
まだ名前を知らない世界で、ぼくは待っている
あらすじ
生まれたばかりの「ぼく」は、まだ言葉を知らない。
けれど、世界の音や匂いや光を、星の言葉として感じ取ることができる。
早く生まれたぼくは、透明なゆりかごの中で揺れている。
ママとパパ、そして白い服の人たちに守られながら世界を覚えていく。
ママの声は春の水、パパの手は少し不器用な大きな雲。
その人たちが近くにいると、胸の奥の小さな灯があたたかくなる。
けれど、家にはときどき雷が落ちた。
ママとパパの声がぶつかり、夜の部屋に青い光が差し、ぼくは「守るため」という名の馬車に乗せられて、白い塔へ連れていかれる。
そこにはやさしい手がたくさんあった。ミルクも、毛布も、歌もあった。
それでも、ぼくの心は毎晩、ママの匂いとパパの腕を探していた。
月に何度か会える短い時間。
ママは泣かないように笑い、パパはぎこちなくぼくの名を呼ぶ。
ぼくは言葉を持たない代わりに、手を伸ばし、目を合わせ、心の中で何度も叫ぶ。
パパ、ママ。
ぼくはここにいるよ。
早く迎えに来て。
けんかの雷じゃなくて、ぼくの小さな灯を見て。
これは、まだ話せない赤ちゃんが見た、家族がもう一度家族になるまでの、祈りと家族再生の物語。
まだ名前を知らない星の子
本文
1. ぼくは、空から落ちてきた
ぼくが最初に覚えているのは、まぶしい白だった。
白は、ただの色ではなかった。
それは音だった。冷たくて、清潔で、遠くの雪みたいな音。
それは匂いだった。消えかけた花火のあとに残る、少しだけつんとした匂い。
それは手だった。何本もの手が、ぼくの小さな体にふれて、包んで、測って、確かめる。
ぼくはまだ、目をうまく開けられなかった。
急に明るい世界に放り出された気分だった。
ただ声だけ、振り絞って出すことができた。
まぶたの向こうで、世界は水の中みたいに揺れていた。
声が聞こえた。
高い声。低い声。急ぐ声。安心させる声。
その全部が、ぼくには風みたいに聞こえた。
ぼくは、予定より早く空から落ちてきたらしい。
本当なら、もう少し暗くてあたたかい海の中にいるはずだった。
とくん、とくん、と誰かの心臓の音を聞きながら、ぷかぷか浮かんでいるはずだった。
でもある日、その海の扉が急に開いた。
ざあ、と水が流れた。
世界が揺れた。
遠くでママが痛い声を出した。
ぼくは、その声の意味を知らなかった。
ただ、その声がぼくを呼んでいることだけはわかった。
だから、ぼくは小さな手をぎゅっと握った。
まだ何もつかめない手で、見えない糸をつかんだ。
その糸の先に、ママがいた。
ママ。
そのとき、ぼくはまだ「ママ」という言葉を知らなかった。
でも、ぼくの体はその人を知っていた。
あたたかい海。
眠る前の歌。
甘い血の音。
ぼくをずっと中に入れてくれていた、大きな星。
白い世界の中で、誰かが言った。
「赤ちゃん、がんばってるよ」
赤ちゃん。
それがぼくのことだと、なんとなくわかった。
ぼくは、小さな体いっぱいに空気を吸った。
空気は痛かった。
胸がきゅっとなった。
泣いたつもりはなかったのに、喉から細い音が出た。
その瞬間、遠くでママの気配が震えた。
泣いているのは、ぼくだけではなかった。
ぼくは透明な箱に入れられた。
それは箱というより、星のゆりかごだった。
外の世界からぼくを守る、見えない膜のついた小さな舟。
白い服の人たちが、ぼくのまわりを行き来した。
その人たちは、羽のない鳥みたいだった。
やわらかい声で話し、静かな手つきでぼくにふれた。
ぼくのお腹に線をつけ、足に印をつけ、胸の音を聞いた。
ぼくは、まだ誰が誰なのかわからなかった。
ただ、ひとりだけ、他の人と違う声がした。
「やっと、会えたね」
その声は、泣きながら笑っていた。
水たまりに落ちた光みたいな声だった。
ママだった。
ぼくはまぶたを少しだけ開けた。
ぼやけた世界の向こうに、丸い光があった。
その光は、ぼくを見ていた。
ママは、ぼくを見ていた。
その横にいる人も泣いていた。
ぼくは、そのとき思った。
ここは知らない世界だけれど、あの光があるなら、きっと大丈夫だ。
ぼくはまだ名前を知らなかった。
家も知らなかった。
悲しみも、約束も、未来も知らなかった。
ただ、知っていた。
ぼくは、この人に会うために生まれてきた。
2. 硝子のゆりかご
ぼくの最初の家は、硝子のゆりかごだった。
そこでは夜も昼も、同じように白い光が降っていた。
本当の空は見えなかった。
窓の外に月があるのか、雨が降っているのか、ぼくにはわからなかった。
でも、機械たちが小さな星みたいに光っていた。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ。
それはぼくの心臓の番人だった。
ぼくが息をしているよ、と世界に知らせる鳥の声。
ときどき音が速くなったり、遅くなったりすると、白い鳥たちがすぐにやって来た。
「大丈夫だよ」
「えらいね」
「もう少しだよ」
白い鳥たちは、ぼくをそう言ってなでた。
ぼくは「大丈夫」の意味を知らなかった。
でも、その言葉を聞くと、胸の奥で小さな火が揺れた。
きっと、大丈夫とは、火を消さないおまじないなのだと思った。
ママは毎日来た。
来られない日もあったのかもしれない。
でも、ぼくの時間は大人の時間と違っていた。
一日は長い海で、一時間は大きな波だった。
ママがいない波は、いつも少し冷たかった。
ママが来ると、空気が変わった。
白い世界に、あたたかい匂いが混じる。
ミルクよりも深く、毛布よりもやわらかい匂い。
ぼくは目を閉じたままでもわかった。
あ、ママだ。
ママは小さな穴から手を入れて、ぼくの足にふれた。
最初はこわごわだった。
ぼくが壊れてしまうと思っているみたいだった。
ママ、ぼくはこわれないよ。
そう言いたかったけれど、ぼくの口から出るのは、ふにゃ、という音だけだった。
だから、足の指を少し動かした。
ママの指に、ぼくの指が当たった。
ママの心が、ぱっと明るくなった。
それがぼくには見えた。
大人には見えないものが、ぼくには見えた。
人の胸の奥にある灯。
怒っている人の灯は赤く燃え、悲しい人の灯は青く沈む。
安心している人の灯は、夕焼けみたいな色をしている。
