任の先生には事前に話してありましたが
大丈夫そうですねとひと安心。
そうして大阪の保育園にも慣れて楽しく登園している息子ですが、色々と女の子達にはご迷惑を、おかけしておりまして。
私が息子を迎えに行きますと、女の子達から息子の名前を出して「どうして出来へんねん」「やって言うてんのにしてくれへん」「なんでなん」とお叱りを受けまして、当の本人は楽しそうに男の子達と遊んでおります。
先生に相談すると、やはり不器用で思うように出来ないことが多く、発達相談に繋げてもらったのですが、相変わらずひょうきんな息子は、「火事になったらどうする」と聞かれ「そりゃぁ、やっぱ、にげるわなぁ」お顔の絵を書きましょうと言われて、「それは書けないね」と笑って言い出し、先生に〇を画いてと言われ、〇らしいものを画き、目をかいてと言われ、○の外に目を二つ画き、鼻も、口も○の外に画いていました。それが3歳の時です。その時、担当してくれた先生は楽しいお子さんですねと褒めてくださり、まだ3歳なので様子をみましょうとのことでした。
帰りに息子は楽しかったね、また来ようねと言っておりました。
いつもニコニコしていて、知らない人にも挨拶をして、挨拶を返してくれるまで挨拶をして、してくれない人がいると「ママは挨拶しないといけないって言ったよ」って、3歳くらいならまだ可愛いで済むのですが
その後も出来ないことは増えていき、ひとりで着替えをすると、シャツ系の服は良いのですが、Tシャツはプリントしてある方を自分に向けるので反対になります。クビはひとつなので、手を通す前に回すように何度も伝えて出来るようになりましたが、ズボンは
足が2本なので、息子にとって前は自分の目の前に見える方なのです、はくと前後反対になります。
そこで、息子に足を投げ出して座ってもらい、ズボンを横に置いてみました、そのままスライドして座ったまま足を入れます。そうするとはけたのです。その動作を1年間繰り返し、4歳になり、今度は立って、椅子の上にズボンを置いてスライドさせると、立ったままはくことが出来るようになりました。
これで、小学校で体育の時間にひとりでも着替えられると安堵しました。
まだまだ、出来ないことは続きますが、発達相談の先生には半年に1回位で会っていて、相変わらず、前より出来ることが増えましたねと褒めてくださり、息子は気分良く帰って来るのですが、親はこのままで良いのだろうか?就学後は大丈夫だろうかと心配はつきません。
そこで、眼科の先生に相談をすると、同じ病院内の児童精神科を紹介してもらい、受診することが出来ました。
児童精神科で検査をしてもらい、出来ることと、出来ないことの差が大きいこと、不器用なのことから協調性運動障害と診断されました。
私はホットしました、この子の生まれ持っての障害だったことが分かったからです。
妊娠中の経過が影響していることは否めません、あの時障害が残るかもしれませんと産婦人科の先生は言っていました、目に見える障害は無かったけれど、脳神経のどこかにダメージを受けていた可能性はあります。
弱視も発達障害も・・・・
母はどんな子でも大丈夫とお腹の子に約束をしました。その子がこの子なのだから、どんな時でも大丈夫そう言い聞かせていました。
発達障害があることが分かったからと言って出来無いことが出来るようになるわけではありません。
作品の、のり付けは大変でした。
保育園の先生が、作品を裏側にしてのり付けをするように指導してくれたのですが、裏にすると作品が見えなくなるのでパニックになります、「えー僕の作品がなくなっちゃったよー」って、そこで先生と母は考えました。
のり付けする台紙にのりを付けて、作品をスライドさせると、出来上がりです。
のりをつける場所は教えてもらわないといけませんが、息子は自分で考えたかのようにご満悦です。
それから縄跳びです。
縄を後から前に持って来ることが出来ません、なんで?と思うのですが、息子に縄を回してごらんと言うと、急に走り出しました???そして少し高いところに上がり投げ縄のように回し出したのです、担任の先生と私は顔を見合わせ、笑うしかありません
間違ってはいません、何処で覚えたのか、投げ縄もどきの縄回しをして得意気な息子を叱る訳にはいきません。
同じくジャンプしてごらんと言うと、またまた走り出し、今度はもっと高いところに登り、そこからジャンプ!!今度は大笑いです、確かに間違えではありません、でもこのままでは縄跳びは跳べません。
そこから縄跳びがとべるようになるまで3年かかりました。なので保育園は卒業して小学1年生の終わり頃に跳べるようになったのです。
縄を後から前に回すのに1年、同じところでジャンプするのに1年、回して飛ぶとだんだん前に行ってしまいます。
その度に「なんでママそんなところに居るの?」と言う息子、いやいや、あなたがだんだん前に行ったのですよのやりとりを1年間 やっと同じ場所で縄跳びが出来るようになりました。
