人を見送るということ
私を世間一般的な「人」として生きていけるよう
戻してくれたのは
父の命をかけた愛情だった。
①父。
身近な人が亡くなった時
残された人の
その後の人生に大きな影響を与える。
介護と見送り
家族の死をきっかけに
人生が変わった私のハナシ。
14年前に父を
1年前に祖母を見送った。
父は65歳
祖母は99歳
それぞれ5年、20年近い介護を経験した。
介護は大変だったけど
役所や施設、制度をフル活用させて頂き
知恵もつき、色々助けて頂けた。
うちの介護要因は
母と妹、そして私。
たまに母の妹の叔母さんと
母の弟の叔父さん(は戦力外)
女ばかりでみんながそこそこ前向き。
悩んだり怒ったりしながらも楽しく介護をしていたと思う。
父が亡くなったとき
自分は大丈夫。
うちは大丈夫。
自分の中で根拠なき自信があったと実感した。
自分の家族は死なない。みたいな変な感覚。
そんなことはないのに。
直面したとき
ああ、そりゃそうだよなあ。
人は死ぬよなあ。。。
そんな風に実感して妙にショックを受けた。
そこから15年ほどは祖母。
小さい頃から面倒を見てくれたしっかりばあちゃん。
痴呆で色々なことが分からなくなり
本人もパニックになってしまったり。
色々なことがあったけど
旅行とか食事とか
楽しいことをするときはおばあちゃんと一緒に出かける。
穏やかな痴呆のおばあちゃんは
色々な人にも親切にしてもらえて。
最終オムツや車椅子
移動に介護用よ車を借りたり
大変だったけど、たぶん、楽な介護の部類。
この先いつまで介護が続くか分からないけど
10年も30年も続く訳ではない。
そう思って楽しく介護することを心がけた。
それは父の見送りの時感じた後悔も影響していたのだと思う。
そして見送り。
父の見送りの際は
ただただ心細く
イヤだ。イヤだ。
そう思った。
多発性脳梗塞を発症しその都度入院治療。
少しずつ身体は不自由になってはいたものの
元気に退院。を繰り返しつつ
10年近くそこそこ元気に過ごせていた。
その頃90歳間近の祖母の方が先だと
きにしていたのは祖母のこと。
父はまだ大丈夫。
そう思っていたところに突然の心筋梗塞。
仕事が終わり帰宅すると
目の前で父が倒れていた。
動けなくなっていたけど
さっきまで話せていた。
返答もあった。
なのに。
救急隊が到着してしばらくした時。
目の前で父の意識がなくなった。
世界が変わった。
そこから1年
毎日
いつ逝ってしまうか分からない恐怖がつきまとう日々。
病院からの着信に
家族みんなが跳び上がって震えた。
重症患者の面会時間は限られたもので
毎日通って
反応のない父に時間いっぱい話しかけた。
毎日何かというと泣いていた。
寂しくて心細くて。
医師には毎日
言い聞かせるように
治ることも良くなることもありません。
意識がもどることもありません。
悪魔のように感じた説明。
認めるには事が大きすぎた。
どこかで
回復を信じていた。
大雪が降った翌日。
雪で交通が麻痺していて面会に行けず
苦労して向かった母は
病院のインフルエンザ流行のため
病院の受付で帰された。
家族の誰も会えなかった初めての日。
父は1人旅立った。
諦めとも似た哀しみは静かに襲ってくるものだった。
連絡を受けて
ああ…。
と、病院までの道のりは急ぐこともなく妙に落ちついていた。
悲しくて寂しくて
心細くて。
現実に向き合いたくなくて
イヤイヤ期の子供のように
これは夢だ。
なんて言い聞かせるように精神を保っていた。
家の中が妙に寂しく。
大黒柱とはよく言ったもので
家族の中たった1人
父という男の人がいなくなった我が家は細い柱しかないようで
細くてスカスカな感じ。
グラグラしちゃうみたいな心細いものだった。
そこから。
精神を病んで長く
世間一般のいい歳の人がするような
社会や世間との関わりをしてこなかった私は
人生の奇跡の巻き返しを果たす。
父の介護にはお金の問題も複雑な手続きにも翻弄された。
母だけでは手が回らず
当たり前に私もやることになった。
知らず知らず
その経験は
私の通常の精神と社会の関わりができる訓練になっていた。
お葬式が終わって
遺骨が自宅に帰ってくると。
不思議と
家のか細さの感覚がなくなり
安心できたのを
ハッキリと覚えている。
ああ、お父さんが帰ってきたんだ…
家のピースがカチっとハマった感覚。
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