ママの灯は、いつも忙しかった。
赤になったり、青になったり、金色になったりした。
ぼくを見ると金色になる。
でも、誰かから電話が来たり、難しい話を聞いたりすると、すぐに青く震えた。
ママの中には、たくさんの風が吹いていた。
ある日、大きな影がやって来た。
パパだった。
ぼくはそのときも、まだ「パパ」という言葉を知らなかった。
でも、その人が近づくと、世界の音が少し低くなった。
太鼓みたいな心臓。
不器用な手。
ぼくに触れたいのに、触れていいかわからない気配。
パパは硝子の向こうから、ぼくを見た。
「小さいな」
声が震えていた。
ぼくは思った。
あなたも小さいよ。
体は大きいけれど、心の灯が、手のひらに乗るくらい小さく見えた。
こわいのだと思った。
ぼくを抱くことも、ママを見ることも、これから家族になることも。
パパの灯は、灰色の雲に隠れていた。
でも雲の奥に、確かにあたたかい火があった。
ぼくは硝子の中から、パパの方へ顔を向けた。
パパの灯が少しだけ明るくなった。
その日から、ぼくは三つの灯を覚えた。
ぼくの胸の小さな灯。
ママの揺れる金色の灯。
パパの雲の奥にある灯。
三つの灯がそろうと、硝子のゆりかごは、少しだけ家みたいになった。
3. 名前は祈りだった
ぼくに名前がついた日、世界に新しい音が増えた。
それまでも、白い鳥たちはぼくを呼んでいた。
「赤ちゃん」
「ぼくちゃん」
「小さい子」
「がんばり屋さん」
どの音もやさしかった。
でも、どれもぼくの中心までは届かなかった。
ある日、ママがぼくの耳元で、ゆっくりと音を落とした。
「――」
それが、ぼくの名前だった。
名前は、羽のようにやわらかく、種のように大事なものだから。
でも、ぼくにはわかった。
名前とは、誰かが「あなたはここにいていい」と言うための、いちばん短い祈りなのだ。
ママがその音を呼ぶたびに、ぼくの胸の灯は丸くなった。
パパが少し照れながら同じ音を呼ぶと、灯はくすぐったそうに揺れた。
ぼくは、自分がただの赤ちゃんではなくなった気がした。
ぼくには、呼ばれるための音がある。
見つけてもらうための印がある。
迷子になっても、その音があれば帰れる。
そう思った。
退院の日が近づくと、ママの灯は忙しく光った。
白い鳥たちは、ミルクの飲ませ方や、おむつの替え方や、眠る向きを話していた。
ママは何度もうなずいた。
でも、胸の奥では雨が降っていた。
ぼくは、その雨音を聞いていた。
ママは、うれしいのにこわかった。
ぼくを家に連れて帰りたいのに、ちゃんと守れるか不安だった。
自分の体もまだ痛くて、心もふわふわしていた。
それなのに、大人たちは大人の言葉でたくさんのことを決めていく。
ぼくにはよくわからなかった。
ただ、その言葉たちがママの肩に積もっていくのが見えた。
雪みたいに。
重たい雪みたいに。
パパも笑っていた。
でも、パパの雲は厚くなっていた。
大人になると、どうして心に雲をかけるのだろう。
ぼくは不思議だった。
泣きたいときに泣けばいいのに。
こわいときにこわいと言えばいいのに。
助けてほしいときに、助けてと言えばいいのに。
甘えたいときに、甘えればいいのに。
赤ちゃんのぼくには、それしかできなかった。
お腹がすけば泣く。
眠ければ泣く。
抱っこしてほしければ泣く。
世界がまぶしすぎれば泣く。
泣くと、誰かが来てくれる。
だからぼくは、大人もそうすればいいのにと思っていた。
でも、大人の泣き声は、言葉の奥に隠れていた。
怒った声の奥にも、黙った背中の奥にも、ため息の奥にも、泣き声があった。
退院の日、ぼくは初めて外の空気を吸った。
空は広すぎた。
風は冷たすぎた。
車の音は、大きな獣のうなり声みたいだった。
ママはぼくを抱いていた。
パパは荷物を持っていた。
ふたりは何度もぼくを見た。
家に帰る。
その言葉は、まだぼくの中で意味を持っていなかった。
でも、ママの腕の中にいると、どこへ行ってもそこが家のような気がした。
ぼくは小さな口を開けて、眠った。
初めての場所だった。
何となく居心地が良い気がして、すぐ眠りについた。
まだ知らなかった。
家という場所にも、雷が落ちることを。
4. 家には、見えない竜がいた
家は、硝子のゆりかごより暗かった。
でも、暗いことはこわくなかった。
天井の影も、カーテンの揺れも、冷蔵庫の低い音も、少しずつぼくの世界になっていった。
ママの腕。
パパの声。
ミルクの匂い。
おむつの音。
洗濯物のやわらかい山。
夜中に何度も灯る小さな明かり。
ぼくはそこで、生きる練習をした。
泣く。飲む。眠る。起きる。
また泣く。
また飲む。
また眠る。
ぼくの仕事は、それだけだった。
けれど、ママの仕事はそれだけではなかった。
ママはぼくを抱きながら、ごはんを食べようとした。
ぼくを寝かせながら、洗濯をした。
ぼくが泣くと、すぐに来た。
来られないときは、胸の灯をぎゅっと痛そうに縮めた。
ママの体はまだ傷ついていた。
腰も、足も、骨の奥も、泣いていた。
それでもママは、ぼくに笑った。
「大丈夫だよ」
その言葉を言うとき、ママ自身がいちばん大丈夫ではなかった。
パパも、ぼくを抱いた。
最初はぎこちなかった。
腕の中でぼくが少し動くと、パパの灯がびくっと跳ねた。
恐る恐るだった。
でも、少しずつ上手になった。
パパの胸は、ママより固かった。
音も低かった。
でも、そこに耳をつけると、遠くの太鼓みたいに心臓が鳴っていた。
ぼくはその音も好きだった。
ところが、夜になると、家のすみから竜が出てくることがあった。
その竜は目に見えない。
でも、確かにいた。
最初は、小さな火花だった。
ママの声が少し高くなる。
パパの声が少し低くなる。
言葉と言葉が、部屋の真ん中でぶつかる。
ぼくの胸の灯が、ふっと小さくなる。
それから竜は大きくなる。
「なんで」
「だから」
「違う」
「もういい」
「そうじゃない」
「わかってない」
言葉は、意味より先に形になった。
尖った石。
熱い針。
黒い煙。
ぼくの上を飛んでいく。
ぼくは泣いた。
お腹がすいたわけではなかった。
眠かったわけでもなかった。
ただ、竜がこわかった。
ママはぼくを抱きしめた。
パパは黙ったり、声を荒げたりした。
