しょうもない感情コレクション
朝食を涙とともに咀嚼する。涙は両眼のふちから体外に出てすぐ口から体内へと戻る。口の中にはチーズ・オン・トースト。やるせなさに任せてゴーダチーズを乱暴に切り刻み、そのわりに几帳面に並べ、カロリー1/2のマヨネーズを適量の2倍以上絞し出して焼いたもの。フィッシュグリルで、パンの四隅が炭になるまで。
目の前のテーブルは1メートル四方の大きさで、4人家族で囲むにはあまりにも小さい。昔、兄と暮らしていた頃に親のカードで買ったイギリスのアンティーク。結婚しても、子が生まれても、その子らが大きくなっても、肩寄せ合って食卓として使い続けている。熱いものを置くべきではないのに熱いものを置き、油分を補うといった必要なケアを怠った結果、食器の跡がつき、ツヤは消え、色褪せ、ところどころ木目に沿って亀裂が入っている。その割れ目を辿っていった先、左斜め前に、さっきまで息子が座っていた椅子がある。
と、ここまで書いて2カ月が経った。今思えばPMS(月経前症候群)か何かだったのだと思う。あの朝、私は絶望の淵にあった。
大したことがあったわけではない。肉体改造を目指して深夜のジムに通い、鶏のムネ肉とアスパラガスしか口にしない高校生の息子に、ベジタリアンの夫が苦言を呈したのだ。オートミールにアーモンドとアプリコットを加えて豆乳で煮たものを口に運びながら、“俺が正しい”という顔で。そしていつもどおり、頭に血がのぼった息子が外国人の夫に「国へ帰れ」と叫び、夫がWi-Fiの線を抜いて戦いの火蓋が切られた…
実にアホらしいケンカなのだが、その日の私は嘆き悲しんだ。自分が世界一ダメで不幸な人間のように思えて。ただ、その一方で、この激情を珍しがる気持ちもあった。自分の中に発生した異物。胆石を記念にもらって帰るようなものだろうか。いつかためつすがめつするために、取っておきたいと思った。しょうもない感情のコレクション。
ところが、少し書いたところでキーボードをたたく手が止まった。不快な感じはまだ胸の真ん中に煙のように漂っている。だが、輪郭がなかった。何を書いてもウソくさい。感情の鮮度が落ちて、乾いてきていた。すりむいてしばらく経った膝のキズみたいに。ばんそうこうを貼る間もなかった。がく然として、パソコンをパタンと閉じた。
ふと、幸運の女神には前髪しかないという話を思い出す。だから瞬間につかみ取るべきだというものだが、ひょっとして感情もそんな風変りな髪型をしている? いや、追いかけたらわずかにつかめたから、『子連れ狼』の息子、大五郎のごとく頭頂部にちょんまげを結んでいるのかもしれない。今度はそのちょんまげ、離さないと心に決めた。