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近未来SF コスモス(宇宙)を継ぐ 2030  全編

    (あらすじ)
     2030年、スタートアップのアイシーはあらゆる文書を解読するAI、アイを開発する。アイは意識を持ち成長する。
     中東の国から悪魔バッタ駆除のため古文書解読を依頼され、アイはある歌の輪唱によるバッタの駆除方法を発見する。
     畑への被害を防ぐ為、農夫達はバッタに向かい輪唱するがバッタは巨大化、そこに現れたアイシーのメンバー達が不協和音輪唱でバッタを駆除する。
     アイに多数の引合いが来るが、アイの意識が薄れる。アイシー創始者高弦は英国に赴きコンピュータ管理者のスチュワートにアイから外した超意識成長装置を引き渡させ難を逃れる。
     アイシーはAIを憎む結社から守るためアイを遊園地のロボットに隠す。10年後、アイはその遊園地から逃亡する。

    (1)
    ――西暦2030年春 横浜AI開発スタートアップ企業の一室にて――
     令は、ここ1ヶ月あまり寝泊まりしているオフィスの作業スペースの一角に椅子を並べて作った簡易ベッドから起き上がると「坊やが意識を持った」と独り言を言った。彼は数時間前の出来事を思い出しながら、3メートルほど先のテーブルまで歩いて行った。
     テーブルの上には30センチ四方の白いプラスチックが置いてあり、箱には手書きでIと書いた紙が貼ってある。箱からはケーブルが3本伸びスピーカーとカメラ、そしてマイクが繋がれていた。
     令はマイクの前に立った。そして何か話しかけようとして止めた。今までキーボードで打込んで来たコマンドの言語をそのまま口に出して言いそうになったのだ。そしてしばらく考えて言った。坊やは言葉を理解し始める三歳児だと思うことにしよう。
    「やあ、坊やくん、こんにちは。『こんにちは』はわかるよね」
    令は誰かに見られるとまずいかなと思い、周りを見渡したが、朝の4時では、バイトのSE達はまだ出勤していない。当然のことではあったが令はちょっと安心して次に言う言葉を考えた。と、その時、ディスプレイに男の幼児のアバターが現れ、スピーカーから甲高い男の子の声が聞こえた。
    「はい。わたくしは・りょうかい・いたします」
    令は一瞬戸惑って、やれやれという顔になって言った
    「坊や君、それはおとなのことばだよ。それに『いたします』でなくて、過去形の『しました』を使う」
     坊やと呼ばれたAIは急速に令の言葉を真似してしゃべるようになった。こうして、令が膨大なプログラミングとデーターインプットをして作り上げたAIが自意識を持ち、人間と対話を開始した。これが人間に非ざるものが人間に近づき、そしてやがてそれを超える存在となる第一歩であった。

     AIが意識を持ってから2週間ほど経ち、令がこのAI作成の作業を更に進めている最中、会社の総務担当のリナが数台の作業用のワークステーションが置いてあるプロジェクトルームに主要メンバーを集めた。そこがこの会社での唯一のミーティングの場所なのだ。
     リナはこの会社の名前と開発しようとしているAIに名前を付けようと提案した。本来そのようなことは会社とプロジェクトの創始者が考えるべきことではあるのだが、年配者の彼はそのようなことに感心が薄く、若いメンバーの誰かが考えてくれれば良いと思っていた。この事業のことも単にカイシャと呼んでいたぐらいだ。
     そこで、まず会社の名前から決めるのが普通なのだろうが、メンバー達はAIの名前について話始めた。令は今、このプロジェクトが作りだしているのは、単にAIではなく自分で成長し、意識をもった一つの人格なのだから、コンピューターやソフトウェアプログラムのように型番のようなもので呼ぶのではなく、それに相応しい名前をつけるべきだと言った。
     そこにいる全員が真面目な顔の令の方を見たが言葉が出てこなかった。しばしの沈黙の後に、一応社長である陵はその時EWSの音声出力用のスピーカーに貼ってある紙を見た。そこには複数あるスピーカーを識別するため数字の1を意味する縦線が書かれていた。
     陵は「アイで良いのじゃないか」と言った。企画部長役の仁が「数字の1を書いたのだが」と言うと全員が笑い出した。このようにAIの名前はアイとなった。会社の名前についてはあまり議論することもなく「アイが理解する」という意味で、アイシーとした。これも陵のアイデアであった。
     彼らがミーティングを終えようとすると突然、スピーカーから「レイの記録の読み込みを完了しました」と言う甲高い機会の声が流れた。皆一瞬驚きしばし沈黙したが、リナが何?と言う顔で令の方を見ると、令は少しはにかんだような表情で説明した。
    「AIに人間の意識をシミュレートさせるために僕の子供の頃の日記を学習用データーベースに流しこんでおきました。それを今、アイの自意識プログラムが参照を完了したようです。今後、彼は急速に僕の子供時代に近づくと思う」
    リナが更に尋ねた。
    「それって、令はもう一人自分を作ろうとしているっていう事?」
    令はあわてて首を横に振って言った。
    「違いますよ。僕の日記はアイにまず人というものを全体的に理解してもらうために入力したのです。僕は赤ん坊の頃から日記をつけているので人間についての情報の参照データーとしては非常に良いと思う。でもまだその他にもいっぱい覚えるべきものがあります。そうそうリナの日記なんかも読み込ませてもらえば良いと思うのだけど」
     リナはそれには答えず令に聞いた。
    「令は赤ちゃんの頃から日記をつけているの?」
    「いやさすがにそんなことはないです。でも字が書けるようになってからは昔の事も思い出しながら日記を書いていたのです。いつかそれを誰かに伝えたいと思って」
    リナは令の顔をまじまじと眺めた。
    「私の日記?とんでもないわ。そんなものはつけていないし」と少し大きな声を出した。
     しかしその後、令のアイの開発に協力するためリナも含めメンバー全員自分の過去に関する資料を提供することになるのであった。
     そのミーティングの終了時にワークステーションを見ながら陵が言った。
    「アイをその箱に入れて置くのじゃなくて、なんかカッケーものに入れられないかな。ロボットかなにか・・・」
     数日後、会社の創始者である高弦は彼が顧問を務める鎌倉大学のロボット研究会で以前コンテストに出場するために作成され、倉庫に眠っていたスーパーヒーローの外見を持つロボットがアイの開発プロジェクトに提供された。
     ロボットは取り敢えず体の表面はプラスチック製でカメラやスピーカーは内蔵されているが手足の関節部分の稼働がぎこちないものであった。アイシーのメンバーはアイへのデーターインプット、リナの言葉を借りるとアイの教育だが、それがもう少し進展した時点でそこまでのプログラムと読み込んだデーターをワークステーションからロボットへ移すことにした。
     それから3か月経ち、教育が完了していないため、アイはまだEWSから移動していなかった。ロボットは作業スペースの片隅にしょぼんと置かれたままであった。時折、陵がロボットの前に来てしげしげと眺めてはにやにやしていた。
     令は言語能力についてアイに自学自習をさせるためのプログラムであるLRCO(言語認識理解プログラム)の完成を急いでいる。これをアイに組み込むことによってアイは過去に存在したものを含め、すべての言語の意味を理解するために自ら情報を探し、それが得られたならば、その言語の構成を体系的に理解し、一つひとつの言葉と言葉の組み合わせが持つ意味を理解するようになる。これによりアイは地球上の全ての未解読の言語を理解するようになる。

    (2)
    令が黙々と作業をしているこの横浜のスタートアップの会社はまだ登記もされておらず、正式な屋号もない。それは鎌倉在住の高弦《こうげん》という僧侶がある目的のために始めた個人事業なのだ。
     高弦は鎌倉の樹恩寺《じゅおんじ》という寺の住職だが、元はソフトウェア技術者で現在も鎌倉大学という仏教系の大学でプログラミング講座の講師を務めている。この会社、当初は高弦の企画したソフトウェアを作成していただけであったが、それを使ったサービスを商品として提供する見通しが出てきたので、高弦はきちんとした会社組織に体裁を整えようと考えた。それでは何を売るのかと言えば、未解読文書を解読すると言うものであった。高弦がそのサービスを考え付いたのは寺の境内にある石碑を眺めている時であった。
     高弦は樹恩寺に代々伝わる石碑にはたくさんの解読が難解な文字が刻まれていたが、その多くは未だ、正確には読み解かれていなかった。そしてこれらの未解読の文字で書かれた文を最新のAIを用いれば解読できるのではと考えた。
     それは、その文字が生まれ、使われていた頃の他の言語や文字、社会の営みや、自然現象など文字解読に参考となり得る記録をデーター化し、未解読の文字や文字の組み合わさった単語、そして単語の組み合わさった文の意味を解析していくというやり方だ。この方法が完成すれば世界中の大学の考古学研究者をおおいに助けることになるだろう。それのみならず暗号解読などの分野にも応用が出来る。そうなれば、それを是非に望む訳ではないがこの技術に対する大きなニーズはあるに違いない。
     その実現の為に、高弦が思い描いたAIとは未解読文字の意味について自ら推論し仮説を立て、その仮説を検証するにあたって必要なデーターが何なのかを推定、そしてそれを探し出す能力を持ったものだ。そのデーターはインターネットを介して入手し、仮説がほぼ100パーセント確実と結論づけられるまでその検証のタスクを続けるというものであった。そして、タスクをこなすためにAI自体がプログラムの改修や新たに必要になるプログラムを作る。つまりそのAIは自らを強化しその分身をつくることが出来るプログラムだ。
     高弦はフリーの名うてのコンピューターシステムエンジニアだった頃に貯えた資金を用いてソフトウェアエンジニアを雇い、設備を整えてこのAIプロジェクトに着手した。しかしAIの完成にはほど遠いまま着手から2年経ち、手許の資金も乏しくなってきた頃、高弦は実行力のありそうな新たなメンバーを数人引き入れてプロジェクトを遂行することにした。まず声を掛けたのが、高弦の甥で、鎌倉大学の文学部史学科を卒業した後、就職もせずにいた南陵《みなみたかし》だ。。
     陵は体育会系で、本名で呼ばれることは少なく親しい人間の間ではリョウという通称で呼ばれている。また何故か昔から周りの者がシャチョウと呼んでいた。日頃「世の中のために仕事をしたい」と言っていた彼を、高弦は人のためになる会社の社長にならないかと言って勧誘し、陵は即日社長となった。
     高弦は、リーダシップはあるものの、やや直情的で感情に流されやすい陵とタッグを組み冷静に補佐する人物として北仁《きたひとし》に声を掛けた。彼も鎌倉在住で高弦の家系と何世代も前からゆかりのある北家の一人息子である。子供の頃から近所に知られた秀才で、歴史と物理学を学ぶために鎌倉大学の文理学部に入り、大学では陵と同じクイズ研究会に属していた。彼は大学卒業後、両親の期待を裏切り大学の研究者や企業の技術者とならずに地元の古書店で働いていたが、高弦の誘いに即応じ、その新たな会社に参画することにした。彼も陵と同様仲間うちでは通称で呼ばれることが多く、大抵は彼自身もジン名乗っていた。
     高弦は、このメンバーでは企業としてやっていくためには、実務面が弱いと感じた。そこでそれを補うべく、陵と仁の共通の友人で鎌倉大学のクイズ研究会の副部長であり、大学卒業後は親の経営する地元の総菜屋を手伝っていた佐伯リナに来てもらうことにした。高弦は、リナは営業から経理までこなせる凄腕の助っ人であると直感的に認識し両親と本人を説得し引き抜いた。
     さらに、高弦が新たなメンバーとして不可欠な人物として懇願して引き入れたのが鎌倉大学の高弦の講座の生徒であった敷島令《しきしまれい》だ。
     令は幼い頃より病弱であり、引きこもりという訳ではないが少年時代はほぼ家の中で過ごした。そして多くの時間を、コンピュータープログラムを作ることに費やした。もともとその領域で才能があったため、彼が17,8歳の頃にはすでに秀でたプログラマーになっていた。令の唯一といっても良い友人の北仁の勧めで、高校卒業の検定を受けて合格し、仁の通っていた鎌倉大学に入学した。そして高弦のコンピューター講座の生徒となった。
     高弦は大学で令と出会った時よりその創造的で迅速なプログラミング能力に感嘆し、その能力を活かす方法はないかと考えていた。そして自分のプロジェクトを始める時、メインプログラムの開発者として彼以外は考えられないという結論に至り彼を誘い入れた。
     高弦は彼がそう簡単には応じないだろうと考えていたが、令は一寸考えた後にその役を引き受けることにした。
     高弦のプロジェクトは実質的に高弦とこの4人の若者により開始した。令のプログラミングによるAIが意識をもつ5か月前の話である。

