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夕月の舟-中山三屋をたずねて   

      織姫によみてたむけゝる
     こひこひて あふよなりけり 天の河 とくさしいでよ ゆふつきの舟

    『浮木廼亀』中山三屋

    (訳)恋い焦がれて、ついに逢える夜となったのだなあ、天の川よ。
    早く漕ぎ出しておくれ、夕月の舟。

     3月のある日、私にとって思いもかけない再会があった。
    何気に入ったラーメン店で案内されたカウンター席につくと、隣りによく知った顔があったのである。もう長い年月会うことがなかった人ではあるが、チラリと見た横顔は昔と変わらない。こういう時に、私はなかなか声をかけることができない。幼い頃から人見知りで、相手から声をかけてもらって初めて何食わぬ顔で今気づきましたとばかりに話をするのである。加えて、7年という年月ですっかり成長した姿は、私との長い隔たりを感じさせるものでもあった。あちらも知らないふりを決め込んで全く私に話しかける気配はない。カウンターのテーブルにスマホを立てかけ趣味のゴルフの動画をみている。ゴルフカートで移動したりパターしたりの動画を盗み見。そうこうしているうちに隣にはラーメンどんぶりが到着。左手に箸を持ち食べ始める。もしや人違いかもと思ってはみたもののFACE IDに2段階認証も突破している。パニクり気味の私のもとにもラーメン着丼。にわかに、隣のどんぶりがカラになったら彼は席を立ってしまうのだろうかという不安がおそう。そんなことを思い始めた矢先、彼は替え玉を注文した。時間延長。少しだけホッとして自分も食べ始める。しかし、替え玉はあっという間に平らげられ何の躊躇もなく席を立って行ってしまった。
     何をいい年して声ひとつかけられないとはと思われるだろうが、7年という月日は、私の容姿を衰えさせるのに十分で、その上よりによってそれいつまで着ているのと聞きたくなるような着古しのセーターにスッピン眼鏡だったこと。普段からちゃんとしてないからこんなことになるのだと情けない思いになる。三屋がつなげてくれたせっかくの機会。なのに、私ときたら一言も言葉を交わさずに見送ってしまった。


     あわただしい再会から遡ること一か月前、私はひとり旅に出ていた。急に行きたい衝動がわいて、そしたらいてもたってもいられない性分でロクに計画も立てずに新幹線にとび乗ったのだ。

     今回の旅の目的は、ここ数年魅了されている幕末勤王女流歌人である中山三屋の足跡をたどることである。阪神エリアに絞り、彼女が歩いた場所に立ち、見たであろう風景の断片を追体験することで時を越えて同期したい。そんな少し怪しげな動機であった。

     三屋とは、母方の先祖を調べていく中で、高祖父末松軍平と交流があったことで知ることとなり、たちまち私の中で大きな存在となったのである。
     彼女は、幕末期の歌人で、周防出身の戸倉恭輔(後に中山姓)と大納言中山忠能の奥女中室谷民子の娘とされている。しかし、実際は忠能の庶子ではないかといわれており、旅をしながら諜報活動をし、忠能にながしていたようだ。
     彼女の生い立ち、諜報活動という陰の仕事、そのどれもが真実であったとしても日の目を見ることはない。彼女の歌からは、決して成就することがなくとも、それでも溢れるような恋心が言の葉となって詠む人の心にはらはらと舞い落ちるのである。三屋は、誰に恋をしていたのだろうか。最近はそのことばかり考えている。
     さて、そうこうしているうちに新幹線は新大坂に到着。

     梅田でたこ焼きを食べ、天満橋のホテルに荷物を預けるとようやく旅が始まる。

    かたがたに引きわかれゆく川舟のつなでにものをおもふころかな

    『詠草〔1〕』中山三屋

    (訳)同じ方向に進んでいた川舟もそれぞれの目的地に綱手で引かれて離れ離れになっていくなあ

     最初に向ったのは八軒屋。江戸時代、ここは京都と大阪を結んだ三十石船の発着地であった。夜に伏見を出た船は、淀川を下り、朝には八軒屋船着き場に到着した。一方京都行の上りは一日がかりだったのだそう。三屋も旅の折には、何度も行き来し使い慣れた往路だったに違いない。当時の船着場は、現在の場所から100メートル程内陸側にあった。現在は、八軒家船着場の跡として碑が建っておりその裏手には船着場の石段が当時の面影をのこしている。