部屋の空気は、だんだん固くなった。
ぼくには、ふたりが何を争っているのかわからなかった。
大人の世界には、ぼくの知らない怪物がたくさんいた。
でも、ぼくにわかることもあった。
ママは助けてほしかった。
パパも責められたくなかった。
ふたりとも、ぼくを見ていた。
でも、同時に、自分の痛みも見てほしかった。
見て。
わかって。
変わって。
守って。
逃げないで。
言葉の下に、そんな声が隠れていた。
ぼくは思った。
ぼくはここにいるよ。
小さな体で、何度もそう言った。
でも、ぼくの声は泣き声にしかならなかった。
パパとママはぼくを見ている。
けれど、ぼくの声は伝わらなかった。
ある夜、竜はとても大きくなった。
部屋の壁が震えているように感じた。
ママの灯は青く燃え、パパの灯は赤黒く揺れた。
ぼくは毛布の中で、世界の終わりみたいな音を聞いた。
そして、青い光が窓の外に現れた。
それは月ではなかった。
星でもなかった。
誰かを守るためにやって来た、冷たい光だった。
大人たちの声が増えた。
急に家に人が押し寄せてきた。
知らない靴音。
知らない気配。
知らない手。
知らない声。
知らない顔。
ぼくは泣いた。
ママの腕が震えていた。
パパの影が遠くに見えた。
そして、家の中の竜は、急に姿を消した。
でも、竜がいなくなったあとには、もっと大きな沈黙が残った。
その沈黙の中で、ぼくの運命は、大人たちの手によって動き始めた。
5. 守るための馬車
「この子を守るためです」
その言葉を、ぼくは何度も聞いた。
守る。
それは白い鳥たちも言っていた言葉だった。
硝子のゆりかごで、ぼくの体に線をつけた人たちも、そう言っていた。
寒くないように。
息が止まらないように。
ちゃんと大きくなれるように。
でも、その日の「守る」は、少し違っていた。
その言葉は、毛布ではなく、鍵の形をしていた。
抱っこではなく、扉の形をしていた。
近づくためではなく、離れるための言葉だった。
知らない大人たちが、ママと話していた。
パパとも話していた。
声は静かだった。
怒ってはいなかった。
でも、静かすぎてこわかった。
大人の静けさには、ときどき刃が入っている。
ぼくはママの腕の中にいた。
ママの胸は、嵐の海だった。
ぼくはその波に揺られながら、必死に匂いを覚えようとした。
ママの匂い。
ミルクの匂い。
涙の匂い。
眠っていない夜の匂い。
忘れないように。
どこへ行っても帰れるように。
ママはぼくを強く抱きしめた。
「ごめんね」
ママは何度もそう言った。
ごめんねの意味を、ぼくは知らなかった。
でも、その音が、胸の奥を痛くすることはわかった。
ママ、どうして謝るの。
ぼくはママを責めていないよ。
そう言いたかった。
でも、ぼくは泣くことしかできなかった。
やがて、ぼくは別の腕に渡された。
知らない人の腕。
その腕はやさしかった。
声も優しかった。
でも、ママではなかった。
ぼくは全身で探した。
ママの心臓の音。
ママの体温。
ママの髪が頬に触れる感じ。
何もなかった。
ぼくは泣いた。
喉が痛くなるほど泣いた。
パパの声が聞こえた気がした。
ママの泣き声も聞こえた気がした。
でも、ぼくは遠ざかっていった。
外は夜だったのか、昼だったのか、よく覚えていない。
ただ、車の揺れを覚えている。
それは馬車のようだった。
ぼくを守るための馬車。
ママから離すための馬車。
家という森から、白い塔へ向かう馬車。
窓の向こうで、街の灯が流れていった。
灯はどれも家みたいに見えた。
どこかの誰かが、ごはんを食べている。
どこかの誰かが、お風呂に入っている。
どこかの赤ちゃんが、ママの腕の中で眠っている。
ぼくは自分の手を握った。
まだ何もつかめない手。
でも、ぼくはそこに見えない糸を探した。
ママとつながる糸。
パパとつながる糸。
生まれたとき、空から落ちてくるぼくを導いてくれた糸。
糸は切れていなかった。
細くなっていた。
震えていた。
でも、切れてはいなかった。
ぼくは泣き疲れて、眠った。
夢の中で、ママがぼくを呼んでいた。
パパがぼくの名前を呼んでいた。
ぼくは夢の中で何度も答えた。
ここだよ。
ぼくはここにいるよ。
早く迎えに来て。
6. 白い塔の子どもたち
白い塔には、たくさんの小さな星がいた。
ぼくより少し大きい星。
ぼくより小さく見える星。
よく泣く星。
静かに天井を見つめる星。
ミルクを飲むのが上手な星。
抱っこされるとすぐ眠る星。
みんな、何かを待っていた。
それが何なのか、ぼくにはわからなかった。
でも、夜になるとわかった。
どの子の胸にも、一本ずつ見えない糸が伸びていた。
糸の先は、塔の外へ続いていた。
ある子の糸は金色だった。
ある子の糸はほとんど透明だった。
ある子の糸は何本にも分かれて、どこへ向かえばいいのかわからないように揺れていた。
ぼくの糸は、二本あった。
一本はママへ。
もう一本はパパへ。
ママへの糸は、あたたかい桃色をしていた。
時々、強く光った。
きっとママがぼくのことを考えているときだ。
パパへの糸は、灰色がかった銀色だった。
でも、夜中にふいに光ることがあった。
不器用だけれど、確かにぼくへ向かって伸びていた。
白い塔の人たちは、やさしかった。
ミルクをくれた。
おむつを替えてくれた。
抱っこしてくれた。
遊んでくれた。
歌ってくれた。
熱を測り、体重を測り、ぼくの小さな成長を喜んでくれた。
「よく飲めたね」
「大きくなったね」
「今日はごきげんだね」
その声に嘘はなかった。
ぼくは、塔の人たちを嫌いではなかった。
むしろ好きだった。
人の手がやさしいことを、ぼくはここでも知った。
でも、どんなにやさしい手でも、ママの手にはならなかった。
夜、部屋が静かになると、ぼくは天井を見た。
天井には何もなかった。
でも、ぼくには星が見えた。
赤ちゃんだけが見える星。
まだ言葉を持たない者だけが聞ける、小さな宇宙の音。
そこに、月の舟が浮かんでいた。
月の舟には、眠れない赤ちゃんたちの願いが乗っていた。
お腹がすきました。
抱っこしてください。
おうちに帰りたいです。
ママに会いたいです。
パパの声が聞きたいです。
ぼくはここにいます。
ぼくの願いも、毎晩そこに乗った。
