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《黒い羽根の足跡》

    【あらすじ】

    生まれながらに人間の言葉を理解する一羽のカラス、クロ。

    高い知能を持つ彼にとって、人間は脆く愚かな“玩具”でしかなかった。

    群れにも属さず、自由気ままに生きるクロは、いつしか「黒の狂犬」「黒の悪魔」と呼ばれる存在になる。

    そんな彼が出会ったのは、孤独を抱えながらも優しさを失わない女性、美咲。

    最初は彼女を利用するだけの存在だと思っていたクロだったが、自分よりも彼を想う美咲の姿に、少しずつ心を揺さぶられていく。

    これは情ではない。
    ただ自分のものを守っているだけだ。

    最後まで悪を名乗り続ける一羽のカラスと、一人の女性が残した、黒い羽根の足跡の物語。




          ── 黒い羽根の足跡 ──




         【クソみたいな世界の始まり】



    俺は生まれた瞬間から、この世界がクソだと思ってた。



    横浜の古い神社の楠のてっぺんにある狭い巣の中で、殻を破って這い出した。

    世界は光に満ちているなんてのは、おめでたい人間の妄想だ。

    俺が最初に見たのは、灰色に淀んだ都会の空だった。

    排気ガスと工場の煙が混ざり合い、どんよりと重くのしかかる空。

    それが俺の生誕を祝う唯一の背景だった。



    「ぎぃ、ぎぃ」



    隣を見れば、同時に殻を破った兄弟たちが、本能のままに情けない声を上げて口を開けている。

    親からエサを乞うための、哀れな雛の姿だ。

    だが、俺は違った。

    生まれた瞬間から、己という個を自覚していた。

    なぜだか分からないが、俺には周囲の状況が、そして人間の言葉や思考の断片さえもが、知識として脳裏に刻まれていたのだ。

    普通の人間並み、いや、それ以上に頭の回るカラス。

    それが俺という異端の始まりだった。



    風が吹くたびに、楠の古い枝がギチギチときしむ。

    世界は狭く、寒く、そして不愉快極まりない場所に思えた。

    俺は自分の黒い、まだ産毛に覆われた身体を見つめ、チッと心の中で舌を打った。

    なぜこんな不自由な身体で、こんな薄汚れた都会の片隅に生まれ落ちなければならなかったのか。

    その理不尽さに対する苛立ちが、俺の根源にある衝動だった。



    しばらくすると、バサバサと大きな羽音がして、大きな影が巣に降り立った。

    母さんだ。何日も生き抜いてきた野生の厳しさを物語る、鋭い眼光と煤けた黒い羽。

    その母さんが、巣に戻るなり、自慢げに嘴からひとつの塊を吐き出した。



    母さんが運んできたのは、でっかい生温かい青虫だった。



    緑色の、ぶよぶよとした皮膚。

    中にはドロドロとした内臓が詰まっているのが透けて見える。

    兄弟たちはそれを見て、狂ったように首を振り、口を大きく開けてエサをねだった。

    母さんは満足そうに、そのうちの一羽の喉奥へ青虫を突っ込む。

    そして、もう一匹、俺の目の前に差し出されたのは、さらに巨大でのたうつ青虫だった。



    俺は嫌々口を開けて飲み込んだ。



    生きるためには食うしかない。

    それは分かっていた。

    だが、その物体が喉を通り、胃袋に落ちた瞬間、強烈な不快感が全身を駆け巡った。



    「不味ぃ……マジで不味ぃよ、これ」



    毎回、心の中で毒づいていた。

    青臭い、泥のような、植物の体液をそのまま凝縮したような最悪の味。

    これがカラスにとってのご馳走だというのなら、この種族の味覚は狂っているとしか思えなかった。



    母さんは優しく何度も虫を運んでくる。

    子供たちの腹を満たすため、朝から晩まで街を飛び回り、必死になって虫を探してくるのだ。

    その姿には、生き物としての無償の愛があったのかもしれない。

    だが、俺のひねくれた根性は、その優しささえも素直に受け入れることを拒んだ。



    俺は心に誓った。

    (いつか絶対、自分の好きなもんだけ食ってやる。腐った肉でも、油まみれの唐揚げでも、なんでもいい。この青臭い虫なんか二度と食わねえ)



    俺は巣の中で、他の兄弟たちよりも一歩引きながら、常に外の世界を睨みつけていた。

    早くここを出たい。

    この狭い鳥籠のような巣を飛び出し、あの灰色に淀んだ空の向こう側にある、もっと刺激的で、もっと美味いものに溢れた世界へ行ってやる。

    そのために、俺は毎日、翼を動かす訓練を人知れず繰り返した。

    まだ満足に動かない羽に力を込め、楠の葉の隙間から見える人間たちの社会をじっと観察し続けた。




         【脆くて愚かな玩具】


    その日、俺は巣の縁から首を乗り出し、楠の真下にある神社の境内のベンチを見下ろしていた。

    そこには、一人の老人が座っていた。

    白髪交じりの頭を抱え、深いため息をついている。



    下のベンチで爺さんが愚痴をこぼしているのを聞いて、俺はニヤリと笑った。



    「まったく、どいつもこいつも俺を裏切りおって……。会社を辞めた途端に、誰も寄り付きゃしねえ。息子夫婦も、孫も、俺の金が目当てだったってわけだ。人間なんて、信じるもんじゃねえな……」



    爺さんは誰もいない境内に向かって、ポツリポツリと呪詛のような言葉を吐き出していた。

    その顔は絶望に歪み、涙さえ浮かべている。



    それを見た瞬間、俺の胸の奥から、歪んだ歓喜が湧き上がってきた。


    愚者だな人間は、最高の玩具だ。



    あんなに大きな身体を持ち、社会などという大層なものを作り上げて威張っているくせに、その中身は驚くほど脆い。

    ちょっとした人間関係の破綻や、金の切れ目で、いとも簡単に心が壊れてしまう。

    電柱やビルを建てて自然を支配した気になっている人間どもが、実はカラスの俺よりもはるかに不自由で、情けない生き物なのだと知った時、俺は世界に対する優越感を抱いた。



    「バカな生き物め」

    俺は声には出さず、ただ嘴の端を釣り上げて彼らを見下ろした。

    人間たちが右往左往し、悲しみ、怒り、互いを傷つけ合う姿。

    それは俺にとって、どんなエンターテインメントよりも面白い極上の見世物だった。



    それからの俺は、退屈な巣の中での時間を、すべて人間の観察に費やした。

    神社を訪れる参拝客、恋人たち、熱心にスマホを弄る若者。

    彼らの会話を聞いているだけで、彼らが何を恐れ、何に飢えているのかがよく分かった。

    人間は、表面上は綺麗に取り繕っているが、一皮剥けば欲深い悪意と弱さに満ちている。



    「おい、次のエサはまだかよ」

    兄弟が俺の羽を突いてくる。
    俺はそいつを鋭い嘴で突き返し、再び下界へ目を向けた。

    俺の視線はすでに、ただの鳥のそれではなく、獲物を品定めする悪党のそれへと変わっていた。




         【黒の狂犬の誕生】


    待ちに待った巣立ちの日が来た。

    兄弟たちはまだ恐怖に震え、楠の枝から飛び出すのを躊躇っていたが、俺には1ミリの迷いもなかった。

    俺は母さんの心配を振り切って飛び立った。

    母さんは背後で「まだ早い、戻りなさい」と狂ったように鳴いていたが、俺はその声を無視して、一気に灰色の空へと翼を広げた。

    風が俺の身体を押し上げる。

    初めて体感する本物の浮遊感。

    視界が瞬時に広がり、横浜の街並みが眼下に広がった。



    一匹で生きる。

    それが俺の流儀だった。



    群れに属し、他人の顔色を窺って生きるなんてカラスのすることじゃない。

    俺は俺の力だけで、このクソみたいな世界を支配してやる。

    そう決意して、俺は街の喧騒へと飛び込んでいった。



    飛び立って数時間、激しく翼を動かしたせいで、俺の腹はペコペコだった。

    だが、もうあの忌々しい青虫を運んでくれる母さんはいない。

    自分でエサを探さなければならなかった。

    俺は鋭い目で街を見下ろし、人間たちが集まる駅前のロータリーへと降り立った。

    そこには、色とりどりの看板と、強烈な匂いが満ちていた。


    最初の本物の味は、駅前コンビニのゴミ箱から見つけた半分残った唐揚げだった。


    ゴミ箱の淵に止まり、器用に頭を突っ込んで、油の染みた茶色い紙袋を引きずり出す。

    その中に入っていたのは、まだ微かに温もりを残した、狐色の塊だった。

    俺はそれを嘴でしっかりと咥え、近くのビルの屋上へと運んだ。

    そして、一口大に引きちぎり、口に放り込んだ。


    あの油と塩気の衝撃に俺は震えた。


    じゅわりと広がる肉の旨味、衣のカリッとした食感、そして身体の芯まで染み渡るような濃厚な塩分。

    青虫の泥臭さとは対照的な、圧倒的な人工の美味。


    これが俺のエサだ。


    俺の全細胞が歓喜の声を上げていた。

    これこそが、俺が求めていた本当の食事だ。

    これからは、この美味いものを奪い尽くして生きる。そう心に誓った。



    それから俺は本格的に暴れ始めた。



    野生の世界は甘くない。

    特に横浜のような大都市では、限られた美味いエサ場を巡って、無数のカラスたちが血で血を洗う縄張り争いを繰り広げていた。

    だが、頭脳と勝ち気さ、そして圧倒的な狂気を持つ俺にとって、そんな環境は最高の戦場だった。



    縄張り争いは熾烈を極めた。



    最初にぶつかったのは、古くからその地域を牛耳っていた年配のカラスたちだった。

    彼らは組織を作り、新参者の俺を排除しようとした。

    だが、俺は一匹で彼らの包囲網を嘲笑うように打ち破っていった。


    西の森のデカいボス、ガンテツとは何度も死闘を繰り広げた。

    ガンテツは、並のカラスの1.5倍はある巨体を持ち、数々の修羅場を潜り抜けてきた傷だらけの猛者だった。

    ある夕暮れ、俺が彼の縄張りである豊かな森の境界に足を踏み入れた時、奴は巨大な影となって俺の前に立ちはだかった。



    「てめえみたいな若造が俺の森に近づくんじゃねえ!」



    ガンテツは地鳴りのような声で威嚇し、その巨体から放たれる威圧感で俺を圧倒しようとした。

    普通の若造なら、その一言で羽を震わせて逃げ出すところだろう。



    だが、俺は嘴を歪めて笑った。


    「は? お前みたいな虫ばかり食ってる脳腐れが誰に威張ってんだよ」



    その挑発が合図だった。


    俺たちは空中で激しくぶつかり合い、嘴で翼を突き、爪で顔を掻いた。

    ガンテツの圧倒的な質量攻撃に対し、俺は持ち前の俊敏さと、相手の死角を突く狡猾さで対抗した。

    空中でもつれ合いながら、何度もビル風に煽られ、地面へ叩きつけられそうになる。

    しかし、俺の闘争心は燃え上がる一方だった。

    痛みに怯んだら負けだ。

    俺はガンテツの放つ一撃を紙一重でかわし、奴が体勢を崩した一瞬の隙を見逃さなかった。

    全力で羽ばたき、上方から奴の死角へと急降下する。


    最終的に俺がガンテツの左翼を深く傷つけ、勝利した。以後、西の森の連中は俺を恐れた。

    血に染まった羽を撒き散らしながら、ガンテツは悲鳴を上げて森の奥へと逃げ去っていった。

    それを見た周囲の取り巻きどもは、二度と俺に逆らおうとはしなかった。



    だが、俺の進撃はそこでは止まらなかった。



    北の川沿いの「白嘴の群れ」とも大乱闘になった。

    彼らは集団戦を得意とする、極めて厄介なタチの悪い連中だった。

    ある日、エサの豊富な川沿いの魚市場の裏手で、俺は彼らの待ち伏せに遭った。


    十数羽に囲まれても俺は一匹で戦い、ボスのシロハシの目を狙って退散させた。

    前後左右、あらゆる方向から鋭い嘴が俺の身体を突き刺す。

    羽毛が飛び散り、鋭い痛みが走る。

    だが、俺の辞書に「撤退」の文字はなかった。

    多勢に無勢の状況であればこそ、敵の首魁を叩く。

    俺は自分を囲む有象無象の攻撃を無視し、群れの中心で偉そうに指示を出しているボス、シロハシだけに狙いを定めた。



    弾丸のように突っ込む俺の狂気に、シロハシは一瞬怯んだ。

    その隙に、俺は奴の顔面目がけて爪を突き立て、鋭い嘴でその眼球を正確に狙った。

    「ぎゃあああ!」

    シロハシが絶叫を上げてのけ反る。

    ボスが致命的な一撃を受けて潰走したのを見て、十数羽いた群れの連中は一斉に蜘蛛の子を散らすように逃げていった。



    南の港、東の繁華街の群れとも何度も衝突し、俺は毎回勝ち続けた。

    港の荒くれども、繁華街の狡猾なゴミ漁りども。

    どいつもこいつも俺の敵ではなかった。

    俺は戦うたびに強く、そして残酷になっていった。

    戦術を覚え、相手の心理を読み、確実に絶望を与える戦い方を身につけていった。


    界隈のカラスたちは俺を「黒の狂犬」と呼んで避けるようになった。

    俺が電線に止まるだけで、それまで騒がしかった周囲のカラスたちが一瞬で静まり返り、距離を取る。

    その圧倒的な恐怖による支配。それこそが、一匹狼として生きる俺が勝ち取った、最初の最高の地位だった。




         【人間への宣戦布告】


    カラス同士の小競り合いに飽きた俺は、ターゲットを「人間」へと移した。

    彼らは俺たちを「ただの鳥」だと見下している。

    その傲慢な鼻をあかしてやることほど、愉快な娯楽はなかった。



    人間に対する悪行はさらに派手だった。



    まずは挨拶代わりに、彼らの生活の基盤である「綺麗に整えられた街」を徹底的に破壊してやった。

    コンビニのゴミ袋を破って道路に散乱させ、店主を絶望させた。

    人間どもは、カラス除けの黄色いネットを被せたり、生ゴミを奥に隠したりと躍策していたが、そんなものは俺の頭脳の前には無意味だった。

    ネットの僅かな隙間に爪を引っ掛け、テコの原理で持ち上げる。

    そして、中から最も匂う生ゴミの袋を引きずり出し、鋭い嘴で一文字に引き裂く。

    翌朝、店を開けた店主が、ぶちまけられた生ゴミと、それによって汚された道路を見て、頭を抱えて座り込む。

    その絶望の表情を、俺は近くの信号機の上から見下ろし、声を殺して笑った。


    さらに、彼らの「ハレの舞台」を台無しにするのが、俺の最高の贅沢だった。


    祭りの屋台ではたこ焼きをひっくり返し、焼きそばを地面に落とし、客が慌てる中を何往復もして食いまくった。

    夏の夜、熱気と匂いに包まれた神社の境内。

    人間たちが楽しそうに笑い、美味そうなものを買い込んでいる。

    俺はタイミングを見計らい、最も混雑しているたこ焼き屋の屋根から急降下した。

    店主が焼き上がったたこ焼きを舟皿に盛り付けたその瞬間、その皿の端を強烈な速度で蹴り飛ばす。

    熱々のたこ焼きが宙を舞い、悲鳴が上がる。

    ソースの匂いが立ち込める中、俺は地面に落ちた焼きそばや肉を、パニックになる人間たちの足元を縫うようにして何度も往復し、欲しいだけ掠め取って食い荒らした。

    学校の運動場にゴミをばら撒き、病院の屋上に死んだネズミを置いた。

    結婚式では新郎の頭に直撃する急降下を見せた。

    静寂や神聖さ、そんな人間が勝手に作り上げた“普通”を壊す瞬間が、たまらなく好きだった。

    特に結婚式の嫌がらせは傑作だった。

    教会の美しい庭園で、白いタキシードを着た新郎と、ドレスを着た新婦が誓いのキスを交わそうとしたその瞬間、俺は太陽の光を背に受けて、音もなく新郎の頭頂部へと急降下した。