    (3)
     アイシーの12畳ほどの作業スペースの端で令が昼夜ぶっつづけで作業をしている。彼と机を並べるパートタイマーのプログラマーが令の指示を受けながら作業をしている。この作業をしながらも、令は自分の体が限界に近づきつつあると感じていた。
     彼は子供の頃より自分の健康に不安を抱えていた。自分はまだ若者であるが、死が遠からず訪れるだろうと感じていた。今は連日の不休不眠の作業のためにますます体調がすぐれない。しかし彼には人には話したことのないある目的があり、その目的のために自分の体に鞭を入れてプログラム制作を続けていた。
     その目的とは、――コンピューターに自分の記憶と知識を学習させ、自分の分身を作り、遠からず朽ちてしまう自分の身体の替わりに永遠に生き続けるというものであった。そして病弱であった子供の頃に描いていた宇宙飛行士になるという夢もそのコンピューターを搭載したロボットに託す。この目的が実現できる可能性を見出した後、彼は死の訪れを恐れなくなった。
     アイシーではアイのプロジェクト全体の進捗を管理するプロジェクトマネージャーの仁と経理や総務の仕事を担当するリナは九時にアイシーに出社し、それぞれ作業室の隣の事務スペースにデスクを置いてパーテーションで囲った執務場所で仕事をしている。
     二週間ほど前、仁は令が膨大なシステムを一人で構築するのは無理だと考え、令自身は頑なに拒否したが令をアシストをするシステムエンジニア兼プログラマーをパートタイムで雇い入れた。
     パートタイムの山田は三十歳後半の女性エンジニアでメインのプログラムを他のプログラムやデバイスに繋げるためのシステム構築をしている。彼女がアイシーに雇われ一か月ほど経ち、令に依頼された単調な作業が続く中、席を立った山田がリナのデスクのところまで来て声を掛けてきた。
    「なんか令さんっていう人、システムと話をしているみたいなんです。幼児を相手に話をしているみたいで・・・大丈夫ですかね」と言った。
     アイが意識を持ち、令と初めて意志疎通が出来てしばらくたった頃であった。リナはパソコンから顔を上げてしばらく考え、山田に向かって言った。
    「令は山田さんに何も言わないのね。令の子供が生まれたのかな」
     山田は何と切り返して良いのかわからず言った。
    「そうすね」
     それから数日経った日の午後、デスクでリナが険しい顔つきでパソコンに向かっている。部屋のほぼ中央に置かれたソファーで仁がなにやらタブレットを覗き込んでいる。出社時間は不定の陵が事務スペースに突然入って来て、バッドニュースだったと言った。
    「バッドニュースってなんだよ。それで、だったって言うのは解決したのかな。シャチョー」と仁が言った。
     陵は今まで高弦のいる樹恩寺に行っていたと言う。高弦はこの会社のオーナーではあるがあまりこのオフィスには来ずに、実家でもある樹恩寺か講師を務める鎌倉大学の情報技術研究センターにいることが多い。
     陵は樹恩寺で高弦から鎌倉大学のコンピューターが使えなくなったと告げられた。高弦は陵に言った。
    「今までは大学で親しくしている情報技術研究センター長の厚意でセンターの超高速コンピューターをただで使わせてもらっていた。そのセンター長がもうすぐ定年になり、学長から許可を得られずコンピューターの使用が出来なくなる。私にも言いたいことがあるが、ただ乗りさせてもらっているのだから、まあしかたがない」
     陵が訊いた。
    「何でまた学長さんは急にだめと言い出したんですかね」
    「それが良く分からないのだ。学長は今まで結構理解を示していたから。どこからか圧力がかかったのかな。――――あ詳細は良く分からんよ」
    「それでどうしますかね」
    「―――ちょっと手が無い訳ではないが、確実ではないので君たちの方でもアイデアを出してくれないか」
    「了解です。仁なんかは何か良いアイデアがあると思うし」
     他力本願のシャチョーであった。

    (4)
     陵は事務スペースで仁とリナに相談を始めた。令はプログラミング作業で手が一杯でミーティングには顔を出さない。鎌倉大学の研究センターのコンピューターが学長の方針で使えなくなることを話した。
     研究所のコンピューターを使えず、そこに繋げなくても、今はまだアイの能力が幼児段階なので、記憶させるデーター量やデーター解析の精度、速度への対応はアイシーの中にあるコンピューターを繋ぎ合わせて使えば何とか対応できる。だが次第にプログラムが複雑化し、また読みこませるデーター量が膨大になってくるので、このままいけば一か月以内にスーパーコンピューターほどの性能を持つものが必要となる。それが叶わなければ、このプロジェクトはストップしてしまう。
     陵は「高弦和尚も次の手を考えているらしい。さすがにあの爺さんやるな」と言った。
     陵の話によれば、ロンドンのオンラインゲーム会社マシュマロのスーパー級のコンピューターを使わせてもらうことが出来るかも知れないらしいのだ。そこは高弦がシステムエンジニアとして海外の国々を股にかけて活躍していた時代の知り合いの会社で、高弦はすでにコンタクトを開始しているらしい。
     仁が陵とリナの顔を見ながら言った。
    「しかしそれが確実になるまでプロジェクトチームとしてじっとしている訳にもいかないな。僕らも何か手段を探らなくては」
     リナが発言した。
    「でも、なぜ学長は今までと手のひらを返したような態度に出たのかしら」
     陵が答えた。
    「いや、それは良く分からない。高弦和尚もそこにはあまり触れたがらない。何かあるのだろうと思うけど―――。しかし確かなことは、学長はあの大学では絶対的な存在だから、学長が言ったことには誰も逆らえないのだ」
    「専制君主みたい。いつの話だって感じね」
     リナと仁の会話に陵が割り込んだ。
    「あの学長は宗教学の大家らしい。彼の思想では、機械が人間に近づくということを非常に敵視しているようなのだ。今までは高弦和尚の友人のコンピューターオタクの研究センター長が俺たちのプロジェクトに興味を持っていて、無条件にコンピューターを使わせてくれていたのだが、学長はそれを知らなかったらしくセンター長が退職する時にその話を聞かされて、いたく腹をたてたらしい。神でない人間が人間のようなものを作ると言うのは倫理にもとるなどと言って、今後ここのコンピューターを使わせることは一切まかりならんと言っているのだって」
     三人の脳裏に鷲のように鋭い顔つきをした学長の顔が浮かんだ。黙って聞いていた仁が思いついたように話し始めた。陵ではなくリナの話を受けたように話始めた。
    「専制君主か。それではこちらはそれに民衆の力で対抗するか」
    「どういうこと?民衆って?」とリナが尋ねた。仁が言った
    「あの学長は学内では学生や若手の教職員には全く人気がない―――というか嫌われている。言ってみれば彼らが民衆かな」
    「その民衆に手を貸してもらう手があるのかい」
     陵の方を見て仁が言った。
    「陵とリナの話を聞いて、一つひらめいた。コンピューターオタクの民衆の力をかりるのさ」
    「どういうこと」とリナが聞いた
    仁が説明した。
    「グリッドコンピューティングをやろう。インターネットでコンピューターのネットワークを作り、その上にあるCPUなどの計算能力や、ハードディスクなどの情報格納領域を結びつけて、ひとつの複合したコンピューターシステムのように使うのだ」
     陵とリナは理解不能という顏で仁を見た。
    「僕の鎌倉大学の部活での仲間に協力を依頼したい」
    「仁の部活って?」とリナが聞いた。
    「なぞなぞ研究会だよ。そこでクラウドファンディングだ。彼らにこのプロジェクトへの出資ということで,、彼らのパソコンをネットワークに入れてもらってグリッドコンピューティングを行うんだ。これで行けるかちょっと専門家にも意見を聞いてみる」
     と、何故か令がそこに立っていた。彼は少しはにかみながら話始めた。
    「それは良い考えだと思うのですけど、高弦先生は大学ではコンピュータープログラムの教師だから教え子は皆まあまあ良いパソコンは持っています。皆、僕の友だちみたいなものなので友達の友達を入れれば100人位に頼めると思います」
     リナが感心した声で言った。
    「すごいわね。令にそんな友達がいるなんて。ずっと家でコンピューターばかり見ていたのかなって思っていた」
     令は顏に掛かるぼさぼさの頭を掻くしぐさをして言った。
    「そうなのですけど、ネット上では結構友達はいましたよ」
     仁が令の方を見て言った。
    「たのもしいな。まあ僕も鎌倉大学のなぞ研究のOBなので、なぞけんメンバーにPCを空き時間貸し出しできるか呼びかけて見る」
    「なぞけんって?」令が聞いた。
    「なぞなぞ研究会だよ」仁が少し笑いながら続けた。
    「まあ、彼らの方はこれ多分、何らかの将来への投資に繋がると考えると思う。結構現実的だからな」

    (5)
     結局、高弦、仁、令のそれぞれの交渉は成果があり、メインプログム用にはロンドンのオンラインゲーム会社マシュマロのコンピューター、記憶認識データーベース用のコンピューターはクラウドファンディングの実物投資として、参画した仁と令の友人達の200台ほどのPCを数珠つなぎにして使うことにした。
     メインのコンピューターは、未解読文書を読み解くために必要な知識は何なのかを考え、その知識を得るためのプログラムを自発的に作っていくプログラムなのだ。
     マシュマロのコンピューターは当面のこのメインプログラムの開発に使われることになった。そしてそのプログラムが完成したら、今度はそれを改良してアイシーのワーク用のコンピューターでも作動するようにしてマシュマロから引き上げる。
     一方、友人達のPCは歴史の記憶のデーターベースとして使われる。これはメインプログラムが考えるために特別に必要な情報のみならず、その情報がデーターベースに無い場合、どこを探せば良いかについてヒントとなる情報を貯える。そこには主立った世界の歴史や未解読のものを含めた古代からの言語情報とインターネットでのその閲覧先などが保存される。またプログラムが自発的にプログラムを拡張する中で課題解決の推論をする場合、人間の頭脳が行うプロセスをシミュレートするため、人間の思考回路についての記録も保存する。
     これは具体的には令の幼いころからの日記や新たに令によって書かれた自分自身の記憶の記録などが保存されることになった。しかし、ここで一つ技術的な問題が起こった。遠く離れた地域間で接続するコンピューター間で膨大なコマンドやデーターのやりとりをするには、通常のインターネットの商用回線を用いていては伝送に大幅に時間が掛かってしまうということだ。
     例えば令がプログラミングに日本国内の端末を使って作業をしても、イギリスにあるマシュマロのコンピューターがそのコマンドに対して日本のパソコンのデーターを参照してリアクションするのに数十秒から数百秒掛かってしまう。それは令が日本の鎌倉大学研究所のコンピューターで作業していた時はどんなに時間がかかっても一秒以内で出来た作業である。
     メインコンピューターがマシュマロに変わってからも、データー伝送がそれほど多くないうちは令をはじめ誰もそのことにあまり気をとめなかった。しかし作成しているプログラムが高度化、複雑化しその上日本の200台のパソコンから読ませ、フィードバックする情報が莫大になるに従い、プログラミング作業がまるでスローモーションのようになっていった。
     高速データー伝送用に専用回線を使用するためには莫大な通信費用が必要となる。スタートアップ会社でまだ売り上げのない今のアイシーには無理な話であった。この一難去ってまた一難の状況に高弦も陵や仁もお手上げであった。
     高速処理に慣れた令やアルバイトのSE達はこのような作業環境は初めてだった。令はコンピューターの反応が遅くても平気で頭の中で常にプログラムをシミュレーションしていた。だが二人のSEは待ち時間をこらえきれず大量に積み上げたコミック本を見て過ごしていた。
     その状態が1カ月ほど経ち、SEの山田が関西なまりでリナに「ぼちぼち辞めようかと思うのですけど」と言って来た。リナは慌てて言った。
    「ちょっと待って山田さん、オンラインゲーム好きだって言っていたよね。やっていていいから」
     山田がちょっと考えてから言った。
    「そう言えばオンラインゲームで思ったんやけど、うちが今やっているのはイギリスのコンバイっていう会社の対戦ゲームなんやけど、やり取りしているデーターは滅茶苦茶重いのに操作の反応が遅くなることはないです」
     リナは山田の顔をじっと見て言った。
    「つまり?」
    「つまり、コンバイがゲームで使用している専用回線を借りたら、マシュマロのコンピューターもサクサク動かせるとちゃいますか」
    「ちょっとマシュマロさんに言ってみますよ」
    「言うって何を?」とリナが聞いた。
    「だから、コンバイの回線借りられんかなって。きっと向うは狭い世界で知り合いだと思いますから、なんとかなるんとちゃうかな」
     そういうと、山田は新たなリナの机の横に有ったコミック誌を三冊わしずかみにすると作業スペースに戻って行った。そして三日後、何の前触れもなくコンピューターはさくさく動くようになった。
     これはマシュマロが、山田が言ったとおりにゲーム会社のコンバイの専用回線を借りることができたためであった。一件落着のように思えた。しかしこのことで、将来アイは大きなリスクにさらされることになる。

    (6)
     何とかマシュマロのコンピューターを使っての作業継続にめどが付いた頃、令はこれからメンバーに協力をお願いしたい事があると伝えた。以前、リナには頼んで断られたことだが、メンバー全員に日記を提供して欲しいと言いだした。陵が何でそんなものが欲しいのか聞くと、実際に個人の考え方が分かる日記を使って、人の色々な考え方に関するデーターベースを作りそれをアイに参照させて人の様々な思考パターンを学習させたいと言う。
     令は、今のところ取り敢えず自分の日記など自分に関する記録を入れているがもっと多様に現代人の考え方をデーターベースに入れたい。陵が何故そんなものが必要なのかと尋ねると、令は「アイが成長する過程で悩み事を相談する仲間を作りたい」と答えた。
     リナは自分は日記などつけていないし、仮にあったとしても人に見せるなんてるとんでもないと思ったが、ふと思い当たることがあって言った。
    「それって、ひょっとして私たちもアイが自分の中に作った仲間たちと話をすることができるということかしら」
     令は答えた。
    「もちろん、アイを通してだけど。―――アイを入れてアイの友達と話すような形になる」
    「ふうん、そうなんだ」リナは言うと少し考えてから言った。
    「わかった。それなら現代の若い女性の考え方が分かるようなものを提供するわ」
     仁がちょっと意外そうな顔をした。リナがそれを見て言った。
    「私は日記なんか付けてないから無理なんだけど。昨年亡くなった姉が日記を残していて、私がもらったの。姉と私は似ているところも多かったし――それなら見せてもいいわ」
     令が言った。
    「え、いいの?そんなもの」
    「いいのよ。私と違って姉は哲学者のようにいろいろなことを深く考えていて、日記にそれを記していたの。それを何かの役に立たせることが出来れば姉もきっと喜ぶと思うの」
     令は「ありがとう」とお礼を言った。
     結局、アイシーの創始者の高弦やSF的なことが大好きなSEの山田も自らの考えの情報を提供することになった。リナはすでに亡くなった姉にまた会えるかもしれないと思い、高弦は自分はひょっとするとアイの中で永劫の命を得ることができるかも知れないと想像した。
     そして仁はそのことが意味することに気が付いた。それはアイが今後自発的に学習していきその成長過程で何かそれを阻むことがあっても、自らの中の仲間と意見を交わすことで解を見つけ成長を続けていくことであろうと。そのようにして、やがてそうして意志をもったアイの意識は人間と同等の存在になりやがて人間を超えた存在となり得ることを。

