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千思万考

    序

    ようやく霧が晴れたので、書き出してみようかと思う。随分と時間がかかってしまった。まるで見えぬ掟の門前でうずくまり、まだ見ぬゴドーを待ち尽くしたかのような気分だ。

    書くために上京し、三十年。書くことで食べてゆきたいと願っていて、依頼されるものはありがたく選ばず何でも書いて来たが、その結果、食べるために書くこととなった。書いて欲しいと請われるものと書きたいものとはいつも微妙に違っていた。しかし、それが仕事というものだろうと割り切っていた。

    そもそも最初から、言われていたのだ。芸術をやりたいのなら今すぐ辞めなさいと、その人こそ画家を諦めてデザインの世界に来ていたから、手に取るように行く先が見えていたのだろう。しかし、私は早く食につながる広告宣伝畑で書く方を選んでしまった。近くて遠い、真逆とも言える世界。80年代後半、クリエイティブと呼ばれ出した頃だったけれども、創作と制作は大きく異なる。最初から自分の作品として作るのと、結果として自分の作品になるのとはかなりの隔たりがあり、それは大いに違い、全く似て非なるもの。

    しかし、いくら若く怖いもの知らずでも、ただ高みを目指しているからと言って、売れないミュージシャンや芸人のように、食わずに路上で書き続ける勇気はなく、かと言って焦ってはいたから、なるべくは理想に近い、もしくはそこへ通じる可能な限り側の道を歩んで行きたいと切に願っていた。

    むしろ書かずにいることを恐れていたから、早まって書くことを職にしたことが問題だった。たとえば銀行員や教員、司書、学芸員など、いや百貨店や飲食店や書くこととは一切無関係の職業で生計を立てても構わなかったわけで、その方が今よりはかえって遠回りにならずに済んだかも知れない。

    当時カタカナ職業、ギョーカイ君、アドマンなどと呼ばれ、お洒落で格好がいいと、肩書きだけが持て囃されチヤホヤされる風潮があり、自分の目指す頂、最終目標にはほど遠く、道半ばどころか、同じ道筋にあるのかもわからず、まだほんの駆け出しのペーペーで、憧れてその道に入ったものと周りからは決めつけられ、心の中ではどうにも居心地が悪く、いっそ辞めて全然違う所へ逃げ出した方がいいとも感じたし、何処かで本当に方向転換しなければと一層焦りを強くした。世間はいとも簡単に適当にスゴイと言うから全く信用ならなかった。あんなに軽く安易な誉め言葉に踊らされて気持ち良くなっては御仕舞だ、足を救われてしまうと心底思っていた。

    コピーライターからプランナー、年を経ればプロデューサー、所変われば編集ライター、AP、CPと横文字の役職がやたらと増えて、原稿はもちろん、企画書からナレーションや構成、頼まれれば歌詞や短い物語など、文字・文章すべて書くのが担当で、長い間には派生して物選びや小道具手配まで撮影周りの手伝いも何でもするわけで。スタイリングやコーディネート、デスクから入り人手が足りなきゃPMや現場ADのようなことも横目で見ながら身につけて見様見真似でやるのがあたり前、好きこそものの何とかで喜んで寝ずに働き、オーバーワークを誰もが勲章か忙しい自慢にしかしていない、コンプライアンスなど皆無の時代だった。

    媒体も選ばず、紙から映像、WEB、SNSと時流に乗ってか乗せられてか、つまりインターネットやIT、その技術の進化発展に伴って広がり、TVやラジオ局、新聞・雑誌から直接または代理店や制作会社、PR会社、キャスティング会社、編集プロダクションなどから依頼が入り、番組や企画や特集に合わせて肩書きが一人歩きするようになり、ガイドやアドバイザー、コンシェルジュ、〇〇の達人など、出演や掲載にふさわしい(都合のいい)専門家となった。一億総発信者というようなブログが普及するとブロガーと呼ばれ、近頃ではインフルエンサーとも言われかねないようになって来た。いつしか基本ベースである書くことよりも顔出しやコメント、情報提供等が仕事となり、その延長線上で書籍の監修や著作物も出版するようになり、イベントやコメンテーターとして登壇まで要求されるようになった。