     同時刻に同じ川を下っていると、すわ目的地も同じなのではと錯覚してしまいますが、皆それぞれの場所を目指し、いつしかバラバラになっていくのは寂しいものです。その時、はじめて同じ舟に乗っているわけではないことに気づかされる。だからこそ、同じ時に同じ川を進んでいたその束の間を楽しまなくてはならないのかもしれません。

     途中、川沿いのカフェで休憩し、外に出ると日が傾きかけている。
     かつて諸藩の蔵屋敷が並んでいただろう川沿いを歩き、常安橋に到着する頃には河口に浮かぶ夕日が沈みかけていた。常安橋のすぐそばにあったのが長州藩蔵屋敷である。

    堀江がわさすや夜舟のさおの上にみだれてさわぐむら千鳥かな

    『浮木廼亀』中山三屋

    (訳)堀江川で夜舟を進めている棹の上に群千鳥が乱れ騒いで飛び交っている

     世の中に漕ぎ出そうとしている舟が、寝静まった夜にこっそりと舟を出している。ところが、どこで聞きつけたのか針路を決める棹の周りには千鳥が群がって騒々しく飛び交っている。夜舟を世の舟と読み替えると、幕末期の権謀術数が想起させられる意味深な歌に思えてきます。三屋が恋した志士は無事に明治の代をむかえることができたのだろうか。
     西国の旅では何度も長州藩を訪れている三屋だから、きっとここにも何度も足を運んだに違いない。三屋も常安橋から淀川の河口に沈む夕日をみたのだろうか。

     その夜、泊まったホテルで奇妙なことが起きた。
     就寝中、バスルームの蛇口から勝手に流れる水の音で起こされ、もう一度寝なおすものの今度はサイドテーブルに置いてあったスマホが床に落ちたのである。ここは幽霊ホテルか。最後はいたずらの主が夢にまででてきて忙しい夜になってしまった。

     二日目。曇天。
     寝不足のため頭も曇り。この日は、淀川の水上バスに乗る。寒空ではあるが川からの眺めは悪くない。造幣局・大阪天守閣・中央公会堂、土佐堀川沿いに町屋風に隙間なく並んだ建物がいい感じ。
     下船後は、天満橋近くで早めの昼食。彩り膳を食べながら午後の行先を考える。先ほど水上バスでくぐったいくつもの橋の一つに天神橋があった。地図では橋の先に大阪天満宮がみえる。八軒屋から目と鼻の先程の場所にあるのだから三屋もきっと訪れたのではないだろうか。それに私がひとり旅を始めた頃に最初に訪れたのも防府の天満宮である。同じ天神様。なにかご縁があるかもしれない。

     天神橋を渡ってすぐの天神橋筋商店街には飲食店がたち並んでいる。ここで昼食をとってもよかったかもと思いながら既にお腹が満たされているため今回はながめるだけ。程なくして表門に到着。門のわきにある境内案内図をみてみると本殿の裏に亀の池(星合の池)というのがある。亀⁈星合⁈
     三屋の記号を発見!こんなにあっさりとみつかるとは。亀は、三屋の歌集「浮木廼亀」の題名にもつかわれている彼女のモチーフといっていい。「浮木廼亀」とは、仏教説話「盲亀浮木」からとったもので100年に一度だけ海面に顔を出す盲目の亀が漂う流木の穴に頭を入れるほどめったにない幸運や極めて稀な機会を指す譬喩。そして星合は、牽牛と織姫が1年に一度天の川を渡って出会う七夕のことである。この亀と星合を掛け合わせると、悠久の時の中で数えきれない程の星の中からたった一つの星と出会うととれる。
     早速境内に入ると紅白の梅が迎えてくれる。防府の天神様に行った時もちょうど2月で梅の盛りであった。一通り境内を巡り裏門から出てすぐに亀の池がある。池に架かっている「星合橋」から中島で亀が甲羅干ししている。

