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Photo bykuzu_yu

週末はセントパンクラスから

    「ハブ、ア、グッド、ウィークエンド!」
    「アンド、ユー!」
    金曜の夕方五時になると、まるで潮が引くように、オフィスから人の波が消えていく。残業続きで働いていた東京での生活とは随分違う。
    麻耶は二年前からロンドンのオフィスで働いている。日系の会社だが、五十人を超える社員のほとんどはイギリス人とアイルランド人。日本人は社長と社長のPA(パーソナル・アシスタント)、そして麻耶だけ。だから普段は英語で仕事をこなすのだが、麻耶の所属する学術部は東京オフィスとのやりとりも多く、彼女の日本語が結構みんなから重宝がられていた。
    「麻耶ちゃん、今週もセントパンクラス?」
    就業時間を過ぎると、社長がよく話しかけてくる。当たり前のことだが、日本人同士、日本語で話すのはやっぱり楽だ。
    「はい、行ってきます」
    「いいなぁ、楽しそうで。よい週末をね」
    「あ、社長も。週末はお嬢さんとデートですか?」
    「まぁね。また、なんか買わされるんだろうなぁ」と言いながらも、結構嬉しそうだ。 
    「早く行かないと、電車に乗り遅れるよ」
    「あ、はい。それでは、お先に失礼します」
    「はい、ご苦労様」

     オフィスを後にすると、最寄り駅へと急いだ。ここからセントパンクラスまでは、ピカデリーラインとビクトリアラインを乗り継いで、約一時間。駅前でもらったフリーペーパーでも読んで、時間を潰そう。さてと、週末の占いはどうかなぁ。所詮占いなんて当たらないのはわかっているのに、つい読んでしまう。ふーん、レジャー運がいいんだ。レジャー運と言っても、行く所は毎週決まっているんだけど。そう、トムに出会って以来、麻耶は週末を、いつもノッティンガムで過ごした。

     ノッティンガムはロンドン・セントパンクラス駅から電車で約二時間。ユーロスターでパリへ行くのと同じくらい時間がかかる。セントパンクラス駅がユーロスターのターミナル駅ということもあり、駅の構内がまるで空港のデューティーフリーのようで、なんだかウキウキする。ユーロスターに乗ってロンドンに来たらしいパリやベルギーの観光客やビジネスマンたちは、なんとなくコンチネンタルな装いで、いつも見慣れたロンドンっ子たちとは違って洗練されている。ロンドンにいながらにして、大陸の雰囲気を感じられるこの駅に来るのが、麻耶は嫌いじゃなかった。

     遅い電車しか予約できなかったときには、近くに住んでいる友人を呼び出して、電車の時間までお茶とおしゃべりを楽しむ。速い電車に乗れそうなときは、オーガニックのカフェで、お気に入りのエルダーフラワージュースとシーザーサラダを買って、電車に乗り込む。新聞や、雑誌を読みながら過ごす二時間は、まるで現実から夢の世界への架け橋のようだった。

     ロンドン発の金曜夕方の電車はいつも満員で、指定席を予約しておかないと絶対に座れない。それどころか、指定券を持っていても、コンピューターの故障だの何だのと言い訳をつけて、座席がキャンセルになる場合がよくある。日本ではとても考えられないことが、ここイギリスでは普通に起きる。そんなとき、結局は早い者勝ちで、指定券は全く役に立たない。麻耶も何度かそんな経験をした。理不尽なことが嫌いな麻耶は、駅員に交渉したりして、あれこれ手を尽くしたが、結局はいつも泣き寝入りだった。そして指定券を握り締めたまま、立って行くこともよくあった。そんなときは、いつもトムの笑顔を思い出した。二時間我慢すれば、トムに会える。そう思っただけで、心が安らいだ。

     トムと最初に出会ったのは、約一年半前。マンチェスターの国際会議場だった。彼の会社は製薬会社で、会議のスポンサーをしていた。後から聞いた話では、マンチェスターはトムの担当ではなかったらしいが、たまたま担当者が病欠で、代わりに彼がノッティンガムから出張することになったらしい。ロンドンに住む麻耶も、マンチェスターは担当ではなかったが、会議で発表する日本人の教授が、麻耶の会社のコンサルタントで、日本人である麻耶が社長に頼まれて、たまたまアテンドすることになったのだった。

     教授が会議に出席している間、麻耶はロンドンや東京オフィスから分刻みに送られてくるメールの処理をするために、ワイヤレスの使える控え室にいることにした。スタッフオンリーと書かれたドアを開けると、そこには製薬会社の人たちと思われる、スーツを着た数人のイギリス人たちが、ラップトップの画面に向かっていた。しんと静まり返った部屋に、キーボードを叩く音だけが響いていた。
    「メイ、アイ、ヘルプ、ユー?」その時に、声をかけてきたのがトムだった。
    ドアの近くに座っていた彼は、勝手のわかっていない麻耶に、いろいろと親切に教えてくれた。そしてカップ・オブ・ティーも持ってきてくれた。イギリスに住んでいると、男性が女性に親切なのを実感する。例えば、知り合いじゃなくても、部屋を出るときなど、近くにいる男性が、ドアをさっと開けてくれたり、駅の階段で重い荷物をひきずっていると、すっと手を差し伸べてくれたりする。でも、だからと言って、彼らに下心があるわけじゃない。そういうカルチャーなだけだ。だから、麻耶も特に何も意識することなく、トムに「サンキュー!」とだけ言って、空いている席に着いた。麻耶がパソコンを立ち上げた時、トムもすでに真剣に画面に向かっていた。