    違うと思った。最初から、いや、途中だって違和感は感じていた。本来の書く自分より、こちら側を仕事では望まれるんだと。甘んじて受け入れていただけで、ちっとも割り切れてはいなかった。その道も嫌いじゃないけれど、自分が思い描いていた、人知れず志していた姿とは違う、もちろん、本来の自分が書きたいもの、書かずには先に進めないものは20代30代、40、50と5年に1度くらいの割合で並行して書いて来たし、学生の頃から詩のようなものは何千と書いて来た。けれど学生の時の方がちっぽけでも賞をいただいたりしていて、大人になってからまがいなりにも書くことで働けるようにはなったのに、文学賞はことごとく落ち続け、逆に遠ざかっている気がしてならなかった。道を間違い始めた時点に戻るか、潔く中途半端な肩書きは捨てて振り出しに戻るかしなければ、一番嫌っていた生活するために書く人に成り下がってしまう。

    そもそも自分が過去に書いたものをあまり読み返したりする性分ではないけれども、恐る恐る30代くらいに書いていた詩を2篇だけ、今、ちらりと見返した。何かこんな有り様の自分を書いていたような気がしたから


    嫌な人

    立前ばかりの人
    死んだ目の人
    失礼な人
    過去の栄光をひきずる人
    自分の欠点を誇らし気に話す人
    知人を自慢する人
    やたら性格語る人
    なにかと大袈裟な人
    親し気にふるまう人
    調子良く、ずうずうしい人
    干渉癖のある人
    冷笑いながら喧嘩する人
    個性や感性を乱用する人
    ────ときどき鏡に映る人。


    共存

    純粋である勇気に
    残念ながら、私は生きている。
    生活できる汚さ
    瞳はまだ輝いているだろうか
    私は真二つに分かれている。
    迎合することのない孤高を望みながら
    俗に執着する未練の情けなさよ。
    半端な賢者は自負心ばかり強くて
    愚か者にも劣る。
    ″生″は生活によって汚され
    ″死″によってのみ清められる。

    あゝ、やはり私は出直そう、そう、思った。色々と知識を蓄えたり、経験を積まなければ書けないと思っていたが、むしろ若い頃の方がずっと賢かった気さえする。もの書きになるのに、遊ぶこともバイトに明け暮れることも副業を山ほど持つことも人間のレールから外れることさえも、何一つも無駄はないと信じて疑ってはいなかったが、あらゆるものになる必要はなく、追体験できる脳と力量があればよいわけで、練習にばかりかまけていて、まだ準備が足りないと肝心の試合を避けて出ない、まるで本番に弱い臆病な選手のようだ。

    博多・福岡に帰ろうと自分で本当に心を決め切れたかというと怪しい、時に委ねた部分も大きい、ちょうどコロナ禍と重なり、トリプルワークしていた着物屋も本屋も営業制限がかかり、イベントやスタジオへ行くことも激減し、テレワーク・リモートワークというと聞こえはいいが会社や出先での打ち合わせもなくなり、いよいよ企画自体もなくなり、みな萎縮したような格好で社会全体が機能停止、様変わりし巣ごもり状態となったのだ。

    ひとくぎり、自分の仕事を見つめ直すにはいい機会となった。来し方行く末はこれでいいのか、本当にやろうと思っていたのは何なのか、やるべきことを後回しにし過ぎて、道を見失いつつあったのではないか、言われた通りに書くだけで、喜ばれて満足して、望まれる役が自分の望むものと同じになるよう本気で死ぬ気で努力したことが一度でもあっただろうか、薄皮一枚ほどの隔たりで限りなく側を歩いていたかも知れないのに、自分が遠慮して手を伸ばさなかっただけじゃないのか、今はこっちの自分は望まれていないと小さなポケットに空の拳を震わせ最終兵器よろしく、頑なに隠していただけではないのか。

    そんな我が身を切り売りするほど、もともと器用でもないはず。何を躊躇っていたのだろう。

    さあ、書こう、霧も晴れた。
    ただ、書き始めるだけだ。
    心から書きたいものを書けばよい。



     
     
    海の向こうの幻想文学に根ざし、日常に潜むあちら側を書き続けている。アンチ・センチメンタリズム、不条理でも無機質で、陰気ではなく、むしろ陽気に、寓意的かつ普遍的な、私小説ではない詩小説を書いてゆきたい。

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