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『徒然草』から考えた、日本の思想と文化

    『徒然草』を読み終えた。

    きっかけは、青空文庫で佐藤春夫の現代語訳を見つけたことだった。古典は身構えてしまうことが多いが、この訳は驚くほど読みやすく、兼好法師が七百年前の人とは思えないほど身近に感じられた。

    読み始めた頃は、ただ面白い随筆だと思っていた。

    宮中の噂話があり、変わった僧侶の逸話があり、どこか人間臭い。兼好は説教をするより、人を観察することを楽しんでいるように見えた。

    ところが読み進めるうちに、だんだん別のことが気になり始めた。

    当時の人々にとって、仏教はどれほど当たり前の存在だったのだろう。

    兼好は「無常」や「執着」といった言葉を、説明することなく使う。それは現代で「民主主義」や「人権」という言葉を説明せずに使うのと少し似ている。当時の読者にとって、仏教は信仰であると同時に、人や世の中を考える際の共通の前提でもあったのではないだろうか。

    そして、僧侶という存在も現代とはかなり違う。

    宗教家であると同時に、学者であり、教育者であり、ときには政治に助言する知識人でもあった。

    『徒然草』を読んでいると、僧侶が知識人の代表だった時代の空気が伝わってくる。

    しかし、そこからさらに考えが広がった。

    兼好の思想は、本当に日本独自のものなのだろうか。

    無常観は仏教から来ている。

    人物の評価には儒教の影響が見える。

    世俗から距離を置く姿勢には老荘思想も感じられる。

    そう考えると、日本の知識人は、中国やインドから伝わった思想を土台に考えていたことになる。

    もちろん、日本には独自の思想や美意識がある。

    満開の花だけでなく散り際を愛でること。

    朽ちた仏像に美しさを見いだすこと。

    黒く変色した當麻寺の曼荼羅に迫力を感じること。

    『徒然草』を読んでいても、そうした感覚は随所に表れている。

    ただ、それが世界中で共有される思想や哲学として広がったかと言われると、少し事情は違うように思える。

    そのことは、決して日本文化の価値が低いという意味ではない。影響の及び方が、中国や西洋の思想とは異なっているということなのだろう。

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    そんなことを考えていると、現代の日本文化にも思いが及んだ。

    世界で評価される日本文化といえば、漫画やアニメが思い浮かぶ。

    それらを軽視するつもりはまったくない。優れた作品は数多くある。

    けれども、世界の思想や哲学に大きな影響を与えるという意味では、日本は少し存在感が薄いようにも感じる。

    毎年のように村上春樹氏のノーベル文学賞受賞が話題になるのも、そのことと無関係ではない気がしている。

    私は村上春樹という作家は好きだし、彼は彼自身の世界を書けばいいと思う。

    違和感があるのは、受賞のたびに日本中が一喜一憂する空気だ。

    もっとも、その「世界から認められたい」という姿勢も、日本文化の一つなのかもしれない。

    古代には中国を見つめ、近代には欧米を見つめ、現代ではノーベル賞を見つめる。

    評価軸は変わっても、「外にある権威を意識する」という構図は、案外昔から続いているようにも思える。

    『徒然草』を読み始めたときは、こんなことを考えるとは思ってもみなかった。

    兼好法師という一人の随筆家に興味を持ったつもりが、いつの間にか日本という国の思想や文化の成り立ちについて考えていた。

    『徒然草』は、七百年前の随筆でありながら、現代の日本について考えさせられる本でもあった。

    古典は過去を知るためだけのものではなく、今の自分が立っている場所を確かめるための本なのかもしれない。

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    miki

     
     
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