     麻耶がひとしきりメールチェックを終えた頃には、会議に出席している先生たちのランチタイムなのか、外がざわついていた。麻耶も小腹が空いたのでランチにすることにした。控え室を出て大広間に行くと、ビュッフェ形式の食事が並んでいた。人の多さと喧騒に圧倒されて、しばらく立ちすくんでいると、後ろから「ハロー、アゲイン!」と声をかけられた。トムだった。なんだかちょっとほっとした。自己紹介もまだきちんとしていないのに、この安心感はなんだろう? 麻耶は漠然と思った。ランチの列に並んでいる間に、トムと麻耶は名刺を交換した。そして麻耶はランチをお皿に盛ると、教授のお世話をするために、その場を離れた。

     数日後、麻耶のデスクの電話が鳴った。きっとまた、東京本社からの急ぎの仕事だろうと思いながら受話器をとると、あまり聞き覚えのない男性の声だった。「誰?」頭の中で、あれこれ考えていると、さわやかな笑顔が浮かんできた。マンチェスターで名刺を交換したトムだった。正直言って、嬉しかった。でも、仕事場での私用電話が苦手な麻耶は、周りに悟られないよう、プロフェッショナルに対応した。トムは、今度ロンドン出張があるので、一緒にディナーでもしようと麻耶を誘った。しかしちょうど運が悪く、その週は出張でスコットランドに行くことになっていた。そのことを説明すると、トムは少し残念そうだったが、
    「ネバー、マインド。メイ、ビー、ネクスト、タイム」と言って、電話を切った。
    その後、トムから電話がかかってくることは無かった。そして麻耶も、日々の忙しさに追われて、トムのことを次第に忘れていった。

     麻耶の仕事は出張が多かった。地方で開かれるカンファレンスで、自社品の研究成果を発表するのが出張の目的だった。この仕事を始めた頃は、いろんな場所に行けるのが楽しみだったが、それも一年、二年と続くと、いかに自分のベッドで寝ることが快適か、このところしみじみと感じていた。
    基本的に二週間に一回は出張しているので、イギリス国内の大都市には、大抵行ったことがあった。特に大きな国際会議場のあるバーミンガムへはよく行った。そして今週もまたバーミンガムだった。

     この会議場は、周囲には何もないことで有名で、あるのはいくつかのファーストフード店と安い料理を出すパブだけだ。気の利いたカフェも無い。だからランチタイムになると、人々は仕方なくファーストフードかパブの列に並んだ。麻耶も他にチョイスがないので、パブの列に並んでいた。
    「マヤー、マヤー」遠くから麻耶を呼ぶ声が聞こえたが、今回麻耶は一人で出張しているので人に呼ばれるはずは無く、たぶん人違いだろうと思って聞き流した。
    やっと麻耶の番が回ってきた。フィッシュアンドチップスとクランベリージュースを頼んだ。シートを探していたら、誰かが後ろから軽く麻耶の肩を叩いた。「誰?」麻耶が振り向くと、そこには見覚えのある、少しはにかんだような笑顔が麻耶を迎えた。麻耶はとっさのことで、トムの名前を一瞬思い出せなかった。でも幸いにして、彼は名札をつけていた。
    「ト、トム」
    「ハロー、アゲイン、マヤ!」
     トムは、麻耶が出席している国際会議に、自分も出席していると言った。二人は一緒にランチをして、再会を約束した。

     麻耶は出張から帰る時の、充実感とも言える開放感が好きだった。帰りの電車では決まって、紅茶とチョコレートでお茶をした。ほっとできる瞬間だった。麻耶がゆっくりと紅茶を飲んでいたとき、携帯メールの着信音が鳴った。「誰?」麻耶はいつも、時間外には会社の携帯の電源を切るのだが、今日は忘れていた。
    メールはトムからだった。
    「君にまた会えてよかった。近々、ロンドンに行きたいと思っているんだけど、来月のマヤの都合を教えて!」
    こんなにストレートなアプローチを受けるのは久々で、駆け引きなしのトムの態度が、麻耶にとっては新鮮だった。

     二週間後、トムは麻耶に会うためにロンドンにやって来た。
    「ハロー!」トムの優しい笑顔は、花束の影に隠れていた。
    ランチをして、お茶をして、ミュージカルを観て。初めてのデートは、めくるめく光の中の出来事のようだった。
    そして、セントパンクラスからの週末が始まるのには、それ程時間はかからなかった。

     二人の遠距離恋愛が始まってから、一年が過ぎようとしていた。麻耶は駅で待つトムの笑顔を思いながら、電車がノッティンガム駅に着くのを待った。そして一年目の今日、トムのポケットにダイアモンドの指輪が隠れていることを、麻耶は知る由も無かった。

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    mikion

     
     
    イギリス在住で、英国人の夫と息子の3人暮らしです。現在はお菓子の会社で商品開発の仕事をしています。以前はこちらの大学で人類学と民俗学を使った食文化を研究していました。日本と英国の文化の違いや、食事の違い(もちろんお菓子も含めて)、面白いことをいっぱい共有できればと思っています。

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