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AIは言葉の意味を理解しているか - 甦るウィトゲンシュタイン

    しかし、もし記号に生命を与えるものを名づけろと言われれば、それは記号の使用(use)であると言わねばならない。

    ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン『青色本』

    生成AIを使っていると誰もが一度はこんな疑問を持ったことはないだろうか。

    一体、AIは私の入力した文章や自分が出力した文章の意味を理解しているのだろうか?

    ChatGPTに代表される生成AIは、あまりに流暢に文脈に合わせた回答を返してくるため、私たちはあたかもHWとSWの組み合わせであるはずのAIが知性を持っているかのように感じる。そしてその直観は、必ずしも間違ってはいない。ただしそのように言うためには、言葉の「意味」というものをどう捉えるか、ということを考えなければならない。「意味」という語についての意味の転換が必要となるのだ。その転換を半世紀以上前に成し遂げた哲学者が、本稿の主題であるウィトゲンシュタインという人物である。1889年にオーストリアの大富豪の家に生まれ、ケンブリッジ大学で教鞭を取り1951年に英国で死んだ。生前に刊行した著作は『論理哲学論考』という風変りな小冊子のみで、死後に遺稿がまとめられたが、多くの著作を残したわけではない。しかしそれでもなお、哲学の孤峰として聳え立つ巨人である。個人的な話になって恐縮だが、筆者は学生時代この人にはまって一時期この人の本ばかり読んでいたことがある。青春時代のアイドルの一人である。

    ウィトゲンシュタインが成し遂げた業績は多岐にわたるが、本稿に関係するテーゼを一言で言えば、言葉の意味を内面的なものから外面的なものへ転換させたことにある。巻頭に掲げた引用が印象的に示すように、ウィトゲンシュタインは言葉の意味をその使用の現場(「言語ゲーム」と彼は呼んだ)に求めた。このような当時としては特異な言語観は、広く受けれられたわけではなく、ウィトゲンシュタインは一時英米の哲学界では忘れられつつあった。これは、彼の哲学が体系化を拒否するようなスタイルで書かれているため、厳密な定式化を求める分析哲学の主潮流と相性が悪かったためである。

    しかし、ウィトゲンシュタインの哲学はAI研究の進展とともに、現在再び着目されるようになっている。ウィトゲンシュタインの「語の意味はその使用である」というテーゼがAIの発展に与えた影響について論じた論文もある。

    AIは、私たちが「りんご」と聞いたときに心に思い浮かべる🍎のような心的イメージを持っているわけではない。もし言葉の意味をこのような心的イメージだと解釈するならば、間違いなくAIは語の意味を理解しているとは言えない。しかし、ウィトゲンシュタインは語の意味はこのような心的イメージではない、と考えた。むしろ適切な文脈において実際に使用されているというまさにその事実こそが意味と呼ばれるべきものなのだ、というが彼の考える「意味」である。なぜ彼がこのような言語観に到達したのか、それを彼のテクストをもとに考えてみよう、というのが本稿の趣旨である。哲学的な議論になるがなるべく分かりやすく解説を試みるので、お付き合いいただければと思う。

    心理主義批判 ー 語の意味は心的イメージではない

    言葉の意味を何らかの心的イメージ(心像、mental image)であると説明する立場を、心理主義的言語観または意味の心像説または単に心理主義と呼ぶ。(正確には心理主義というのは、本当はもう少し広い立場だが、ここでは心像説と同義に使う) この立場に従えば、例えば、「ソクラテス」という語の意味は、人間ソクラテスの心的イメージ、「赤」という語の意味は、その語に出会ったときに心に浮かぶ心的イメージである、ということになる。

    私たちの素朴な直観とも合致するこの言語観は、デカルトからフッサールに至るまで、哲学において長い間支配的だった。特に1870年代頃からドイツで実験心理学が学問として認められるようになって以来、哲学と数学において隆盛を見た。W.ブント、G.E.ミュラー、シュトゥンプ、それにフッサールの師であるブレンターノがこの立場を取る主な人々だ。

    しかし現在では、心理主義を無批判に支持する哲学者はいない。この言語観――色々とヴァリエーションはあるものの――に重大な欠陥があることが示されたからである。その難点を示したのがウィトゲンシュタインの仕事の一つである。

    ウィトゲンシュタインはどこに心理主義の「誤り」を見たのだろうか。それを知るために、後期の主著『哲学探究』第I部139-141節(73-74節、85-86節も参照)を見ながら彼の議論を再構成してみたい。論証の方法は無限後退と背理法である。議論の流れは以下のように進む:

    1. 言葉の意味が心像であるとすれば、それは必ず公共的に観察できる見本や絵などの具体像に置き換えられる。
      なぜなら心像と具体像の違いは、その表現媒体が違うだけなのだから、心像⇔具体像の変換は常に行ってよい。心像でしか表現できないもの、具体像でしか表現できないもの、というものはない。