パパ、ママ。
早く迎えに来て。
ある夜、隣の小さな星が泣いていた。
その子は、泣きながら光をこぼしていた。
涙ではなく、光だった。
赤ちゃんの涙は、ときどき星になる。
大人には見えないけれど、ぼくには見える。
ぼくはその子の方へ顔を向けた。
大丈夫だよ。
言葉にはならなかった。
でも、ぼくの胸の灯を少しだけその子へ向けた。
その子の泣き声が、少し小さくなった。
ぼくは思った。
ここにいる子たちは、みんな悪い子ではない。
泣きすぎたから来たわけでもない。
弱いから来たわけでもない。
大人を困らせたから来たわけでもない。
ただ、大人たちの世界に嵐が来て、その嵐から小さな灯を守るために、ここへ運ばれてきた。
守ることと、離すこと。
愛することと、傷つけること。
帰りたいことと、まだ帰れないこと。
白い塔は、その全部が混ざった場所だった。
だからぼくは、毎晩祈った。
塔の人たち、ありがとう。
でも、ぼくには帰る糸があります。
どうか、その糸を切らないでください。
心から、そう願った。
7. 一時間の春
ママに会える日は、朝から世界の色が違った。
まだ誰も教えてくれないのに、ぼくにはわかった。
今日、ママが来る。
糸が朝からきらきらしている。
桃色の糸が、何度もぼくの胸をくすぐる。
白い塔の人が、ぼくをきれいな服に着替えさせてくれた。
髪をなで、顔を拭き、抱っこして廊下を進む。
廊下の先に、面会の部屋があった。
ぼくはその部屋を、一時間の春と呼んでいた。
そこに入ると、ママがいた。
ママはいつも、泣きそうな顔で笑っていた。
泣くことを我慢すると、人の顔は不思議な形になる。
口は笑っているのに、目の奥で雨が降る。
ぼくは、その雨を見た。
ママ。
ぼくは声を出した。
あー、とも、うー、ともつかない音。
でも、ぼくの中でははっきり言っていた。
ママ、来てくれたの。
ぼく、待ってたよ。
ママはぼくを抱いた。
その瞬間、世界が戻ってきた。
匂い。
体温。
心臓の音。
ぼくの背中を支える手。
髪が頬に触れる感じ。
忘れていなかった。
ぼくの体は、ママを忘れていなかった。
ママはぼくの名前を何度も呼んだ。
小さな声で。
壊れものに触れるように。
「ごめんね」
「会いたかった」
「大きくなったね」
「ママだよ」
ママだよ。
うん、知ってるよ。
ぼくはママの服を小さな手でつかもうとした。
でも、うまくつかめなかった。
指は空をかいた。
ママはそれだけで泣きそうになった。
パパが来る日もあった。
パパは少し離れたところに立っていた。
どう近づけばいいのかわからないみたいだった。
ぼくを見ると、顔がやわらかくなった。
「大きくなったな」
パパはそう言った。
ぼくはパパを見た。
パパ、こっちに来て。
ぼくはパパのことも覚えてるよ。
パパが抱っこすると、腕はまだ少し固かった。
でも、前よりあたたかかった。
パパの灯は、灰色の雲から少しだけ出ていた。
ママとパパが同じ部屋にいると、ぼくの胸の灯は大きくなった。
三つの灯が近くにある。
それだけで、部屋は家に近づいた。
でも、一時間の春は短かった。
大人たちは時計を見た。
白い塔の人が、やさしい声で終わりを告げた。
ママの腕が、ぼくを離したくないと言った。
パパの手が、どうしていいかわからないと言った。
ぼくは眠いふりをしようと思った。
眠ってしまえば、時間が止まるかもしれないと思った。
でも、時間は止まらなかった。
ぼくはまた別の腕に渡された。
ママの匂いが遠くなる。
パパの声が遠くなる。
扉が閉まる。
そのたびに、ぼくの胸の灯は小さくなった。
ママは何度も振り返った。
パパも振り返った。
ぼくは心の中で叫んだ。
まだ帰らないで。
ぼくも連れて行って。
ここにいるよ。
早く迎えに来て。
でも、ぼくの口から出たのは、短い泣き声だけだった。
一時間の春が終わると、塔にはまた白い冬が戻ってきた。
その日、部屋を出る直前、ママはぼくの小さな手に、見えない小石をひとつ握らせた。
もちろん本当の石ではない。
ママの胸の奥からこぼれた、約束のかけらだった。
「次に会うときまで、持っていてね」
ぼくは指を閉じることも開くことも、まだ上手にできなかった。
それでも、その小石はちゃんと手の中に残った。
あたたかくて、少し濡れていて、泣いたあとの頬みたいな温度がした。
白い塔の人に抱かれて廊下を戻るあいだ、ぼくはずっとその小石を感じていた。
ママの姿はもう見えない。パパの足音も遠くなった。
けれど、手の中の小石だけは消えなかった。
夜になって、隣の小さな星が泣いた。
ぼくも少し泣きたかった。
でも、手の中の約束がほのかに光ったので、ぼくは泣く代わりに息を吸った。
ママは来た。
パパも来た。
今日もぼくを忘れなかった。
それだけで、白い冬の中に、小さな春の種が埋まった気がした。
いつかその種が芽を出して、橋の上に花を咲かせる日が来るのかもしれない。
ぼくはまだ花を知らない。
けれど、ママの声が近づく朝の匂いは、きっと花に似ていると思った。
だからぼくは、その匂いを夢にしまって眠った。
8. 星灯りの評定
白い塔の奥には、星灯りの評定がある。
もちろん、大人たちはそれを星灯りの評定とは呼ばない。
でも、赤ちゃんのぼくには、それが星灯りの評定に見えた。
大きな机。
並んだ椅子。
紙の束。
静かな声。
難しい顔。
そこでは、ぼくの未来が話し合われていた。
ぼくはそこにいないことも多かった。
でも、ぼくの糸はその部屋へ伸びていた。
だから、遠くからでも少しだけわかった。
大人たちは、ぼくをどうすれば守れるか考えていた。
家に帰れるか。
まだ早いか。
ママとパパはけんかをしないでいられるか。
家の竜は眠っているのか。
怒りの刃はしまわれているか。
夜の部屋に雷は落ちないか。
ぼくの前で、声の嵐は起きないか。
ママはたくさん話した。
パパもたくさん話した。
話せないことも、話したくないことも、きっとあった。
でも、ぼくのために、ふたりはそこに座った。
ぼくはそれを感じていた。
ママの灯は、青く震えながらも逃げなかった。
パパの灯は、ときどき赤くなりかけながらも、そこに残った。
ふたりの灯の間に、ぼくの小さな灯が置かれていた。
大人たちは紙に線を引いた。