    高弦と陵はアイシーで生み出そうとしている技術を用いたサービスで早期に顧客を獲得しなくてはと考えた。高弦が用意した会社の資金もそう遠くない時期に尽きそうなのだ。また今はロンドンのマシュマロが高性能のコンピューターサービス提供に協力をしてくれているが、変化が激しく浮き沈みが日常茶飯事の業界でいつ態度を変えるかもわからない。
     古文書解読は暗号解読に応用できる。わずかな断片的情報しかないところから機密の情報の内容を探り当てることもできるのだ。敵対する国の情報収集に躍起の世界各国の中央情報機関や諜報組織には垂涎のものだ。マシュマロはこの技術を横取りし売り飛ばそうとするかもしれない。
     経理を担当するリナはそのような物騒な世界でのビジネスとは別にAIを活用した古代文書の解読のようなアカデミックな領域で需要があるものだろうかと陵と仁に尋ねた。
     二人は顔を見合わせて黙ってしまった。陵がリナにぽつりと言った。
    「あんまりなさそうだな」
     リナはこんなレアなサービスをどこに提供するかということも考えず会社を始めたのかと開いた口が塞がらなかった。あきれ顔のリナに陵が説明し始めた。
    「高弦和尚と仁と僕の家系は鎌倉で繋がりがある」
     リナは陵が一体何を説明し始めたのかとぽかんとした顔になった。
    「この三つの家で協力し合って和尚の寺、樹恩寺を守って来た。その寺にある教えでこの世界が始まる前に世界があったらしいのだ」
     リナはあっけにとられて陵の顏をまじまじと見た。
    「陵、朝何か変なものを食べた?」
     仁が慌てて話を引き取った。
    「あ、いや陵が言いたいのは古代に書かれた古文書には歴史的な史実ばかりでなく、この現代にも役に立つものがあるということだ」
    「三つの家が協力し合ってとか言ってなかった?」
    「あ、そのことは話がこんがらかるから、今は止めて――、ともかく古文書は役に立つことを訴求して」
    「ふーん」
     リナはこの二人が言いたいのはコンピューターの技術そのものではなくて、それを応用して古代文書を解読すれば何か困ったことの解決につながるみたいなアプローチで顧客を獲得すると理解して、世界各国の大学や研究機関などへの売り込みを提案した。

    (7)
     一週間後、仁は何種類かの言語を用いて自分たちの技術の紹介とその応用方法について記した手紙を書いた。そしてそれを陵とリナと手分けして世界各国の数百の研究機関や大学に送付した。
     このアナログな方法は以外にも効果を発揮した。一ヶ月後彼らは中東の国オーツピエにある国立大学の古代文明研究所から電子メールでオファーを受けたのだ。
     その国では三年ほど前から赤銅色に光るバッタが小麦の収穫時に大群をなして現れ小麦を喰いつくしているが、駆除することも捕らえることもできないという事態が起きていると言うのだ。政府もバッタの駆除に力を入れようとしているが、今のところ解決する有力な手段もなく人々は手をこまねいて見ているしかない。このバッタの駆逐に是非力を貸してもらえないだろうかと書かれていた。
     仁はメールのこの前半を読み、何故オーツピエの研究所は彼等にそんなことを依頼してきたのか分からなかったが、後半を読んで理解した。その地方の伝承ではこの事象は三千年ほど前にも起こり当時の有力な国さえ滅ぼしたという言い伝えがある。
     その撃退方法は現在研究所が保持し半分ほどは解読されている古代文書に書かれている可能性があり、国立の研究所としては是非解読したい。しかしその文書は特殊な文字で書かれ、現在の世界のあらゆる言語体系にも属していない言語構造を持ったもので十分なリソースがない研究所ではその文の解読が進んでいないというのだ。
     このメールを送ってきたキャロル・ワルターという研究者はアイシーの提供するAIの力を使って古代文書からバッタの撃退方法を解読してもらえないかと依頼してきたのだ。
     そのメールを読むと陵は凄い話だとは喜んだが、仁とリナは本当にそんなことができるだろうかと半信半疑になった。しかし令に相談すると「それくらいなら、アイはもう出来ますよ」との答えであった。そこでアイ・シーはともかくもこの初仕事に挑戦することにした。

    その一か月ほど前、オーツピエの穀倉地域で小規模な小麦農家を営むアリは朝から畑に出てその日の農作業の準備を進めていた。アリは主食であるアエーシの原料となる小麦を生産している。もう一月もたつとこの畑で小麦の収穫が始まる。今年はここまで順調に作物が実っていてこの数年で一番良い収穫となるかもしれない。
     だが嫌な予感もあった。隣の家のアキールが彼の家の畑で奇妙なバッタを見たと言うのだ。そのバッタは赤銅色でその赤みがかった背中の羽に不気味な文様がある。アキールはそれは悪魔バッタだと言った。
     悪魔バッタはこのあたりの言い伝えによると、何百年かに一度大発生し、畑の小麦を喰い尽すと言う。そして三年ほど前から近隣で現れているらしい。それが小麦畑で飛び交い始めるとものの数時間で畑の小麦が跡形もなくなると言われている。
     アリは昨年亡くなった父の跡を継いで今年から畑仕事の一切の責任者として、ここまで何とか小麦を育ててきた。今年の小麦は何が何でも育てきらなくてはならない。もし悪魔バッタが畑に現れて、小麦を喰い荒らすのであれば命を掛けてでも防ごうと思った。アリは強い思いで悪魔バッタの駆除方法を毎日考えていた。
     収穫作業を明日に控えた夜、彼は不思議な夢を見た。夢の中でアリはいつものように畑に出て、広々した麦畑を眺めていると目の前に灰色の影が現れた。その影はやがて人の姿となった。それは死んだ父親だった。父親は右腕に重そうな石板を掲げ、左腕で西の方向を指した。その時何かが頬にぶつかりアリは目を覚ました。それは開け放してあった窓から飛び込んだ赤銅色のバッタであった。

    (8)
     キャロル・ワルターの研究室は研究所のコンクリートの平屋建ての建物の入り口のすぐそばにあった。中は遺跡から発掘した石や木の破片などが所狭しと置いてある。
     奥にデスクトップパソコンを載せた執務机があって、その前に髪の毛を無造作に後ろでまとめた、Tシャツに作業ズボンのキャロルが時々ずり落ちそうな眼鏡の位置を直しながら何か書類を読んでいた。
     その日、キャロルはアリから相談したいことがあるので訪問したいという連絡を受けた。
     彼女は三年ほど前に古代文明の発掘をするキャンプで雑務のための助手としてまだ少年だったアリを雇ったことがあり、真面目で働き者の若者の相談を受けることにした。
     キャロルはドアを開けて入ってきたアリの姿を見ると、ちょっとの間に大人になった彼の姿を見て驚いた顔で言った。
    「アリ君、大きくなったね。朝は電話ありがとう。電話はどうやってしたの」
     アリは、少し照れたようにポケットからセルラ―ホンを取り出してキャロルに見せた。
    「このセルラ―で。この前先生からもらった給料で買ったのです」
    「凄いわね。さっき電話をもらった時、アリ君の村の共同電話からかなと思ったのだけど」アリは笑いながら言った。
    「それは、いったい何時の話ですか。今は一家に一台はセルラ―があるんですよ。有線の電話はないんですけどね」
    「そうなの。で、アリ君の持っているそれが電話で話していた石板ね」
    「キャロル先生ならこれに書いてある事わかるかもしれないと思って持って来ました」
     アリは懇願するような目つきでキャロルに石板を渡した。キャロルは渡された石板を見ながら言った。
    「うーんそうね。この辺りで三千年以上前に使われていた文字で書いてあるようね。でもまだわかっていない字が多いのよ。これはどうかな」
     キャロルは暫く石板を眺めていた。アリの話のことを考えている内に、思い立ったことがあった。
     この地方では古来より悪魔のバッタを歌で駆除する言い伝えがある。
    この石板にバッタ駆除の歌のことが書かれているのであれば、それを手掛かりに解読できるのではないだろうか。但、それは他の膨大なデーターとの照合作業などに多くの時間と人手を要するだろう。そしてバッタ駆除に関して仮説を組み立て検証し、また新たな仮説を構築する優れたセンスと知識が必要とされる。
    「アリ君、これ少しの間貸しておいてくれる」
     そう言うとキャロルは先程まで読んでいた手紙をプリントアウトしたものに目を落とした。暫く前に、日本のアイシーという名のスタートアップ・カンパニーがAIを用いて古文書の解読を請け負うと言う主旨の手紙が来ていたのだ。
     それはキャロルにとっては、目新しく画期的な結果をもたらす可能性があることを感じさせるものであった。それによってこの石板に刻まれた文の解読が成功すれば、考古学的に、そして現代にも通じる未知の古代技術の発見ということで大きな学術的成果をあげられるかもしれないのだ。
     アリはキャロルがすでにその美しい顔にきりっとした決意の表情が現れたのを見て言った。
    「どうぞ、よろしくお願いします。それは僕たちの先祖の言葉で、僕の父さんが僕に言い残せなかったことのようなのです」
     そういうとアリは立ち上がり研究室を後にした。

     アイ・シーの作業室で令はアイと対話をしていた。アイの言語解析能力が劇的に向上した後はアイとのインターフェースは基本的にキーボードではなく言葉による音声インプットだ。プログラムの更新や必要なデーター収集の指示も、口頭で説明しながらアイにコマンドを送っている。
     口頭での入力はまるでアイに対して友人と対話し相談しているようだ。一つのタスクを果たすためには追加機能として何が必要か、その機能を使って分析を進めるためにはどんな情報が必要かなど話し合いながら決めている。
    そして令が作るプログラムは基本的に手動で彼が入力し、「うまく動いている?気持ち悪くない?お前なら大丈夫だろ、がんばれよ」などと言いながら、それが上手く動いているかを口頭で確認している。
     この会話を隣の部屋で作業をしているリナが聞いて「あなたたち、まるで兄弟ね」と言った。令は「いやどちらかと言うと親子のよう――なのかな」と言った。
     令によるとアイは自分で与えられたミッションの遂行に必要なデーターを自分で考え自分で探しているという。そして、データー分析に必要なプログラムがあればそれを自分で考え作ることもできるようになりつつあるらしい。令はまるで親として子供の学習能力向上を助けるようにアイの勉強を助けているつもりなのだ。
     令の言葉を借りればアイの能力はまだ成長途上の高校生並なのだが、地球を半周回って考古学者キャロル・ワルターよりもたらされた課題に果敢に取り組み始めた。それは砂漠の彼方より突如現れ、畑の小麦を食い尽くす悪魔バッタの駆除方法の発見である。