    強烈な爪が新郎の完璧にセットされた髪型を破壊し、奴は「うわああ!」と情けない声を上げて地面に転がった。

    式場は一瞬で大パニックに陥り、新婦の悲鳴が響き渡る。

    その様子を見ながら、俺は教会の十字架のてっぺんに止まり、大声で嘲笑を浴びせてやった。



    俺は腹が減って盗むんじゃない。

    人間が慌てふためく姿を見るために奪う。



    ただ生きるための捕食なら、他の凡百なカラスと同じだ。

    俺の行動はすべて、人間に対する精神的な一撃だった。

    彼らが築き上げた安全で清潔な日常を、俺という一羽の黒い影が簡単にぶち壊してみせる。

    その事実が、俺の乾いた心を最高に満たしてくれた。



    泣き声も怒鳴り声も、全部エサより美味かった。

    「こら! 汚いカラスめ!」「誰か捕まえて!」

    そんな人間の無駄な抵抗の声を聞くたびに、俺の耳は極上の音楽を聴いているかのように歓喜した。



    人間どもは俺を「黒の悪魔」と呼び、ネットで注意喚起するようになった。


    それが俺の誇りだった。


    スマホという小さな機械を覗き込み、「あのエリアには危険なカラスがいる」「子供を近づけるな」などと怯え合っている。

    俺の存在が、彼らの高度な情報社会の片隅に、確固たる恐怖として刻まれている。

    これ以上の快感はなかった。

    俺は名実ともに、横浜の夜と昼を支配する悪の帝王へと近づいていた。




         【寂しげな雌、美咲との邂逅】


    そんな中、あの女と出会った。



    それは、いつもと変わらない、退屈な悪行の合間の出来事だった。

    俺は次なるターゲットを探して、街の喧騒から少し離れた小さな公園をパトロールしていた。



    美咲。



    二十代後半の、寂しげな人間の雌だった。



    初めて見たのは、春の終わりの公園。

    新緑が芽吹き、暖かな風が吹く季節だったが、そのベンチの周囲だけは、まるで冬が残っているかのように冷え切った空気が漂っていた。



    彼女はベンチに座って、パン屑を撒いていた。

    うつむき加減に、力のない手つきで、ちぎった食パンの破片を地面に落としている。

    その匂いにつられて、鳩やスズメ、そして他の冴えないカラスたちが周囲に集まっていた。

    俺はただのエサだと思って近づいたが、彼女の独り言を聞いて興味が湧いた。



    「……もう、誰も信じられない。人なんて、みんな嘘つき」



    その声は、掠れていて、今にも消え入りそうだった。

    だが、そこに含まれる「人間に対する深い絶望」の色が、俺の鋭い感性に突き刺さった。



    俺は電線に止まって、じっと観察した。



    彼女の目は虚ろで、肩が落ちていた。

    いつも俺がゴミ箱を荒らして怒鳴り散らすような、生命力に溢れた人間たちとは明らかに違っていた。

    彼女の心は、すでにボロボロに傷つき、崩壊しかけている。

    人間の弱さってのは、実に美味い。

    俺はいつも、人間の怒りやパニックをエサにしていたが、この女が放つ「静かな絶望」というのも、また違った意味で俺の興味をそそった。

    この雌は、一体どんな理由でここまで追い詰められているのか。

    それを観察してやろうと思った。



    俺は低く飛んで、彼女の足元に止まった。


    バサリという、他の鳥とは違う重い羽音に、集まっていた鳩どもが一斉に飛び立つ。

    俺の放つ「黒の狂犬」としての威圧感に、周囲の有象無象は近づくことさえできない。


    彼女のすぐ目の前、アスファルトの上に降り立ち、俺は彼女の顔をじっと見上げた。

    彼女は驚いた顔をしたが、すぐに小さく笑った。


    いつもなら、カラスがここまで近づけば、人間は気味悪がって手を振るか、逃げ出すものだ。

    だが、この女は違った。

    俺の黒い羽、鋭い嘴、そして悪意に満ちた目を真っ向から見つめ返してきたのだ。



    「あなた、いつも来るよね。怖い顔してるけど……なんか、仲間みたい」



    彼女は自嘲気味にそう呟き、手のひらに残っていた少し大きめのパンの塊を、俺の前にそっと置いた。



    (仲間じゃねえよ、バカ)



    俺は心の中で毒づいた。

    俺はお前のような弱くて情けない人間に共感するほど落ちぶれちゃいない。

    ただ、お前が放つその美味そうな絶望の匂いと、目の前にある上等なエサに興味があるだけだ。

    俺は彼女を威嚇するように一瞥すると、そのパンを乱暴に咥え、一気に飲み込んだ。

    小麦の甘みと、バターの豊かな香りが口に広がる。

    悪くない味だ。


    でも、俺は毎日彼女のところへ行くようになった。

    なぜだか、自分でも理由はよく分からなかった。

    単にエサが目当てだ、と自分に言い聞かせていた。


    彼女は上等なパンをくれる。

    時々、焼肉の残りとかも。

    それはコンビニのゴミ箱から漁る冷え切った唐揚げとは違い、丁寧に調理され、まだ微かに温もりを帯びていることが多かった。

    俺は恩を感じてなどいない。

    ただ、利用してるだけだ。

    美味いエサをノーリスクで提供してくれる、都合の良い人間の雌。

    それが、俺にとっての美咲の定義だった。



    美咲は俺に名前をつけた。

    「クロ」と呼ぶようになった。


    俺は気に入らなかったが、特別に許してやった。

    「クロ」なんて、どこの路地裏にでもいる凡百なカラスにつけるような、安直で捻りのない名前だ。

    俺は横浜を統べる「黒の狂犬」であり、いずれ帝王になる男だぞ。

    だが、彼女がその名前を呼ぶ時の、どこか弾むような、愛おしそうな声の響きだけは、不思議と悪くない気分だった。

    だから、本当に特別に、彼女限定でその名で呼ばれることを許してやったのだ。




         【雨の日のベンチ】


    季節は移り変わり、梅雨の時期がやってきた。

    灰色に淀んだ横浜の空からは、容赦なく冷たい雨が降り続いていた。

    激しい雨の日、普通、鳥たちは雨宿りのために木々の奥やビルの隙間に身を潜める。

    人間たちも傘を差し、足早に家路を急ぐ。

    街全体が、雨の音にかき消されて静まり返る日だった。


    だが、俺はいつもの公園へ向かった。

    どうせあの女は来ないだろう、そう思っていた。

    雨の日にわざわざ公園のベンチに座るバカな人間などいるはずがない。


    しかし、公園の入り口に近づいた時、俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。


    激しい雨の中、美咲は傘も差さずに、いつものベンチにぽつんと座っていた。

    彼女の長い髪は水を含んで肌に張り付き、着ている服は完全に色が変わるほど濡れそそっている。

    彼女は膝を抱え、ただ地面に落ちる雨粒をじっと見つめていた。

    その姿は、まるでそのまま雨に溶けて消えてしまいそうなほど、儚く、そして壊れかけていた。

    俺は近くの濡れた木の枝に止まり、しばらくその様子を見ていた。

    「何やってんだ、あのバカは」

    心の中で吐き捨てる。

    風が吹くたびに、彼女の身体が小さく震えているのが分かる。

    なぜ人間というのは、こうも無意味に自分を痛めつけるような真似をするのか。

    理解に苦しむ生き物だ。


    だが、彼女の周囲に漂う絶望の匂いは、これまでになく濃厚だった。

    それは、俺の悪党としての本能を刺激すると同時に、なぜか胸の奥に奇妙な焦燥感を沸き立たせた。


    俺は意を決して、枝から飛び立った。

    激しい雨粒が俺の頑丈な羽を叩く。

    防水性の高い俺の羽にとって雨など大した問題ではないが、視界が悪いのは不愉快だった。


    バサバサと音を立て、俺は美咲が座るベンチの背もたれの上に降り立った。


    彼女はピクリとも動かなかった。

    自分のすぐ後ろに、横浜中を震撼させている「黒の悪魔」が降り立ったというのに、怯える様子すら見せない。

    ただ、ゆっくりと首を動かし、濡れた顔を俺に向けた。



    その目は、完全に光を失っていた。

    涙なのか雨水なのか分からない液体が、彼女の頬を伝って顎から落ちていく。



    「……クロ」

    彼女は、以前俺が聞き流したはずの名前を、弱々しい声で呼んだ。

    「あなたも……雨に濡れに来たの? 奇遇だね……」

    彼女は力なく右手を伸ばし、ベンチの座面に手のひらを上にして置いた。

    そこには、雨水でドロドロにふやけた、原型を留めていないパンの塊があった。



    「せっかく持って来たのに……雨でダメになっちゃった。ごめんね……」



    彼女は自分の体調や状況よりも、俺に与えるはずだったエサが台無しになったことを悔やんでいた。

    その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、これまで味わったことのない妙な衝撃が走った。


    雨粒だけが、静かに地面を叩いていた……


    (本当にバカな女だ)


    俺はベンチの背もたれから、彼女のすぐ隣の座面へと飛び降りた。

    雨水が撥ねる。

    俺は彼女の濡れた手のひらにある、ふやけたパンの塊を、あえて嘴で掬い取るようにして食べた。

    味など全くしなかった。

    ただの冷たい水の塊だ。

    だが、俺はそれを残さず飲み込んだ。



    美咲はそれを見て、大きく目を見開いた。

    そして、その生気のない唇が、微かに歪んだ。



    「……食べてくれるんだ。優しいね、クロは」



    彼女は濡れた手で、俺の頭をそっと撫でようとした。

    いつもなら、人間に身体を触られるなど、俺のプライドが絶対に許さない。

    激しく突き伏せるか、飛び去るところだ。



    だが、その時の俺は、なぜか動けなかった。

    彼女の指先から伝わってくる、凍えるような冷たさと、その裏にあるかすかな体温。



    「私ね……今日、会社で本当に酷いことを言われたの。私がやっていないミスを、全部押し付けられて……。誰も私の話を聞いてくれない。信じてくれない。世界中で、私一人だけが取り残されたみたい」



    彼女は雨の音に紛れさせるように、堰を切ったように話し始めた。

    「もう、頑張るの疲れちゃったな……」


    俺は彼女の横で、ただ雨に打たれながら、その声を聞いていた。

    (人間ってのは、本当に脆いな。ちょっとした言葉の暴力で、こんなにも簡単に死にかけてやがる)

    いつもなら、その脆さを嘲笑い、玩具にして楽しむところだ。

    だが、この時の俺の胸の内には、別の感情が芽生え始めていた。

    この女を、このまま雨の中に置いておけば、本当に壊れて消えてしまう。

    それは、俺にとって「都合の良いエサ箱」を失うことを意味する。

    そう、これは俺の利益のための行動だ。



    俺は彼女の顔の前に一歩近づき、わざと大きく、鋭い声で鳴いた。



    「ガァッ!」



    激しい雨音を突き破るような、力強い鳴き声。

    美咲はビクッと身体を震わせ、我に返ったように俺を見た。



    「クロ……?」



    俺は彼女を叱りつけるように、もう一度短く鳴くと、そのまま公園の出口にある、大きなアーケードのついた建物の方向へと羽ばたいた。

    そして、途中で振り返り、電線に止まって彼女を睨みつけた。


    「さっさと立て、バカ女。そんなところで濡れていたら、本当に死ぬぞ」


    言葉は通じなくとも、俺の意図は伝わったようだった。

    美咲はゆっくりと立ち上がり、ふらつく足取りで俺が示した雨宿りの場所へと歩き出した。彼女が屋根の下に入り、小さく息を吐き出すのを見届けてから、俺は再び灰色の雨空へと飛び去った。

    俺の羽は雨で重くなっていたが、胸の奥は、これまでになく奇妙な熱を帯びていた。




         【奇妙な距離感と、焼肉の日】


    雨の日の出来事を境に、俺と美咲の関係には、目に見えない奇妙な変化が生まれていた。

    相変わらず俺は「人間は脆くて愚かな玩具だ」というスタンスを崩していなかったし、美咲のことも「都合のいいエサ箱」として利用しているだけだと自分に言い聞かせていた。

    だが、彼女の元へ向かう足取り――いや、翼の羽ばたきが、以前よりも少しだけ軽くなっている自覚はあった。

    チッ、調子が狂うぜ。

    美咲は、公園にやってくる頻度が明らかに増えていた。

    それまでは週に数回、思い出したようにベンチに座っているだけだったが、今では平日の夕方、会社帰りとおぼしき時間帯には、必ずあの使い古された木製のベンチに腰掛けて、俺がやってくるのを待つようになった。