ぼくには文字は読めなかった。
でも、紙の上に、小さな橋が描かれていくのが見えた。
その橋は、白い塔と家をつなぐ橋だった。
まだ細い。
まだ揺れる。
まだ壊れそう。
一度に渡るには危ない。
でも、なかった橋が、少しずつ形になっていく。
ママはきっと、自分を責めていた。
あの日、もっとこうすれば。
あの夜、違う言葉を選べば。
もっと強ければ。
もっと優しければ。
もっと上手に助けを求められれば。
パパもきっと、自分の中の竜を見ていた。
どうして声を荒げたのか。
どうして逃げたのか。
どうして守りたい人を怖がらせたのか。
どうして大切なものほど、うまく抱けないのか。
ぼくは思った。
大人は、間違える生き物なのかもしれない。
赤ちゃんも、うまく飲めない。
うまく眠れない。
うまく手を動かせない。
でも、何度も練習する。
失敗して、泣いて、また抱かれて、少しずつできるようになる。
大人も、そうなのかもしれない。
愛し方を間違える。
怒り方を間違える。
助けの求め方を間違える。
でも、本当に戻りたい場所があるなら、練習できるのかもしれない。
ぼくは、赤ちゃん星灯りの評定の空に向かって祈った。
どうか、ママとパパにもう一度練習させてください。
どうか、ぼくの前で雷を落とさない練習を。
どうか、怒りではなく、手をつなぐ練習を。
どうか、ぼくの灯を真ん中に置く練習を。
その夜、ぼくは夢を見た。
ママとパパが、長い橋の向こうから歩いてくる夢だった。
ふたりは何度も立ち止まり、何度も言い合いそうになった。
でも、そのたびに、橋の真ん中にいるぼくを見た。
そして、また歩き出した。
9. お酒の竜と、言葉の刃
ぼくが白い塔に来てから、ママとパパの中にいる竜の形が、少しずつ見えるようになった。
ママの中には、眠れない鳥がいた。
その鳥は、いつも羽をばたばたさせていた。
お金は大丈夫か。
面会はいつか。
家に戻れるのか。
体は治るのか。
仕事はどうなるのか。
自分は母親なのか。
母親でいられるのか。
鳥は休まなかった。
ママは笑っていても、その鳥が胸の中で暴れていた。
だから、ママの灯はすぐに揺れた。
誰かの言葉。
誰かの沈黙。
予定の変更。
過去の記憶。
未来の不安。
小さな風でも、灯が消えそうになった。
パパの中には、お酒の竜がいた。
その竜は、普段は眠っているように見えた。
でも、寂しさや悔しさや怒りが近づくと、目を開けた。
パパの胸の奥で、黒い尾を動かした。
飲みたい。
忘れたい。
逃げたい。
強くなりたい。
責められたくない。
自由でいたい。
竜はそうささやいた。
お酒の竜が起きると、言葉の刃も出てきた。
本当は言いたくなかったはずの言葉。
言ったあと、自分でも傷つく言葉。
でも、出てしまえば相手を切る言葉。
ぼくは、その刃がママに向くのを見た。
パパ自身に向くのも見た。
そして、刃が空を飛ぶたびに、ぼくの毛布の上にも小さな影が落ちた。
赤ちゃんは、言葉の意味を知らない。
でも、言葉の温度は知っている。
「かわいいね」と言われると、胸が丸くなる。
「大丈夫」と言われると、呼吸が少し楽になる。
怒った声が飛ぶと、体がこわばる。
冷たい沈黙が続くと、眠りの底が浅くなる。
ぼくは全部、体で聞いていた。
だから、大人たちに言いたかった。
赤ちゃんの前では、言葉をやわらかくして。
ぼくは意味がわからないから大丈夫、なんて思わないで。
意味がわからないぶん、音そのものが胸に入ってくるんだよ。
ママの言葉にも、刃が混じることがあった。
それはママが悪いからではなく、ママも傷だらけだったからだ。
傷だらけの人は、ときどき自分の傷を守るために、相手を遠ざける。
遠ざけるための言葉は、鋭くなる。
パパも同じだった。
ふたりとも、ぼくを愛していた。
とても愛していた。
でも、愛していることと、傷つけないことは同じではなかった。
ぼくはそれを、白い塔で覚えた。
愛は火だ。
あたためることもできる。
燃やしてしまうこともできる。
だから、火の扱い方を覚えないといけない。
ぼくはまだ、ミルクを飲む練習をしている。
寝返りの練習も、声を出す練習も、笑う練習もしている。
ママとパパも、きっと練習中なのだ。
怒りを置く練習。
相手を変えようとする前に、息を吸う練習。
赤ちゃんの眠る部屋に、竜を入れない練習。
助けてほしいときに、刃ではなく手を出す練習。
ぼくは白い塔から、その練習を見守っていた。
ぼくは赤ちゃんだから、何もできない。
でも、何もできないからこそ、祈ることだけはできた。
パパ、お酒の竜を眠らせて。
ママ、眠れない鳥を休ませて。
ふたりとも、ぼくの前では、どうか火を小さな灯にして。
ぼくは、燃える家ではなく、あたたかい家に帰りたい。
早く帰らせて。
10. ママの涙は川になった
ママは、ぼくに会うたびに強くなろうとしていた。
髪を整えて、服を選んで、泣きすぎた目を隠して、白い塔へ来た。
ぼくの前では笑おうとした。
たくさん写真を撮ろうとした。
ぼくの成長を見逃さないように、目を大きく開けていた。
でも、ぼくには見えていた。
ママの涙は、目から落ちない日も、胸の中で川になっていた。
その川は、夜になると大きく流れた。
ぼくのいない部屋。
空のベビーベッド。
使われない小さな服。
乾いた哺乳瓶。
鳴らない泣き声。
ママは、その全部に囲まれていた。
赤ちゃんのいない赤ちゃんの部屋は、きっと世界でいちばん静かな森だ。
そこには、使われるはずだった時間が落ちている。
夜中に起きるはずだった時間。
抱っこで腕が痛くなるはずだった時間。
泣き止まなくて途方に暮れるはずだった時間。
眠った顔を見て、かわいいと思うはずだった時間。
その時間たちは、行き場をなくして、ママの足元に積もっていた。
ママは、それを踏まないように歩いていた。
でも、どこへ足を置いても、そこに「本当なら」があった。
本当なら、今ごろ一緒に寝ていた。
本当なら、今ごろミルクをあげていた。
本当なら、今ごろ泣き声に困っていた。
本当なら、今ごろ家族三人だった。
本当なら。
その言葉は、細い針になってママを刺した。
ぼくは白い塔のベッドで眠りながら、その痛みを遠くに感じていた。
桃色の糸が、夜になると冷たくなるからだ。
ママ、泣いてるの?
