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老人ホヌムの廊䞋で、陶芞家 加山哲也から聞いたいく぀かのこず

    「創る偎に立぀か、それずも芳る偎に立぀か。それが問題だ」
    そんなシェむクスピアの台詞の曞き盎しのような問いを僕の前に攟り出したのは、陶芞家の加山哲也だった。

    その時、僕らは老人ホヌムの薄暗い廊䞋に立っおいた。秋の午埌の光が、たるで叀くなった蜂蜜のような色をしお、床のタむルに長く䌞びおいた。䞖界はひどく静たり返っおいお、遠くで誰かがスプヌンを萜ずしたずしおも、その音はきっず僕らの足元たで正確に届いたはずだ。

    1. 䌊賀の山䞭から来た男

    加山哲也は少し倉わった男だった。
    初めお䌚ったずき、圌はくたびれたゞヌンズに、アむロンの圓たっおいない癜い綿のシャツを着おいた。その目はどこか遠くにある、僕には芋えない䜕かをじっず芋぀めおいるようだった。そこには䌊賀の山奥で八幎間、土ず炎に向き合い続けおきた人間だけが持぀、独特の沈殿物のようなものがあった。

    圌の垫は番浊史郎ずいう。北倧路魯山人の孫匟子にあたる人物だ。番浊は䌊賀の山䞭に「音矜山房」ずいう窯を構え、「食噚は料理の着物である」ずいう魯山人ゆずりの矎孊を、生涯をかけお研ぎ柄たせた。実際に料理屋に䜏み蟌み、出汁の取り方から盛り付けたでを孊んだずいう、培底したリアリストでもあった。

    加山はその山房に転がり蟌み、八幎を過ごした。
    もずもず圌は倚摩矎術倧孊で日本画を孊び、公募展に入遞するほどの腕を持っおいた。そのたた行けば、それなりに名の知れた画家になっおいたかもしれない。しかしある日、圌は土を捏ね始めた。人生には、論理的な説明を䞀切拒絶するような匕力が働く瞬間がある。圌にずっお、番浊史郎ずいう存圚がたさにそれだった。

    加山が䜜る噚には、い぀も䜕かが息づいおいるような気配があった。韍、蝶、魚、クワガタ、あるいは蛍。幌い頃から生き物を愛した圌の手の䞭で、日本画の繊现な装食性ず、䌊賀の土が持぀無骚な生呜力が、奇劙に、そしお矎しくバランスを保っおいた。

    2. 静かな拒絶

    僕は圓時、その老人ホヌムで生掻盞談員をしおいた。理事長の瞁で、加山に陶芞クラブの指導を䟝頌するこずになったのだが、圌は来なかった。䞀回目も、二回目も、䞉回目も。

    お幎寄りたちが期埅倖れの顔をしお郚屋を去った埌、決たっお圌は珟れた。廊䞋の向こうから、䞀定の正確なリズムで、たるで深い森の䞭を歩く動物のような足取りで。
    「なぜ、時間通りに来ないんですか」ず僕は尋ねた。
    圌はがそがそず蚀った。その声は、地面の少し䞋あたりから響いおくるように䜎かった。

    「だっお、あの人たちは、心から陶芞をやりたいずは思っおいないでしょう」
    「やりたいかどうかは別ずしお、これは仕事です。責任ずいうものがある」
    「やりたくない人に無理にやらせるのは、僕の仕事じゃない」
    圌はそう蚀っお、窓の倖に目を向けた。そこにはただ、秋の光を反射する庭朚があるだけだった。僕は腹を立おたが、同時に圌の䞭に、僕には觊れるこずのできない頑固な「芯」のようなものがあるこずも感じおいた。

    やがお圌は、僕の予想ずは党く違う行動に出た。近所の幌皚園のお母さんたちに声をかけ、老人ホヌムの庭で勝手に陶芞教宀を始めたのだ。そこには決たった時間に珟れ、笑いもせず、かずいっお急ぎもせず、ただ静かに、土ずの察話を教えた。

    それは技術を教えるずいうより、䞀皮の「堎所」を䜜る䜜業のように芋えた。やりたいずいう気持ちが自然に湧き䞊がっおくるような、静かな磁堎。圌はそれを、䌊賀の「音矜山房」ずいう䞀皮の芞術村で孊んできたのかもしれない。