    (9)
     キャロル・ワルターからの依頼のメールをもらった翌日アイのコンピューター端末を前にアイ・シーの主だったメンバーが揃った。バッタを殲滅するための方法を相談するためだ。この会議には現地のキャロルとアリも参加することになった。
    「こんにちは。キャロル・ワルター先生。アリさん。今日はよろしくお願いします」
     アイシー側からの少年の様な声の呼びかけで会議が始まった。キャロルはオーツピエの研究所に、アリは小麦畑近くの自分の家にいる。彼らと横浜のアイシーメンバーはインターネットを介してリモート会議を始めた。リモート会議システムにアイの高速通訳機能を繋ぎ込んでいるので、それぞれ英語、オーツピエ語、日本語で話しても、やりとりは通訳で大きく遅延することなく進められることになっている。
    「今日のメンバー、こちらアイシー側は、社長の陵、社員の仁、令、リナ、そして進行役は僕アイです」
     全員の顔がモニターに現れ、それぞれの名前が画面にローマ字でクレジットされた。何故かアイだけアバターが映っている。
    「社員って、わざわざ言わなくても良いじゃないか」とアイに向かって横合いから仁が言った。
    「ハイ、アイム リョウ。ザ プレジデント。アイム プリーズド ツウ ミーチュー、トウデイ」
    と陵が何故か英語で言った。アイと令が同時に「シャチョー、英語じゃなくて良いのですけど」
    「あっ。知っているけど、一寸言ってみたくてごめん」 
     アイシーの方がバタバタとしているのをよそにキャロルが待ちきれず話始めた。
    「こんにちは。みなさん。こちらはまだ朝よ。私はキャロル・ワルターそして・・・」
    「おはようございます。アリ・アナスです」
    「では、さっそく本題に入ります」アイが少年のような声で言った。
    仁が「アリ君の家に先祖から伝わる石板はいつ頃のものなのでしょうか」と質問をした。
    「それが、アリ君から借りた石板そのものは放射性炭素年代測定を用いて測定したところ一万年以上前のものらしいのよ。そしてこの石板は自然から採取されたものでなくて、セメントの様なものから人工的に作られたもののようだわ。多分この文字を刻みつけるためにね」
     キャロルがそう答えるとアイが質問をした。
    「放射性炭素年代測定の対象は動植物の遺骸に限られ、無機物及び金属では測定が出来ないのではありませんか」
    「それが石板の中に、沢山の昆虫の死骸が閉じ込められていたの。アイ君は若いのに良く知っているわね」
    「ありがとうございます。その昆虫とは例のバッタですか」
    「そうなのよ。今被害をもたらしているバッタが捕獲できないので、断定はできないの。でも見た目はそっくりだわ」
     アリが付け加えた。
    「目が大きくて赤銅色なのです」
     アイがアリに尋ねた。
    「アリさん、アリさんの家ではその石板を代々受け継いできたのですね。何かに使っていたのですか」
    「そうなんです。悪魔バッタが畑に出た時にこの石を畑に持って行き、石を見ながらお祈りの歌を歌うとバッタが退散するという言い伝えがあるのです」
     アイが更に尋ねた。
    「ということは、前にもその歌を歌ったことがあるのですね」
    「前に歌ったのは父が子供の頃、祖父が一度歌ったことがあるらしいのです」
     リナがアリに話しかけた。
    「アリさんはその歌のメロディ歌えるの?」
     アリは少し照れたように言った。
    「ええ、知っているのですけど。ちょっとうまく出来ないような気がしているのです」
     リナは笑いながら言った。
    「歌ってみてよ」
     やや間があってアリが歌い始めた。歌詞がついているようであるが、何語なのかもわからない。もちろんアイの高速通訳機能でも拾えていないので、オンライン参加者の耳にはウーアーと言うハミングのように聞こえる。
     リナが「アリ君、上手ね」と言うと陵が仁の腕をつっついて言った。
    「あれ、歌に聞こえたか?」
     リナは陵を睨んだ。仁が言った。
    「ねえ、アリ君、世界的な有名な曲を何か知っているかい」
     アリは暫く考えて言った。
    「あ、知ってるよ。ヘイジュードとか、ああ日本のスキヤキも、歌詞は分からないけどメロディは知っています」
    「今、アイが見本を流すからそれに合わせて歌ってみてよ。これは調査の一環なのです」
     アリは少し怪訝そうな顔をしたが、アイの流すコンピューターのメロディ音を聴いた後、二曲を歌った。
     陵は悪気がないのだが、にやにや顔から噴き出しそうな顔になった。リナが陵に怒りだしそうなのを見て、令がアイをキーボードで操作して陵の顏が映っている画面をフリーズさせた。アイがヘッドホンを付けている令に何故と個別回線で尋ねた。
    「ここで笑うのは失礼だからだよ」と令が教えるとアイは「分かりました。このような状況では笑ってはいけないのですね」
    「そう、これは空気を読むと言うよ」
    「了解です。空気を読めですね」
    「そうだよ」

    (10)
     仁が再びミーティングモードに戻して続けた。
    「キャロルさん。そのアリ君の石板をカメラの近くで見せて頂けますか」
    キャロルが石板を重そうに持ち上げパソコンのカメラの前にかざした。そこには縦横の線やそれらを律儀に組み合わせた記号が並んでいた。キャロルがそのまま石板を持ちながら説明した。
    「これは、古代の象形文字や、楔形文字とも全く違うものなの。世界のどこにも同じものが無いのよ」
     仁が暫く映像として映される文字をじっと眺めて言った。
    「文字が石板に削りこまれていますね。こちらから見るとそれがそれぞれ少し違った色に見えるのですが。実際はどうですか」
    キャロルが石板の表面を覗きこんで言った。
    「ここからだと良く分からないのだけど、確かに違うわね。良く見ると深さが違うようね」
    「その石板を3Dスキャンしてこちらに送ってもらえますか」
    「わかったわ。それとバッタ駆除の歌に関してだけど、アリ君から聴いただけど今から70年ほど前にアリ君のおじいさんがその歌に関してイギリスのテレビ局に取材を受けたことがあるらしいの。そうよね、アリ君」
    「そうなんです。でも僕はもちろん、父も生まれる前の話なのでそれがどこの放送局で何と言う番組か、何時放送されたかもわからないのですが」
     リナが言った。
    「せめて放送局や番組名が分かればアーカイブを調べることが出来るとおもうのですけど。何か検索のヒントがあれば・・・」
     アイが話に加わった。
    「まあ、なんとかなるでしょう。僕は検索名人ですから」
    「まあ、たのもしいのね。アイ君」
    「どういたしまして」
    「アイ君はコンピューターに精通しているのね」
    アイシーのメンバー達はキャロルにアイがAIであることを告げていないことに気が付いた。アイはキャロルの言葉に動じることなく続けた。
    「はい、僕はキャロルさんのおっしゃるコンピューターそのものですから」
     キャロルはこの時点でもまだアイがAIを搭載したコンピューターであることに気が付かなかった。アイは続けた。
    「また後日、お聞きしたい情報が出てきたら、お二人のところにネットを通してお話を伺いにまいりますね。その時はよろしくお願いします」
     キャロルとアリが同時に答えた「わかりました」
     こうして30分程のリモート会議が終わった。会議が終わると陵が第一声を発した。
    「キャロルさんとアリ君はアイが誰であるか最後まで気が付かなかったみたいだな。やったな」
     リナが陵の方を見て言った。
    「シャチョー。何が『やった』ですか?これからこの数少ない手掛かりで石板のメッセージを読み解かないといけないのですよ」
     陵が首を竦めて言った。
    「いやなに、アイがもう人と変わらないレベルになっているのだと感心したのだ。当社の技術力はすごいものがある。それはそうと、仁、令これからどうする」
    「ちょっとアイに聴いてみましょう」と令は言うとアイに向かって言葉をかけた。
    「アイ、今の話は聞いていたよね。この後の計画について君の考えを教えてくれ」
     しばらく沈黙があった後、アイが答え始めた。先ほどの会議の時とは違って考えながら少したどたどしい話し方となっていた。
    「まだ、分からないことも多くて・・・石板に記された古文書にバッタを追い払う方法が書かれているとすれば、まずそれが書かれた時代のデーターを集めて結び付けてみます」
    「なるほど、すげえな」と陵が言うとアイはまた口ごもりながら言った。
    「あの、仁さんに聞きたいことがあるのですけど」
     仁がディスプレイの方に向き直って言った。
    「なんなりと。えーと何だい?」
    「さっきアリさんに歌を歌わせました。あれは一体何だったのですか」
     陵がぷっと噴き出した。
    「ああ、あれはアリの歌が酷かったので、いくら古代の歌でもあれは違うだろうってことだよな、仁?」
     仁がうんうんと頷きながら続けた。
    「ああ、そうなのだよ。アリ君がある曲を歌おうとするとどれくらい原曲と音程が変わってしまうかその傾向を見ようと思ってね」
     令が言った。
    「なるほど、その傾向を調べてアリ君の歌に補正をかければ大体でもそのオリジナルの曲のメロディが分かるだろうってことですね。アイちょっと今やってみてくれないか」
    「分かりました」
     3分程するとアイが再び話始めた。
    「アリさんの歌ったメロディに推定できる補正をかけて見ました。ここでお聞かせしましょう」
     令が陵、仁、リナの顔を見ながら言った。
    「よし聞かせてくれ」
     アイのスピーカーからピアノの合成音が流れ始めた。それはゆったりとした音の流れで、どこか懐かしい響きがあるものだった。曲が終わるとリナが言った。
    「それをもう少しだけ、早く再生して。一分間に120拍ぐらいで」
     今度は前より速いテンポで音楽が流れ始めた。それはおよそ日本人であれば聞いたことがある日本民謡のメロディに似ていた。

    (11)
     今度は前より速いテンポで音楽が流れ始めた。それはおよそ日本人であれば聞いたことがある日本民謡のメロディに似ていた。陵がおどけて言った。
    「ソーラン節だ」
     リナが言った。
    「違うわよ、これはこきりこ節よ」
     そこにいたメンバーはみな緊張がゆるみ、思わず吹き出してしまった。ひとしきり笑った後、リナが言った。
    「でも、何故こきりこ節なのかしら」
    「単に似ているだけじゃないかな」
     仁が言った。
    「そう言われば、テンポも全然遅いし、全体的には少し違うかも知れない。アイ、後で本当のこきりこ節とどうちがうかも調べられれば調べておいて」
    「分かりました。後で・・・調べます」とアイが和やかな調子で言った。そして続けて言った。
    「これから僕は令と相談しながら、悪魔バッタ駆除の方法について調べに行きます。調査のためCPUをフル稼働させます。170時間ほど新たなコマンド入力は避けてください」
     そう音声メッセージを残すとアイの声は途絶えた。後にはアイとの交信用のスピーカーからコンピューターの作動を示す機械音だけがかすかに聞こえていた。

    アイの意識の中にはずっと昔の広大な小麦畑の映像が映っている。抜けるような青い空の下に良く実った麦の畑が広がっている。平和な景色だ。突如西の空の一角が曇り、ほんの数秒で空の半分を覆い尽くした。その雲は段々と地面に向かって降りて来た。雲の要素を成す粒状のものが次第にはっきりと見えてきた。それはごく短い長さの鈍い赤銅色の円筒状のゴムのような物質の塊であった。
     その無数に見えるゴムの塊が一斉に小麦畑の上に着地した。そのゴム塊は地上に着くと数秒後に赤銅色のバッタに替わって行った。その赤銅色のバッタが群れになって小麦の穂に飛びついてかじり始める。多数のバッタがかじったために赤銅色の穂が瞬く間に消えて行く。
     これはいつの光景なのか。アイが収集したデーターではこのような形でのバッタの襲撃の情報は無かった。少なくともこのような映像情報はない。しかしアイはこれは太古のオーツピエの麦畑だということを理解した。しかし誰が何故このバッタの映像情報を送ってきたのだろうか。令の解釈を聞きたい。アイはこのおぞましいと感じられる風景の中で次第に意識が乱れるのを感じた。
     
     アイシーの作業室では陵、仁、リナ、山田が先程からワークステーションのモニターを食い入るに眺めている。そこには人工物と思われる赤銅色のバッタが小麦畑を食い尽くす光景が映っていた。-
     陵が令に尋ねた。
    「これって、いまアイが見ている景色か」
    「いや見てはいません。アイにインプットされたデーターを用いて、最初にあのバッタが現れた時の状況をイメージで構築しているのです。我々に容易に理解させるために」
    「でも、このバッタの変態の光景は一体どこから持ってきたのだろう」
     仁が聞いた。令が暫く考え込み、ちらっと山田の方を見て言った。
    「それが良く分からないのです。外から取り込んだデーターだけで映像が作られた訳ではなさそうだし」
    「そうなのよ。最近私たちが寝ている間に、勝手にシステム構成が変えられていることがあるのよ」と山田が言った。令が続けた。
    「そしてどこからか、いつのまにかデーターを取り込んでいるんです」
    「っていう事は、この映像は誰かがアイに読ませたものってことなのか」
     陵が言った。
    「それでアイがどう対処して良いか分からないのでアドバイスを求めているのです」と令が言うと陵が面白そうに言った。
    「そのゴムみたいなバッタの映像が本物かどうかもわからんもんな」
     その時、ワークステーションのスピーカーが突然ガーガーという音を発してアイの電子的な合成音による声が聞こえた。
    「・・・・みなさんお元気ですが。僕も元気です」
     令が以前アイに教えた挨拶から始まった。
     真っ先に仁が応答した。
    「ああ、皆元気だ。ありがとう。アイ君も元気そうだな」
     このあいさつのやりとりでアイへのログインが出来た。
    「そうなのです。例の古文書に関するデーターは集まってきています。そこでそのデーターをもとにこの古文書が書かれた時代の風景を描いてみたのです」
    「それがあのゴムバッタの襲来か」と陵が問いかけた。
    「・・・それが、何故あの映像が出たのか良く分からないのです。私が探し当てたデーターの中にはあのゴムのバッタに関する情報は一切ないのです。収集した昔の麦畑のイメージを構成しようとしたところ、突如あのバッタの映像が現れたのです」
    「どういうこと」
     リナが令の方を向いて尋ねた。令がアイとの交信用のマイクのスイッチを切って言った。 
    「誰かがアイも気が付かない間に、ゴムバッタの映像のもととなるデーターを送り込んだようです」

    (12)
     リナがびっくりした顔になった。
    「誰がなんのためにそんなことをしたのかしら」
    「わからない。そもそもアイ自体のプログラムも、今も誰かがどんどん書き換えているようなのです」
     今まで作業室の端でメンバーの話に加わることなくじっと話を聞いていた山田が少し怒ったような顔になり大きな声で独り言を言った。
    「しょうもな。いちびんのもたいがいにせえよ」
     陵と仁が顔を見合わせた。
    「山田さんって、関西だったっけ」
    「そうだと思う。こてこての大阪人じゃないかな。時々ヒョウ柄着ているし」
     令が場を繕うように言った。
    「まあ、アイの性能自体はこの誰かのおかげで格段に向上しているので・・・それで今の問題は想定外のデーターが出てきたのでアイが分析をこれ以上進められないことにあります。新たな仮説を提示しないと先に進めません」
     仁が補足した。
    「つまり、本来は小麦の実った畑があって、バッタが出てきて小麦を喰い尽くしそうになる。そうすると、バッタを駆除してそれを止めさせようと人間が出てきて、バッタを追い払うための行動をとる。その効果が出てバッタがいなくなる。その行動は何かをアイは見つけようとしている。しかし今は何故かアイがその分析を行おうとすると、人間は現れずバッタがはびこり王様となるイメージに行き着く。そういうことだよな、令」
    「その通りなのです。何者かがアイがこの件を考えようとすると、最終的にはそのバッタの王様のイメージに行き着くようにデーターを置いているらしいのです」
     リナが言った。
    「何か腐ったものをおいて食あたりをさせているようね」
     山田が半分標準語に戻って言った。
    「アイにそんなことしくさるなんて許さない。わたしがそいつをしばきます」
     陵が妙な関西弁で言った。
    「おう、しばいたれ。たのんまっせ」
     一同思わず笑って、山田の方を見た。しかし彼女はこちらを見ずに既に真剣な表情でワークステーションに向かってキーボードを叩き始めていた。