そう思うと、ぼくは目を開けた。
天井に向かって手を伸ばした。
何もない空をつかもうとした。
ママ、ぼくはここにいるよ。
見えないけど、糸はつながってるよ。
ある面会の日、ママはぼくを抱きながら小さく言った。
「ちゃんと迎えに行くからね」
その声は、約束というより、祈りだった。
自分に言い聞かせているようでもあった。
ぼくはママの胸に頬をつけた。
ママの心臓は速かった。
走っているみたいだった。
ママはずっと走っているのだと思った。
ぼくのところへ戻るために。
自分を立て直すために。
家をもう一度安全な場所にするために。
ママの涙の川は、ただ悲しいだけの川ではなかった。
それは、橋を作るための川だった。
流れながら、石を磨き、土を運び、新しい道を作っていた。
ママは弱くなったのではない。
一度、あまりにも大きな波にのまれただけだった。
ぼくは赤ちゃんだから、ママにそう言ってあげられなかった。
だから代わりに、笑った。
ほんの一瞬だった。
口の端がふわっと上がっただけかもしれない。
でも、ママはそれを見つけた。
「笑った?」
ママの灯が、ぱあっと金色になった。
そうだよ、ママ。
ぼくは笑ったよ。
ママの川に、光を落としたかったんだよ。
その日、面会の部屋には短い虹がかかった。
大人には見えなかったかもしれない。
でも、ぼくには見えた。
ママの涙の川の上に、ぼくの笑顔でできた虹が、確かにかかっていた。
11. パパの手は、まだ震えていた
パパは、ママより少し遅れてぼくに近づくことが多かった。
ママはぼくを見ると、すぐに腕を伸ばす。
でもパパは、一拍置く。
まるで、ぼくのまわりに見えない線があって、そこを越えていいか確かめているみたいだった。
ぼくはその線を知っていた。
それは罪悪感の線だった。
パパの心には、いくつもの石があった。
言ってしまった言葉。
してしまったこと。
しなかったこと。
守れなかった夜。
ママを泣かせた記憶。
ぼくを白い塔へ行かせてしまった事実。
その石は、パパの胸の底に沈んでいた。
パパがぼくを抱こうとすると、石がごろごろ音を立てる。
だから、手が震える。
それが伝わってきた。
ぼくは、その震えが嫌いではなかった。
震える手は、怖がっている手だ。
怖がっているということは、大事にしたいと思っている証拠でもある。
本当に何も感じていない手は、震えない。
パパがぼくを抱いた日、ぼくは泣かなかった。
泣く代わりに、パパの服を見た。
顔はまだよく見えない。
でも、声は聞こえる。
「ごめんな」
パパもそう言った。
大人は、ぼくを見ると謝る。
ぼくは不思議だった。
ぼくはまだ誰も責めていないのに。
ぼくはただ、抱っこしてほしいだけなのに。
ぼくはただ、一緒に帰りたいだけなのに。
でも、謝ることでしか近づけない日もあるのだろう。
パパの胸に耳を当てると、低い音がした。
硝子のゆりかごで聞いた、あの太鼓の音。
少し乱れていたけれど、確かに鳴っていた。
ぼくはその音に合わせて、まぶたを閉じた。
パパは息を止めた。
ぼくが眠りそうなのに気づいたのだ。
「寝た?」
小さな声でパパが言った。
パパの灯が、雲の奥で小さく揺れた。
ぼくは本当に安心していたのかもしれない。
少なくとも、その瞬間のパパの腕には竜はいなかった。
お酒の匂いも、怒りの刃もなかった。
ただ、不器用で、少し怖がりで、でもぼくを落とさないように必死な腕があった。
あたたかい腕だった。
ぼくはその腕を覚えていたかった。
パパ、ぼくはこの腕なら帰れるよ。
この腕で、ママの隣にいて。
竜を連れてこないで。
ぼくを抱くときの手で、ママのことも傷つけないで。
そう言いたかった。
パパはぼくの顔をじっと見ていた。
「小さいな」
また同じことを言った。
ぼくは心の中で笑った。
パパも小さいよ。
でも、大丈夫。
小さいものは、大きくなれるんだよ。
赤ちゃんのぼくが毎日少しずつ大きくなるように、パパの心も少しずつ大きくなれる。
間違えたところからでも、抱き方を覚え直せる。
どんなことも未来に向かって、変えていける。
ぼくはそう信じたかった。
面会の終わりに、パパはぼくの足をそっと触った。
硝子のゆりかごのときと同じように。
ぼくは足の指を少し動かした。
パパの灯が、ふっと明るくなった。
ぼくたちの合図だった。
まだ帰れなかった。
でも、糸はつながっている。
12. 小さな王様の会議
白い塔の赤ちゃんたちは、夜になると会議をする。
もちろん、本当の声では話せない。
みんな、あーとか、ふにゃとか、んん、とかしか言えない。
でも、星の言葉なら話せる。
星の言葉は、息と光でできている。
眠りかけのまぶたの裏で、胸の灯を少し揺らすと、隣の子に気持ちが届く。
その夜、ぼくたちは月の舟の下に集まった。
泣き虫の星が言った。
「きょう、ママのにおいがした」
静かな星が言った。
「ぼくは、パパの声を忘れそう」
よく飲む星が言った。
「ぼくはここもすき。でも、ひとつだけの腕がほしい」
ひとつだけの腕。
その言葉に、みんな黙った。
白い塔には、たくさんの腕がある。
やさしい腕。
慣れた腕。
安全な腕。
交代でぼくたちを抱く腕。
でも、赤ちゃんは知っている。
たくさんの腕と、帰る腕は違う。
帰る腕は、匂いが決まっている。
心臓の音が決まっている。
抱き方が少し下手でも、なぜか体が覚えている。
その腕の中では、泣き声の形まで変わる。
ぼくは言った。
「ぼくには、ママの腕とパパの腕がある。でも、まだ遠い」
泣き虫の星が、ぼくの方を見た。
「むかえにくる?」
ぼくは答えられなかった。
来る。
そう信じたい。
でも、赤ちゃんのぼくにはわからない。
大人たちの星灯りの評定の結果もわからない。
橋がいつ渡れるようになるのかもわからない。
だから、正直に言った。
「わからない。でも、糸はある」
静かな星が、うらやましそうに灯を揺らした。
「糸があるなら、だいじょうぶ」
本当にそうだろうか。
糸があっても、絡まることがある。
細くなることがある。
大人の手で、ほどくのに時間がかかることがある。
切れることもある。
でも、切れていない糸は、希望なのだと思った。
その夜、月の舟から小さな王冠が落ちてきた。
王冠は、ぼくたち全員の頭に一瞬ずつ乗った。
赤ちゃんはみんな、小さな王様なのだと月が言った。
王様なのに、自分ではどこへも行けない。
王様なのに、ミルクも自分で作れない。
王様なのに、泣くことしか命令できない。
それでも、ぼくたちは王様だった。
なぜなら、大人たちの世界を変える力を持っているから。
ぼくが生まれる前、ママとパパはふたりだけの国にいた。
そこには、自由も、仕事も、けんかも、夢も、過去もあった。
でも、ぼくが生まれたことで、国の真ん中に小さな玉座ができた。
そこに座っているのは、ぼくだ。
ぼくは命令できない。
でも、存在しているだけで、大人たちは問われる。
この子の前で、どう生きるのか。
この子に、どんな家を渡すのか。
この子が眠る場所に、どんな言葉を置くのか。
この子の灯を、何から守るのか。
赤ちゃんは、世界でいちばん弱い王様だ。
でも、弱いからこそ、真ん中に置かれなければならない。
ぼくは王冠を胸にしまった。
そして、月の舟に願いを乗せた。
ママとパパが、ぼくの王国を思い出しますように。
けんかの勝ち負けではなく、ぼくの眠る場所を守ってくれますように。
ふたりの痛みより先に、ぼくの小さな灯を見てくれますように。
その願いは、夜空へ上っていった。
13. 橋の練習
橋は、少しずつ太くなっていった。
最初は糸のようだった。
触れたら切れそうで、風が吹けば消えそうだった。
でも、ママとパパが白い塔へ来るたびに、橋には板が一枚ずつ増えた。
面会に来る。
時間を守る。
ぼくの様子を聞く。
大人の話し合いに参加する。
家での約束を作る。
怒りの竜を部屋に入れない方法を考える。
困ったときに、誰に助けを求めるか決める。
一枚。
また一枚。
橋はまだ揺れていた。
でも、以前よりは渡れそうに見えた。
ある日、ママとパパが一緒にぼくの前に座った。
ふたりの間には、少し距離があった。
でも、その距離は冷たい谷ではなく、これから橋をかけるための空間に見えた。
ママが言った。
「この子の前では、もう感情的に言い合わない」
パパがうなずいた。
「お酒も、ちゃんと考える」
大人の言葉は、ぼくには全部わからない。
でも、その言葉の下にある形は見えた。
約束の石。
反省の水。
少しの不安。
それでも進もうとする足。
ぼくは、ふたりを見た。
本当にできるの?