    さながらにうつしとめばやこよひこそねがひたらひのほし合の影

    『詠草〔2〕』中山三屋

    (訳)そのままの姿を写しとめておきたいものだ。今夜こそ願いをかける盥(たらい)の水に映る七夕の星の姿を

    こぞの秋ぬれてわかれしたなばたの雲の衣やほし合の空

    『詠草〔2〕』中山三屋

    (訳)去年の秋、涙にぬれて別れた七夕の二つの星は、あの雲の衣を纏って今再び出会っているだろうか。この星合いの夜空で。

    別れては出逢い、出逢っては別れる。セツナイものですね。

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     ひとり旅も3日目。
     前日に大阪から神戸へ移り元町の中華街そばにあるホテルに一泊。その日の夕食は、南京町をプラ~歩いて目についた店に入って食べることにした。アタリかハズレかは食べてみないとわからない。とは言え不味い中華なんてそうそうないだろうと高をくくっていた。ビールを飲みながらラーメン・エビチリ・焼き小籠包の定食を待つこと10分。テーブルにおかれた料理をみて少しガッカリ。多分これ冷めてる。予感は的中。ラーメンのスープはぬるいし麺は団子のように固まっている。エビチリも焼き小籠包も油っぽいだけでおいしくない。もったいない精神だけでなんとかお腹におさめた。やっぱり前情報を仕入れてから行けばよかったと後悔。しょんぼり宿に戻り明日に備えて早めに就寝。
     翌朝、神戸の元町駅からJR神戸線で明石にむかう。電車は、海岸線に沿って進み車窓からは瀬戸内の穏やかな海がみえる。水面に反射した水光が時間を過去に戻す振り子のように揺れる。ぼんやりとしていると、電車が停車駅に到着し車両の扉が開いた。「塩屋」の駅名標がみえる。「塩屋」。私がまだ十代だった頃によく聴いていた大江千里の「塩屋」という曲。シティーポップで歌われているような物語にあこがれて繰り返し聴いていた中学生の自分を思い出す。その頃の私は、世の中は自分の都合でまわっていて、薄っぺらで、何にも知らない田舎娘で、そんなんだからとんでもなく傲慢で自分のことも他人のことも誰も好きではなかった。それなのに、この世界に映るものは、みんな水面に反射している水光のようにキラキラ輝いていた。
     さて、思い出話はここまでにして山陽鉄道に乗り換え電車は人丸前駅に到着。この日の本丸である人丸神社へ。住宅地を通って西参道から人丸山に登っていくことにする。参道の入口には亀の水という湧水が出ている。寛文四年(1664)以前から湧いているようで亀形の樋水口は享保四年(1719)に造られたものなのだそう。長寿の水とあるから亀形になっているのだろう。それにしても三屋の行くところに亀あり。そうそうなぜここに来たかというと、三屋は明石に住んでいたことがあり人丸神社のそばにある茶店の梶本美代とはその頃から親交が深く明治二年の最後になる西国の旅でもここに立ち寄りしばらく逗留している。そんなわけで人丸神社と現在も営業中の「茶店かじもと」を訪ねることにしたのである。
     鳥居の両脇には丁度梅が咲いている。しばらく上ると視界が開けて頂上に。ここからは明石の街並みとその先には瀬戸内海に架かる明石海峡大橋が見渡せる。遠くにゆっくりと航行する船がみえる。昨年、三屋の墓を訪ねた時、お寺の裏山でみた徳山の街並みの景色と重なる。そういえば三屋が防府で私の高祖父末松軍平と上った佐野峠からもきっと防府の街並みを見下ろしていたはず。非日常である旅を日常としていた三屋は、山から見下ろす街並みをどのようにながめていたのだろう。なにか市井で暮らす人々と自分との間に隔たりを感じていたのではないだろうか。

    人並みのいとなみもせでつくづくとけふの夕べのかねをきくかな

    『浮木廼亀』中山三屋

    (訳)人並みの営み(世俗的な生活)もせず、ただぼんやりと物思いにふけりながら、今日の夕方の鐘の音を聞いていることだなあ。

     旅する人が、異邦人であったように、私達もまた人生での折節で異邦人となることがある。エトランゼ(étranger)。大昔、英語の高校教師が発した言葉がよみがえる。高校を卒業したら皆それぞれに進学・就職した場所でエトランゼになりますよ。そんなような話だった。そもそも当時はエトランゼの意味を知らなかったから何を言っているのやらだったが、田舎から東京に出て進学、就職し確かにその度に私は立派なエトランゼだった。そんなことを考えて少ししんみりとする。
    なに、今日はセンチメンタル?

     山の上にある人丸神社で参拝しおみくじを引く。凶。神社参拝の折には記念におみくじを引くのだが、かなりの確率で凶を引く。そのため最近では凶は強運と解釈している。歌聖として崇敬されている柿本人麻呂。昔読んだ井沢元彦の『猿丸幻視行』は、人麻呂と猿丸は同一人物であったという仮説をもとにした小説で、今回の旅の前に読み返そうと思ったらBOOKOFFに断捨離済。残念。 人麻呂といえば、「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば~」や「あし曳の山鳥の尾のしだり尾の~」が有名ですが、境内の石碑に刻まれた歌はけっこうダイナミックで湿っぽい歌が頭にこびりついてる人はこちらで人麻呂の印象がかわります。