クラスは大騒ぎで小学1年の時の担任の先生は泣いていました。縄跳びが跳べたことで、クラスのヒーローあつかいです。凄いねって皆が褒めてくれても、当の本人は「何がすごいの?」ってな感じです。大人になった今その話をすると、凄いよねと言っていますが、その時は、本当に何がすごいのか、3年かかってやっと出来た感は無かったとのことです。
ドッチボールもおもしろかったです。同級生からそこを動くなと指示されると、ジッとしており、敵のクラスの子も、息子がジッとしているものだから存在に気がつかず、最後まで残りクラスが勝ったりすることも、ただこれは低学年までで、4年生以降は相手にされなくなります。子供達の成長は早いです我が子もそれなりに成長しているのですが、比べものになりません。
野球は驚きでした、バッターボックスで構えていると、ボールが飛んで来たらバットを反対に振ったのです、キャチャーの子はビックリ、イヤイヤ皆ビックリですよ、どうしたのと聞いたら「だってボールが移動した方向にバットを動かしたから」「目の動きと一緒に手が動いた」と言うのです。これはなかなか説明が難しいので、次回からは応援させてもらうことにしました。
二つの動きが伴うと、別々に動かすのに時間がかかります、それも何年もかかることが多いです。
お茶碗を持ちながら食べることもなかなか出来ませんでした。30歳を過ぎた今でも、大皿から取り分ける時に器を持ちながらよそうことが上手く出来ずにこぼしてしまうことが多く、いつも父親に注意をされています。
「何度言っても出来ないなぁ」と言われてしまいます。そうなんです、何度言っても出来ないんです。
普段私たちがしている行動は同時に何ヶ所も動かしたりしていることに改めて気がつかされます。
階段を降りる時も、手すりを使わないと中学生になるまで降りられませんでした。
なので荷物はいつも全部片手に持たなくてはいけません。両手に荷物を持つと階段の昇降が出来なかったのです。
学校での移動教室の時に、椅子を持って移動するときにはいつも一番最後にしてもらい先生に助けてもらっていました。研修旅行などで、バスを降りる時も一番最後にしてもらっていました。
小学3年生からは、リハビリは和歌山で視覚訓練(オプトメトリー)を神戸で受けていたので、学校を早退することが多くなりましたが、学校の先生方には息子の特徴を伝え、分かってもらえていたので、クラスの子供達は息子は訓練を頑張っていて偉いということになっていました。
リハビリの先生は息子が自転車に乗れることを目標に取り組んでくれたのですが、自転車をおすことさえ出来ませんでした。
自転車をおすには、腕と足を同時に動かさなくてはいけません、縄跳びの時にはひとつひとつを繰り返して出来るようになりましたが、成長していくと、出来ないことを繰り返し行うことに抵抗感が出て来ます。
リハビリの先生は何度も息子に一緒にやろうよと言っていたのですが「大丈夫だよ自転車乗れなくても生きていけるよ」と言っており、結局自転車には乗れていません。
今だったら乗れるかもと言っていますが、それこそ30年以上自転車に乗らなくても生きて来れたので大丈夫そうです。
楽しく過ごしていた大阪生活でしたが、小学5年生の夏に父親の転勤で千葉県に転居するとこになります。
引っ越しを伝えた時の第一声は「よしもと新喜劇どうするの」でした。
毎週土曜日の午後のテレビを楽しみにしていた息子に、友達が「ビデオ送ってやるよ」と言ってくれたので転居も安心して受け入れたようです。
実際に友達から息子宛てにビデオが送られて来ました。
息子は大阪で出会った人達のおかげで、人と関わることを学ぶことが出来たのだと思います。
転居後は、感覚統合訓練とカウンセリングに通っていました。
そして、転校した後も小学生の間は楽しそうでしたが、卒業記念にクラスの友達から誘われたと楽しみに出かけたのですが、約束の時間に行ってみると誰もいなかったと帰って来ました。良く聞いてみると「誘ってやろうか?」と言われたようで、それは誘われているのと違うことを、伝えたのですが、どうも良く分からなかったようです。
そのことは中学生活を暗示していました。中学は4校の小学校が集まるマンモス校で10クラスあり、1番小さい小学校から来た息子は、ほとんど知らない同級生と過ごすことになります。
お調子者の息子は、最初はそれなりに過ごしていたようですが、5月の連休明けくらいから、自転車に乗れないので、一緒に出かけられなかったり、勉強量が多くなりついて行くのが大変になります。
体育祭の練習が始まると、背中に足跡を付けて帰って来ることがあり、どう見ても蹴られた跡なのですが、着替えた時に踏んじゃったと言います。私が学校に言いに行くと思ったので、めんどくさいなぁと思ったのでしょう。
体育祭での目玉は、ムカデ競走です、一応練習はしてみたものの、上手くはいきません、クラスメイトに息子の特徴を先生が説明してくれ、話し合いをしてくれました、そこで息子は応援担当になりました。
担任の先生に背中の靴跡のことを伝えると他の同級生も同じようなことがあり問題になっているとのこと、その後「死ね」と言われたと息子が言うので、学校を少し休んで、担任の先生と相談をして通級指導教室を利用することにしました。