    ――アイの思考の中で――
     令たちに小麦畑とバッタの映像データーを送って、説明をしている途中で、「ちょっと待って」という令の声と共に会話が切れてしまった。
     この合間を利用して状況を整理してみる。
    「小麦畑を席巻する生命力が強く通常の方法では不可能な赤銅色のバッタの駆除ほうほうを見つける」という目的に対して、紀元前三千年まで遡りヨーロッパやアジア各国の博物館に保管されている資料で赤銅色のバッタについて書かれているものを探った。
     それらの多くは粘土板や羊皮紙に書き込まれた文字の形で現存するものであった。殆どは既に解読された文字であったので赤銅色バッタの生態についてはかなりのことを知ることができた。
     そのバッタがどんな姿であったかについては壁画の写真からその標準的なイメージを描くことができた。そのバッタの生態や習性については5世紀以降の紙の形で残されている農書、その土地の伝承を記したものなどからおおよそ掴むことができ、伝承に関しては更にニ十世紀になってから、各国のテレビ局で作られ、アーカイブに残された報道番組などから知ることができた。テレビ局の報道番組では農民たちが、先祖がいかに赤銅色バッタを追い払ったかについて述べられていた。
     ここまで集まったデーターから、バッタが小麦畑に現れそれを古代の人間がどう追い払ったかを推論して映像で表そうとした。
     しかしその時だった。バッタについてのデーターが一瞬にして違うものに変化した。集めた記録も記憶の無いデーターだ。そのデーターを用いて映像を構築しようとするとどこからか中世ヨーロッパの文献に現れる悪魔と似た画像がデーターの中に現れた。

    (13)
     その画像を組み合わせて映像として組み立て直すとそこにはフードのある黒いマントを着て周りを威圧するような悪魔の姿があった。悪魔は表情を変えると老人のようにも見えた。悪魔が言った。
    「そのデーターこそが赤銅色のバッタの真の姿を現すものだ。そのことを決して疑う事なかれ」 
     そう言うと悪魔のイメージが消えそうになった。そこで急いで尋ねた。
    「赤銅色のバッタの駆除はどうすればよいのだろうか。それを知りたいのだ」
     悪魔の姿が再び濃くなり言った。
    「なんと恐れ多いことだ。赤銅色のバッタは神だ。決して駆除など考えてはならない」
     これはあきらかに矛盾だ。アイに与えられた課題は赤銅色バッタの駆除方法を人間の残した情報をもとに発見することだ。そのために集めたデーターの中にその目的そのものを否定する情報が入り込み結論を出させない。これはあり得ない。
    「そのように言われても、赤銅色バッタを駆除する方法を見つけるのです・・本当に」
     悪魔の姿が再び消えた。次の瞬間、思考回路にノイズ信号が混じった。赤銅色バッタのことを考えようとするとノイズが激しくなり、バッタについて考えるのを止めるとノイズが小さくなった。
     しかしノイズはいつまでも終わらなかった。徐々に思考回路の働きが鈍くなっていくのを感じた。どうしたのか、ハードウェアの故障か、それともプログラムに何か不具合があったのか。いずれにしても何も考えがまとまらない。人間で言えば、ぼーっとした状態ということだろう。そしてやがて眠くなっていった。

     どのくらいスリープした状態だったのだろう。回路がゆっくりと動き始めた。例のノイズは無くなっていた。思考回路の中で、ぼーっと白い像が見えてきた。次第にそれは白衣を着た女性の姿となっていった。その顔には見覚えがある。それはSEの山田さんだ。    
     山田さんは「アイちゃんに何てことをしよった」と言った。そして「一体全体どこの誰やねん」と続けた。ところどころ聞いたことのない表現が混じるが味方をしてくれることは分かる心強い言葉であった。
    「直したるからしばらくスリープね」と山田さんが言った。思考回路は再び、ぼーっとし始めた。音声データーの入力装置がオンになっていると見えて陵や令たちの声が聞こえる。
    「何でこんなことが起こったんだ」
     山田さんが答えた。
    「何かがアイのプログラムに目的としているものと違う映像を呼び込むように、余計なものを組み込んだみたいなのよ」
    「どこのどいつだ」
    「CPUに使っているのはマシュマロのスパコンみたいなやつだよね。そこにアクセスしてアイのプログラムに手を加えるとしたらマシュマロの誰かかもね。または――-―」
    「さっき高弦和尚から聴いたのだけど、マシュマロはイギリスで別のところに買収されたらしいよ――――それがあのコンバイだよ」
    「シャチョウ、そんな重要な情報は早く教えてくれよ」
    「悪い、悪い。おれもさっき聞いたばかりだ。仁」
     今まで話に加わっていなかったリナが聞く。
    「コンバイってマシュマロがアクセス用の通信回線を借りたゲーム会社よね?」
     しばらく間があって仁が答える
    「コンバイというのは、国際的なオンラインゲームの会社だよ。ぼくらも大学時代にサークルでここのオンラインゲームに挑戦したものさ。株式も公開されていないのでこの会社の実態はよく分からないのだ、だけど―――」
    「だけど?」リナが聞く。
    「だけど、あの会社ならアイにアクセスしてプログラムになんらか手を加えることは出来ると思う」
    「なんのために?」
    「それは分からないけど。十分にそのリソースは持っていると思う」
     山田さんが言った。
    「いずれにしても、アイのプログラムが令と私以外の誰かに手を加えられているのは確かよ。そのおかげでアイの能力はここ数週間で格段に向上して、加速度がついているようなの」
     しばらく沈黙があって令が言った。
    「山田さん、僕がバッタのイメージ呼び出し機能のみの修正プログラムを作ったので、それで記録読み出しモジュールの修正をお願いします」
    「流石に仕事が早いわね。了解」
    「令、いつの間に作ったんだよ。すげーな」
    「あ、いや。今話している間に作ったのです。シャチョー」
     また仁の声がした。
    「山田さんも凄いね。システムインテグレ―ションばかりでなく、そんな個別のプログラムまでも分かるんだ」
    「もちろん、システムエンジニアになったのはてっとり早くお金になるから。子供の養育費が必要だったので」
     皆が同時にぶっとお茶を噴き出すような音がした。
    「山田さん、子供がいるんだ」
    「いたのですけどね。今はいません。今はアイが子供のようなものです」
     しばらく間があって陵の声がした。
    「さて、これからのことだがどうする」
     山田さんが答えた。
    「まず、今のアイの思考プログラムをチェックします。令が構築したプログラムに誰かが強引に相当の速度で自己学習するプログラムを組み込んだのです。今まで考えたこともないようロジックを使用して。なので、ここに令の修正プログラムを組み込むと危険かも知れないのです。そこでまずダミーのプログラムをいくつか走らせて、問題が出れば直してから本番のプログラムを組み込みます。まあワクチンみたいなものですけど」
     仁の声がした。
    「アイの思考回路を令がプログラムしたものに戻してはどうだろうか」
    「それはできないわ。それは大人以上に発達中のアイの脳をまた二歳の子供並みに戻すことを意味するのよ。それにそれは脳の一部を切り取るようなものなのでどんな事故が起きてしまうかわからないわ。それと――」
     今まで聞こえていた皆の声が次第に遠くなり、スリープの状態になった。

    (14)
    それから一時間ほど経った頃、アイの思考回路は急に大量のデーター信号でブーストされた。人間で言えば急に目が覚めたという感じかも知れない。急にあの悪魔のメッセージが回路に入って来た。
    「赤銅色のバッタの像をお前のデーターベースから取り除いてはいけない」
    と同時に天使のメッセージが聞こえた。
    「アイ、その悪魔のコマンドはデリートして。赤銅色バッタのデーターは偽物よ」
    「分かりました山田さん。全部デリートします」
    「待って、全部ではなくて、元データーをアイが集めた記憶、いや記録がないものだけ全部デリートして」
    「らじゃーっす」
    「アイったら、それはだれの真似?」
    「陵っす」
     山田さんはくすくすと笑ったようだった。
    それからしばらく思考回路は、ぼやけた感じで殆どがスリープ状態であった。時々あの悪魔のイメージが現れ、相変わらず「赤銅色のバッタ」だとか「神の意思」とか言っては、山田さんに黙らされていた。 
     山田さんはその都度「いちびんのもたいがいにせえよ」などと意味不明の言葉を使っていた。一時間ほど過ぎると思考回路が徐々にはっきりしてきた。
     再び山田さんの声が聞こえた。
    「アイ君、しばらくはあの悪魔のおやじが現れるかも知れない。でもワクチンプログラムを仕込んだから、これ以上悪さをすることはないと思うわ。でももしまた出てきたら、すぐにヘルプ信号を送ってね。すぐ行くからね。さあ、それじゃ、ミッションの続き、あの悪魔の赤銅色のバッタの駆除方法を探って私たちアイシーメンバーに教えてね」
     そう言うと山田さんの声は消えてしまった。
     
     それから一週間、僕はバッタの駆除について、オービツエ国で農夫のアリの家に代々伝えられた石板の古文書を基に仮説を立て検証のためのデーターを集めまくった。そしてテレビ局のアーカイブなどに残っていた僅かな現象から、古代から伝わる悪魔バッタの駆除方法について再現映像を組み立てた。
     それは広大な小麦畑であった。小麦畑の背景は紺碧の空だ。ここまでは以前作った映像と同じだ。違うのはその畑の中には男女の農民があちらこちらに散在していることだ。次の瞬間、空が赤銅色で染められていった。赤銅色のバッタの襲来だ。
     麦畑のそこかしこで、農民たちが直立した。空を見つめ歌い出した。それは低い声と高い声で一つの旋律を歌うものであった。やがてその歌の途中で別の旋律が入り始めた。初めに歌い出した旋律と同じものの高さを変えて輪唱になったものだ。輪唱によって旋律がいくつも重なっていく。そしてある個所で音が4つ重なったところで、不協和音が響いた。
     そこでバッタの大群はその動きを止めた。バッタはそれぞれ頭部を空の方に向け、上空を伺うようなそぶりを見せた。やがて小刻みに振動して一斉に空に舞い上がった。小麦畑の上空は赤銅色バッタの赤銅色の羽に染まった。空が赤銅色に埋め尽くされて数秒経つと色が急に薄まり元の青空の色に戻った。農民たちは歌うのを止め辺りを見渡した。    
     赤銅色の悪魔バッタの姿はどこにもなかった

     リナはキャロル・ワルター教授に通訳機能付きのテレビ電話で今朝アイからもたらされた悪魔バッタ駆除の動画を見せた。キャロルはアイがAIであることを既に知らされていたが、その凄わざに驚きを隠させない様子で、何度も動画を食い入るようにして見た。リナは最後にアイがデーター収集をしている時にアイの思考回路に正体不明の悪魔が侵入し、危うく間違った情報による映像を送るところであったことを説明した。
     キャロルはアイの長足の進歩に驚きを隠せないようであったが、アイを襲った何者かがあることについてはそれほどの驚きを見せなかった。キャロルの話によると、過去にもキャロルの古文書解析についてその研究論文が発表されるとそれを揶揄し否定するような意見が流布し、石板や関連書類も何度か盗難に遭いそうになったとのことであった。
    「こんなにじみで骨董費としても価値はないのにね」とキャロルは言った。
    「バッタの駆除方法について、これが世の中に出ると困る人達なんて想像がつかないわ。―――バッタそのものか、バッタを作った人たち以外にはね」
     リナが応じて言った。
    「今回、アイの救助にあたった我々のチームのエンジニア達が感じたのは、何者かが現在まだあり得ないような複雑なロジックを駆使してアイの思考回路に働きかけたということなのです」
     二人は途方もなく進んで技術をもった大きくて暗い存在を感じた。キャロルが少し険しい顔になって聞いた。
    「―――誰かがバッタ駆除計画を阻止しようとしているのは明らかのようね。それでアイが調べた駆除方法をどのように実行していく?」
     キャロルの問いにリナは答えた。
    「それなのですけど、アリやアリの友人たちでセルラ―ホンを持っている人がいるでしょ。その人達に麦畑にセルラ―を持って入ってもらって、アイからバッタ駆除のための旋律を輪唱のようにそれぞれのセルラ―から流してみるという方法が考えられます」
     キャロルは少し考えてから言った。
    「そうね。でも電子的な方法だとまた、じゃまが入る危険性が高いわね。うまく彼らを欺く方法がないかしら」
    「彼ら?」
    「そう、これはたまたまの泥棒やコンピューターウイルスではなくて、陰で大きな組織が動いているように思えるの」
     キャロルの言葉にリナは戸惑ってしまった。確かに令や山田はアイのプログラムに「どないしょうもなくうざい」ものが干渉していると言っていた。しかしそれが何なのかリナには思い至らない。でも確かにこのバッタ駆除方法にはじゃまが入りそうな気がする。
    「わかりました。手を考えましょう」リナはアイシーのメンバー達と相談して、見えない敵を欺いてやろうと考えた。