    天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

    『万葉集』

    (訳)都から遠く離れた田舎から長い道のりを都を恋しく思いながらやって来ると明石の海峡から大和の国が見えてくる。

     船で瀬戸内海を東にのぼり明石海峡から見た大和の山々の景色を詠んだものといわれている。「ああ帰ってきたなあ」という思いは、現代でいえば遠方に赴任中のサラリーマンも同じではないだろうか。赴任を終え帰途の飛行機が高度を下げ故郷に近づく。座席横の窓をのぞくと雲のすき間から自分が暮らしていた平地がみえてきた時に思う「ああ帰ってきたなあ」そんな感じだろうか。

     「茶店かじもと(梶本茶屋)」は、お社のすぐそばにあった。先ほども書いたとおりここの茶屋を営んでいた美代とは、三屋が明石で暮らしていたころから懇意にしており、明治二年最後の旅となった西国に出た時にもしばらく美代のところに逗留している。店の引き戸を開けると、店主であろう高齢の女性が新聞を広げていた。ぜんざいを注文し、タイミングをみて話しかけてみる。すると、店主は美代の親族でここでずっと営業を続けていること、美代はよく明石城までお茶を点てに行っていたこと、墓は人丸神社の隣の月照寺に在り阪神大震災で石が二つに割れてしまったが修復したことなどを教えてくれた。美代考案の芭蕉に因んだ蛸壺はまだ売っているのか聞いてみたが作っていた人が亡くなってしまったため今はないとのことだった。
     明石時代の美代との交流は、『をりにふれ事につきてかけること葉』の中の「春の山ふみの記」に詳しい。三月のはじめに、三屋、三代子(美代)、はる子(美代の娘)の三人で花見に出かける道中が書かれている。文中には、花見に誘っても来なかった武士に、翌日三屋が花をつけて手紙を出している。そこからは、つれない武士に妬ましさ半分、それでも一緒に花をみたかったという悩ましい様子がうかがえる。
     茶店を出た後は月照寺にある美代の墓をさがす。墓地は広いが、丁度中央の背の高い石がそれですぐにみつかった。地震で真ん中から二つに折れたのが修復されて建っている。辞世の歌が変体仮名で刻まれているがなんと書いてあるのか判読できないのが残念。明治四十二年とあるから三屋と違って長生きしたようだ。

     美代のお墓を後にし、明石駅に戻り明石焼きのお店「玉子焼き本家きむらや」に並ぶこと20分。一人前20個の明石焼きを平らげる。茶店でぜんざいも食べていたので後半の10個は少しきつかったがお出汁であっさり食べられた。食後は隣にある浜光明寺に立ち寄る。ここは、三屋の育ての父である戸倉泰輔(後に中山姓)の菩提が弔われていたところ。泰輔は、三屋と明石で暮らしていたころに亡くなっており三屋も何度か墓参りで訪れている。とは言え、現在泰輔のお墓があるのかといえば難しい。墓地を少し覗いてみたが無縁仏となっているだろう古い墓石がいくつもまとめて置いてある。花粉症状がだんだん重くなってきたので神戸にもどることにした。

     最終日。神戸。
     前日に大量の花粉をあび風邪っぽくなりかなり早い時間に寝てしまったのでこの日は夜明け前に起きてしまった。それならとホテルのチェックアウト前に神戸の街を散歩することにした。ホテルは、三宮からポートライナーで一駅の貿易センター駅のそばにある。
     はじめに行ったのは、神戸港開港時に造られた運上所(のちの神戸税関)があった場所。現在の税関はフラワーロード(当時は水路だった)を下ったところにあるが、当時は高速道路の辺りまで海だったため現在より内陸側に建っていた。当時の絵では寂しい漁村に不似合いな運上所(のちの税関)と倉庫だけが目立って描かれている。それもそのはず、慶応三年5月に開港の勅許をえて同年12月に開港しているのだから突貫工事でなんとか間に合わせた港である。いや、これが港かと思うくらいである。そんな短い工期で出来上がった運上所ではあるが、「ビードロの館」と呼ばれ窓にはめられたガラスに日光が反射されて建物が輝いて見えていたそうである。跡地につくと「神戸税関発祥の地」と刻まれた碑がちょうど東から昇ってきた朝日に照らされている。この碑がガラス製だったら少しは人気のスッポットになるかもと脳裏をかすめたが、私のようにかつてそこにあったという目印代わりの碑や墓ばかりをみている変わり者のためにガラス製にする必要もないか。