息子の通っている学校には通級が無いため
越境し電車移動をして通うのですが、それが良かったようで、週1回の通級指導教室に通うために、在籍校に行っているような状況でした、クラスに居るのがしんどい時は、別室に居ても良い状況にしてもらい、勉強も出来る範囲で自分のペースでさせてもらっていました。
中学卒業まで通級指導を受け、進路も通級の先生に相談し、その状況を担任の先生と連携してもらい進めて行きました。
高校は通信制の通学コースを選び、面接・作文特訓を通級の先生と行い、なんとか合格することが出来ました。
高校は、割としんどい思いを抱えている同級生が多くて、息子も安心して過ごせていたように思います。
満員電車が大変だったようで、途中の駅で降りてトイレに行くことが多かったようですが、余り休むこと無く通学出来ていたので、この先もなんとかなるかのように息子も私も思っていたかもしれません。
担任の先生から進学をすすめられたのもあり、大学に行ったのですが、たくさんの学生にすっかりのみ込まれてしまい、半年くらいで通学出来なくなってしまいます。
感覚統合とカウンセリングは高校卒業と同時に卒業しなくてはいけなくなり、精神科を受診し、休学の診断書を書いてもらい休みながらの状況では単位がとれず、結局退学してしまいます。
いつも笑顔でいた息子から笑顔が消えていました。バイトをしても続かず、出来ないと叱責されて、辞めてしまう。病院にも行かなくなりました。そんな状況が8年程続きました。
発達障害であることは分かってはいても、自分の中で障害と言う認識が出来ていなかったのです。
就学前から診断を受け、自分の特徴を知り生きていけるようにと、リハビリや訓練をしてきたつもりでした、転居により環境が変化しても、どんな環境でも生きていくにはどうしたらよいかを考えて行動出来るようにと思って来ました。
ところが、息子は自分の障害を分かってはいなかったのです。診断名は知っています、
出来ないことがあることも知っていました。
バイト先で叱責されても出来ないから仕方ないと開き直っていたり、割と年配の人には可愛がられるので、なんとなくやっていけるかなと勘違いしてしまったりと、同じことの繰り返しでした。
何度も何度も経験してやっと身について行く、出来るようになると、出来るんじゃないか、怠けるなと叱られる、その繰り返しを経験して、自分の障害を受け入れられたのが30歳でした。
障害を受け入れて生きていくにはどうしたらよいかを考えられるようになったのです。
生活訓練に通所し、精神科にも通院するようになりました。障害者手帳も取得しました。
大好きだった兄には、厳しい言葉もかけられましたが、やはり理解者だったと思います。兄も病気を抱えていたので、二男のとぼけたところに苛立ちもありながら、助けてもらっていたのだと思います。
その兄は36歳で他界しました。兄がいなくなったことをどう受け止めたのかは分かりません、今までと違う環境になり、どうするのだろうと思っていましたが、兄が担当していたゴミ出しを嫌がらずにしています、彼なりに受け入れているのだと思います。
今は就労移行事業所に通所し、就活をしています。
今の1番の問題はメモがとれないことです。
説明を受けている時等、メモをとるようにと言われます。息子はメモをとると、話しが入ってきません。
メモをとるには、話を聞きながら、手を動かさなくてはいけません。
そうなると、肝心な話しが耳から入って来ません。
なので電話を受けながらメモは出来ないので、そういう仕事はきびしくなります。
今後の職場への合理的配慮を考えながら、履歴書の書き方を就労移行の指導者の方と特訓中です。
この状況をなかなか他者に伝えるのは難しいです。発達障害をかかえているひとの中には、とても几帳面で綺麗にノートをまとめたり、メモを書いたり出来る方もいます。
息子のように不器用で二つの行動を一度に出来るようになるのに時間がかかる人達もいます、発達障害とか、ASDとか、ひとくくりにされてしまうと、個々のしんどさに気がつけない時もあります。
33歳になる息子の母としては、もう親の出番では無いと思いながらも、今出来ることを今のうちにと思ってしまいます。
一方で、看護師としての立場では、医療従事者として、目に見えないしんどさを抱えている人達のしんどさとどう向き合い、私達は何をしなくてはいけないのか、何をしない方が良いのかを個々の特徴を踏まえ考えていきたい。
息子達から教えてもらったことを、私なりに生かして生きて行くのがこれからの私の課題です。
産婦人科や小児科の医師、児童精神科、精神科の医師に協力してもらい、地域にある保健センター、子供支援センター、療育施設とつながりながら子育てが楽しくなる環境。
それは、子育てだけで無く、子供が居るとか、居ないとか、障害があるとか、無いとかではない、出来ないことは誰にもあります
出来ないことは駄目なことではないのです。
眼鏡や補聴器、車椅子に杖、踏み台だったり手すりを私達は使って生きています
必要な人に必要なつながりを、つなげていける人になりたいと思うのです。