よそはよそ、うちはうち。ウチにしかない、親子丼。
よそはよそ、うちはうち。よく聞く親の決まり文句。
「なんでうちはいけんの!いいじゃん門限伸ばしてよ!」
少しでも友だちと長く遊びたかった。
あの子の家の門限は十九時なのに、わが家は十八時。
不公平だ、同じにしてほしいと訴えても、
「よそはよそ、うちはうち。あんた塾にも行っとらんのになにいっとん」
それを振りかざして、おまけに嘲笑までついてくる。
うちの親は容赦なかった。
自分の意見を通したいとき、親という壁に立ち向かっているときに、
伝家の宝刀がごとく振りかざされるそれは、一撃必殺に等しい一言だったと思う。
部活が終わって帰宅すると、母がキッチンに立って夕食の準備をしている。
包丁の軽いリズムを聞いていると、私の体はカウンターに引き寄せられていく。
顔を左腕全体に預けるような、斜めな体制で母の手さばきを見るのが好きだ。
自分の中を空っぽにしてぼーっとしていると、ニンジンや玉ねぎが同じ大きさに切り揃えられていく。
「暇ならちょっとは手伝いな」
「えー」
せっかく気持ちよく惚けていたのに。と重たい体をできるだけゆっくり母の隣に持っていく。
「この親子丼、よそでは違うから。これがあたりまえと思ったらいけんよ」
目の焦点が合わず、ぼんやりしていた私に母は親子丼を作りながら言った。
「え、そうなん?」
突然始まる話に私はそう返すしかない。
見下ろした鍋の中には、鶏肉と、ニンジンと玉ねぎが素早くかき混ぜられ、炒められている。
ここまでできてたら、私はお役御免では?と思うがそれは飲み込む。
「まず、よその親子丼にはニンジンは入らん」
「あー?なるほど?」
まだ私はピンと来ていない。体も重たいままだ。
「それに、こんなにつゆだくにもならん」
いつの間にか甘めな出汁が鍋いっぱいに広がっている。
いいにおいの湯気が鼻をくすぐってくる。
「え!うそぉー」
つゆだくが好きな私は、少しだけ覚醒する。
「よそはよそ。でもな、違うからいけんって事にはならんのよ」
菜箸からお玉に持ち替えた母は、どこか寂しそうにこぼした。
「ふーん?で?」
「で、ってなによ」
こちらを向いて少しあきれたように母は笑っている。
「あとは何が違うん?」
帰宅直後のけだるさは、ほんの少し親子丼のおかげで溶けてきていた。
「ごちそーさまでした」
「お粗末様でした」
母のカミングアウトのあと、いつも通りに食事が終わる。
と、同時に私はリビングのソファでうたた寝を始める。
この時間が至福なのである。
ぽかぽか体は暖かいし、現実と夢の間を行き来する頭もフワフワして気持ちがいい。
「あんた、最近部活はどんな?」
「……別に、普通」
せっかく、落ち着き始めたところなのに。
聞かれたくないところをついてくる母を振り払いたくて反対側に寝返りを打つ。
「ちゃんと部長できとんかね、こんなにぐうたらなのに」
母の一言でアノ出来事が一気にフラッシュバックした。
「やっとるし!」
勢いよく起き上がって放ったその一言が、精一杯だった。
涙は一斉に溢れて止まる気配もない。
喉はギュッと締まり、言いたかった言葉は出てこなかった。
「まあ、ほどほどにな」
そう言って背中を向けた母は、やれやれと言った様子でそれが余計に悔しかった。
アノ日の音楽準備室には、重たい空気が漂っていた。
誰が悪いとかじゃない、でも納得できない。どう言ったらいいのかわからなくて、言葉が迷子になって沈黙が続いていた。
「私はさ、楽しく部活がしたいんよ。そんな熱血みたいにされても困る」
幹部会の日、1人の発言で場が凍りつく。
「は?」
思ってもいなかった言葉に驚いたのと、自分とは違う正反対の言葉に反射的に答えていた。
「じゃあさ、優しくゆるくして、練習がちゃんとできなくてもいいの?他の楽器吹く暇あるなら自分のパート練習しなよ。」
そう、そもそもの議題はこれなのだ。
「休憩時間にするのもいけんの?なんで私ばっかり注意されるん!」
激高して泣きながら話すその子を、私は冷たく見ることしかできなかった。
「休憩時間だとしても、先輩としてそれはいけんくない?」
私は、ため息をつきながら呆れたように頭をかいた。
「正論ばっかり言ってくんな!息苦しいんじゃ!」
やってしまった。轍を大きく踏み外して、水田に片足を突っ込んでしまったような感覚。足元から這い上がってくる、取り返しのつかない冷たさを感じた。
「帰る!」
激高した幹部の一人が、鞄を体に巻き付けるようにして勢いよく帰っていく。引き止めなければ。でも、何を話せばいい?