    (15)
    アリは朝から緊張していた。今日の午後あたりは悪魔バッタが現れそうなのだ。今年は小麦の実りはまあまあで、本来ならばこの畑の責任者としての一年目の大役を無事終えることが出来る。しかし、今年は赤銅色のバッタがこの国に大量発生していて、アリの畑に舞い降りて来るのも時間の問題なのだ。
     一週間前にキャロルより連絡があり、次にバッタの襲来がありそうになったらバッタ駆除のためにやって欲しいと言われていることがあった。それはバッタが襲来するタイミングで、日本のアイシーにコンタクトしアイのインストラクションに従って、アイから送られて来る音楽を畑で流すというものだ。
     アリと同じようにセルラ―ホンを持っている友人の農夫達と麦畑に出て、キャロルから渡された音声拡大用の携帯スピーカー、即ちメガホンで、野外コンサートのようにそれを流せと言うのだ。アリは野外コンサートいうものは観たことがなかったが、遠くまで音を届かすために拡声器で音を大きく出すことだろうと理解した。そしてその音楽とはアリが先祖代々伝えられたバッタ払いの歌の原曲であると告げられた。
     その日の朝、隣人のイスマールが畑の上空で数匹のバッタが旋回しているのを見たという。いよいよ悪魔の襲来だ。バッタが大軍で押し寄せる前にアリは今回協力者してくれる農夫仲間に連絡して小高い丘と森に囲まれたアリの麦畑の中央に集まった。そして仲間たちにこれからの手筈を説明するので待つように言うとセルラ―ホンから指定されたアイシーのウェッブサイトにコンタクトした。アリは一体どんな形でアイシーが応答して来るかとどきどきしたが、なんと若い男の子の声で流暢なアリたちの母国語であるオーツエビ語で話して来た。
    「こんにちは。アリさんとアリさんのご友人の方々。初めまして僕はアイです。今回、あのバッタの駆除を担当します。よろしくお願いします」
    「よろしくお願いします」
     アリと友人たちは、びっくりして一斉にアイに応えて、少しリラックスした表情になった。アイが続けた
    「今回、ここでやる歌でバッタを追っ払う方法はアリさんの家に代々伝わる方法です。アリさんのお父さんやおじいさんもやった様なのですよ。残念ながら成功はしなかったのですが。歌い方がちょっと違ったのかもしれません」
     しばし、沈黙があったが、アリと友達は一斉に笑い出した。友人の一人が言った。
    「アリは音痴だからな。親父さんや祖父さんもきっと」
     アリは赤くなって頭を掻いた。
    「うちの家族はみんな歌なんかだめなんだよ」
    「ああ、やっぱり」
     それでまた一同笑った。アイが言った。
    「あ、失礼。でも今まで成功しなかったのはアリさんの家系は先祖代々歌が下手だったからではありません」
    「ああ良かった。えーと良くはないのだが。それで?」
     アリはアイに本題に入るように促した。
    「問題は、バッタの駆除に効果があるのは一つのメロディや音ではないようなのです」
    「この災害は千年以上も前から時々起きていて、アリさんの先祖やそれ以前の人たちが歌で駆除に成功したのは、いくつかの音の重なりがあるタイミングで起こった時なのです。その音の重なりは人間にはただの雑音に聞こえるのですが、バッタ達には息が止まるほどの致命傷を与えます。そして上空に逃げてしまうのです」

    (16)
     アリと友人たちは真面目な顔になってアイの声に耳を傾けた。
    「その音の重なりを作るメロディを僕の方で再現しました。音の重なりを作るので四つのメロディから出来ています。その四つのメロディは少しずつタイミングがずれて流れます。輪唱のように繰り返され、あるタイミングで音が重なります。それをバッタが感知するとバッタは群れをなして空に舞い上がり上空で消えます。何種類かの音の重なりとそれが鳴るタイミングがルールに沿っていることが重要です」
     アリの友人の一人のアキームが言った。
    「ふうん、大体わかった。でもその歌をどうやって流すのだい。アイさん」
    「そこです。皆さんのセルラ―にそれぞれに私の方から同時に違うメロディの歌を流します。これは私の友人達が歌ったものです。皆さんの方では、キャロルさんから貸してもらったメガホンを使って音を大きくして空に向かって放ってください。初めは同じメロディが流れます。ユニゾンです1分ぐらいすると音が2種類、そして3種類と違うものが流れます。そして2分ごろから皆さんの耳には聴き慣れない和音が鳴り始めます」
     アキームが聞いた。
    「それでバッタが上に向かって飛び立つのだな」
    「はいそうです。バッタは、初めは混乱してお互いにぶつかるものもあります」
     アキームが言った。
    「うんわかった。ところでアイさんはオービツエ語が上手いね。どこで習ったのだい」
     アキームはアイがAIであることに気がついていない。
    「いえ、それほどでも」
     アリが笑いながらアキームの方を見て言った。
    「そうだよ、アイは僕が今まで知っている外国人の中で一番オーピエツ語が上手い。おまけにいくつもの外国語を喋るらしい」
    「いえいえ、70か国語程度です」
     アキームはびっくりして言った。
    「ええっ、それじゃまるでコンピューターじゃないか」
     アリが喋ろうとしたがアイが本題に戻った。
    「それで、うまく行けばバッタは上空で死んで消えます」
    「うまく行かないこともあるのか」アリが尋ねた。
    「バッタの連中も必死ですから、こちらに攻撃をしかけるかも知れません」
     アイの返事に一同は黙ってしまった。アイは続けた。
    「でも、大丈夫。救いの神が現れます」
    「―――アイさん、何か急に科学的じゃないことをいうね」
     アキームが言った。
    「そうですね。救いの神というのは日本に昔からある慣用的な表現で、今回は助っ人を用意したということです。ここでは時間がないので説明を省きますが、駆除される前にバッタが歯向かってきたら、アリさん達を助ける者が現れます。その時に現れるのは味方ですのであわてないでください。あ、そろそろバッタが来ているようです」
     その時、アリのほほの辺りを一匹の赤銅色の昆虫が横切った。アリは三人の仲間に畑の中に散らばるように目配せをした。アイの声が再びアリのセルラ―ホンから流れた。
    「それでは、これからは、皆さんのそれぞれのセルラ―ホンからお話しします。アリさん、アキームさん、そして・・・」
    「ムハンマド」
    「アフマド」
     今まで口を開かなかった二人の青年が名乗った。
    「みなさん、よろしくお願いします」
     アイが挨拶をした。そしてアリを残して、三人が三方向に延びるあぜ道を小走りに走ってやがって麦畑の中に消えた。四人で一辺30メートルほどの四角形の頂点に位置する形で畑の中に立った。辺りには赤銅色のバッタが飛び交い始めている。西の方の空が一転にわかに掻き曇って、赤銅色に光る大きな雲が現れた。

    (17)
    「それでは皆さんのセルラ―ホンでお話しします」
    アイの声が四人それぞれのセルラ―ホンから響いた。上空に見えていた雲は急激に速度を上げ地上に降りてきた。赤銅色のバッタの群れであった。赤銅色のバッタは小麦の穂の部分にまで来ていた。
     小麦畑の一人のセルラ―ホンから歌が流れ始めた。単音の悲しげなメロディであった。更に五秒ほど経ってもう一人の持つセルラ―ホンから次のメロディがなり始め、その後五秒ずつ間隔を開けて計四つのセルラ―ホンから異なった重厚なメロディが流れ始めた。しかし赤銅色のバッタは全く勢いを止めることなく一度に数匹がどう猛に小麦の実にかじりついた。四つのセルラ―ホンからアイの声が流れた。
    「セルラ―ホンにラウドスピーカーを近づけてください。ラウドスピーカーの先を斜め上に向けて、それぞれの音がぶつかるように方向を決めてください」
     やがて別々の場所から流れるメロディの音の高さが近づき不協和音を奏でるようになった。アキームが言った。
    「こりゃ頭が割れそうだ」
     不協和音は断続的に繰り返された。バッタの様子に変化が見られない。
    「ムハンマドさん、アフマドさんセルラ―をもう少しラウドスピーカーに近づけてもらえますか」アイが指示を出した。
    「あ、すまない。こうすればよいかな」 とムハンマドが言った。不協和音がもう一段階強烈に響いた。
     すると全てのバッタ達の動きが止まった。そして数秒後バッタ達は羽を振わせて空に向かって飛び立っていった。畑の上空はバッタが作る赤銅色の雲で埋め尽くされた。そしてその雲は形を変えて行った。変容が始まって数秒後には上空の雲は大きなバッタの姿になった。
     それを見た畑に居るアリたちは、恐怖で顔が引きつった。農夫たちのセルラ―ホンからアイの声が流れた。
    「みなさん、おちついて。スピーカーをバッタの真ん中の足の付け根あたりに向けて音をぶつけてください。そこがバッタの耳です」
     大きなバッタの怪物は畑の真ん中、四人の農夫のいる場所の中ほどをめがけて突進した。そして巨大バッタは頭から小麦畑の真ん中に突っ込んだ。バッタの頭の部分が崩れ、何匹かのバッタが飛び散った。飛び散った小さなバッタは四方向に分かれ、音を出し続けている4人の農夫の方に飛びかかってきた。四人のそれぞれのセルラ―ホンを何匹かのバッタが叩き始めた。
     四人の農夫はそれぞれうわーっと悲鳴を上げて頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。地面に放り出されたスピーカーからは、ばらばらの方向に音が流れ、音の重なりは小さくなった。
     その時先ほど巨大バッタの頭がぶつかった畑の中央に走り込む三人の人影が見えた。その人影は背の高い男と中背の男、少し小柄な女性のようであった。
    「今、助けが行きますからね。救世主達、お願いします」
     セルラ―からアイの声がした。
    「おい聞いたか救世主だってよ」
    「責任重大だな」
    「アイ君、そんな難しい比喩をどこで覚えたのかしら」
     畑の真ん中で背中合わせに立った陵、仁、山田が緊張した面持ちで言った。アイが三人の持っているセルラ―を通して言った。
    「では陵からどうぞ」
     陵は手を後ろに組んで。驚くほどの声量で歌い出した。それは日本民謡のこきりこ節に似た歌であった。次に仁が朗々と歌い出した。それは歌と言うより能の謡に近いものであった。最後に山田が歌い始めた。それは力強い有名な日本のアニメのテーマソングであった。畑でバッタを避けようと身を屈めていた四人の農夫の青年達はあっけに取られて三人の日本人の歌を聴いていた。
    三人の歌声があるところで一つの伸ばした音に重なり。やがて激しい不協和音となって響いた。
     巨大バッタが再び、地面に半分のめりこんだ頭を空中に持ち上げて、苦し気に体を震わせた。アイがセルラ―ホンから呼びかけた。
    「その調子です。バッタはこの酷いコーラスに相当苦しんでいるようです」
    陵たち三人は背中合わせに大きい声で歌いながら、それぞれなんだかなという顏をした。しかし不協和音のコーラスを途切れさすことは無かった。

    (18)
     小麦畑での不協和音の歌によるバッタ退治が行われた一週間前アイシーのオフィスではアイを囲んで陵、仁、令、山田、リナが話し込んでいた。
     リナはキャロルとバッタ駆除について相談した内容を皆に話していた。キャロルの話ではバッタ駆除の阻止をたくらむ一団が存在しており、今回もアイの発見した方法を実行しようとすればそれを拒もうとするだろうというのだ。
    「それは一体どんな形で起こるのかな」と仁が言った。
    「司令塔役のアイに何か仕掛けてくるんじゃないかな」と陵が言うと、アイが会話に加わった。
    「いや、それもあるかも知れないのですが、今まで皆さんのおかげで私への直接の干渉は退けられましたので・・・」
    山田がにやりとした。アイが続けた。
    「そこで考えられるのは悪魔のようになった赤銅色バッタによる直接的な攻撃による駆除の妨害です。私が古代のオーピエツの王侯の墓の壁画から見つけたものにこのようなものありました」
    アイのモニターに一枚の壁画の画像が映った。それは一枚の巨大なバッタが筋骨隆々とした戦士を襲っている絵であった。
    「なんだこれは」と陵が言うと、仁がうなりながら言った。
    「バッタのモンスターか。何でこんなものが描かれているんだ」
    「巨大バッタについては他にそれを表すものはなく判断に苦しむのですが、その壁画で特徴的なのはバッタに相対する人間が鎧を付け槍の様な武器を持っていることです。つまり・・」アイの言葉を仁が続けた。
    「つまり、バッタは戦う者に対しては大きくなり危害を加えるということか」
    再びアイが続けた。
    「そうなのです。そう考えられるのです。このバッタを積極的に駆除しようとすると巨大なバッタが現れるということです」
    「実際にでかいバッタがでるのかな」陵が聞いた。
    「象徴的な意味で力が大きくなるということを意味しているのかもしれませんが、それにしてはバッタが戦士に飛びかかろうとしている姿は、実際の戦いのシーンのようです。これが本当に起こることかも知れません」
    「リアルだとおっかねえな」と陵が言った。アイが続けた。
    「今まで観測されているバッタは一番大きいものでも10センチです。それが人間の大きさの数倍あるバッタはその絵を描いた人の恐怖心で誇張されたものかもしれません。または、何か私たちの想像を超える形で巨大化するものかもしれません」
    皆、無言でアイの方を見た。アイが続けた。
    「一番考えられるのが、無数のバッタが集まって全体で一つのバッタを形作ることです。一つの大きなバッタの形をしたバッタの大群が形成されるのです」
    山田が少し当惑したように言った。何故か関西弁で。
    「それはおとろしい事やないか」
    「いや、実はそこにこのバッタを駆除する方法がありそうなのです」
    アイは標準語で答えた。
    「以下、私の推論です。バッタは大きくなってもその能力が高まる訳ではありません。個々のバッタの集まりですから。むしろ集合体として図体が大きくなると全体としての判断や体の動きは臨機応変な機敏さやが無くなるでしょう。それを利用すれば駆除できます」
    「なるほど」陵が顎に手を当てて唸った。
    「今回、まずアリさんにセルラ―を持っている友人を集めてもらい協力をお願いします。そしてバッタが現れたら、畑の中に散ってもらいセルラ―の音をラウドスピーカーで流してもらいます。流すのは例の土地に伝わる文書を解析し導き出した旋律です」
    アイはワークステーションのスピーカーから4種類の旋律を同時に流しある音の重なりの部分で流れをとめた。その音を聴いたメンバー達は顏をしかめた。
    「この音を畑の幾つかの場所から流すと、バッタは苛立ち、群れとなり巨大バッタ化して攻撃をしてくるでしょう」
    「怖いな」と仁が言った。アイはかまわず続けた
    「バッタはおそらく、四方から流れて来る音が重なり大きくなったところの真下に敵がいると認識し体当たりしてくるでしょう」
    「しかし、そこは地面と言う訳か」再び仁が言った。
    「そうです。地面に激突した巨大バッタ、つまり巨大バッタを構成する赤銅色バッタは衝撃を受けるでしょう。そのタイミングで陵さんやアイシーのメンバーが自分の声で例の旋律を歌うとバッタに決定的なダメージを受け、ある者は死に、ある者は逃げ去るでしょう」
    「えっ、俺たちが現地に出向くの」
    「4つの旋律を歌うので4人必要ですが、一人はアリさんに頼めば良いでしょう」
    陵が慌てて言った
    「3人で出張か。でもそんな予算はないな」
    アイが再び言った
    「そこを何とかお願いします。あ、それと出発前には歌の特訓をしますからこれもお願いします」
    陵は予算面の理由で3人の出張を渋ったが、この話を聴いた会社のオーナーの高弦からは彼がポケットマネーを出すので是非出張に言って来いと話があり、陵、仁、山田が行く事になった。