    彼女が撒くエサの質も、日に日に露骨に上がっていった。

    最初の頃はただの食パンの耳や、安物のドッグフードの残りみたいなものだったが、徐々にコンビニの上等な菓子パンになり、ある日にはデパ地下で買ったような惣菜の残りが並ぶようになった。


    そして、その日は突然やってきた。初夏の強い日差しが落ち着き、心地よい夜風が街を吹き抜ける日の夕暮れ時だった。



    電線から公園を見下ろすと、美咲がいつもより少し緊張した面持ちでベンチに座っていた。

    その膝の上には、丁寧にアルミホイルで包まれた、小さなプラスチックのタッパーが乗っている。



    俺がバサリと足元に降り立つと、彼女は待ってましたとばかりに顔を輝かせた。



    「あ、来た! 待ってたんだよ、クロ」



    彼女はそう言うと、タッパーの蓋をパカッと開けた。

    その瞬間、周囲の空気が一変した。

    人間のジャンクな食べ物の匂いには慣れている俺だったが、その匂いは格別だった。

    香ばしく焦げた醤油とニンニクのタレの香り、そして濃厚でジューシーな、上質な肉の脂の匂い。

    カラスの野生の嗅覚が、一瞬で狂いそうになるほどの色気を持った香りが、鼻腔を容赦なく突き抜けた。



    「これね、昨日、友達とちょっといい焼肉屋さんに行ったの。その時、どうしてもクロに食べさせてあげたくて……お店の人にお願いして、タッパーに詰めて持って帰ってきたんだ。カルビと、ハラミだよ」



    美咲は少し悪戯っぽく微笑みながら、割り箸を使って、まだタレがたっぷりと絡みついた分厚い肉の一片を、アスファルトの上にそっと置いた。


    俺の全細胞が「早く食え」と悲鳴を上げていた。


    だが、俺は「黒の狂犬」だ。

    ガツガツと浅ましく飛びつくような真似をして、人間に舐められるわけにはいかない。

    俺はあえてふんぞり返るように一歩下がり、フンと鼻で笑うような態度を見せてから、気品すら漂わせる所作で、その肉へと近づいた。



    鋭い嘴で肉をしっかりと咥え、一口で喉奥へと放り込む。



    その瞬間、俺の脳内に衝撃が走った。

    じゅわりと溢れ出す、圧倒的な肉汁。

    人間の知恵が作り上げた、甘辛く濃厚な極上のタレが、噛めば噛むほど肉の旨味を引き立てる。

    駅前のコンビニのゴミ箱から拾った、あの冷え切った唐揚げの衝撃をはるかに凌駕する、文字通りの「至高の味」だった。



    (……美味すぎる。マジで、何だこれ……!)



    心の中で絶叫しながらも、俺は表面上はクールを装った。

    ふん、まあ、食ってやらないこともない。

    そんな態度で、俺は美咲が次に差し出してきたハラミの肉も、次々と平らげていった。



    美咲は、俺が美味そうに(本人は隠しているつもりだが、目が爛々と輝いているのを見抜かれていたのだろう)肉を飲み込む姿を見て、今日一番の笑顔を見せた。



    「ふふ、やっぱりお肉好きなんだね。よかった。あんな高級なお店、私には贅沢かなって思ったけど、クロが喜んでくれるなら、行った甲斐があったよ」



    彼女は嬉しそうに、タッパーに残ったタレまで俺の前に差し出そうとした。

    俺は恩を感じてなどいない。

    ただ、利用してるだけだ。

    そう自分に強く言い聞かせながら、口の周りを黒い羽で拭った。

    だが、その胸の奥の満足感は、ただ腹が満たされたというだけのものではない、妙な温かさを帯びていた。




         【笑顔を取り戻す過程】



    夏が過ぎ、季節はゆっくりと秋へと向かっていた。

    街を彩る街路樹の葉が赤や黄色に染まり、地面に落ち葉の絨毯を作る頃、俺は美咲のある「変化」に気づいていた。



    彼女は、よく笑うようになっていた。



    初めて出会った頃のあの死神のような、今にもビルから飛び降りそうな絶望のオーラは、いつの間にか完全に消え去っていた。

    ベンチに座る彼女の背筋はすっと伸び、俺を見る目の光は、温かく優しげな灯りを宿している。



    「ねえ、クロ。聞いてよ。今日ね、会社で新しいプロジェクトのメンバーに選ばれたんだ。前までは、私なんか何をやってもダメだって思ってたけど……なんか、毎日ここに来て、クロに話を聞いてもらってるうちに、少しだけ自分に自信が持てるようになったみたい」



    彼女は楽しそうに、身振り手振りを交えながら毎日の出来事を語るようになった。

    俺はただ、電線の上やベンチの端で、彼女の言葉を黙って聞いているだけだった。

    言葉の意味はすべて分かっていたが、カラスの俺が返事をするわけもない。

    だが、美咲にとっては、その「ただ黙って隣にいる」という俺の存在そのものが、何よりも救いになっていたようだった。



    「クロは、人間の言葉が分かってるみたいだね。私が悲しい時は静かに寄り添ってくれるし、嬉しい時は、心なしか羽をパタパタさせて喜んでくれてる気がする」



    (勘違いするな、バカ女。俺はただ羽が痒くて動かしただけだ)


    心の中でそう毒づきながらも、俺は彼女から目を逸らさなかった。



    彼女の笑顔を見るたびに、俺の心の中の「悪の帝王」としてのプライドが、少しだけ揺らぐのを感じていた。

    俺は人間を困らせ、絶望させ、そのパニックをエサにして生きる悪魔のはずだ。

    なのに、この目の前の雌が笑顔になる過程を、どこか心地よいと感じている自分がいる。



    「これ、今日のプレゼントね」

    美咲はバッグから、新発売のクッキーを取り出して、細かくちぎって俺の前に並べた。

    彼女が笑うと、公園全体の空気までが少し明るくなるような、不思議な感覚があった。

    俺は彼女の笑顔を「利用価値のある人間の機嫌が良い証拠だ」と脳内で無理やり変換しながら、その甘いクッキーを贅沢に味わった。




         【彼氏の裏切りと、優しさという罠】


    ある日、彼女が泣きながらベンチに座ってるのを見た。


    季節はさらに進み、秋の終わり。夕暮れの風は肌を刺すように冷たくなっていた。

    公園の街路樹はすっかり葉を落とし、寒々しい景色が広がっている。

    美咲は、いつものベンチで激しく肩を震わせていた。

    両手で顔を覆い、声の限りに咽び泣いている。

    その姿は、あの出会ったばかりの雨の日の絶望を、さらに深く、ドロドロにしたような、形容しがたい悲痛さに満ちていた。

    俺はバサリと彼女の隣に降り立ち、じっとその様子を窺った。

    彼女の指の隙間から、大粒の涙が次々と溢れ落ち、アスファルトを濡らしていく。



    彼氏に裏切られたらしい。



    小耳に挟んだ会話や、彼女が握りしめているスマホの画面から、何が起きたのかはすぐに察しがついた。

    信じていた男に、他に女がいたのだ。

    それだけでなく、彼女の優しさに付け込み、都合のいい道具として扱われていたらしい。



    「なんで……なんでみんな私を裏切るの……? 私、何がいけなかったの……?」



    彼女の声は、引き裂かれた生き物の悲鳴のようだった。

    それを見た瞬間、俺の脳裏には、いつもの「人間の心の脆さを嘲笑う悪党」の思考がよぎるはずだった。

    見ろ、やっぱり人間なんてのは脆くて愚かで、最高にくだらない生き物だ、と。


    だが、俺の身体は、思考よりも先に動いていた。


    俺は彼女の肩に止まって、わざと優しく鳴いた。



    「クゥ……、クゥ……」



    自分でも驚くほど、低く、穏やかな声だった。

    横浜中のカラスや人間を震え上がらせてきた、あの「黒の狂犬」の凶悪な鳴き声とは、およそかけ離れた、寄り添うような微かな響き。

    俺は自分の鋭い爪が、彼女の薄いコートを突き破って肌を傷つけないよう、慎重に力の加減を調節しながら、その小さな肩の上にそっと体重を預けた。



    美咲は驚いた顔をして、俺の頭を撫でた。



    彼女は顔を上げ、涙で濡れた目で俺を見つめた。

    そして、震える手を伸ばし、俺の漆黒の頭頂部を、そっと、本当に愛おしそうに円を描くように撫で始めた。



    その瞬間、俺は思った。


    (人間って、脆いな。ちょっと優しくしてやれば、すぐ心を開く)


    彼女の指先から伝わってくる、激しい動揺と、それを受け止めてくれた俺に対する、圧倒的な依存の感情。

    それは、俺がこれまで人間から奪ってきた「恐怖」や「怒り」とは、全く異なる質の、強烈な精神のエネルギーだった。



    それから俺は、彼女を利用して遊ぶようになった。



    そう、これは「遊び」であり、「利用」なのだ。

    俺は決して、この人間の雌に情を移したわけではない。

    彼女の脆い心をコントロールし、俺の手のひらの上で転がして楽しんでいるだけだ。

    そう自分に強く言い聞かせた。



    彼女が会社で嫌なことがあった日は、わざと彼女の会社のゴミ捨て場を荒らして、ストレスを発散させてやった。



    彼女の勤めるオフィスビルの裏手にある、厳重に管理されたゴミ集積所。

    俺は夜の闇に紛れてそこへ忍び込み、普段の何倍もの凶暴さでゴミ袋をズタズタに引き裂いた。

    特に、美咲を精神的に追い詰めている上司や同僚のデスクから出たと思われる書類のゴミを狙い、周囲の道路へこれでもかとぶちまけてやった。


    翌朝、その惨状を見た美咲は、一瞬驚いた顔をしたが、それが俺の仕業だと気づくと、すぐに声を上げて笑った。


    彼女は俺を見て「あなたは……私の味方?」

    彼女は毎朝、俺に話しかけるようになった。

    仕事の愚痴、過去の恋愛、家族のこと。


    俺はただ聞いているだけだったが、元彼氏のマンションのベランダに大量の糞を落としてやったりした。


    あの美咲を裏切ったクソ男の住む、小綺麗なマンションのベランダ。

    俺は界隈の仲間(と言っても、俺の恐怖に屈した手下どもだが)を動員し、奴が干している真っ白なシャツや、お気に入りのデザイナーズチェアの上に、これでもかと限界まで白い糞の爆弾を投下してやった。


    美咲は俺の仕業だと気づくと、笑った。

    「あなた、すごいよね。私の代わりに復讐してくれるんだ」



    (復讐じゃねぇ、ただの悪戯だ)



    俺は嘴をカチカチと鳴らして、彼女の言葉を否定した。

    俺は正義の味方でもなければ、お前の飼い鳥でもない。

    ただ、俺の縄張りでシクシクと泣いている目障りな雌の機嫌を直すために、俺の得意な「悪巧み」をほんの少し発揮してやっただけだ。

    勘違いするな。




        【冬の日の温もりと、手作りおにぎり】


    季節は巡り、世界は本格的な冬の到来を迎えていた。

    横浜の街には冷たい北風が吹き荒れ、朝晩は路面の水溜まりがカチカチに凍りつくほどの極寒の日々が続いていた。

    ある日、事件が起きた。

    美咲が、いつも来るはずの時間になっても公園に現れなかったのだ。

    電線の上で一時間、二時間と待ったが、彼女の姿はない。

    俺の胸の中に、ざわめくような不快な焦燥感が広がっていく。

    「チッ、あのバカ女、ついに俺にエサを運ぶ義務を放棄したか」と悪態をつきながら、俺は彼女の住むアパートの場所へと向かった。

    以前、尾行して突き止めておいたのだ。

    彼女の部屋の窓辺に止まり、カーテンの隙間から様子を見ていた。

    薄暗い部屋の中、美咲はベッドの中で身を縮めていた。その顔は真っ赤に火照り、苦しそうに荒い息を吐き出している。

    俺はガラス窓を、嘴でコンコンと軽く叩いた。

    その音に気づいた美咲は、重い身体を必死に起こし、ふらつく足取りで窓辺へと近づいてきた。

    そして、鍵を開けて窓を少しだけ開けた。


    彼女は弱々しく微笑んで言った。

    「クロ……来てくれたんだ。ごめんね、今日は風邪ひいちゃって、公園に行けなくて……。でも、あなたがいてくれて、本当に良かった」


    その言葉が、なぜか胸の奥をムズムズさせた。

    妙な感覚が芽生え始めていた。

    これまでに人間を恐怖に陥れた時の全能感とも、カラス同士の闘争に勝利した時の高揚感とも違う。

    胸の最も深い場所が、痒くなるような、それでいてじわりと温かくなるような、未体験の感情。



    (……チッ、本当に調子が狂う女だぜ)


