メインコンテンツへスキップ
見出し画像

康と光との真実の愛の物語 第46話

    私は、東京の光の声を聞くと、心の底から安心する。
    けれど、康のASDの特性を理解すればするほど、彼の身近にいることの本当の大変さが身に染みて理解できるようになると同時に、あの不器用な幼さへの愛おしさも、また深く理解できてしまうのだ。

    複雑な感情の狭間で、ふと思ってしまうことがある。
    光も、あの『悪魔ちゃん』に対して、今の私と同じような、やりきれない思いを抱きながら日々を過ごしているのだろうか、と。

    私は光を心から愛している。

    けれど、あまりにも複雑な光の心境を本当の意味で理解するために、私はこの人生で、康という男性に巡り合ったのではないかとおもう時すらあるのだ。
    ならば……光は、あの悪魔ちゃんのことを、本当は愛しているのだろうか。

    私は、光のことも、あの二十三年前の別れの時に『放った』のだ。結果的に、そうするしかなかった。
    私は康のことも、この手で放った――。
    三月二十四日、あの冷たい風の中で康から聞いた「第一線から退きます」という言葉だけでは、彼がいったいどこの学校に行くのか、当時の私には全く分からなかった。
    教諭たちの監獄とも噂されている『教育センター』に行くのか、それすらも不透明だった。
    ただ一つ、これが通常の正式な人事異動ではないことだけは、はっきりと理解できた。

    なぜなら、ネットの人事発表にも、新聞の異動欄にも、康の名前はどこにも掲載されていなかったからだ。


    それから一ヶ月ほどが経った頃、私はふと、あることを思い出した。

    私にあの美しい赤のメッシュのヘアスタイルを勧めてくれた美容室の担当者。彼女の自宅が、まさに康のいた中学校の学区内にあることを思い出したのだ。

    私は居ても立ってもいられず、すぐに彼女に連絡を入れた。


    「どうしても……彼の中学校の、離任式のお手紙が欲しいの!」と、なりふり構わずお願いをした。


    彼女は私の切実な願いを快く承諾してくれて、数日後、スマホに一枚の写メが届いた。


    そこには、康の名前とともに、誰も予想していなかった『隣町の中学校名』が静かに記載されていたのだ。

    「え……? どういうこと……?」


    私は頭の中が混乱し、すぐにその隣町の中学校をネットで検索し、くまなく調べた。


    同時に、あの教育センターのホームページも隅々まで調べてみた。すると、ある特設の『通信欄』が見つかり、そこをクリックすると、活動報告のような表紙とともに、いくつかの写真が掲載されていた。


    何気なく、その画像を拡大して確認した瞬間――私は、自分の目を激しく疑った。


    そこに、康の姿がくっきりと写っているではないか。
    画面を見つめたまま、全身に激しい震えが走った。


    (やはり私は、不思議なほど康の決定打の瞬間を見てしまう運命にあるのね……なぜ、どうしてこれを見つけてしまうの?)