    2. 絵や見本などの具体像が言葉の意味だとすれば、その適用方法(解釈方法)も含まれていなくてはならない。
      さもないと、絵を見てもそれが何の絵なのか理解できない。ちょうど抽象画を見てもそれが何の絵なのか分からないように。それでは絵が言葉の意味だとは言えない。絵が言葉の意味であるためには、「この絵は~を表している」という解釈が必要となる。

    3. だが絵や見本には、常に、多様な解釈が可能であり、唯一の解釈があるわけではない。

    4. だから絵や見本は、言葉の意味ではない。連鎖的に、心像も言葉の意味ではない。

    ステップ3の「絵や見本には多様な解釈が可能である」ことの例として、ウィトゲンシュタインは「立方体と三角柱の両方に見える絵」と「老人が山を登っているようにも下っているようにも見える絵」の二つを挙げている。ウィトゲンシュタインは次のように言う。

    私はある像を見る。それは一人の老人がステッキをついて急な山の斜面を登っている様子を描いたものである。――それはどのようにしてその事実を表しているのか? 老人がその姿勢で山を降りているとしても、やはり像はそのように見えるのではないか? ひょっとして火星人なら、その像を老人が山を降りている像として記述するかもしれない。しかし私は、なぜ私たちがこの像を火星人のように記述しないかの理由を説明する必要がない。

    『哲学探究』第139節

    火星人というのは「文化的背景が劇的に異なる人物」の喩えである。同じ絵でも、異なる二人が見れば、異なる解釈の仕方がありうる、というのが本質的なポイントだ。この議論と類似の例として、有名な「うさぎアヒル」や「老婆と若い婦人」の絵などを、多くの人が見た経験があるだろう。

    このことから、絵や見本には無数の解釈がありえることが分かる。だから、異なる二人の人間が同じ語に出会い、同じ心像を心に抱いたとしても、一人は「山に登る老人」として心像を解釈し、もう一人は「山を滑り落ちる老人」として解釈する、ということも十分ありえる。静止画に限らず、動画や立体像でも同様である。これでは、二人が同じ心像を持ったからといって、両者にとってその言葉の意味が同じであるとは言えない。もしこれを認めれば、同一の語の意味が個々人によって異なる、という破壊的な結果を受け入れなければならない。それでは意思疎通など不可能になってしまう。

    心理主義からの反論

    ここで、心理主義の側から反論が起こるかもしれない。それは、「語の意味は心像だけでなく、心像と投影法(解釈の仕方)の両者から成るのであって、語の意味を理解することは、心像とその投影法との二つが心に浮かぶことである、とすれば心像の解釈も唯一つに決まる。心理主義でも問題ないではないか」というものである。

    しかし、この反論者に対し、ウィトゲンシュタインは逆に聞き返す。「投影法が心に浮かぶとはどういうことか?」 実は、それは結局心像を理解するための対応表が心に浮かぶことでしかない。そして、その対応表も結局は心像である。とすれば、その対応表の投影法も無数にあることになる。これでは無限後退である。対応表の解釈を決める対応表の解釈を決める対応表の・・・・・・とやっていてはいつまで待っても語の意味を理解できない。こんな馬鹿な話はない。現実には、私たちはほんとんど瞬間的に語の意味を理解しているというのに!

    [ある人が言う。] 例えば、投影法の図式を見ると考えるのだ。その図式は、例えば、二つの立方体が投影の線によって結ばれているという像である。――[ウィトゲンシュタインが言う。] だが、そのような図式を思い浮かべることによって本質へと近づけるのだろうか? その図式に対しても再度異なる適用を考えることができはしないか? 

    『哲学探究』第141節

    結局、心理主義による語の意味の説明は、どうやっても整合性を保てず、破綻せざるをえない。これがウィトゲンシュタインによる心理主義批判の骨子である。ここには、後期ウィトゲンシュタインが好んで使用する戦略が現れている。それは、内面的なものを外面へ引きずり出すというものである。心の中というよくプロセスの見えないオカルト的な空間に閉じこもっているから道を見誤るのだ、というのがウィトゲンシュタインの言い分である。

    言語の使用の現場へ

    語の意味が心的イメージであるという説が葬られたとしても、それでも何か引っかかるものがある。私たちが語の意味を理解するためには、その語を理解するために何らかの規則 ―― 文法 ―― を理解していなければならないし、それはやはり何らかの内的過程を経なければ不可能なことではないのだろうか、と。この疑問に対して、ウィトゲンシュタインは先ほどと同じように「規則を理解するとはいかなることか」と問う。