    俺は彼女の弱り切った顔を睨みつけると、そのまま何も言わずに(鳴かずに)夜の街へと飛び去った。

    だが、その夜、俺は彼女の部屋のベランダのすぐ近くにある電線で、一晩中、冷たい北風に耐えながら彼女の部屋の灯りを見守り続けた。

    数日後、すっかり熱の引いた美咲は、いつも以上の笑顔で公園にやってきた。

    その手には、厳重に保温お弁当バッグが握られていた。

    冬になると、彼女は俺に手作りのおにぎりを持ってきてくれた。


    「はい、クロ。病気の間、心配してくれてありがとう。これ、お礼に作ったんだよ。まだ温かいからね」


    彼女がアルミホイルを開けると、中から湯気が立ち上る、巨大な三角形のおにぎりが現れた。

    表面にはうっすらと塩が振ってあり、海苔の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。

    だが、それだけではなかった。



    中に焼肉が入ってる。



    あの、いつか彼女が持ってきてくれた、極上のタレに漬け込まれたジューシーな焼肉が、温かい白米の芯にたっぷりと詰め込まれていたのだ。

    最高の味だった。

    俺は彼女の前でゆっくり味わってやった。

    一切の遠慮を捨て、温かい米粒と、その中から溢れ出す濃厚な肉の旨味を、一心不乱に嘴で突いて口に運んだ。

    冬の冷たい空気の中で、そのおにぎりが持つ「温もり」が、俺の冷え切った身体の芯へと染み渡っていく。

    彼女は俺の頭を撫でながら呟いた。


    「あなたはカラスなのに、こんなに賢くて……まるで人間みたい」


    俺は心の中でフンと鼻で笑った。

    俺をあんな脆くて愚かな生き物と一緒にするな。

    俺は悪を好み、孤独を愛する、誇り高き黒の悪魔だ。

    だが、彼女の温かい手のひらが俺の頭を撫でる心地よさに、俺はいつの間にか、完全に身を委ねていた。

    俺たちは二年以上、そんな関係を続けた。

    彼女が泣く日は俺がそばにいて、彼女が笑う日は俺が一緒に空を飛んだ。

    人間とカラスの、奇妙な友情――いや、もっと深い何かだったのかもしれない。


    ある時、美咲が同僚の男と一緒にベンチに座っているのを見た。

    あの男が彼女に笑顔で話しかけている姿に、俺の胸に苛立ちが湧いた。

    男は爽やかな笑みを浮かべ、美咲の肩に手をかけようとしていた。

    それを見た瞬間、俺の脳内の何かが、完全にブチ切れた。

    あの男が美咲の隣にいることが許せなかった。

    俺はわざと男の頭上すれすれを低く飛んで脅かし、男を逃げさせた。


    「うわあああ! なんだこのカラス、化け物か!?」


    男は情けない悲鳴を上げて帽子を飛ばし、一目散に公園から逃げ去っていった。

    それを見た美咲は、最初は呆然としていたが、すぐにクスクスと、そして最後にはお腹を抱えて大爆笑した。


    「クロ、ヤキモチ焼いてくれたの? ふふ、ありがとう。でも心配しないで、あの人はただの同僚だから」


    いつの間にか、美咲はよく笑うようになった。

    初期のあの陰鬱なオーラは微塵もなく、彼女の周囲には常に明るい陽だまりのような温かさが満ちていた。

    美咲は俺を玩具や厄介者としてではなく、一人の生き物として見てくれていた。

    人間の匂いの中で、彼女だけが優しい温かさを持っていた。

    だが、そんな平穏で温かい日常を、あの最悪の事件が、一瞬にして叩き潰すことになる。




        【奪われた光と、帝王の激怒】


    美咲がいつも通り笑ってくれる。

    それだけで、俺の退屈な日常はそれなりに満たされていた。

    だが、あの忌々しい冬が終わりを告げようとしていたある日、公園のベンチに現れた彼女の姿を見た瞬間、俺の全身の羽毛が逆立った。

    あの最悪のオーラが、戻っていたのだ。

    いや、初めて出会ったあの雨の日よりも、さらに深く、ドロドロとした暗黒の絶望が、彼女の小さな身体を覆い尽くしていた。

    ある日、彼女は泣きながら言った。



    「クロ……私、騙された。500万円も……」



    ボロボロと大粒の涙を流しながら、彼女はスマホを握りしめ、地面に崩れ落ちるようにして泣き叫んだ。

    「お母さんの手術のために、ずっと、ずっと貯めてたお金だったの……。それを、確実に増えるからって言われて……。昨日から、もう連絡がつかなくなっちゃった。警察に行っても、すぐにはどうにもできないって……。どうしよう、クロ……私、もう生きていけない……」



    投資詐欺だった。



    その言葉を理解した瞬間、俺の脳裏を真っ赤な炎のような怒りが駆け巡った。

    俺が二年の歳月をかけて、あのクソみたいな絶望の淵から引き揚げ、ようやく取り戻させた彼女の笑顔。

    それを、どこぞの馬の骨とも知れぬクソトカゲのような人間が、紙切れ一枚、いや、画面上の数字だけで毟り取っていったのだ。



    (てめえ……誰の獲物に手ぇ出してんのか分かってんだろうな)



    俺の胸の奥で、しばらく眠っていた「黒の狂犬」としての凶暴な本能が、一気に目を覚ました。

    俺は腹が減って奪うわけじゃない。

    人間を絶望させるために奪う。

    だが、それは俺の特権だ。

    俺以外の不届き者が、俺の認めた唯一の雌を絶望させるなど、万死に値する。



    俺は激怒し、行動を開始した。



    まずは敵の正体を突き止める必要があった。

    美咲のスマホの画面に表示されていた男の顔、そして「山田」という名前。

    俺はそれを脳裏に深く刻み込むと、即座に横浜の街へと飛び立った。



    詐欺師の「山田」という男を三日間尾行し、港近くの高級マンションに住んでいることを突き止めた。



    一日目、美咲の記憶と残された手がかりから、山田がよく出没するというみなとみらいのオフィス街を徹底的に張り込んだ。

    数千、数万と行き交う人間の中から、俺は美咲の金を奪ったあの憎むべき顔を、鋭い眼光で見つけ出した。

    高級なスーツに身を包み、いかにも紳士然とした笑みを浮かべて歩く男。

    それが山田だった。


    二日目、俺は奴の行動パターンを徹底的にマークした。

    奴がどのカフェに寄り、どのタイミングでスマホで次の獲物を漁っているのか、電柱や街路樹の陰からじっと見下ろした。

    奴の顔を見るたびに、嘴の先から血が出るほど怒りが込み上げたが、俺は帝王だ。

    ただ衝動的に襲いかかるような真似はしない。

    確実に、一歩ずつ逃げ場をなくして破滅させる。


    三日目の夜、奴は仕事を終えると、満足そうな顔でタクシーに乗り込んだ。

    俺は夜のビル風を切り裂きながら、そのタクシーを上空から執拗に追尾した。

    そして辿り着いたのは、港のすぐ近くにそびえ立つ、セキュリティの厳重な超高級タワーマンションだった。



    (ここに住んでやがるのか、クソ虫が。人間の血を吸って肥え太った部屋がそこだな)



    奴の部屋の位置、そして地下駐車場に停められている、奴の自慢とおぼしきピカピカに磨き上げられた漆黒の高級外車。

    そのすべてを完全に把握した。

    準備は整った。

    俺の持てるすべての悪知恵と、鳥類としての機動力を結集した、前代未聞の復讐劇の幕が上がる。




        【地獄の嫌がらせ、開幕】


    それから本格的な地獄の嫌がらせを開始した。


    人間の法律や警察は、証拠がどうだの、手続きがどうだのと時間がかかる。

    だが、カラスの俺にはそんな生ぬるいルールは関係ない。

    俺自身が法であり、俺自身が執行官だ。

    山田の日常を、一歩ずつ、確実に精神病院のベッドへと直行させるための地獄を演出してやる。


    初日は朝早く、山田のベランダに腐った魚と生ゴミを大量にばら撒いた。
    腐臭がマンション中に広がるのを上空から確認して満足した。



    まだ夜も明けきらぬ午前四時。

    俺は近所の市場のゴミ捨て場から、丸ごと腐り落ちてドロドロになった巨大な魚の頭や、強烈な異臭を放つ生ゴミを、何度も往復して山田のマンションの最上階のベランダへと運び込んだ。

    高級マンションの美しいタイルの上に、ハエがたかる腐肉が散乱していく。

    朝日が昇り、気温が上がるにつれて、その異臭は凄まじいガスとなって周囲に充満し始めた。


    午前七時。

    カーテンを開けた山田が、その惨状を目にした瞬間、喉をかきむしるような悲鳴を上げた。

    「うわあああ!? なんだこれ!! 臭っ! マジで何なんだよこれ!!」

    山田は高級なパジャマを汚さないように狂ったようにバタつきながら、ティッシュやモップを持って右往左往していた。

    高級タワーマンションの静寂は、朝一番の強烈な悪臭と、奴の怒号によって完全にぶち壊された。

    俺は向かいのビルの避雷針のてっぺんから、その様子を見下ろし、カカカと喉を鳴らした。



    だが、これはほんの挨拶代わりに過ぎない。




    二日目は夜通し、窓ガラスに何度も激突して大きな音を立て続けた。

    奴が眠れずに苛立つ姿を想像するだけで気持ちが良かった。


    人間にとって、睡眠の剥奪ほど精神を狂わせるものはない。

    夜の帳が下り、山田がベランダの掃除で疲れ果ててベッドに入った瞬間、俺の本当の襲撃が始まった。

    バサバサバサ、ドンッ!!!

    頑丈な俺の翼と身体を、あえて奴の寝室の大きなガラス窓に叩きつける。

    夜の静寂の中に響き渡る、文字通りの爆音。

    「ひぃっ!?」

    山田はベッドから跳ね起き、恐怖に目を見開いて窓を見た。

    だが、カーテンを開けた時には、俺はすでに上空の闇へと消えている。

    奴が諦めて再び目を閉じ、意識が微睡みに落ちようとしたその瞬間、再び――ドンッ!!!

    これを一晩中、一時間おき、あるいは十五分おきという、全く予測のつかないランダムな間隔で繰り返した。


    「おい! 誰だ! 悪戯か!? 出てこい!!」


    山田は窓を開けて夜空に向かって怒鳴り散らしていたが、そこにあるのは冷たい静寂だけだ。

    奴の目は次第に血走り、目の下にはどす黒いクマが形成されていった。

    一晩中、いつ襲ってくるか分からない「音の恐怖」に晒され、奴の神経は確実に磨り減り始めていた。



    そして、三日目は奴が最も大切にしている「ステータス」を破壊してやった。


    三日目は奴の高級車のボンネット、屋根、フロントガラスに白い糞を限界まで落とした。

    朝、奴が絶叫しながら車を見る姿が最高に面白かった。


    俺は前日から、横浜中のジャンクフードを食べ漁り、体の中に大量の特製糞を蓄えておいた。


    早朝、地下駐車場から山田がドヤ顔で乗り出してきたその瞬間を狙う。
    奴がマンションのロータリーに車を停め、ほんの数分、忘れ物を取りにロビーへ戻ったその僅かな隙を見逃さなかった。


    俺は電線から急降下し、奴の数千万円はくだらないであろうピカピカの高級車の真上で、爆撃を開始した。

    ボンネット、フロントガラス、ルーフ、さらにはドアノブに至るまで、ありとあらゆる場所に、粘着性の高い真っ白な糞を、これでもかと限界までブチまけてやった。


    「な、なんだこれえええええっ!!! マイバッハが!! 俺の車がァァァ!!」

    ロビーから戻ってきた山田は、変わり果てた愛車の姿を見て、膝から崩れ落ちた。高級な革靴のことも忘れ、アスファルトの上で頭を抱えて絶叫している。

    「カラスだ……カラスの仕業か!? 待ちやがれクソ鳥があああ!!」

    奴は空を見上げ、狂ったように拳を突き上げていた。

    だが、俺はすでに遥か上空の電線の上。

    奴の絶叫をBGMに、優雅に羽繕いをしてやった。

    最高にいい気分だ。





        【山田のノイローゼと日常の崩壊】


    四日目を迎える頃には、山田の様子は明らかに常軌を逸し始めていた。

    これまでは「運の悪いトラブル」として処理しようとしていた奴も、これが自分を狙った明確な「悪意」であることに気づき、精神的に完全に追い詰められていた。


    空を見るたび怯える。


    街を歩く山田の足取りは、三日前とはまるで違っていた。

    胸を張り、周囲を見下すように歩いていた男が、今では数歩歩くたびに、ビクビクと首をすくめて上空を見上げるようになった。
    電線に一羽のカラスが止まっているのを見るだけで、奴は悲鳴を上げそうになりながら、道路の反対側へと猛ダッシュで逃げ出す。

    太陽の光や、ビルの合間から覗く青空さえもが、奴にとっては「いつ悪魔が降ってくるか分からない恐怖の空間」へと変貌していた。


    カラスの鳴き声で飛び起きる。


    夜、奴の寝室からは、絶え間なくうわ言のような悲鳴が漏れていた。

    俺が実際に窓を叩いていなくても、近所の公園で他のカラスが「カー」と一声鳴いただけで、山田はガタガタと全身を震わせ、心臓を抑えてベッドから飛び起きるようになった。

    「出た……またあの黒い奴だ……俺を殺しに来たんだ……!」

    電気も消せないまま、部屋の隅で毛布にくるまり、朝が来るのをただ怯えて待つだけの哀れな肉塊。

    それが、美咲から大金を奪い取った詐欺師の成れの果てだった。


    管理人に怒鳴る。


    四日目の朝、山田は寝不足で狂ったような顔のまま、マンションの管理事務室へと怒鳴り込んだ。

    「おい!! このマンションのセキュリティはどうなってるんだ! 毎日毎日、ベランダに変なものを置かれたり、車を汚されたりしてるんだぞ! なんとかしろ!」

    管理人は困惑した顔で頭を下げた。

    「はぁ……しかし山田様、お相手はカラスのようでございますし、マンションの防犯カメラにも不審な人間は映っておりませんで……」

    「カラスなわけがあるか!! 誰かが訓練したカラスを使って、俺を意図的に襲わせてるんだ! 警察を呼べ! ネットを張れ! 今すぐあの鳥どもを全員殺せ!!」

    髪を振り乱し、管理人の胸ぐらをつかまんばかりに激昂する山田。

    かつての洗練されたエリート詐欺師の面影はどこにもなく、そこにはただの被害妄想に囚われた哀れな男がいた。


    会社で様子がおかしい。


    奴の崩壊は、私生活だけに留まらなかった。

    奴が経営している(という名目の、詐欺の片棒を担ぐ)オフィスでも、山田の異常行動は噂の的になっていた。

    会議の最中、窓の外を鳥の影が横切っただけで、山田は「うわあああ!」と椅子をひっくり返して絶叫し、机の下に潜り込んだ。

    「山田さん、どうしたんですか!?」

    「鳥だ……鳥が俺を見てる……あの目が、俺の金を、俺の命を狙ってるんだ……」

    書類をめくる手はガタガタと震え、顧客からの電話に対しても、「お前、あのカラスの仲間だろ!?」と怒鳴り散らして一方的に切ってしまう。当然、詐欺のビジネスなど成り立つはずもなかった。