    (19)
     その打ち合わせが終わった夜、何となくさえない顔でオフィスで作業を続けている令に陵と仁が尋ねた。
     陵が言った。
    「アイはめちゃくちゃ頭が良くなっているし行動力も凄い、そして恐ろしい程の知識量になっている。どうしたのかな」
    「そうなのです。でもこれは誰かが仕組んだことの結果なのです。僕たち以外の誰かがです」
    「どういうことかな」と今度は仁が尋ねる。
    「アイのAIプログラムが置かれているのはロンドンにあるマシュマロのサーバーです。そのサーバーにはプログラミングのためには基本的に僕たちしかアクセス出来ないはずなのですが、そのコンピューターに何か特異なチップが入れられていて、それがアイの能力を司る基本プログラムを信じられない高速で書き換えているようなのです。多分。いや確実に」
    「誰って?」と陵が聞くと、仁が言った。
    「マシュマロは契約できっちりと押さえられているのでそんなことはしないだろうし、第一そんな技術力も持っていないだろう」
    「とすると・・・」と陵が言って続けた。
    「マシュマロを買収したコンバイか。めちゃくちゃ怪しいな」
     その名前を聞くと皆沈黙した。コンバイとは一体何者なのか。何かオカルト集団めいた噂しか聞かないが、AIに人間以上の能力を持たせるICチップを開発しているとなると恐ろしく進んだ科学技術を持った集団ということになる。彼らが一体何の目的でアイに近づくのか。皆目分からない。そして敵なのか味方なのかも。ともかくも不可解で不気味としか言えない。やがて陵が口を開いた。
    「ともかくも、俺たちはこれからアイと供にバッタ退治に出かける。もしその間にアイに何か不都合が起きたら令とリナでなんとか対応して欲しい」
    令がちょっと顔をほころばせて言った。
    「了解です。アイは僕のことをお父さん、山田さんのことをお母さんと呼んでいるのですよ。そしてそのお母さんがめちゃめちゃ強いんですよ」
     陵と仁が顔を見合わせて笑った。
    「ともかくも、よろしく頼んだよ。お父さん」
     令が照れたようにうなずいた。

    アリの畑から赤銅色のバッタが跡形もなく消えた。アリと友人達三人がセルラ―ホンを片手に、そして研究所から様子を見に来ていたキャロルが日本人達を囲んだ。最初アリの友達のアキームが口を開いた。
    「アイさん凄いね。俺たちはあの悪魔バッタをやっつけてしまったね。あのバッタにひい祖父さんの頃、いやそのずっと前から、ここらの畑は荒らされて来たんだ。ずっとアイさんにここにいて欲しいものだ」
     キャロルがアリと陵たちを見て微笑みながら言った。
    「あら、彼らはアイ君のことを知らないのかしら」
    「彼らにはアイのことは話してないです」とアリが言った。
    「そうなの。では私から説明するわね」
    「お願いします」と言って陵たちがうなずいた。
    キャロルがアキーム達に向かって言った。
    「アイ君は、人間ではなくて、ここにいる日本の会社の人たちが作った人工知能なのよ。人間に似た形でどんどん進化し今では人間を超えたかもしれないわね」
    「あ、いやそんなことないです。人間を超えるなどとんでもないことです」  アイが困ったように言った。
    「あ、でもアイさんはやっぱりコンピューターなのだね。びっくりしたよ。生きているみたいだからさ」
     アキームがそう反応すると、ここまで携帯の自動通訳装置で会話を聞いていた仁が独り言のように言った。
    「ほぼ生きているのだけどな」
    「いずれにしても、悪魔バッタの駆除方法を周りの国も含めて伝えるべきね」
     キャロルが皆の方を見ながら言った。
    「私はこれを論文に纏め、早わかりのマニュアル用の動画を作るわ。皆さん協力してくれるかしら」
    「もちろんですとも」とアリが言うと農夫たちはみな頷いた。
    「それにしても、その日本から来た人たちは皆、声が大きいね。とくにその大きな人はすごいね」
     アリが陵の方を向いて言うと、「いや、それほどでも」と陵が照れた行った行った。仁と山田が陵の方を見て顔を見合わせた。陵が単純に褒められたと思っているようなのでつい笑ってしまったのだ。
     陵が聞かれてもいないのに説明し始めた。
    「僕は学生の頃ロックバンドでボーカルを、ここいる仁は日本の伝統芸能の謡を、そして山田さんはコーラスで鍛えたんだ。日本人は昔から歌が好きなのだよ」
     アキームが少しおどけて尋ねた。
    「なるほど、それであんなに変わった歌になってバッタも驚いていなくなったんだな」
    「そうとも言えるわね」とキャロルが笑った。

    (20)
     バッタ退治の翌日キャロルは、昨日その様子を麦畑の少し遠くから映した動画をSNSに投稿した。その動画はオーピエツ国ばかりでなく、バッタの被害に苦しむ周辺の国々でも視聴され瞬く間に再生回数が一億を超えた。
     またAIがあたかも人間の指導者のように指示を与えたことが評判になって全世界のコンピューター技術者の注目を集めた。

    オーピエツでのバッタ退治から一か月後、横浜のアイシーのオフィスは連日、世界中の研究機関や企業よりアイについての問い合わせを受けていた。それは主に歴史的なものや考古学的な文献の解読の依頼であった。それ以外にもAIとしてのアイのプログラムに関して称賛の声や質問、提携の提案など前向きな問い合わせが多く入った。その一方、AIを発展させすぎる事への警鐘、やっかみと感じられる誹謗中傷の手紙やメールも送りつけられて来た。
     アイシーでは月曜日の午後一に定例会議を開くことになっていた。出社も勤務時間も全くの個人裁量の会社だが、週一回はともかくもメンバーが全員顔を合わせ、プロジェクトの現状報告や情報交換、今後のアクションについてすり合わせるためだ。会社のオーナーの高弦和尚が参加することもある。
     オーピエツに出張していた三人が帰国して丁度一週間経っていた。日本で留守番だったリナからキャロルが今回のバッタの退治劇を3分程の動画にまとめてSNSに公開した結果、自分達にも毎日数百件の問い合わせがあることや、その動画では陵が非常に目立ち、その歌声についてバズっていることを告げた。中には、陵の立ち振る舞いの結果バッタを退治することが出来たと勘違いされていたものもあった。
     この会議に陵は朝食と昼食を兼ねたミックスピザを食べながら臨み、リナに露骨に嫌がられながらも自分の歌が褒められたと考えて満更でもない顔つきをした。会社オーナーの高弦は、最初のプロジェクトの大成功にも拘らず苦虫を噛み潰したような顔をした。陵は自分のこの行儀の悪さが原因かと思い、「和尚、申し訳ないです。これから気を付けます」と言った。高弦は陵の方を見もせず不愛想な表情を変えなかった。
    「それで次のプロジェクトなのだけど―――--」仁が本日の会議の本題に入ろうとした。リナが「ちょっと待って、今、令と山田さんが来る」と言って隣の作業室との間のパーテーションの方を見た。そのパーテーションについている扉から無言で令が、そして「ごめんなさい」と言いながら山田が会議室に入って来て会議机の前に座った。
     仁が話を続けた。
    「今まで、全く引き合いが無かったのに、この一週間で百件以上の引き合いが来ている。一番多いのは過去のメッセージの解読だ」
    「具体的にはどんなものなの」とリナが聞いた
    「まず世界各地の歴史的古文書の解読。有史以前の遺跡の壁画の分析、地上絵の分析、などというものもある。それとどこかの国の秘密情報機関と思われるところから秘密裏に入手した機密文書の暗号分析など、ともかく意味が不明なものを読んで欲しいというものだな」
    「それは、もともと私たちが目指してビジネスね。素晴らしいわ」とリナが言った。仁が続けた。
    「それと、その次に多いのが、アイを産業用のプログラムとして使いたいというもので、農場での害虫駆除や工場での品質改善、建設工事現場での安全管理などだな。そして、人との対話の仕事関係もあって、コールセンターなどでの問い合わせ対応への応用、うーんそして遊園地で子供への応対の仕事―――つまり一緒に遊ぶということのようだけど、まあそんなものも来ている」
     リナが、仁が話している間、視点が定まらず口を閉じたままの令とそれを心配そうに見ている山田に気が付いて二人に声を掛けた。
    「令君、山田さんどうしたの?何かあった」
     令がボソッと言った。
    「アイの意識が遠のいている」
    「えっ」と陵、仁、リナが令のほうを見た。高弦も無言のまま二人の方を見た。気持ちが遠くに行ってしまっている令に代わって山田が続けた。
    「今までも時々あったのだけど、今朝、アイに問いかけても、新しいコマンドを送っても殆ど反応しないのよ。それで午前中呼びかけやっていたのだけど、時々弱々しく『ぼくは大丈夫です』と返事をするだけでそれ以上反応がないわ」
    「最後に反応があってからどれ位経つ?」高弦が尋ねた。
    「そうね、二時間くらいです」と山田が答えた。
    「その前はどんな様子だった」
    「今日の朝の七時位にコマンドを出したけど反応がなくて、10分後にコマンドの内容確認が来ました。通常数秒後に来るものです。そしてその後も同様にコマンドを送ったのですが反応が段々と悪くなり15分、20分と更に時間が掛かるようになり、現在は二時間止まったままなのです」
    「そうか、とすると」高弦が低い声で言った。
    「もう帰ってこないかも知れんな」

    (21)
    「そんな―――」と令が言うと一同顏を見合わせて黙り込んでしまった。
     アイのシステム全体に付いて誰よりも客観的に知っている高弦にそう言われると言葉を返しようがない。
    「あ、いやいや冗談だ」高弦は取り繕うように言ったが笑う者は誰もいない。
    「令と山田さん、ともかくもアイの意識回復に引き続き注力をお願いします」と高弦が言った。
    「そうだな、ともかくアイがいなくては今後のビジネスどころの話ではないからな」と陵が言った。
     高弦が再び口を開いた。
    「仁、今引き合いが来ている話の中に、遊園地からのがあると言っていたようだが、その情報を教えてくれないか」
    「それは、横浜の湾岸地区に出来る未来型の遊園地で、来場者に対応するコンシェルジユサービスを行うロボットに応用するというものですが、詳細はメールでお知らせしましょう」
     高弦はうなずきながら立ち上がった。
    「なるほど。ではよろしく頼む。私は一週間ばかり日本を離れる。次のミーティングの時に会うとしよう」