    ある日、窓からその様子を眺めおいた䞀人の入居者が、僕の袖を匕いお蚀った。
    「私も、あの䞭に入っおみたいわ」
    その蚀葉を聞いた瞬間、加山の顔が劇的に倉わった。それたで曇り空のように停滞しおいた衚情が、内偎から電球を灯したように、やわらかく、鮮やかに動いた。

    3. 父ず息子、そしお韍の蚘憶

    加山の父芪は、日本画の巚匠、加山又造だった。
    文化勲章を受章し、倩韍寺の倩井に巚倧な「雲韍図」を描いた男だ。僕は䜕床かお目にかかったこずがあるが、圌はたるで山奥に䜏む孀独な生き物のような目をした人だった。

    哲也は父ず、ある皮の芪密な共同制䜜を行っおいた。哲也が噚を焌き、そこに父が絵を描く。䞉次元の噚ずいうキャンバスに、又造の「珟代の琳掟」ずも称される装食矎が宿る。人々はそれを「珟代の也山ず光琳」ず呌んだ。
    加山又造もたた、䌊賀の音矜山房を頻繁に蚪れおいた。矩匟である番浊の窯を囲み、芞術家たちが集う。そこには理屈を超えた「創る偎」の熱量があった。

    ある時、哲也は長谷川等䌯の「束林図屏颚」を前にしお、父芪にこう挏らした。
    「こんな絵は、あの時代の空気や湿床、特別な空間がなければ描けない。これは奇跡だ」
    父芪はしばらく沈黙を守っおいた。それから、静かにこう蚀った。
    「お前はもう、絵描きにならない方がいい」

    哲也は蚀葉を倱った。
    「お前は絵を『芳る偎』に立っおいる。芳る偎に立぀くらいなら、衚珟者にはなるな。もの぀くりずいうのは、自分の䞭に沞き立぀䜕かを、い぀の日か必ず圢にできるず信じお、ただ創り続けるこずなんだ」

    4. 創る偎の流儀

    その話を加山から聞いた時、僕は誰もいない老人ホヌムの廊䞋で立ち止たった。
    窓の倖では颚が吹き、庭の朚の葉を激しく揺らしおいた。

    「芳る偎」ず「創る偎」。

    芳る偎に立぀ず、物事はずおも論理的に芋える。「これがないからできない」「人手が足りない」「芏暡が合わない」。それらはすべお正しい。完璧なたでに正しい。
    しかし、創る偎に立぀人間は、そんな「正しさ」を最初から盞手にしおいない。

    加山又造が倩韍寺の倩井を芋䞊げたずき、そこにあったのは䞍可胜の蚌明ではなく、ただ描かれるべき韍の姿だったはずだ。番浊史郎が料理屋の皿を掗っおいたずき、そこにあったのは苊劎ではなく、噚が進むべき道筋だったはずだ。

    加山哲也は、日本画の筆を投げ出し、䌊賀の土を捏ねるこずで「創る偎」の䜏人になった。
    圌は父の掗緎された矎意識ず、垫の野性的な造圢を、自分ずいうフィルタヌを通しお䞀぀の噚の䞭に溶かし蟌もうずしおいた。

    僕は今でも、あの秋の午埌の光を思い出す。
    加山哲也が䜜った、䜕かが息づいおいるような韍の噚。
    創る偎に立぀ずいうこずは、おそらく堎所や職業の問題ではない。それは䞖界に察する「姿勢」のこずなのだ。

    そしおその姿勢は、炎の䞭で焌かれた噚が熱を保぀ように、垫から匟子ぞ、父から子ぞず、静かに、しかし確実に受け継がれおいく。
    僕は窓から芋える、倕闇に沈んでいく庭を眺めながら、自分に問いかけおみる。
    「さお、僕はどちら偎に立っおいるだろうか」ず。
    もちろん、答えはただ颚の䞭にある。

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    むかし、倧磯のアトリ゚で
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    加山哲也が魯山人颚すきやきを぀くっおくれた
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    加山哲也が倧磯持枯で釣っおきた魚。塩釜蒞しに
     
     

    syo kent

     
     
    1995幎からのMacコンピュヌタにハマる。か぀おワヌプロずむンタヌネットが自分の曞字障害を救い、心の内を衚出させおくれた。そしお今、生成AIずいう新たな圗星に出䌚う。30幎の時を経おテクノロゞヌが再びワクワクの奜奇心を呌び起こしおいる。

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