    仲間内の詐欺師たちからも、「山田の奴、完全にイカれちまった」「もうあいつとは縁を切ろう」と、急速に見捨てられ始めていた。


    奴が精神的に壊れていく描写を、俺は特等席からつぶさに観察していた。

    人間の心が壊れる匂い。

    それは、かつて俺が神社で見下ろしたあの爺さんの比ではないほど、濃厚で、暴力的で、そして極上に美味かった。


    だが、俺の復讐の手が緩むことはない。

    奴がこれまでに流させてきた、無数の被害者たちの涙の数に比べれば、この程度の地獄、まだまだ生ぬるい。

    後半戦は、さらに苛烈を極めることになる。




        【地獄の連鎖、臨界点へ】


    山田の精神がノイローゼでガタガタになっているのは百も承知だったが、俺の手綱が緩むことはない。

    むしろここからが本当の地獄の始まりだ。

    奴がこれまでに積み上げてきた「偽りの平穏」を、文字通り粉々に粉砕してやる。


    四日目はマンションのエントランスに死んだネズミとカラスの死骸を置いた。

    管理人が掃除しても、次の日には新しいのを置いた。


    タワーマンションの住人たちが最も嫌うのは「不潔」と「死の気配」だ。

    俺は早朝、街の裏路地から丸々と太った死んだネズミを、そして別の縄張り争いで転がっていたカラスの死骸を器用に咥え、山田のマンションのピカピカに磨かれたガラス張りのエントランスの真ん前に並べて置いた。

    朝、コンシェルジュや住人たちがそれを見て悲鳴を上げる。

    管理人が慌ててホウキとチリトリで掃除したが、俺は近くの街路樹からその様子をじっと見ていた。

    奴らが掃除を終えて奥に引っ込んだのを見計らい、すぐさま次の死骸を調達して同じ場所に置く。

    「またあるぞ!?」「どうなってるんだこのマンションは!」住人たちの間に不穏な空気が広がり、そのクレームの矛先はすべて、毎日ベランダを荒らして騒ぎを起こしている山田へと向かっていった。

    奴はマンション内でも完全に孤立し、針の筵に座らされている状態だった。



    五日目はスーパーで買い物中の山田を狙い、買ったばかりの袋を空中から急降下して破り、中身を道路にぶちまけた。

    外出すら恐怖するようになった山田が、生きるためにどうしても食料を買いに出なければならなくなったその日。

    奴は帽子を深く被り、周囲をキョロキョロと見回しながら、足早に近くの高級スーパーへと駆け込んだ。

    だが、俺の目は誤魔化せない。

    奴が買い物を終え、ビニールの買い物袋を両手に下げて店から出てきた瞬間、俺はビルの屋上から音もなく翼を畳んだ。

    重力に身を任せ、弾丸のような速度で急降下する。

    狙いは奴の顔面ではなく、右手に持った袋の持ち手だ。

    バリィィィンッ!!!

    俺の鋭い爪がビニール袋を正確に引き裂いた。

    中に入っていた高級な卵や牛乳、惣菜のパックが、アスファルトの上に激しく叩きつけられて四散する。

    「うわああああっ! 出た、またあいつだ!!」

    山田は恐怖のあまりその場に尻餅をつき、割れた卵の黄身と牛乳で汚れた道路の上で、狂ったように残った食材を拾い集めようとした。

    その無様な姿、エリートを気取っていた男のプライドが完全に地に落ちた瞬間を、俺はすぐ上の電線から見下ろし、「カカカカッ!」と喉を鳴らして嘲笑ってやった。



    六日目は奴が犬を散歩させている時に後ろから急接近し、頭すれすれを飛び、犬を興奮させて奴を引きずり回させた。


    山田は精神の安定を保つためか、飼っている血統書のゴールデンレトリバーを連れて外へ出てきた。
    だが、それが次の命取りだ。

    奴が公園の横を通りかかったその瞬間、俺は奴の背後から完全に気配を消して突っ込んだ。

    奴の後頭部、髪の毛が風でなびくほどの距離――数センチのすれすれを、凄まじい風切り音を立てて激突直前で上昇する。

    「ひぃっ!?」

    山田が悲鳴を上げると同時に、その頭上を飛び交う俺の影を見たゴールデンレトリバーが、本能的な恐怖と興奮でパニックを起こした。「キャンウン!」と激しく吠え立てながら、犬は山田の手から引きちぎらんばかりの勢いでリードを引っ張り、猛ダッシュを始めた。

    「ま、待て! ココア! 止まれ!」

    寝不足と栄養失調で足腰がガタガタになっていた山田は、犬の力に抗いきれず、アスファルトの上を無様に引きずり回された。

    高級なスーツのズボンが破れ、膝から血を流しながら、犬に引きずられて泥水の中に突っ込んでいく姿は、傑作の一言に尽きた。


    七日目は奴の会社の駐車場に忍び込み、ワイパーの間に腐った果物と糞を詰め込んだ。


    復讐の最終前夜。

    山田が這う失意の体で出社した会社の月極駐車場。

    俺は奴の車が停まっているのを確認すると、近くの八百屋のゴミ箱から調達した、ドロドロに腐って発酵したバナナやミカンを、奴の車のフロントガラス、ワイパーの複雑な金属の隙間に、これでもかと執念深く詰め込んでやった。

    さらにその上から、仕上げとばかりに大量の糞を流し込む。

    夕方、仕事を終えて疲れ果てた山田が車に乗り込み、フロントガラスの汚れを落とそうとワイパーを動かした瞬間、最悪の悲劇が起きた。

    グチャリ。

    ワイパーの回転と共に、腐った果物のドロドロとした果肉と糞が、フロントガラス一面に広く、均一に引き延ばされたのだ。
    エアコンの吸気口から、発酵したドロドロの悪臭が車内に一気に流れ込む。


    「ぎゃあああああああ!!! 臭い! 汚い! もう嫌だああああ!!」


    車から飛び出し、頭を抱えて発狂する山田。

    毎日、俺は違う方法で奴を追い詰めた。

    奴の顔は日に日にやつれ、目が血走り、常に空を怯えたように見上げるようになった。
    それがたまらなく気持ちよかった。




        【クライマックス、帝王の強奪】


    そして、運命の八日目がやってきた。

    俺の緻密な尾行と、奴の崩壊した精神状態から、今日が「その日」であることは分かっていた。



    クライマックスは、山田が銀行から大金を引き出して帰る日だった。



    山田は詐欺ビジネスの破綻と、自身のノイローゼにより、横浜から逃亡することを決意していた。

    手元に残った、美咲から奪ったものを含む大金。

    それをすべて現金化し、カラスの悪夢が届かない遠い土地へ高飛びしようとしていたのだ。


    午後二時。
    みなとみらいの大型銀行から出てきた山田の手には、ずっしりと重みのある、黒い高級な革のセカンドバッグが握られていた。

    中には、美咲から奪った500万円、いや、それ以上の現金が詰まっているはずだった。



    山田の目は完全に据わっていた。数秒おきに空を見上げ、誰もいない路地を怯えたように早足で歩いていく。


    (ここだ。ここがお前の終着駅だ、クソ虫が)



    俺はビルの五階の窓枠から、大きく翼を広げた。狙うは奴の命ではない。

    奴が最も執着し、美咲から奪い去った、あの「黒いバッグ」そのものだ。



    俺は路地で全力急降下し、彼のバッグを嘴で強奪した。



    キィィィンという、空気を切り裂くような音が路地に響く。

    山田がハッと上空を見上げたその瞬間には、俺はすでに奴の目の前に達していた。


    「なっ――」


    山田が声を上げる暇すらなかった。

    俺は急降下のエネルギーをすべて爪と嘴に集中させ、奴が握りしめていたバッグの持ち手を、凄まじい衝撃と共に力任せに毟り取った。


    「あ……あああ!?」


    手のひらから突然消え去った重みに、山田は呆然と立ち尽くした。

    そして、自分の全財産、逃亡資金が、一羽の巨大な黒いカラスの嘴に咥えられ、ぐんぐんと上空へ持ち上げられていくのを目撃した。



    重くて飛ぶのも一労苦だったが、意地で美咲の元まで運んだ。



    お札がぎっしり詰まった革のバッグは、カラスの身体にとっては気が遠くなるほど重かった。

    ビル風に煽られるたびに、身体が下へと引っ張られ、翼の筋肉が引き裂かれそうな激痛が走る。

    途中で何度も落としそうになった。

    だが、俺のプライドが、そして美咲の涙が、俺の翼に限界を超えた力を与えていた。


    (落とすかよ……。これがあいつの、美咲の未来だ……!)


    俺は必死に羽ばたき、高度を維持しながら、いつものあの公園を目指して、横浜の空を一直線に突き進んだ。



           【涙の奪還】


    公園のベンチには、今日も美咲が、力なくうつむいて座っていた。

    その目は赤く腫れ、未来を諦めたような静けさが漂っている。



    バサササササッ!!!



    限界を迎えた俺の翼が悲鳴を上げ、俺は半分地面に叩きつけられるようにして、ベンチの前に着地した。

    その衝撃で、嘴から離れた黒い革のバッグが、美咲の足元にドスンと転がった。


    美咲はビクッとして目を見開いた。
    足元にあるバッグ、そして、息を激しく切らしながら、誇らしげに胸を張って立っている俺の姿を交互に見た。


    「え……? これ……まさか……」


    彼女が震える手でバッグのファスナーを開けると、中には帯のついた札束がぎっしりと詰まっていた。

    一番上には、あの山田の会社のロゴが入った書類。

    それが、自分の元から奪われた500万円そのものであることに、彼女が気づくのに時間はかからなかった。


    バッグを美咲の元へ届けると、彼女は涙を流して笑った。


    「クロ……ありがとう……! 本当に、本当にありがとう……!!」


    彼女はバッグを抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。

    だが、それはあの絶望の涙ではない。

    俺が奴を奈落へ突き落とし、力ずくでもぎ取ってきた、希望の涙だった。


    彼女の流す涙を見ながら、俺は静かに羽を整えた。


    フン、これで貸し借りはなしだ、バカ女。

    俺の悪巧みの恐ろしさ、とくと味わったか。



    こうして、横浜を震撼させた「黒の悪魔」による前代未聞の復讐劇は、一人の人間の雌の救済という、最高の結末をもって幕を閉じた。

    だが、運命の歯車は、俺たちにさらなる別れと、新しい出会いを用意していたのだ。




        【三年目の春、告げられた別れ】


    山田への復讐を果たし、あの黒いバッグを美咲の元へ届けてから、季節はまた静かに流れていった。

    手元に戻った大金のおかげで、美咲の母親の手術は無事に成功したらしい。

    公園のベンチで、彼女がホッとしたような、本当に心の底から安心したような顔でそう報告してくれた時、俺は電線の上でフンと鼻を鳴らした。

    まあ、あのクソ虫から毟り取ってきた甲斐があったというものだ。


    それからの日常は、かつてないほど穏やかで、満ち足りていた。


    俺は相変わらず街のあちこちで悪さを働き、人間どもを慌てふためかせては「黒の悪魔」としての悪名を轟かせていたが、夕方になってあの公園へ向かえば、そこには必ず美咲の優しい笑顔があった。

    冬が終わり、横浜の街に再び柔らかな春の風が吹き込み始めた頃、俺たちの奇妙な関係は、丸三年を迎えようとしていた。


    だが、春というのは、出会いの季節であると同時に、人間にとっては「環境が変わる」季節でもあるらしい。


    その日の夕暮れ、公園の街路樹にはうっすらと桜の蕾が膨らみ始めていた。

    ベンチに座る美咲の様子は、どこかいつもと違っていた。

    悲しんでいるわけではないが、何か重大な決意を秘めたような、少し緊張した面持ちで、近づいてくる俺をじっと見つめていた。



    彼女が「もう横浜を離れる」と告げたのは、三年目の春だった。



    その言葉が彼女の唇から零れ落ちた瞬間、俺の身体の芯が、冷たい風に晒されたように一瞬で凍りついた。


    「え……?」


    カラスの俺には言葉は返せないが、俺の目がわずかに見開かれたのを、彼女は見逃さなかった。



    新しい仕事が決まり、東京へ引っ越すという。



    「あの投資詐欺に遭って、一度は人生を諦めかけたけど……クロが助けてくれたおかげで、私、もう一度前を向こうって思えたの。それでね、ずっと憧れてた東京のデザイン会社に応募したら、採用が決まったんだ。来月から、向こうで新しい生活を始めることになったよ」



    美咲は、寂しげながらも、非常に力強く、希望に満ちた目でそう語った。


    彼女の目は、三年前のあの死にかけていた人間の雌のそれとは、完全に別物だった。

    自分の足で立ち、自分の意志で未来を切り開こうとする、一人の強い人間の目だ。



    (……そうか。東京へ行くのか)



    俺は彼女の足元で、ただ黙ってその言葉を受け止めていた。

    俺のおかげで生きる勇気が出た、と彼女は言う。

    だが、本当に救われていたのは、どちらだったのだろうか。

    人間をただの玩具と見なし、悪意と孤独の中だけで生きていたこの俺に、「誰かのために動く」という奇妙な温もりを教えてくれたのは、他ならぬこの女だった。

    そのエサ箱が、いや、その存在が、俺の元から去っていこうとしている。




        【嘴に込めた、最初で最後の言葉】


    別れの前日、俺は彼女のベンチに止まった。



    夕日が横浜の海を真っ赤に染め上げ、公園の影を長く引き延ばしていく。

    明日には、この場所から彼女の荷物も、彼女自身の匂いも、すべて消えてしまう。

    美咲はいつもより綺麗な服を着て、優しく微笑みながら俺を迎えてくれた。

    彼女の手には、最後の手作りおにぎりがあった。

    俺はそれを、一口ずつ、これが最後だと噛み締めるようにして平らげた。


    食べ終えた俺を、美咲はじっと見つめていた。
    その目は微かに潤んでいる。


    彼女は俺を抱きしめるように頭を撫でた。


    暖かく、細い両手で、俺の黒い身体を包み込むようにして、そっと引き寄せる。

    普段なら、人間の分際でこの俺を拘束するような真似は絶対に許さない。

    だが、この時ばかりは、俺は翼の力を抜き、彼女の胸の鼓動が伝わってくるほどの距離で、その温もりに身を委ねた。



    「クロ、ありがとう。あなたのおかげで、私はまた生きる勇気が出たよ」



    彼女の涙が一滴、俺の漆黒の羽の上に落ちて、キラリと光った。


    「離れるのは本当に寂しい。あなたを東京へ連れて行くことはできないけれど……私は、あなたのことを一生忘れないから。横浜の空を飛ぶ、最高に賢くて、最高に優しい私の味方のこと、絶対に忘れないからね」