また竜が来たら?
また雷が落ちたら?
またぼくは馬車に乗るの?
そんな問いが、ぼくの小さな胸にもあった。
赤ちゃんだから何もわからないわけではない。
赤ちゃんは、未来の予定はわからない。
でも、空気の変化はわかる。
抱く手が本気かどうかも、少しだけわかる。
その日のママの手は、震えていたけれど逃げていなかった。
パパの目は、泳いでいたけれどそらし切ってはいなかった。
だから、ぼくは小さく声を出した。
「あう」
それは、赤ちゃんの声だった。
でも、星の言葉ではこういう意味だった。
練習して。
ぼくも練習してるから。
ミルクを飲む練習。
首を持ち上げる練習。
人の顔を見る練習。
笑う練習。
手を伸ばす練習。
この世界を信じる練習。
だから、ママとパパも練習して。
怒りを飲み込む練習ではなく、怒りを安全な場所へ置く練習。
我慢して爆発する練習ではなく、爆発する前に言葉を小さくする練習。
相手を勝たせない練習ではなく、ぼくの眠りを勝たせる練習。
ママはぼくの声を聞いて笑った。
「何か言ってるね」
パパも笑った。
「応援してるのかな」
そうだよ。
ぼくは応援している。
でも、お願いもしている。
ぼくを守るって、白い塔に預けることだけじゃない。
ぼくを家に戻すことだけでもない。
ぼくが戻った家を、安心できる場所にすること。
それが、ぼくを迎えに来るということなんだよ。
迎えに来るのは、体だけじゃない。
心で迎えに来て。
家の空気で迎えに来て。
言葉で迎えに来て。
夜の静けさで迎えに来て。
ぼくはそれを待っている。
橋の向こうで、ずっと。
14. 帰る夢
ぼくはよく、帰る夢を見た。
夢の中では、白い塔の天井が空になる。
月の舟が降りてきて、ぼくのベッドをそっと持ち上げる。
白い鳥たちが手を振る。
「いってらっしゃい」
「大きくなるんだよ」
「幸せにね」
ぼくは舟に乗って、夜の街を渡る。
街の灯は、ミルク色ににじんでいる。
車は眠った獣みたいに静かで、信号は赤、青、黄色の星になる。
ぼくの胸から伸びる二本の糸が、前へ前へと光る。
やがて、家が見える。
前に竜がいた家。
雷が落ちた家。
でも、ママの匂いがある家。
パパの太鼓が鳴る家。
ぼくの服と、毛布と、まだ使い切っていない時間が待っている家。
夢の中の家の扉には、小さな札がかかっている。
「竜はここから先、入れません」
その札を書いたのは、ママとパパだった。
扉を開けると、ママがいる。
ママの灯は、まだ少し揺れている。
でも、前よりも真ん中に芯がある。
眠れない鳥は、ママの肩で目を閉じている。
パパもいる。
パパの雲は薄くなっている。
お酒の竜は、遠くの森で眠っている。
パパの手には刃ではなく、ぼくの哺乳瓶がある。
ふたりはぼくを見て、同時に笑う。
その笑顔だけで、部屋が朝になる。
ママがぼくを抱く。
パパがそばで毛布を直す。
ぎこちないけれど、ふたりでぼくを見ている。
ぼくは泣く。
夢なのに、泣く。
泣くと、ママが言う。
「大丈夫だよ」
パパが言う。
「ここにいるよ」
その言葉は、硝子のゆりかごで聞いた「大丈夫」と同じくらい、ぼくの胸にしみる。
ぼくは夢の中で思う。
ああ、これが帰るということか。
場所に戻るだけではない。
腕に戻ること。
匂いに戻ること。
名前を呼ぶ声に戻ること。
そして、大人たちがもう一度、ぼくのために世界を整えてくれること。
でも、夢から覚めると、ぼくはまだ白い塔にいた。
天井は天井で、舟はなかった。
ママの腕も、パパの声もなかった。
ぼくは少しだけ泣いた。
白い塔の人が来て、抱っこしてくれた。
「どうしたの、さみしくなっちゃった?」
さみしい。
きっと、それがこの気持ちの名前だ。
ぼくは初めて、さみしいを覚えた。
お腹がすくのとは違う。
眠いのとも違う。
痛いのとも違う。
さみしいは、胸の真ん中に小さな穴が開くことだった。
そこから風が入って、体が冷たくなる。
抱っこされると少し塞がる。
でも、本当にぴったり塞がる形は、ひとつしかない。
ママの腕。
パパの声。
家の空気。
ぼくは白い塔の人の肩で、もう一度眠った。
そして、同じ夢を見た。
何度も。
何度も。
帰る夢は、ぼくの中で消えなかった。
15. ぼくの最初の言葉
赤ちゃんには、言葉になる前の言葉がある。
泣き声。
笑い声。
指の動き。
目の向き。
眠るときの呼吸。
抱っこされたとき、体の力を抜くこと。
嫌なときに背中を反らすこと。
大人はそれを「反応」と呼ぶ。
でも、ぼくにとっては全部、言葉だった。
ぼくは毎日、話していた。
お腹がすいたよ。
眠いよ。
まぶしいよ。
抱っこして。
ちょっと違う。
それは好き。
それはこわい。
ここにいるよ。
忘れないで。
ある面会の日、ママとパパがいつもより長くぼくを見ていた。
大人たちの話し合いが進んでいるのかもしれなかった。
橋がもう少しで渡れるのかもしれなかった。
でも、まだ確かなことは誰も言わなかった。
「確認してから」
「段階を踏んで」
「安全に」
「焦らず」
そういう言葉が、空気の中に浮かんでいた。
焦らず。
大人たちはよくそう言う。
でも、赤ちゃんの時間は大人より速い。
昨日できなかった顔を、今日する。
今日着られた服が、明日きつくなる。
一週間で、抱いた重さが変わる。
ぼくの生後半年以内の時間は、星が生まれるくらい大きな時間だった。
だからぼくは、大人たちに言いたかった。
焦らないでいい。
でも、忘れないで。
ぼくは毎日大きくなっている。
今日のぼくは、今日しかいない。
ママはぼくの手を握った。
「迎えに行くからね」
パパも言った。
「待っててな」
待ってて。
ぼくは、その言葉を胸に入れた。
待つって、何だろう。
赤ちゃんのぼくは、自分でカレンダーをめくれない。
あと何日か数えられない。
明日と来週の違いもわからない。
待つとは、糸を信じることだった。
見えないけれど、つながっていると信じること。
今は腕の中にいなくても、名前を呼ぶ声が消えていないと信じること。
会えない夜にも、ママとパパがぼくの方へ歩いていると信じること。
でも、信じるだけでは足りない日もある。
その日、面会の終わりが近づいたとき、ぼくは泣かなかった。