    その写真は、壇上に数人の大人が上がっているものだった。

    どうやら、新天地に赴任してきた教諭たちの対面式の様子のようだった。

    学校単位で順番に壇上に上がったらしく、たまたま、康のいる隣町の中学校の職員たちが並んだ瞬間の様子が、そこに掲載されていたのだ。


    私は、画面を見つめながら涙が溢れて止まらなくなった。

    見てはいけないものを覗き見てしまったような、奇妙な罪悪感だったのだろうか。

    それとも、三月二十四日の決別からまだそれほどの時間は経っていないというのに、あまりにも懐かしかったからだろうか。

    一瞬にして、私は康に会いたいという猛烈な想いに駆られてしまった。


    康、貴方は元気にしているの……? スマートフォンの画面をいくら拡大してみても、写真の中の康は、どこか顔色が良くないように見えた。


    康に、会いに行こう。


    けれど、もし本当に本人の前に姿を現してしまったら……彼はまた、あの狂気的なパニックを起こして私を拒絶するかもしれない。


    やはり、それが何よりも怖い。


    ならば――本人に会わなくてもいい。


    せめて康のあのベンツだけでも、この目で確認しに行きたい。

    そう思った私は、気づけば車の鍵を握りしめていた。

    私は数日後、その隣町の中学校へ実際に行ってみることを決意した。

    自宅から車を走らせること約五十分。

    運転しながら、頭の中では「どうか本人とだけは鉢合わせしませんように」と、必死に願い続けている自分がいた。

    会いたいけれど、会うのが怖い。そんな矛盾した感情に引き裂かれそうだった。

    午後二時を少し過ぎた頃、私は目的地である学校に到着した。


    そこは街中にある大きな中学校で、周囲の道路はどれも狭く、私は周囲を警戒しながら慎重に車を進めた。校舎を見上げると、予想以上に規模が大きい。駐車場の門は、東門と西門の二箇所に分かれていた。


    私はまず、東門のほうからそっと様子を窺ってみることにした。

    もちろん、駐車場の中にまで入っていく勇気などあるはずもない。

    心臓がバクバクと激しい音を立て、胸が苦しくなるのを感じていた。

    目を凝らしてよく見てみたが、停まっている車の台数が多すぎて、奥のほうまで見えにくい。


    東門を後にし、今度は校舎の裏手へとぐるりと回り込んで西門へと向かった。ハザードランプをつけて少しだけ車を停車させ、西門の奥の駐車場をじっと見つめた。


    「……あった!」


    思わず、息を呑んだ。

    広い駐車場の中で、康のベンツのあの特徴的なフロントグリルは、やはり一目で分かるほど目立っていたのだ。

    その瞬間、私はまるで、ずっと会いたかった彼本人にやっと巡り会えたかのような、激しい感動に全身を貫かれた。


    私が、あの冷たい風の中でこの手で放った康が、確かにここにいる。

    そして私は、確信した。

    彼が言っていた『第一線から退く』という言葉の本当の意味を。

    康はきっと、担任としてクラスを持つこともなく、重大な責任のある立場からは退きながら、それでも大好きな生徒たちの中に身を置いて、毎日を静かに暮らしているに違いないのだと。


    私は溢れる涙を何度も流しながら、
    「元気になってね、康さん……。必ず、また会いましょうね」

    と静かに呟きながら、ゆっくりと車を発進させた。


    会いたい、康さん。


    もうすぐ、康とはじめて二人で食事をしたあの日から、ちょうど一年が経とうとしている。

    私は泣きながら、ひとりハンドルを握って運転をしていた。

    たった一年。

    たった一年の間で、なぜこんなにも激しく苦しい思いをしなければならなかったのだろう、私と康は。
    お互いに、あまりにも苦しく切ない時間だった。


    けれど、あの別れ際に康が言っていた「楽しかったことしか覚えていないよ」というあの言葉……。


    私も、いつかすべてを乗り越えたその時に、そんな風に優しい言葉を空に向かって発したい。


    康のような不器用な人も、この世の中には確かに存在するのだ。

    悩み、苦しみながらでも、誰かを愛し抜きたいと必死にもがき苦しんでいる人が、脳の特性上、確かにいるのだという事実を、私はこの一年を通して心から理解することができた。


    愛することを、まるで猛毒のように思ってしまう、康。


    私はいつでも、貴方とともに、その猛毒を丸ごと分かち合う覚悟は有るわ、康さん。


    いつまでも、待っているわ、康さん。
    ありがとう、康さん。


    あの十月に、私が康に言った言葉を、私はこれから先も一番忘れない。


    「貴方のその危なっかしい生き方を、私は一生支えてあげたいと思っていたのよ」と。


    あのとき、私の言葉を聞いた貴方が、静かに「

    ありがとう……ありがとう……」と、優しく、何度も何度も私に言ってくれた、あの愛おしい姿を。


    康さん、心から、愛しているわ――。

    蓮香
    (完結)

    ネット越しの桜 これは 康が居た学校の桜
    昨年 一緒に桜を見にいきませんか?との 誘いには応じなかった私 転勤後の桜です。

     
     

    蓮香

     
     
    適応障害になりながらも 真実の愛を追求します

    あなたへのおすすめ