ぬかるみから抜け出せない私は、呆然と見送るしかなかった。
幸か不幸か、学校から家までは徒歩五分の道のりだ。
さっきよりも傾いた夕日が自分の影を引き延ばして道路を覆っている。
オレンジとアスファルトの黒色が対照的で、私の視線はだんだんと黒色に引き込まれていく。
「なんで、わかってくれんの。」
知らないうちに強張っていた肩が震えた。声というより、やっと吐き出せたか細い息のようだった。正しいと思っていたことが、胸の中心でどす黒く渦を巻く。
今にも私を突き破って飛び出しそうな感情を、どう扱ったらいいのかわからない。
途方に暮れるばかりで、不思議とそのとき、涙は出なかった。
「……ただいま」
ため息の勢いを借りて玄関を開けると、母が朝と同じ場所に座っている。
「あ、おかえりー。今日は親子丼ねー」
私と入れ替わるように立ち上がり、キッチンへ向かう母。私はそのままソファに体を沈める。このまま埋もれてしまいたい、誰か私を埋めてくれ。
「ちょっと、そこで寝るなら手伝って」
母はキッチンから声をかけてきて、ソファに埋まろうとしていた私を呼び戻した。
「えー、なんでよ」
体と声色で、精一杯の「行きたくないです」アピールをしてみるが、母には通用しない。わかっている、子どもに遠慮なんかしない人なのだ。それでも、一縷の望みをかけて、やってみる。
「えぇから、早よ来て」
わが子の駄々を一蹴するように母はテキパキと私に指示と野次を飛ばす。
「あんた、そんなニンジン太かったら、いつまでたっても火が通らんわ」
「調味料が大さじ何杯かって?そんなもん目分量よ。いちいち測っとれんし」
言いたい放題な母に辟易としながらも、言われたことを淡々とこなすだけの作業が、ざらついた頭の中を落ち着かせてくれている気がした。
「……正論って、いけんの?」
ポロリと、気づいたらこぼれていた。
「あー、あんたは正義感だけは強いからな」
母は一瞥もくれず、親子丼の面倒を見ている。でも、どこか察したような声色だった。
「よそはよそ、うちはうちなんよ」
ぐつぐつと親子丼の鍋が一人しゃべっているようだった。ふつうは入れないニンジンと玉ねぎと、鶏肉が卵を待って踊っている。
「なんそれ」
私は、意味がわからなかった。今なんでその話?と少し苛立った。
「あんたの正しい、と他の人の正しいは、同じじゃないの」
お椀に割った卵を菜箸で混ぜながら母は諭すように話す。
「でも、常識ってもんがあるじゃん!練習はちゃんとするべきだし、先輩は後輩のお手本であるべきじゃないの?そうなんじゃないの?」
自分の中で堰を切ったように言葉が飛び出したのを感じる。正論がいけないなんてそんなことあるのか、と。全部が飛び出した後になって母を責め立ててしまった、とハッとした。
そんな私の言葉を気にした様子もない母は、卵を鍋に入れる。
ぐつぐつ煮えてる鍋に一筋落ちて、一度沈んでから、ふわりと膨らんで広がる。
今日の私みたいだ。ぼんやりそう思った。
「ま、相手を否定してたら話は進まんよ」
食卓について、母がぽつりと話しだす。
「そうだけどさ」
私は否定なんてしていない。向こうが逃げたのだ。ふてくされた不細工な顔をしていると、自覚している。
「よその親子丼、それがあたりまえ!って言われたらこの親子丼は存在せんわな?」
「まあ、そうね」
「でも、あるじゃん」
「うん」
「どっちもあってええんよ」
そのときの、母の笑顔が親子丼を作るたびに思い出される。
どっちかでないと、いけん。そう思い込んでいた。
就職して、結婚して、子どもが生まれて、やっと気づいた。
よそはよそ、うちはうち。
「親子丼できたよー」
「あれ、かあちゃん。なんで今日の親子丼はシーチキンなの?」
声掛けと共に駆け寄ってきた子どもが、湯気をあげるお皿を覗き込んで尋ねてくる。
「うっ。よそはよそ、うちはうちなんだよ」
「なにそれー」
怪訝そうに首を捻る子どもをみて、苦笑いしてしまう。
今私は、母のものとも、よその親子丼とも違ったウチの親子丼を作っている。