    俺はなんも言えなかった。



    カラスの喉からは、人間の言葉は出ない。

    どれだけ頭が良くても、俺は一羽の鳥に過ぎない。

    行くな、と引き止めることも、新天地での成功を祈る言葉をかけることもできない。



    だが、俺は俺なりの方法で、最初で最後の感情を表現した。



    彼女の髪に軽く嘴を当てがった。
    優しく、本当に優しく、彼女の耳元に触れる長い黒髪に、俺の鋭い嘴の先をそっと添えた。

    これまで数々のカラスの目をブチ抜き、山田のバッグを引きちぎってきた、あの凶器のような嘴を、まるで壊れ物を扱うかのように繊細に動かして。


    それが、言葉を持たない俺の、精一杯の「さようなら」であり、「元気でな」という誓いだった。



    彼女は泣きながら笑った。



    「ふふ、くすぐったいよ、クロ……。ありがとう。本当に、大好きだよ」


    彼女は涙を拭い、最後に一度だけ俺の頭を強く撫でると、意を決したように立ち上がり、公園の出口へと歩き出した。

    一度も振り返ることはなかった。

    彼女の背中は、夕日の光の中に溶けていき、やがて完全に見えなくなった。



    彼女が去った後、俺はしばらく公園を避けた。



    あの使い古された木製のベンチを見るだけで、胸の奥が締め付けられるような不快な感覚に襲われたからだ。


    妙に胸がざわつき、彼女の不在が俺を苛立たせた。


    「チッ、くだらねえ。ただの人間が一羽いなくなっただけだろ。俺は一匹で生きる『黒の狂犬』だ。元の気楽な悪党に戻っただけさ」


    そう自分に言い聞かせながら、俺は再び荒々しく横浜の街を飛び回り、ゴミを散乱させ、人間を脅かした。

    だが、どれだけ大騒ぎを起こしても、どれだけ怒鳴り声を聞いても、かつてのような全能感は戻って来なかった。

    俺の心には、美咲という存在が抜けたあとの、ぽっかりとした黒い穴が空いたままだった。




        【西の森の境界、最悪な出会い】


    そんなある夕方、西の森の境目で一匹の雌カラスと出会った。


    美咲が去ってから数週間が経ち、春も終わりに近づいた頃だった。

    俺は孤独感を紛らわせるように、普段はあまり近づかない西の森の境界線――あのガンテツを叩きのめして以来、誰も俺に近づこうとしないエリアをパトロールしていた。



    彼女の名は風華。



    俺より三つほど若い、羽の艶がよく、目が鋭い雌だった。


    その姿を最初に見た時、並のカラスとは違うオーラを感じた。

    一般的な雌カラスのように怯えたり、雄の影に隠れたりするような殊勝さは微塵もない。

    尾羽をピンと立て、周囲の様子を鋭いキャッツアイのような目つきで見据えている。



    だが、最初は最悪の出会い方だった。



    その日、俺は港の市場の裏手から、誰もが見惚れるような極上の、油がたっぷり染み込んだ油揚げをせしめてきた。

    それを西の森の静かな枝の上で、ゆっくりと味わおうと腰を下ろした、まさにその瞬間だった。



    バサササッ!!!



    上空から、凄まじい速度で黒い影が突っ込んできた。

    俺は本能的に身をかわしたが、その影は俺の目の前、わずか数センチのところにピシャリと着地した。


    風華だった。



    彼女は着地するなり、俺が咥えていた油揚げを鋭い目で睨みつけ、信じられない言葉を吐き出した。



    「そのエサ、さっき私が狙ってたんだけど? 年寄りが横取りすんじゃねえよ!」



    俺は一瞬、耳を疑った。


    この横浜の街で、あの「黒の狂犬」と呼ばれ、悪魔と恐れられるこの俺に向かって、真っ向から「年寄り」「横取り」などと言い放った命知らずは、ここ数年一人(一羽)もいなかった。



    俺は嘴を歪めて笑った。


    胸の奥から、美咲の不在で澱んでいた血が、一気に沸き立つような激しい怒りと高揚感が湧き上がってきた。



    「はあ? 先に見つけたもんが勝ちだろ。てめえみたいな生意気な雌が、俺に口答えかよ」



    俺は巨体を膨らませ、羽を大きく広げて威嚇した。

    並のカラスなら、この一瞥だけで恐怖に震えて失禁するはずだ。

    だが、この雌は違った。

    一歩も引くどころか、逆に胸を張って俺を睨み返してきたのだ。



    「生意気なのはそっちだろ! この界隈で一番荒っぽいって評判の黒い悪党が、ただの強盗じゃねえか」



    「なんだと、てめえ……!」



    俺たちはその場で激しく口喧嘩をした。

    互いに飛び回り、威嚇の鳴き声を浴びせ合い、時々嘴を突き出して牽制した。


    「カーッ! カーッ!」と、森の木々が震えるほどの声量で互いの非を鳴き鳴らし、空中でもつれ合うようにして互いの翼を叩きつけ合う。

    彼女の動きは驚くほど俊敏で、若いながらも数々の修羅場を潜り抜けてきたような、独特の力強さがあった。



    だが、不思議と苛立つより面白く感じていた。



    いつも俺の前に現れるカラスどもは、恐怖に怯えるか、集団でしか向かってこない雑魚ばかりだった。

    だが、この風華という雌は、たった一羽で、この俺の凶気に向かって真っ向から牙を剥いてくる。

    彼女の勝ち気な性格が、若い頃の俺に似ていたからだ。


    誰にも頼らず、自分の力だけで美味いものを奪い、自由に生きる。

    その瞳の奥にある揺るぎないプライドの光が、かつて殻を破って灰色の空を睨みつけた、俺自身の魂と完全に共鳴していた。


    結局、その日の油揚げは喧嘩の拍子に下へ落ち、野良猫にかっさらわれてしまった。


    俺たちは互いに「てめえのせいだ!」「そっちこそ!」と罵り合いながら、逆の方向へと飛び去った。

    最悪の出会い。

    だが、俺の胸のざわつきは、美咲を失ったあの寂しさとは違う、生き物としての本能的な熱い衝動へと変わっていた。




        【工事現場の死闘と、鮮やかな共闘】


    あの最悪の油揚げ事件以来、風華とは妙に顔を合わせる機会が増えた。


    横浜の街は広いようでいて、本当に美味いエサ場や面白い悪巧みができるスポットは限られている。

    お互いに一匹狼で、かつ最高に質の良い残飯やスリルを求めて動いているから、行動範囲が嫌でも重なってしまうのだ。


    ある日、俺は港の近くにある高層ビルの巨大な工事現場に忍び込んでいた。


    昼時、ガテン系の人間たちが作業の手を止め、プレハブの休憩所の周りで弁当を広げていた。

    人間たちが食べ残し、無造作にプラスチックのゴミ箱へ放り込んだ、まだ湯気が立っているトンカツの切れ端や、タレのたっぷりついた唐揚げ。

    俺にとっては格好の狩場だった。


    人間たちの隙を突いてゴミ箱の底から上等な残飯を漁っていると、にわかに周囲の空気が張り詰めた。


    カラスたちの危険を知らせる警戒鳴きが、遠くの電線から微かに聞こえる。

    だが、俺は自分の腕に自信があった。

    人間ごとき、今更怖くもない。

    そう高を括っていたのが、一瞬の隙を生んだ。


    上空から俺を狙っていたのは、人間ではなかった。


    この界隈の空を回遊する、カラスよりも二回りも巨大な、野生の獰猛な大鳶(トビ)だった。



    ギィィィィン――!



    空気を鋭く引き裂く羽音がした瞬間、鳶の強靭な、剃刀のような爪が俺の背中に迫った。


    「しまっ――」


    完全に死角からの奇襲だった。

    避ける間もない。

    背中の羽毛が毟られ、鋭い痛みが走る。

    大鳶の圧倒的な質量に押し潰され、俺はアスファルトの上に叩きつけられた。

    奴は巨大な翼を広げて俺を組み伏せ、その鋭い嘴で俺の目を抉り取ろうと、容赦なく首を振り下ろしてきた。



    死を覚悟したその瞬間、横の鉄骨の陰から、一筋の黒い弾丸が物凄い速度で突っ込んできた。



    風華だった。



    「邪魔すんなよ、このデカブツ!」



    風華は持ち前のスピードを最大限に活かし、大鳶の顔面目がけて真横から猛烈なキックを叩き込んだ。


    「ギャッ!?」


    不意を突かれた大鳶が、怯んで僅かに体勢を崩す。

    その隙に、風華はさらに激しく羽ばたき、奴の剥き出しの目を鋭い嘴で激しく突いた。


    巨体を誇る大鳶も、顔面への連続攻撃には耐えかねて、俺を拘束していた爪を緩め、大きくのけ反った。



    「てめえ……よくもやってくれたな!」



    自由になった俺の身体に、一瞬で爆発的な戦闘エネルギーが戻ってきた。

    俺もすぐに反撃に加わり、二人で鳶を追い払った。



    俺は地面を強く蹴って飛び上がると、大鳶の背後へと回り込み、奴の大きな尾羽の根元を爪で激しく引き裂いた。

    風華が正面から翻弄し、俺が背後から致命傷を与える。

    事前の打ち合わせなど一切ない、だが完璧に噛み合った電撃的なコンビネーション。


    さすがの大鳶も、横浜を統べる「黒の狂犬」と、それに勝るとも劣らない狂気を持つ風華の二羽を同時に相手にするのは不可能だと悟ったのだろう。

    奴は屈辱的な悲鳴を上げると、大きな翼をバタつかせ、命からがら港の海の向こうへと逃げ去っていった。



    大鳶の血と羽毛が舞い散る中、俺は鉄骨の上に降り立ち、荒い息を吐きながら、少し不機嫌そうに言った。



    「……助けなんかいらねえよ」



    俺のプライドが、雌に助けられたという事実を素直に受け入れるのを邪魔していた。


    だが、風華はそんな俺のくだらないプライドなど、どこ吹く風といった様子で、翼を震わせて笑った。



    「バカ。恩なんて求めてねえよ。ただ、面白そうだったからだ」



    彼女はそう言い放つと、俺の目の前に落ちていたトンカツの切れ端を器用に咥え、悪戯っぽく片目をウインクしてみせた。

    その凛とした、どこまでも自由で恐れを知らない姿を見た時、俺の胸の奥の頑なな氷が、完全に砕け散る音がした。この雌は、本物だ。




        【深まる絆と、奇妙な共感】


    その出来事以来、俺たちは時々一緒に獲物を探すようになった。

    最初はお互いに素直になれず、顔を合わせれば口喧嘩ばかりだった。



    「その獲物は俺が先に目をつけてた!」


    駅前のハンバーガーショップの裏手で、俺がポテトの袋を引っ張り出すと、風華がすかさず上から割り込んでくる。



    「遅いんだよ、鈍くせえじじい」


    彼女はフンと鼻を鳴らし、俺の嘴からポテトを半分掠め取っていく。



    「てめえ、言ってくれるじゃねえか」


    俺は声を荒げるが、その実、心の底からは全く怒っていなかった。

    むしろ、この小気味よいやり取りが、たまらなく心地よかった。



    しかし、喧嘩の合間に自然と助け合う場面が増えていった。



    俺が人間の工事現場や露店で派手に暴れすぎて、怒り狂った人間に網やホウキを持たれて追いかけられた時は、風華が絶妙なタイミングで上空をけたたましく鳴きながら飛び回り、人間の注意を引く囮になってくれた。

    逆に、風華が繁華街の裏路地で美味い魚の骨を漁っている最中、物音を立てずに背後から忍び寄ってきた野良猫に狙われた時は、俺が電線から弾丸のように急降下し、その猫の目を鋭い嘴で突いて撃退し、彼女を逃がした。



    それから俺たちは奇妙に惹かれ合った。



    一人で生きることがカラスの絶対の流儀だと信じていた俺の価値観が、彼女と過ごす時間の中で、心地よく書き換えられていった。


    風華は俺のこれまでの悪行――コンビニのゴミ袋を破いた話や、結婚式で新郎の頭を襲撃した話、そして山田への壮絶な復讐劇の話を、目を輝かせながら楽しそうに笑って聞いてくれた。



    「あんた、最高にロックだわ」



    俺は彼女に人間の残飯の美味さ、どこのコンビニの何時頃のゴミが最も油が乗っていて美味いかを教え、彼女は俺に、まだ俺が知らない、ビル風が当たらなくて夏でも涼しい安全な秘密の巣の候補地を教えてくれた。


    お互いの孤独な魂が、漆黒の羽を擦り合わせるようにして、少しずつ重なり合っていった。




        【プロポーズと、神社の新しい城】


    季節は移り変わり、初夏の気配が横浜の街を包み込む頃、俺の胸の中には、ある明確な決意が固まっていた。


    一羽で生きる流儀よりも、この雌とずっと同じ空を飛び続けたい。

    その想いが、俺の誇り高い血を突き動かした。



    ある夜、満月の光が横浜の港を青白く照らし、西の森の木々を静かに浮かび上がらせていた。


    俺は風華を、かつて自分が生まれたあの古い神社の楠の、少し離れた静かな枝へと誘った。

    心地よい夜風が、二羽の黒い羽を優しく揺らす。



    俺は風華に向き合い、少し喉を整えてから、真っ直ぐに彼女の目を見つめて言った。



    「……俺と巣を作らねえか?」



    人生で初めて口にする、一世一代の言葉だった。


    風華は少し驚いた顔をして、丸い目をパチパチとさせた。

    いつもならすぐに生意気な口を利く彼女が、数秒間、絶句していた。

    だが、すぐに彼女の唇が、いつものあのニヤリとした勝ち気な形へと歪んだ。



    「いいわよ。でも、子供ができてもお前は悪さやめねえんでしょ?」



    彼女は俺の性格を、誰よりも理解していた。

    俺が「黒の狂犬」であり、人間を困らせる悪巧みが生き甲斐のロクデナシだということを。



    俺は嘴を釣り上げて笑った。



    「ああ、俺は俺のままだ」



    その言葉を聞くと、風華は満足そうに俺の翼に自分の翼をそっと重ね合わせた。



    「なら決まりね。最高の悪党の妻になってあげるわ」



    俺たちは神社裏の少し高い枝に共同の巣を作った。



    そこは、俺が生まれたあの古い巣よりもさらに高く、見晴らしが良く、横浜の街と空が一望できる特等席だった。

    俺たちは二人で、街中から頑丈な小枝や、人間の衣服のハンガー、柔らかいビニールの紐などを集め、何日もかけて頑丈な共同の城を組み上げていった。


    風華は「あなたが悪さを続けてもいいけど、巣だけはちゃんと守りな」と条件を出した。


    家を空けて悪巧みをするのは大いに結構だが、私たちの帰る場所、そしてこれから生まれるであろう大切な場所だけは、命を懸けて死守しなさい、という彼女なりの強いメッセージだった。