     次は2ブロック先にあるアメリカ領事館であった十五番館。旧外国人居留地で唯一現存されている建物で、阪神・淡路大震災で全壊したが部材を回収し耐震性能をつけて復旧させた建物なんだと。日曜の朝7時だというのに私以外にも建物の外観を見学している人がちらほら。この後三宮神社に向うのだがこの辺りはハイブランドのお店が立ち並んでいる地区であと数時間もすると日曜の買い物客で賑わうのだろうがこの時間は人もまばら。まだ起きだす前のまどろみの街を歩いているみたいで少し不思議な気分。
     そうこうしているうちに三宮神社に到着。ちょうどこの神社の前で起こったのが「神戸事件」で「史蹟神戸事件発生地」の石碑がある。神社の鳥居をくぐると参拝者は誰もおらず私だけ。お賽銭を取り出そうと財布から小銭を取り出した時に財布から何かがハラリと落ちた。ずい分昔に母からもらったお守りだった。いつも財布に持ち歩いているけれどこんなふうに落ちることなんてなかったから気になってググってみる。お守りは、福岡県にある太祖山金剛頂院淡島堂のものだった。旅行先で買ってきたのだろう。三宮神社とは関連はなさそう。あっ、ここをググれってことか?ここの祭神は、海の神である湍津姫命(たきつひめのみこと)。湍津姫命は、宗像三女神の一柱で急流や河川、海を守る神様。どうりで、お社はちょうど海をむいてたっている。昔であれば浜辺のすぐそばだ。宗像三女神って本家は福岡だったような。それならパラリと落ちたお守りも当たらずとも遠からずか。福岡にある宗像大社の中津宮には湍津姫命は祀られている。その中津宮には、織姫神社と牽牛神社があり、毎年8月7日には七夕祭が行われているようだ。ここが七夕伝説発祥の地なんだと。計らずもここでも七夕につながるとは。
     そしてもう一つ、航海の安全を守る神様であれば松前船で北海道に渡ってきた高祖父の軍平さんもこの神様に守られていたのかもしれないな、いやここにだって来たことがあるかもなんてこともふっと思った。

     さてさて、少し歩きながら落ち着いて生田の森まではすぐです。生田神社で参拝後裏手にまわり生田の森を歩きます。思ったより広くはなかったのですが昨年訪れた下鴨神社にある糺の森の雰囲気に似ています。

      名所初秋
    つの國の生田のもりにわれすみてまた秋かぜにとはれけるかな

    『浮木廼亀』中山三屋

    (訳)生田の森に住んでいる私は今年もまた秋風にたずねられるのだなあ。

    君すまばとはましものを津の国のいくたの森の秋の初風

    『詞花集』清胤

    (訳)あなたが住んでいたらたずねるのに、生田の森の秋の初風がどうだったかを

     三泊四日の幕末ひとり旅はこれでおしまい。なんとなく三屋の足跡を訪ね歩いたのだが、大阪天満宮の亀の池、そして三宮神社の湍津姫命、それらから出てきたものはどれも七夕だった。三屋が七夕にちなんで詠んだ歌は、他の題詠と比べると断然多い。三屋がいかに織女と牽牛に想いを重ねていたかを改めて知ることになった旅であった。気ままなひとり旅は、時に思ってもいなかったものとの出会いがある。星がめぐり再び織女と牽牛が重なる時、彼らはいったい何を話すのだろうか。案外だまって彼の左手をじっとみているだけかもしれない。

     実は、旅を終え自宅に戻ってから明石の月照寺にある三屋の親友美代の墓に刻まれた辞世の歌を判読することが出来た。

    ななやふる神のひとまろのひめ七松 
    ことしこそとものあへりふねなば

    美代

    (訳)七夕の夜、和歌の神である人麻呂の姫を待っています。今年こそ友(姫)に会える舟にのれたらなあ。


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    美代の辞世の歌


     和歌の神である人麻呂の姫とは、三屋のことだろう。
     美代が亡くなったのは明治四十二年七月である。三屋の死後38年が経過している。まさか辞世の歌で三屋のことを詠っていたとは。七夕の夜、夕月の舟にのった三屋が美代をむかえにきたのだろうか。この歌のように死んでからでしか会えない人もいるというのに、死んだふりして生きている自分が恨めしくなる。自分が死んでしまう前に逢いたいと思っていた人と三屋の計らいで逢うことができた。何もできなかった自分に後悔しつつも、ほんの少しの時間でも一緒にいれたことをとてもうれしく思っている。



     
     
    くりかえし 心ながくも いく秋を かけしねがいの いとのひとすぢ 中山三屋 幕末勤王女流歌人である中山三屋の歌を自身の日常生活とおりまぜながら発信します。 Instagram https://www.instagram.com/87demikan

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