
「子どもの文字化け」への処方箋
授業をしていると「わからない」という言葉が子どもの口をついて出てくる。これは教員からしたらあるあるの一つだろう。
「何がわからないの」と聞いた時に「〇〇が」のように返してもらえるのならば、それはまぁ何とでもなる。「全部」と答えられることもあり、これには少々悩む。仕方ないので、文章の一番最初の文字を指さして「これは〇〇と読むのだけど」と読み方から教えると大抵笑われながら「それは読める笑」と返される。そういう時、こちらも「そりゃあそうか」と笑いながら「じゃぁどのあたりが……」と問い返しながら彼ら彼女らの「わからない」を掘り出す作業に入っていく。
この作業中には不思議なことがよく起こる。別にこちらが何か教えたわけでもないのに、会話をしていく中で「あ、これなら分かる」と突然言い出すのだ。これはその子の中で「わからない」が見えた時なのだと私は捉えていたが、よく考えると興味深い。
不思議なことだ。ただ相手の話に相槌を打ちながら、なるほど。なるほど。と聞いてみる。時折話の内容を問い直すことはあっても、こちらから説明することはほとんどない。それでも会話の中で子どもは突然閃き、勝手に納得解を導き出すのだ。実は子どもたちは最初からわかっていて、私と会話したいがために「わからない」を装っているのではないかと疑ってみるも、それは甚だしい勘違いであることは誰にでも分かる。無論私だってわかっている。
では、なぜそのようなことが起こるのだろう。一つの可能性として、私と話すまで子どもには文字が見えてないことが考えられる。見えているけれど、認識できていないといえばいいだろうか。文字が記号としてしか存在せず、意味をなす言葉の群れとして認識されていない状況といえば、なんとなく言いたいことは伝わるだろうか。
本来は記号を文字として認識して意味を理解できる子どもが、なんらかの理由でその力を失う。子どもの中で文字は意味をなしていないため、見えていても「わからない」。でも大人が耳を傾けてくれると、状況説明のために文字と向き合う中で記号が文字となり、意味を見せるようになる。文字が意味をなす言葉の群れになるので、生来の読解力が発揮され自然と理解することができるようになり「わかる」ようになってしまう。意味を獲得できていない文字は記号のままなことに気づき、「この言葉の意味がわからない」と「わからない」が明確になることもあるだろう。こんな流れが子どもと文字の間で起きているのではないだろうか。
文字が意味を持たない記号として処理される。そうやって考えれば先ほどの現象は辻褄が十分にあってしまう。
文字は空気のように身近だ。慣れれば慣れるほど、その存在は希薄なものになる。大人にとって文字は意味があって当たり前だ。ただ、子どもは文字に慣れきっていないから、時々記号に化けてしまうのかもしれない。
そんな子どもの「文字化け」は「耳を傾ける」という行い一つで解消される。教育的な技能ではなく「聞く」と言う単純な行いが人を育てると思うと、教育とは不思議な概念である。
教育の「あるある」はもしかしたらもっと人間の根源的なあるあるなのかもしれない。