    俺は笑って了承した。



    「当たり前だ。俺の城と、俺の女を脅かす奴がいたら、神様だろうが人間だろうがブチのめしてやるよ」



    こうして、かつて孤独を愛し、一匹で生きることを絶対の流儀としていた「黒の狂犬」は、風華という最高の伴侶を得て、新たな人生の章へと歩みを進めた。

    しかし、この平穏な新しい城に、かつて俺が植え付けた「過去の因縁」が、凶暴な牙を剥いて襲いかかってくることになる。




          【闇からの刺客】


    神社裏の少し高い枝に建てた俺と風華の共同の城は、新緑の季節を迎え、ますます心地よい隠れ家となっていた。


    俺は相変わらず昼間は街へ繰り出し、人間どもの日常を引っ掻き回しては極上の残飯をせしめていた。

    風華はそんな俺を「ほどほどにしなよ」と呆れ顔で送り出し、夕方になれば二羽で並んで横浜の夕日を眺める。

    そんな、かつての俺からは想像もつかないほど満ち足りた日々が続いていた。



    だが、野生の世界において、「黒の狂犬」としてあまりに多くの敵を作ってきたツケは、忘れた頃にやってくるものだ。



    ある日、事件が起きた。



    その日は、朝からどんよりとした雲が低く垂れ込め、かつて俺が生まれた日のような灰色に淀んだ空が広がっていた。

    俺は風華に美味い焼肉の残りでも食わせてやろうと、少し遠くの繁華街まで遠征していた。

    それが、奴らの計算通りの隙となったのだ。



    俺がいつものように人間のゴミ捨て場を荒らしている間に、三匹の若い雄カラスが風華を狙った。

    西の森の残党で、俺に恨みを持っている連中だった。



    かつて俺が叩きのめし、再起不能にした西の森の元ボス・ガンテツ。

    その血を引く、あるいは奴を慕っていた若い荒くれどもが、俺への復讐の機会をずっと窺っていたのだ。

    正面から俺に挑む度胸のない腰抜けどもは、俺が巣を留守にし、風華がたった一羽で留守番をしているタイミングを正確に狙い定めていた。



    奴らは風華が一人でいるのを見計らい、囲んだ。



    バサバサと不穏な羽音を立てて、神社裏の木々に降り立った三羽の影。

    どいつもこいつも、身体だけはデカいが、目の奥に下劣な野心がギラついている、薄汚れた若い雄どもだった。



    「おいおい、見ろよ。これが『黒の帝王』の女か。ずいぶんと上等な羽艶をしてやがるじゃねえか」


    中心にいた一際ガタイのいい雄が、下品な声を上げて風華を睨みつけた。



    「あのじじいに縄張りを奪われ、俺たちの仲間がどれだけ惨めな思いをしてきたか……。まずはその女から、痛い目にあわせてやるよ」



    風華は一人で勇敢に戦った。



    普通の雌なら、三羽の獰盛な雄に囲まれれば恐怖で動けなくなるか、命乞いをするところだろう。

    だが、俺が惚れた風華という雌の辞書に、「降伏」の二文字は存在しなかった。



    「はっ、相変わらず西の森の連中は、コソコソと群れることしかできない負け犬揃いね! 一羽じゃ何もできないナメクジどもが、この私に勝てると思ってんの!?」



    風華は鋭く鳴くと、自ら先制の突撃を敢行した。


    激しく飛び回り、嘴と爪を振り回し、一匹の翼を傷つけたが、相手が三匹では分が悪かった。


    数の暴力は凄まじかった。

    前後左右から容赦なく襲いかかる鋭い嘴。

    風華は必死に防戦し、一羽の顔面に深い一撃を見舞ったものの、背後から別の雄の爪が彼女の美しい背中を厳しく引き裂いた。



    さらに、強力な体当たりを受けて、風華は胸と翼に深い傷を負い、地面に落ちかけたところで俺が戻ってきた。




        【帝王の無双、激怒の咆哮】


    繁華街から戻り、神社の境内に足を踏み入れた瞬間、俺の耳に風華の悲痛な叫び声が飛び込んできた。

    視線を上げると、二羽の雄に翼を抑えられ、地面に叩きつけられそうになっている風華の姿が目に飛び込んできた。

    彼女の胸の美しい黒い羽は引き裂かれ、鮮血が飛び散っている。



    その光景を見た瞬間、俺の脳内のあらゆる回路が焼き切れた。



    頭の芯が真っ白になり、次いで、ドロドロとした純粋な殺意が全身の血を駆け巡った。

    かつて人間を玩具にして楽しんでいた時の冷徹な悪意などではない。

    俺の大切な城を、俺の唯一の女を傷つけられたことに対する、野生の、本能の、圧倒的な「激怒」だった。



    「てめえら……風華を傷つけやがって!」



    境内の楠が震えるほどの、地獄の底から響くような咆哮。

    俺は一切の制動を失った黒い弾丸となり、上空から奴らに向かって急降下した。



    俺は容赦なく襲いかかった。



    年を取っていたが、経験と狡猾さで圧倒した。



    若い奴らは、俺の老いた身体など恐るるに足りないと思っていたのだろう。

    だが、彼らは知らなかった。

    俺がこれまでどれほどの死闘を潜り抜け、どれほど残酷な方法で敵を屠ってきたかを。

    帝王の本当の恐ろしさは、力ではなく、戦いにおける絶対的な「凶気」にある。



    俺は空中でもつれ合うと同時に、一匹目の目を狙って深く突き、二匹目を木に激突させた。


    「ぎゃあああああっ!?」


    最初の一羽は、俺の音速の急降下による嘴の一撃を受け、片目を完全に潰されて絶叫しながら地面に転がった。

    すかさず体勢を立て直し、逃げようとした二匹目の首根っこを強靭な爪で掴むと、そのままの勢いで神社の頑丈な楠の幹へと全力で叩きつけた。
    鈍い音がして、二匹目は骨を折られて意識を失い、地面へポトリと落ちた。



    三匹目は、その圧倒的な、文字通りの怪物のような俺の強さを目の当たりにし、完全に戦意を喪失していた。

    ガタガタと全身の羽を震わせ、必死で逃げようとしたが、俺がそれを許すはずがなかった。



    俺は追いかけて背中を深く裂いた。


    背後から音もなく肉薄し、奴の背中の肉を、俺の鋭い爪で骨が見えるほどに深く、容赦なく抉り取ってやった。


    「カハッ……!」


    三匹はボロボロになって逃げていった。



    片目を失い、骨を折られ、背中をズタズタにされた三羽。

    彼らは、二度とこの界隈に現れないと誓うほどの惨めな姿だった。

    俺という存在が、彼らの魂に、死ぬまで消えない永遠の恐怖として刻み込まれた瞬間だった。




         【守りたいという自覚】


    敵を駆逐した俺は、すぐさま地面に横たわる風華の元へと舞い降りた。

    俺は傷ついた風華を抱えるように巣まで運んだ。


    彼女の身体は小さく震え、あちこちから血が滲んでいた。
    俺は自分の大きな翼で彼女の身体を優しく包み込み、細心の注意を払って、神社裏の安全な共同の巣へと引き上げていった。


    巣に横たわる風華は、いつもならすぐに生意気な口を利くくせに、今はただ荒い息を吐くだけだった。

    俺は胸が締め付けられるような、これまでに味わったことのない激しい痛みを覚えた。



    「馬鹿野郎……一人で戦うんじゃねえ」


    俺の声は、怒りと心配で微かに震えていた。



    風華は弱々しく笑った。


    「あんたが……来てくれて……よかった……」



    その夜、俺は風華の傷を一生懸命に舐め、温めた。



    彼女の傷口に溜まった血を丁寧に吸い取り、唾液で清めていく。

    夜の冷たい風が彼女の体温を奪わないよう、俺は一晩中、彼女の身体に自分の身体をぴったりと密着させ、翼を広げて彼女を守り続けた。



    彼女の体温を感じながら、初めて「守りたい」という強い感情を自覚した。



    かつての俺は、一匹で生き、一匹で死ぬのがカラスの美学だと思っていた。

    美咲との出会いによって、人間に寄り添う温もりは知ったが、それでもなお、自分自身の命が一番大切だった。

    だが、今、俺の腕の中で傷ついているこの風華という雌のためなら、俺は自分の命など、いつでもドブに捨てられる。

    この命に代えてでも、この誇り高き雌を、俺たちの城を死守する。

    その明確な「愛」の自覚が、俺の漆黒の魂に、本物の帝王としての覚悟を宿らせた。




        【卵の誕生と、新しい命の灯火】


    俺の必死の看病のおかげで、風華の頑丈な身体は、数日で見違えるように回復していった。

    背中や胸の傷はまだ完全には癒えていなかったが、彼女の目の奥にある、あの勝ち気な光は見事に戻っていた。


    「あんた、本当に看病が上手ね。悪党のくせに、手先が器用なんだから」


    風華はいつものようにニヤリと笑ってみせたが、その表情には、俺に対する深い信頼と愛着が満ちていた。



    それから数日後、風華は二つの卵を産んだ。



    巣の真ん中、柔らかいビニール紐や苔を敷き詰めた特等席に、美しく艶やかな、ほんのり青みがかった二つの小さな卵が並んだ。


    それを見た瞬間、俺の胸の中に、これまでにない激しい衝撃と、言葉にできないほどの感動が沸き起こった。


    この小さな殻の中に、俺と風華の血を引いた、新しい命が息づいている。



    俺たちは一心不乱に巣を守った。



    雨の日も、風の強い日も、交代でエサを採り、卵を温めた。

    横浜の空がどれだけ荒れ模様になろうとも、俺たちの城だけは、世界で最も安全な場所でなければならなかった。

    風華が卵を温めている間は、俺が街中を飛び回って最高のエサを調達し、俺が卵を温める番の時は、風華が少し羽を休める。

    二羽の呼吸は、驚くほど完璧に噛み合っていた。



    近づくカラスや鳩、時には人間の子供が木を揺らすと、俺は激しく威嚇して追い払った。



    「近づくんじゃねえ! この巣に指一本触れさせねえぞ!」


    俺は電線の上から、あるいは木々の隙間から、巣に近づこうとするあらゆる存在に対して、かつてないほどの凶暴さで襲いかかった。

    ただの鳩だろうが、無邪気に木に登ろうとする人間の子供だろうが、俺にとってはすべて「我が子を脅かす敵」だった。

    俺の凄まじい威嚇に、周囲の生き物どもは、二度とこの楠に近づこうとはしなかった。



    風華も傷が癒えぬうちから必死だった。


    「私たちの子だもの……絶対に守る」


    彼女は傷む身体を堪えながら、卵の上にしっかりと身を伏せ、母親としての強い眼光で周囲を警戒し続けた。



    そして、ついに「その時」が訪れた。



    五月の爽やかな風が吹くある朝、巣の中から、ピキッ……という、微かな、だが明確なプラスチックのような殻が割れる音が響いた。


    俺と風華が固唾をのんで見守る中、卵の表面に小さなひびが入り、中から濡れた、本当に小さな漆黒の嘴が覗いた。



    卵が孵化した日、俺は生まれて初めて「愛」というものを感じたのかもしれない。


    小さな二匹の雛を見て、胸が熱くなった。



    それは、これまでの人生で味わったどんな勝利よりも、どんな美味いエサよりも、圧倒的に俺の心を震わせる光景だった。

    生まれ落ちた瞬間から世界をクソだと呪っていたこの俺が、今、目の前にある新しい命の誕生を、涙が出るほどに愛おしいと感じている。



    俺は名前をつけた。
    一番大きな雄を「黒鉄」、雌を「夜華」と。



    俺の血を色濃く継いだ、やんちゃでガタイのいい兄と、風華の美しさと賢さを継いだ、聡明な妹。

    この二羽の小さな雛たちのために、俺の新しい「親バカ」としての、そして本当の「帝王」としての戦いが、ここから始まることになる。




        『徹底した「美味いもん」主義と、親バカな夜』


    子供たちが生まれてから、俺の毎日は一変した。


    かつて俺自身が雛だった頃、母さんが運んできたあの泥臭くて最悪な青虫を、反吐を吐きながら食った記憶が脳裏に焼き付いていたからだ。



    (俺の子供たちに、あんなクソ不味いもんを食わせるわけにいかねえ)



    俺は心に決めていた。

    エサは母カラスが持ってきた虫を嫌々ながら食べる――そんな惨めな思いは、黒鉄と夜華には絶対にさせない。


    カラスの常識なんて知るか。


    俺は朝から晩まで街中を飛び回り、徹底的に「人間の美味い残飯だけ」を巣へと運び続けた。



    駅前の居酒屋の裏手からせしめてきた、まだ温かい焼き鳥の皮。

    コンビニのゴミ箱の奥から引っ張り出した、油の乗ったメンチカツ。

    時には、かつて美咲がくれたあの味を再現するべく、焼肉屋のダクトの近くで張り込み、客が食べ残した上等なカルビの肉片を掠め取ってきた。



    「ほら、食え。これが本物のエサだ」



    「父ちゃん、これうめえ!」



    「当たり前だ。俺が選んだエサだ」


    俺が巣にエサを落とすと、黒鉄と夜華は狂ったように喜び、小さな口を大きく開けて競い合うように肉を飲み込んだ。


    その美味さに目を輝かせる我が子たちの姿を見るだけで、日中の人間のホウキや網の攻撃による疲れなど、一瞬で吹き飛んでいった。



    夜、満月の光が静かに巣を照らす頃、風華はよく俺をからかった。



    「カラスの雛ってのはね、普通は虫やミミズを食べて育つもんなのよ。それを毎日毎日、人間の上等なお肉ばかり運んできて……。この子たちが将来、生意気なグルメに育ったらあんたのせいだからね」


