
星を読む者 第五話-来ない男
三日、天文所へ行かなかった。
たった三日だ、と清吉は思う。
実際には、それくらい珍しくもない。江戸の町で生きていれば、顔を出さない理由などいくらでもあるし、誰かが誰かを待つほど暇でもない。まして相手は久世玄だ。暦を作り、星を読み、人より数字を信じている男が、たかが門弟崩れの一人を気に留めるはずがない。
そう思っていた。
三日目の夕方、天文所へ向かう道を避けていたのに気づいた時、清吉は初めて、自分が「行かないようにしている」のだと理解した。
理由は分かっている。
あの夜だ。
「……来ないと思ってた。」
雨の音の中へ落ちてきた低い声が、まだ耳の奥に残っている。
あれは、駄目だった。
久世玄は、自分が何を口にしたのか分かっていないから怖い。
人は、自覚している感情より、無自覚の感情の方がずっと厄介だ。
しかもあの男は、それを覚えたばかりの子供みたいに、まだ扱い方を知らない。
清吉は、小さく息を吐いた。
夕暮れの町は、昼とも夜ともつかない色をしていた。店先の提灯にはもう火が入り始めているのに、西の空だけが薄く明るい。その半端な光の中を歩いていると、自分の輪郭まで曖昧になる気がする。
だから、見つけるのが遅れた。
「――逃げるには遅かったな。」
声がして、清吉は立ち止まる。
道の向こう。
橋の欄干に寄りかかるようにして、玄が立っていた。
清吉は思わず笑った。
「怖いこと言いますね。」
「三日だ。」
責める口調はなく、静かだった。
町の喧騒が遠く聞こえるほど、その声だけ温度を失っている。
清吉は橋へ近づいた。
「たった三日ですよ。」
「お前は、いつも急に消える。」
その言葉に、清吉の指先がわずかに止まる。
玄は続けない。
それでも、何かを待っている沈黙だった。
橋の下では、水がゆっくり流れていた。昨夜の雨のせいか、いつもより少し濁っている。川面に映る灯りが揺れるたび、二人の間にあるものまで形を変えていく気がした。
「探したんですか。」
聞くつもりはなかった。
だが口が先に動いた。
玄はすぐに答えない代わりに、橋の向こうへ目を向けた。
「……いや。」
嘘だ、と清吉は思う。
この男は、嘘が下手だ。
正確には、嘘をつく必要のある生き方をしてこなかったのだろう。だから隠し方を知らない。沈黙の長さも、視線の外し方も、思考の全てがそのまま出る。
清吉は困ったように笑った。
「久世様って、もっと人に興味ない方だと思ってました。」
「興味はない。」
「じゃあ何でここに?」
玄はそこで初めて清吉を見た。
真正面から。
逃がさないみたいに。
その視線を受けた瞬間、清吉は妙に息苦しくなる。
夜風は冷たいはずなのに、喉だけ熱かった。
「……お前が来ないからだ。」
あまりにも静かな声だった。
静かすぎて、清吉は返事ができない。
おそらく玄自身、分かっていない。
その言葉が、どれだけおかしいのか。
どれだけ人を揺らすのか。
橋を渡る人々が二人の間を通り過ぎていく。肩がぶつかりそうになるたび、清吉は無意識に半歩下がった。
玄は動かない。
その場に立ったまま、ただこちらを見ている。
まるで星でも読むみたいな目だった。
「……参ったな。」
清吉は小さく笑った。
だが笑った途端、自分の声が少し掠れていることに気づく。
駄目だ。
本当に。
この男は危ない。
⸻
その後、二人は並んで歩いた。
会話はほとんどなかった。
玄は元々多く喋る男ではないし、今日は清吉の方も軽口を叩く気になれなかった。
沈黙だけが続くが、不思議と気まずくない。
むしろ、妙に近い。
人と並んで歩く時、普通はどちらかが相手に歩幅を合わせるものだ。だが玄と歩いていると、最初から同じ速度で歩いていたような錯覚がある。
そのことに気づいてしまって、清吉はますます黙った。
しばらくして、玄が口を開く。
「お前。」
「はい。」
「町で何をしてる。」
「色々ですよ。」
「答えになってない。」
「答える気もないので。」
玄は眉を寄せた。
その顔を見て、清吉は少しだけ安心する。
いつもの玄だ。
人を寄せ付けない顔。
感情より理屈を信じている顔。
なのに。
「……誰に習った。」
唐突な問いに、清吉は瞬きをした。
「何をです。」
「動きだ。」
空気が変わった。
清吉は笑わなかった。
路地裏で見られたことを、玄は忘れていない。
当然だ。
あれは、町人の動きじゃない。
喧嘩慣れしている程度では説明がつかない。もっと身体の奥へ染みついた何かだ。
玄は足を止めた。
夕暮れの光が薄くなり始めている。
町の輪郭が曖昧になっていく時間だった。
「お前は何者だ。」
静かな声だった。
怒ってはいない。
責めてもいない。
ただ、本当に知りたがっている。
そのことが、清吉には一番困る。
「知ってどうするんです。」
「……別にどうもしない。」
「じゃあ、知らない方がいい。」
玄は黙った。
その沈黙が長引くほど、清吉は苦しくなる。
この男は、多分まだ理解していない。
自分が「知りたい」と思い始めていることを。
そして一度知れば、もう後戻りできないことを。
「久世様。」
「何だ。」
「人を見るの、苦手でしょう。」
玄の眉がわずかに動く。
清吉は続けた。
「だから、知らない方がいいこともあるんですよ。」
言い終えた瞬間だった。
玄の手が、清吉の腕を掴んだ。
強くはない。
振り払おうと思えば、簡単に振り払える程度の力だった。
だが、清吉は手の熱さを感じて動けなかった。
人混みの中だった。
玄は掴んだあと、自分でも少し驚いたみたいに黙っていた。
多分、無意識だった。
止めるつもりだったのか。
行かせたくなかったのか。
本人にも分かっていない。
ただ、その指先だけが離れない。
清吉はゆっくり視線を落とした。
玄の手がある。
久世玄の手が、自分の腕を掴んでいる。
それだけで、胸の奥がざわつく。
「……離してください。」
そう言った声が、少しだけ低くなる。
玄はすぐには動かなかった。
やがて、遅れて指先の力が抜ける。
離れた熱だけが、皮膚に残った。
「悪い。」
玄は短く言った。
その声を聞いた瞬間、清吉は息を呑む。
今のは、本気で悪いと思っている声だった。
久世玄は、多分まだ知らない。
人を引き止めるということが、どれだけ傲慢で、どれだけ甘い行為なのか。
そして、自分が今それを始めていることも。
⸻
別れ際、玄は何も言わなかった。
引き止めもしない。
また来いとも言わない。
ただ、帰る清吉を見ていた。
視線だけが、妙に長く残る。
清吉は振り返らないまま歩いた。
けれど背中越しでも分かる。
あの男はまだ立っている。
こちらを見ている。
そのことが分かってしまう自分に、清吉は小さく笑った。
笑いながら、少しだけ怖くなる。
多分もう遅い。
久世玄は変わり始めている。
そして厄介なのは、自分もそれを止めたいと思っていないことだった。
第五話 了