泣いたら、ママがもっとつらくなる気がした。
だから、ぼくは目を開けた。
ママを見た。
パパを見た。
そして、口を動かした。
声になったのは、ただの「あ」だった。
でも、星の言葉では、はっきりこう言った。
早く。
ママの灯が震えた。
パパの灯も揺れた。
ぼくはもう一度、口を動かした。
「あ、あ」
早く。
早く迎えに来て。
それは、ぼくの最初の言葉だった。
大人の耳には届かなかったかもしれない。
でも、ママの胸には届いた。
パパの手にも届いた。
ママはぼくをぎゅっと抱きしめた。
「うん。早く迎えに行く」
パパは何も言わなかった。
でも、ぼくの頭をそっとなでた。
その手は、震えていなかった。
16. 迎えに来るということ
ぼくはまだ、帰れていない。
今も、ぼくは白い塔のベッドで眠っているのかもしれない。
あるいは、もう橋の途中まで来ているのかもしれない。
もしかしたら、ママの腕に戻る日が、すぐそこまで来ているのかもしれない。
赤ちゃんのぼくには、まだ日付が読めない。
でも、灯は見える。
ママの灯は、前よりもまっすぐになった。
揺れる日はある。
青く沈む夜もある。
それでも、ぼくの方へ伸びる光は消えない。
パパの灯は、雲の奥から少しずつ出てきた。
竜はまだ完全には消えていない。
でも、パパは竜の名前を知り始めた。
名前を知った怪物は、知らない怪物より弱くなる。
白い塔の人たちは、今日もぼくを抱いてくれる。
ぼくの体重を測り、ミルクを作り、眠るまで背中をなでる。
その手にも、たしかな愛がある。
だから、ぼくは知っている。
ぼくは捨てられたのではない。
ぼくは罰を受けているのでもない。
ぼくは、大人たちがもう一度家を作るあいだ、白い塔で守られている。
でも、守られていることと、帰りたいことは、同時に本当だ。
ぼくは守られている。
そして、帰りたい。
ぼくは白い塔の人たちが好き。
そして、ママに抱かれたい。
ぼくはパパの手を覚えている。
そして、家の竜が眠っていることを願っている。
赤ちゃんの心は、小さいけれど単純ではない。
ぼくの中には、ありがとうも、さみしいも、こわいも、好きも、待ってるも、全部ある。
大人たちへ。
ぼくはまだ、あなたたちの言葉を話せません。
でも、あなたたちの声の温度を聞いています。
あなたたちの手の迷いを感じています。
あなたたちがぼくを見るときの光を覚えています。
どうか、ぼくの前で勝ち負けを決めないでください。
ママが正しいか、パパが正しいかよりも、ぼくが安心して眠れるかを見てください。
どちらが傷ついたかを数える前に、これから傷を増やさない方法を探してください。
過去を消すことはできなくても、次の夜の声を小さくすることはできます。
竜を一度も起こさない完璧な大人になれなくても、竜が起きそうなときに部屋を出ることはできます。
刃を持ってしまったら、振り下ろす前に置くことはできます。
泣きたいなら、怒鳴る前に泣いてください。
助けてほしいなら、責める前に助けてと言ってください。
ぼくは、ふたりが完璧だから帰りたいのではありません。
ぼくは、ふたりがぼくのママとパパだから帰りたいのです。
ママ。
あなたの腕の中で、ぼくは最初に世界を信じました。
あなたの声は、ぼくが空から落ちてきたときの命綱でした。
あなたが泣いていても、ぼくはあなたを嫌いになりません。
あなたが弱くなった日があっても、ぼくはあなたを忘れません。
だから、自分を責める石を、少しずつ川に流してください。
その手で、またぼくを抱いてください。
パパ。
あなたの手は不器用だけれど、ぼくはその手のあたたかさを知っています。
あなたの胸の太鼓を、ぼくは覚えています。
竜がいるなら、ひとりで戦わないでください。
竜をぼくの部屋に入れないでください。
その手を、刃ではなく毛布にしてください。
その声を、雷ではなく子守歌にしてください。
ぼくは待っています。
白い塔のベッドで。
月の舟の下で。
桃色と銀色の糸を胸に巻いて。
毎日少しずつ大きくなりながら。
ぼくの手は、まだ小さい。
でも、もう伸ばせます。
ママの方へ。
パパの方へ。
家の方へ。
早く迎えに来て。
ただし、急いで竜を連れて来ないで。
雷のまま来ないで。
ぼくを取り合うためではなく、ぼくを守るために来て。
迎えに来るということは、抱き上げることだけではない。
ぼくが泣く夜を、ふたりで越えること。
眠れない朝を、責め合わずに迎えること。
ぼくの眠る部屋の外で静かにすること。
助けてくれる人の手を、恥ずかしがらずに借りること。
家族というものを、毎日作り直すこと。
ぼくは、その家に帰りたい。
完璧な家ではなくていい。
広い家でなくてもいい。
きれいに片づいた家でなくてもいい。
泣いても抱かれる家。
怒りが来ても、誰かが火を小さくできる家。
ママがママでいられる家。
パパがパパでいられる家。
ぼくが赤ちゃんでいられる家。
それだけでいい。
それだけで十分だよ。
今夜も、白い塔に夜が来る。
白い鳥たちが、ぼくに毛布をかける。
隣の小さな星が、眠りながら手を動かす。
機械の音が、遠い波みたいに聞こえる。
ぼくは目を閉じる。
胸の糸を、そっとたぐる。
ママ。
パパ。
聞こえますか。
ぼくはここにいます。
ぼくは生きています。
ぼくは大きくなっています。
ぼくは、あなたたちを待っています。
早く迎えに来て。
でも、ちゃんと迎えに来て。
ぼくの小さな灯を、真ん中に置いて。
そのとき、夜空のどこかで、月の舟がきらりと光った。
ぼくの願いを乗せて、舟はゆっくり進んでいく。
白い塔から、家へ。
家から、ママの胸へ。
ママの胸から、パパの手へ。
パパの手から、ぼくの未来へ。
ぼくはまだ、未来という言葉を知らない。
でも、未来の匂いはわかる。
それは、ミルクの匂いに少し似ている。
涙のあとに干した毛布の匂いにも似ている。
朝の光がカーテンを通るときの、やわらかい匂いにも似ている。
ぼくはその匂いを吸い込んで、眠る。
夢の中で、扉が開く。
ママがいる。
パパがいる。
ふたりは、ぼくの名前を呼ぶ。
今度は、泣き声ではなく、ぼくの全部で返事をする。
ここだよ。
ずっと待ってたよ。
おかえり。
そして、ただいま。