    風華は呆れたように羽をすくめてみせたが、その目はとても優しかった。



    俺は風華の横に腰掛け、誇らしげに胸を張って答えた。



    「フン、俺の子供だぞ。美味いもんを食って、誰よりもデカく、賢く育つのが当たり前だ。カラスの常識なんて、俺が全部ぶち壊してやるよ」



    風華はクスクスと笑い、俺の大きな翼に自分の頭をそっと預けた。


    「いいわよ、でもね、甘やかすだけじゃ野生じゃ生き残れない。明日からは、ちゃんと『飛び方』を教えなさいよ」



    黒鉄は俺に似て荒っぽく、夜華は風華に似て賢かった。


    俺は子供たちに人間の言葉を教え、悪巧みの基本を叩き込んだ。



    「人間は脆いんだ。少し脅せばすぐ隙を見せる。だが、甘いエサで釣るのも有効だ」



    風華はそんな俺を見て笑っていた。



    「お前、昔は一匹で好き勝手してたのに、今じゃ立派な親バカだね」



    「うるせえ。愛なんてクソだと思ってたが……悪くねえ」



    子育ては楽しかった。



    夜になると、俺は雛たちを羽で包み込みながら風華と語り合った。



    「お前と出会わなければ、こんな気持ちは知らなかった」



    「私もよ。」



    俺が親になって変わる――その実感は、毎夜彼女と交わす温かい会話の中で、より確固たるものになっていった。




       【初めての飛行訓練と、二羽の才能】


    子供たちが生まれて一ヶ月が経ち、産毛がすっかり漆黒の美しい風切羽へと生え変わった頃、ついに「初めて飛ぶ練習」の日がやってきた。



    神社の境内にある楠の、最も高くて安全な枝。

    そこが、彼らの最初の滑走路だった。

    俺と風華は少し離れた枝から、二羽の様子をハラハラしながら見守っていた。

    普段はどんな修羅場でも冷静沈着なこの俺が、我が子が枝の端に立つ姿を見るだけで、心臓が口から飛び出しそうなほどバクバクと高鳴っていた。


    チッ、本当に調子が狂うぜ。


    ここでも、二羽の個性が露骨に現れた。


    黒鉄のヤンチャさは、周囲のカラスたちを驚かせるほどだった。


    黒鉄は、恐怖という感情を母親の腹の中に忘れてきたのではないかと思うほど、恐れを知らない奴だった。


    「行くぜえええ!」とでも言うように、俺が指示を出すよりも前に、短い翼を激しくバタつかせて枝からダイブしたのだ。



    案の定、最初はうまく風を掴めず、ラグビーボールのように無様に回転しながら地面へと急降下していった。


    「黒鉄!?」


    風華が悲鳴を上げる。

    俺は本能的に飛び出し、奴が地面に叩きつけられる直前で背中で受け止めようとした。

    だが、黒鉄は地面すれすれの茂みに突っ込みながらも、ケロリとした顔で起き上がり、「カァー!」と元気よく鳴いた。

    そして、またすぐに木を駆け登り、何度も何度も無鉄砲に飛び降りる練習を繰り返した。

    その怪我を恐れない無茶苦茶な突撃精神は、若い頃の俺そのものだった。



    対照的だったのが、夜華の賢さだ。



    夜華は、黒鉄のように無謀に飛び出すことはしなかった。

    彼女は枝の端にじっと佇み、まずは風の吹き抜ける向き、強さ、そして兄である黒鉄が失敗した原因を、その聡明な丸い目でじっと観察していた。



    そして、完璧なタイミングを見計らうと、夜華は優雅に翼を広げた。


    バサリ。


    一度、二度と力強く羽ばたくだけで、彼女はまるでベテランのカラスのように自然にビル風の気流を掴み、神社の境内の上空を美しい放物線を描いて滑空してみせた。

    一度も地面に落ちることなく、俺が止まっている枝のすぐ隣へと、音もなく完璧に着地してみせたのだ。



    「どう? 父ちゃん」とでも言うように、夜華は誇らしげに首を傾げてみせた。


    「……やるじゃねえか」


    俺は驚きを隠せぬまま、最高に嬉しくなって、夜華の頭を優しく嘴で撫でてやり、俺の背中に止まって「父ちゃん、好き」と言った時は、思わず目を逸らした。


    風華の賢さと、俺の頭脳を完璧に受け継いだ、最高の娘だった。




        【帝王の心境変化と、後ろ姿】


    そんな二羽の成長を見守る中で、クロが親になって変わるのを、自分自身でもはっきりと自覚していた。



    かつての俺は、この世界を「敵か、玩具か」の二種類でしか見ていなかった。

    人間を絶望させ、カラスのライバルどもを叩きのめし、己の欲望とプライドを満たすためだけに生きてきた。

    悪巧みが得意で、暴力的で、誰の言うことも聞かない一匹狼。



    だが、今の俺の胸にあるのは、そんなちっぽけな優越感ではなかった。



    黒鉄が飛ぶ練習で泥だらけになって戻ってきた時、その羽の汚れを丁寧に嘴で整えてやる時。


    夜華が初めて自分で小さな虫を見つけ、誇らしげに俺に見せてきた時、自分のことのように胸を張って褒めてやる時。


    俺の心を満たしていたのは、かつて美咲と出会った時に感じたあの「ムズムズするような温もり」が、何百倍にも膨れ上がったような、圧倒的な「慈愛」の感情だった。



    (俺は、この子たちのために生きているんだ)



    自分が傷つくことは怖くないが、この子たちの未来に少しでも傷がつくことは絶対に許さない。

    そのためなら、俺はこれまで以上に残酷な悪魔にもなれるし、世界で最も優しい父親にもなれる。

    親になるということは、己の弱さを知ると同時に、無限の強さを手に入れるということなのだと、俺は我が子の温かい身体を抱きしめるたびに深く痛感していた。



    やがて、季節は巡り、秋の涼しい風が横浜の空を吹き抜ける頃――。



    黒鉄と夜華は、俺と風華の手を借りずとも、横浜のビル群の間を自由自在に、誰よりも高く、力強く飛び回るようになっていた。

    二羽とも、この界隈のどのカラスよりも立派な体躯と、鋭い知性を備えた、完璧な成鳥へと育っていた。



    そして、ある朝。



    二羽は、俺と風華に向かって一度だけ、これまでにないほど力強く、感謝を込めるように「カーオ!」と鳴いた。

    それは、彼らの「巣立ち」の合図だった。

    彼らはもう、親の庇護を必要としない。

    自分たちの力で縄張りを勝ち取り、自分たちの流儀でこのクソみたいな、だが愛おしい世界を支配していくのだ。



    俺と風華は、並んで枝に止まり、二羽が青空の向こうへと飛び去っていく後ろ姿をじっと見つめていた。



    黒鉄は相変わらずヤンチャに風を切り裂き、夜華はその少し上を、賢く気流を読んで優雅に追従していく。

    二羽の黒い影は、ぐんぐんと高度を上げ、やがて横浜の街並みの向こう、眩しい太陽の光の中に溶けて見えなくなった。


    「行っちゃったね」


    風華が寂しげに、だがどこか誇らしげに呟いた。


    俺は嘴をニヤリと釣り上げ、彼女の翼に自分の翼を重ね合わせた。


    「ああ。だが心配いらねえよ。あいつらは俺たちの子供だ。どこへ行ったって、あの空を一番派手に支配してみせるさ」


    俺は最後に二人に向かって言った。


    「好きに生きろ。俺みたいに、誰にも縛られず、悪く、強く、自由に」


    子供たちの後ろ姿を見送りながら、俺の胸に去来したのは、寂しさではなく、確固たる満足感だった。


    俺がこの世界に生きた証、俺と風華の魂は、確かにあの若い二羽の翼へと受け継がれたのだ。


    だが、俺たちの物語は、まだ終わらない。

    俺という「黒の帝王」の人生の最終章が、すぐそこまで迫っていた。




       【忍び寄る「老い」と、変わらぬプライド】


    子供たちが立派に巣立ち、それぞれの空へと旅立ってから、さらに数年の歳月が流れた。


    横浜の街並みは絶え間なく変化し、行き交う人間たちの流行も目まぐるしく変わっていった。

    だが、俺が暮らす神社の楠だけは、いつも変わらない静寂を保っていた。



    そんなある朝、俺はいつものように目を覚まし、羽を広げようとした瞬間、翼の付け根に走った鈍い痛みに、思わず小さく顔を顰めた。



    俺は老いた。それは紛れもない事実だった。


    漆黒を誇り、太陽の光を浴びて青真珠のように輝いていた俺の羽毛は、いつの間にか所々に白いものが混ざり、艶を失い始めていた。

    かつて大鳶を空中戦で叩きのめし、山田のバッグを引きちぎったあの強靭な爪の力は弱まり、鋭かった嘴の先も、心なしか丸みを帯びている。



    だが、俺の「知性とプライド」だけは、1ミリたりとも衰えていなかった。



    肉体が衰えたから何だというのだ。


    俺の脳内には、生まれてからこの街で培ってきた、無数の悪巧みと戦術のデータが詰まっている。


    若いカラスどもが俺の獲物を横取りしようと近づいてきても、俺は戦うまでもなく、彼らを一瞥した。


    ただ静かに、深く、かつて数々の群れのボスを血祭りにあげてきたあの「黒の狂犬」としての凄まじい殺気を、目の奥に宿らせて睨みつけるだけで、若造どもは恐怖に目を見開いて一目散に逃げ去っていった。

    力は衰えても、俺は横浜の空を統べる唯一無二の帝王だ。


    そのプライドがある限り、俺が誰かに屈することなど絶対にない。




        【東京の空、最後の再会】


    そんなある春の日、俺の胸の中に、突発的で、だがどうしても抗えない強い衝動が沸き起こった。


    (……あいつは、元気にやってるだろうか)


    美咲のことだった。


    横浜を離れ、東京へ行ってからもう何年も経つ。

    俺は老いた身体に鞭を打ち、横浜から東京への長距離飛行という、文字通りの命懸けの旅に出た。

    多摩川を越える頃には、翼の筋肉が焼け付くように熱くなり、呼吸が激しく乱れたが、俺は記憶の中にある彼女の匂いと手がかりを頼りに、大都会・東京のジャングルへと深く分け入っていった。


    正式なデザイン会社が集まるビル街を巡り、あるお洒落なオフィスビルの窓辺に、俺は静かに降り立った。


    ガラス窓の向こう、たくさんの人間たちがパソコンに向かって忙しなく働いている。

    その中に、俺の鋭い目は、一人の洗練された大人の女性の姿を正確に捉えた。



    美咲だった。



    彼女は、見違えるほど立派になっていた。


    かつて公園のベンチで、死にそうな顔をしてパン屑を撒いていたあの弱々しい雌の面影は、どこにもなかった。

    シックなスーツを身に纏い、部下らしき人間にテキパキと指示を出しながら、自信に満ちた美しい笑顔で大きなデスクに向かっている。



    (……しっかりやってるみたいじゃねえか、バカ女)



    俺は窓の外から、彼女のその輝かしい姿をじっと見つめていた。

    彼女が幸せなら、それでいい。

    俺が命を懸けて奪い返したあの500万円と、彼女に授けた「生きる勇気」は、東京という大都会の真ん中で、これ以上ないほど美しい大輪の花を咲かせていた。


    その時、美咲がふと窓の外へと視線を向けた。

    俺と美咲の目が、数年という歳月とガラス窓を挟んで、真っ直ぐに交錯した。

    美咲はハッと目を見開いた。


    「……クロ……? まさか、クロなの……!?」彼女は椅子を蹴立てて窓辺へと駆け寄ってきた。



    だが、俺は彼女が窓を開ける前に、あえて静かに翼を広げ、その場から飛び立った。


    もう、言葉も触れ合いもいらない。

    お互いに自分の生きるべき場所で、最高に誇り高く生きている。

    その姿を一度確認できただけで、俺の東京への命懸けの旅路は、100%以上の意味を持っていた。

    背後から、「クロ、ありがとう!」という、彼女の泣き笑いの混ざった温かい叫び声が、東京のビル風に乗って俺の耳に届いた。




        【最高の悪党、最高の最期】


    横浜へ戻ってきた俺の身体は、完全に限界を迎えていた。


    視界がかすみ、翼は鉛のように重い。


    だが、俺のプライドは、どこかの路地裏で野良猫に突っつかれて惨めに死ぬことなど絶対に許さなかった。


    俺と風華が一緒に向かったのは、すべての物語が始まり、そしてあの山田への復讐の際に一万円札を放り込んだ、あの古い神社の境内だった。



    「風華……お前と出会えて良かった」



    風華は俺の羽に嘴を寄せた。



    「私もよ。悪党のくせに、いい親だったわ」



    俺は微笑んだ。

    最後に一つ、派手な悪戯をしたくなった。


    俺は弱った体で飛び立ち、神社の賽銭箱の上に止まった。


    参拝客が驚く中、俺は精一杯の大声で鳴いた。



    「がぁぁぁっ!!」



    人間どもが騒ぐ。


    「うわっ、なんだこのカラス!?」「でけえ、襲ってくるぞ!」と、人間どもが慌てふためき、蜘蛛の子を散らすように距離を取る。

    その無様な大騒ぎを特等席で見下ろしながら、



    俺は満足した。



    体がふわりと軽くなった。


    風が俺を抱き上げた。


    (……まあ、悪くなかった一生だったぜ。愛も、悪も、全部味わった)




    俺はゆっくりと目を閉じた。




    地面に落ちる瞬間、俺は自由だった。



    春の風が、黒い羽根を静かにさらっていった。



    これが、黒の帝王――俺の物語だ。


    完



    #創作大賞2026
    #ファンタジー小説部門

     
     
    昼は建築職人。 夜は、人間の感情を書いています。 恋愛、嫉妬、後悔、執着、 そして少しの救い。 暗い夜に読む物語が、 誰かの心に残れば嬉しいです。

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