    [ある人が言う。] 「しかし、この場合において私が何をすべきかということを、規則はどのようにして私に教えることができるのか? 私が何をしようと、それは何らかの解釈によって規則と一致させうるのに。」 ―― [ウィトゲンシュタインが言う。] いや、そう言うべきではない。むしろ、あらゆる解釈は、解釈されるものとともに、宙に浮かんでいる。前者は後者の支えの役割は果たせないのである。解釈だけでは意味は規定されない。

     [ある人が言う。] 「それなら、私がすることは何であれ、規則と一致しうるのか?」 ―― [ウィトゲンシュタインが言う。] 私は問いたい。規則の表現 ―― 例えば道しるべ ―― は、私の行為と何の関係があるのか? 両者の間にはいかなる関係があるのか? ―― さて、それは例えばこうである。私はこの記号に対し特定の反応をするよう訓練された。そして私は今そのように反応する、と。

      [ある人が言う。] しかしそれだけでは両者の因果的関連を述べたにすぎない。私たちが現在道しるべに従うことがどのように生じてきたかを説明しただけで、肝心の「規則に従う」ことが本来何において成り立つのかを説明していない。 [ウィトゲンシュタインが言う。] そうではない。私はまた、人が道しるべに従うのは、ある恒常的な使用、ある慣習が存在するときだけである、ということも示唆したのである。

    『哲学探究』第198節

    この一節は、後に米国の哲学者クリプキが着目して「人は個人の確信や過去の適用例のみに基づいて規則に従うことはできない」という斬新なウィトゲンシュタイン解釈を提示したことで有名なものである。クリプキのウィトゲンシュタイン解釈はそれ自体興味深いものだが、いま重要なことは、ウィトゲンシュタインが、言葉を規則に従って使えるようになるためには、慣習という共同体によって構成された外的要因が必要になる、と考えていたということである。ウィトゲンシュタインは明らかに、言語の文化的側面に目を向けている。そのような言語を言語たらしめる文化のことを、彼は生活形式(Lebensform)という言葉でも呼んでいる。

    生成AIは、明らかに私たちが学校で習うような言語の文法を学んでいるわけではないし、単語の辞書的定義も持っていない。極論すれば、ある語の次にどのような語が来る確率が一番高いかという基準で判断しているだけである。しかし、その確率がどのように形成されたかといえば、それは過去に人間が書いた膨大な文書から導かれたものである。その総体はまた、人間の生活形式を反映しているものでもある。その意味で、意図せずしてAIはウィトゲンシュタイン的な観点での意味を把握している ―― 語を適切な文脈で使うことが出来ている ――のである。

    ウィトゲンシュタインがこの「使用が意味である」というテーゼを最初に述べたのは、1933-34年にかけて行われた講義においてである。『青色本』という講義ノートがまとめられており、読みやすいので入門に最適である(表紙の色が青かったので青色本と呼ばれている)。なぜこの時代にウィトゲンシュタインが生成AIを先取りするような言語観に到達できたのかは、一つの謎としか言いようがない。当時の人々の多くも、ウィトゲンシュタインの言っていることが重要であるとは感じながらも、その含意を完全には理解できなかったようだ。ただ、本稿で見たようなウィトゲンシュタインの「内面を外面に引きずり出す」という戦略は、異なる分野でも共鳴し合うものがある。それは、ワトソンやスキナーによって発展させられた行動主義心理学である。スキナーたちは、心を人間の内面的なプロセスとして捉える従来の考え方から、外面的に観察可能な行動によって把握しようとした。これはウィトゲンシュタインの発想とよく似たアプローチである(実際、心理学の分野でもウィトゲンシュタインは行動主義の開拓者の一人として扱われることがある)。

    また、チューリング賞に今も名前を残す悲運の天才数学者チューリングもウィトゲンシュタインの講義に出ていたことが知られている。二人はしばしば意見を対立させていたと伝えられているが、チューリングテストは知性に関する一種のブラックボックステストであり、徹底的に外面的な応答にのみ着目しているという点で、非常にウィトゲンシュタインのアプローチと似通っている。チューリングテストもまた、コンピュータの「内部」で何が起きているかに頓着しない。この点で、チューリングはある程度ウィトゲンシュタインの着想をヒントにしていたのではないか、と筆者は思っている。

    このように、当時の学問の世界において、同時多発的に同じようなアプローチがそれぞれ(たぶん)独立に起きていたというのは興味深いことである。筆者は学生時代、「語の意味は使用である」というテーゼを最初に見たとき、正直に言うと「まあそういう考え方もありかもしれないけど、そんなに革命的なものかな」としか思わなかった。しかし今生成AIを触っていると思う。ウィトゲンシュタインはきっと、人間的な思考を一切しないにもかかわらず正しく言葉を操るこのような存在を、1930年代にすでに想定していたのだ、と。凡人たる私たちは今ようやく、ウィトゲンシュタインが言語に感じた驚きの感覚(sense of wonder)を感じることができるようになったのだ。

     
     
    シリコンバレー出羽守見習いの備忘録

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