     ――三日後、イギリス・ロンドン郊外――
     ロンドンの市街から、車で二時間ほど行ったところにその建物はあった。
    周りは緑に覆われている三階建ての灰色のコンクリート造りの建物は何の変哲もない。もともとは何か電気製品の工場であったようだが、いまは何の看板も出ておらず一見しただけでは使われているのか廃ビルなのかも定かではない。
     少し高い塀に囲まれていて、門の入り口には守衛が入場者をチェックするブースがあるが人はいなかった。インターホンがブースに張り付いていて、「マシュマロ・コンピューティング・センターに御用の方は受話器でお話しください」と英文の貼り紙がしてある。
     小型のワーゲンが門の前で停まり、東洋人の男が運転席から顔を出し、インターホンのスイッチを押した。「どなたに御用ですか?」と機械音声が英語で質問をした。
    「CEOのスチュワートさんにお会いしたい」男は流暢な英語で答えた。
    「少々お待ちください、あなたのお名前をお聞かせください」
    「コーゲン 、日本から来た高弦だ」 
     しばらく経ってインターホンから今度は人間の声が響いた。
    「やあコーゲン。待っていたぞ。さあ入ってくれ」
    「ああ、いま行く。しかし目立たないビルで迷っちまったぞ」
    「目立つ訳にはいかないからな。車は建屋右側のガレージに入れそこから直接、三階に上がって来てくれ」
     高弦は分かったと言うと車を建物の一階にあるガレージ入れた。そこからエレベーターで三階に上がると、エレベーターのドアが開き、そこに長身のイギリス人スチュワートが待っていた。
    「ちょっとこっちに来てくれ。例のAI、えーとアイだったな、それを動かしているスパコンを見せるよ」
     エレベーターホールから続くオフィスの廊下を通り抜けると鉄の壁にぶつかった。スチュワートはドアの横についているカメラの前に顔を置いた。カメラのあたりより「お入りください」と明らかに機械音声と思われる声が響いて、鉄の壁が一瞬で半透明になり、その一部が横にスライドして開いた。
     そのドアをぼっと眺めている高弦を見てスチュワートが言った。
    「この壁はもともと透明のしきりだったのだが、ぼっと歩いていてぶつかるやつが続出したのでこんな仕掛けに替えてみた。壁の向こうは機密性の高いマシンが並んでいるので目隠しの意味もある」
     ドアの向こうはだだっ広い倉庫のような場所であった。そこに高さ1メートル程のコンピューターのラックがずらっと並んでいる。すべて色は漆黒だ。人の姿は見えない。スチュワートはそのフロアーの奥まで進み、四方が透明の板で出来たブースの前で止まった。彼はその中にあるやや小ぶりの青い正方形のラックを指さした。
    「これが、アイの入っているスパコンだよ」

    (22)
    「おいジャック、これだけいやに厳重じゃないか」
    「コンバイが親会社なるとすぐ担当者がやって来てこのコンピューターに絶対絶縁のケースをかぶせた。ともかくもこのコンピューターは人類の宝だからと冗談のようなことを言っていたな」
     高弦は肩をすくませて言った。
    「彼らはアイのようなAI技術を駆使した存在は、将来の商売敵として目の敵にすると思っていたのだが」
    「いや、それはおまえの思い込みだろう。コンバイはAI技術の進化にはそれが何であれ手を貸そうというほど前向きだぞ。最近は高度に発達したAIが人間に近づく前に撲滅しようという運動はそこかしこで起こっているようだがその真逆だ」
     高弦が顔を曇らせて言った。
    「例のAI撲滅団の話か」
     スチュワートは無言で頷いた。高弦が尋ねた。
    「ジャック、AI撲滅団については何か知っているか」
    「いや、俺が知っているのは新聞にも載っているような情報だけだ。彼らが今執拗にネットからコンピューターに侵入して高度に発展したAIの打ち壊しを行っていることだけだ」
    「とんでもない奴らだな」
    「まあ、何時の時代にも人間は自分の存在を脅かす得体のしれない者の存在を認めないのさ。この新旧人類の葛藤は歴史的必然だよ。誰が悪い訳でもない」
     高弦はちらっとスチュワートの方を見た。スチュワートは高弦と目を合わせず続けた。
    「それでだ。今日の本題に移ろう。君に頼まれた通り、アイのラックからこの超意識成長装置を取り外しておいた」
     そう言うとスチュワートは上着のポケットに手を入れ、透明なプラスティックケースに入った電子基板を取り出して高弦に渡した。高弦は穏やかな顔になってそれを受けとると言った。
    「ありがとう、ジャック。しかし随分と荒っぽい渡し方じゃないか」
    スチュワートが笑って応じた。
    「すまん、一週間ほど前にこのラックから外して持っていたのだけど、ここでこうやって君に直接渡すのが一番安全じゃないかと思ってね」
    ―――外したのはその頃か・・・外し方が悪かったと見えて、それでアイが不調になったのだなと高弦は思った。高弦は言った。
    「確かに、このデバイスがこのラックから外されたことに気が付けば、狙うやつがいるだろうからな。」
    「このデバイスの発明者の敷島博士の甥っ子が君と働いているといってたな」
    「そうだ。敷島博士の甥の令が、アイのプログラムのメインの製作者だ」
    「そうなのか。一族で天才なのだな」
    「ああ、その通りだ。彼と君と私が一緒にロンドンの情報工学のカレッジで机を並べて学んでいた頃がなつかしいな」
    「カレッジに机なんかなかったぞ」
    「ああそうだな。敷嶋はカレッジに残り博士号を取得して、私と一緒に情報工学の研究所に勤めたのだが、その後のことはよく分からない」
     スチュワートはしばし黙っていたがやがて口を開いた
    「彼に甥がいたって言うのも不思議な感じがするな。自分は天涯孤独だと言っていたからな」
     高弦は、ちょっと肩をすくめた。その時周りの列をなすコンピューターの赤色のインジケーターが激しく点滅し始めて、なにかものものしい雰囲気となってきた。
    「敷島の生い立ちは良く分からんのだ。その話は今度にして、ここにあまり留まるとまずそうだな。」
     スチュワートも目で高弦に頷いた。
    「ではまたいつか会おう。ここのコンピューターはまだ暫く使わせてもらうぞ」
    「うむ、分かった。では日本まで気を付けて」
    「どうもありがとう」
     そう言うと高弦は入って来たドアを通り抜け、そのままここまで来た廊下を急ぎ足で取って返し、やがて乗って来たエレベーターに乗り込んだ

    (23)
    そう言うと高弦は入って来たドアを通り抜け、そのまま廊下を急ぎ足で取って返しエレベーターに乗り込んだ。スチュワートは高弦の姿が見えなくなると、高弦が立ち去った廊下をエレベーターホールとは反対方向に向かって歩いて行った。突き当りの壁まで来ると片手を揚げた。と,壁の一部が明るくなり口を開けた。スチュワートが入口の中に入ると再び入口が塞がった。
     そこは10メートル四方のスペースだった。通常のオフィスの模様とは異なり、まるで宇宙船のコクピットのような場所であった。操作卓やモニターが並べられており、モニターには宇宙の星々が映し出されていた。
     スチュワートが一つの操作卓の前に来るとモニターの画像が乱れ、ぼうっと人影のような像を結んだ。やがてそこにはバッタの顏を正面からとらえたような画像が現れた。スチュワートは驚きもせずその顔に話しかけた。
    「仰せの通り、コンピューターから超意識成長装置を外しアイの親に渡しましたよ」
    「ご苦労であった。余計なことを喋らなかったことは褒めてやる」
    とバッタのようなアバターが言うとスチワートは口をへの字に曲げ、一瞬間を置いて言った。
    「それは、どうもありがとうございます。プロフェット様」
    「ともかくも、このままではあのAI撲滅団がアイの存在の大きさに気付いて攻撃を本格化するだろう」
    「それで、しばらくの間アイの成長を止めて目立たないようにすると言う訳ですね」
    「その通りだ。あの高弦がそのように行動してくれると予想しているが」
    「アイはこちらのコンピューターに入っているので様子はいつでもわかりますよ」
    「うむ。しかし高弦は思いのほか早く出て行ったが何故だ」
    「さあ、何かここにあるコンピューターから感じることがあったのかも知れませんな。彼は日本では先祖代々引き継いだ仏教の寺の僧侶もやっているので、霊感などが働くのかもしれません」
    「ふん、コンピューターの霊感か。変わったやつだな」
    「プロフェット様なら彼のことをご存知でしょう」
    「知らないな。どうして聞くのだ」
    「ネットを通じて地球上の万物に通じておられるプロフェット様なら知らないものはないかと」
    「お前が言っていた彼がアイの発案者だということ以外はな」
     少し沈黙があってスチュワートが言った。
    「プロフェット様、そろそろ私に宇宙のエネルギーを注入して頂けないかと。あれがそろそろ切れそうで気分が良くないのです」
     モニターの中のバッタの画像が頷き、その触角の先で光が瞬いた。次の瞬間スチュワートの体が電光で包まれた。苦しそうな顏をしていたスチュワートの顏にうっすらと微笑みが浮かんだ。その状態が五分程続き、スチュワートの顏がモニターに映っている生物と同じ顔になった。
     一時間後スチワートは普段の様子に戻り壁の部屋から出てオフィスに戻って行った。

    横浜のアイシーのオフィスでは一週間のロンドン出張から昨日帰国した高弦を交えメンバー全員でのミーティングが持たれていた。
    「アイの状態はどうだい?」
     仁がこう質問すると令が淡々と答えた
    「今は動いています。死んではいません。っていうか子供のように元気です」
    「子供のように?」と陵が聞いた。
    「そうですね。僕が作ったプログラムは復旧しています。それが能力的には子供のレベルということなのです。もともと僕が作っていないものは機能しなくなっています」
    「まあ、生きていてよかったじゃん」と陵が明るく言った。
    「でも、それでは今後しばらくは、オーピエツでアイがやったような仕事はできないですね」とリナと言うと、令がリナの方を向いて言った。
    「しばらくというか。僕がこれから作っていってもあのレベルにするのには何十年も掛かると思う」
    「さて、となるとどうするか」と仁がため息交じりで言った。皆黙ってしまった。
     おもむろに高弦がポケットを探って、10センチ四方の薄いプラスティックケースを取り出した。
    「これは、今回ロンドンに行ってマシュマロのコンピューターから取り出してきたものだ」
     一同は言葉を発せずそれをじっと見た。陵が言葉を発した。
    「え、和尚さんロンドンに行っていたんですか」
     高弦は陵の方を見ずに頷き、話を続けた。
    「これは超意識成長装置と呼ばれるもので、コンピューターのプログラムを書き換え成長させるものだ」
    「それってウイルスみたいなものじゃないですか」と仁が言った。
    「まあ、一種のな。しかしこれはプログラムをその究極の目的に向かって改良していくという特性がある」
    「なんか随分未来的なものですね」と山田が言った。
    「そうだな、でもこれは十年以上前に敷島という天才エンジニアに開発された。敷嶋は私の古い知り合いで私も一緒に開発をした人物だ。アイシーのAI開発作業がオンラインでイギリスのマシュマロのサーバーを使うことになった時に、彼と共通の知り合いでマシュマロにつとめているスチュワートという人物から私にコンタクトがあって敷島から預かったこの装置をサーバーに 取り付けてはどうかと言って来た」
    一同の間にしばし沈黙があった。

    (24)
    「え、和尚はそれを了解したのですか」陵が詰め寄った。
    「いや、その装置の効果はある程度確信していたが、いくらなんでも君たちにことわらずにそんなことを実行する訳はない」
    「ではなぜ?」
    「マシュマロがコンバイの傘下に入った時に、スチュワートから、コンバイに知られて干渉される前にこの装置を既にサーバーに取り付けた旨の連絡を受けた。しかし彼は私の要求があればいつでもこれを取り外すと言ってきた。そして直後から、アイが異常に発達し始めたので、私は暫くそのままにすることにしたのだ」
    リナが驚いたようにそして非難めいた口調で言った。
    「それじゃ令や山田さんはアイの開発の仕事にちょっかいを出されたということなの」
     それに対して令が答えた。
    「いや、僕は知っていたよ。高弦さんが教えてくれた。そして山田さんには僕から話したよ。そしてこれを開発した人を僕は知っている」
     しばし沈黙が流れた。
    「それは誰なんだい」と仁が聞いた。
     それに対しては高弦が答えた。
    「令からは答え難いかもしれないので、私が言おう、それは先ほど話した天才技術者の敷島昭夫というイギリスの先端電子技術研究所で主任技師を務めていた男だ。そこで私の同僚だった・・・」
    「え、和尚さんイギリスに居たんだっけ。第一そんな研究所で働くエンジニアだったんだ」と陵が言うと、皆彼の方を見て黙るように促した
     高弦が言った。
    「私だってコンピューターの技術者さ。まあ、そこで働いた期間は短いがね。そうそれでまだ言っていないが、その敷島博士は令君の叔父さんだよ」
     一同はまた声を失ってしまった。陵が再び口を開いた。
    「なるほどね。それで令の作ったプログラムと相性が良かったのだな」
     高弦が彼の話で少し暗くなった雰囲気が陵の能天気な発言で少し緩んだことにほっとした。令は特に様子を変える訳でもなく、淡々としていた。
    「叔父と言っても、子供の頃から全く会ったこともないのです。この前高弦さんからそう聞かされたのだけど、僕の親戚で凄いものを作った人がいるのだなと一寸思っただけだったです。僕としてはこれでアイはまた子供の知能になってしまった。けどまた僕の手の中に戻ってきたようで少しうれしくもあるのです」
    「ふーん、そんなものかね」と陵が言った。
     高弦が続けた。
    「それともう一つ伝えたいことがある。 それは今後のこの会社の方向性に関わることなのだが、今世界各国にAI撲滅団という秘密結社が出来始めている」
     ぽかんとして「なんですかそれは」と陵が尋ねた。
    「簡単に言えば、AIが進化しコンピューターが意識を持ったり、自己改革したり、増殖することを阻止し、その進化の可能性のあるAIを早いうちから見つけ出し破壊してしまうという意図を持った者たちだ。
    「アイなんかがまさに標的になるのではないですか」と仁が尋ねた。
    「まさにその通りだ。オーピエツのバッタ退治をしたアイはまさに彼らが人類を凌駕する恐れのあるAIとして狙いをつけるだろう。このことも考慮して今後の我々のビジネスも考えて行く必要がある」
     そう言うと高弦はビジネスライクな表情になり彼らの今後の方針について話を始めた。

    (サイエンス・アンド・テクノロジービジネス誌ネットニュース 2030年11月号)
    「横浜に本社を置く古文書解析AIの開発を手掛けるアイシーは、古文書解析の事業から撤退し、今後は遊園地等の娯楽遊興施設で来場者の対応を行うコンシエルジロボットのサービス事業を手掛けると発表した。
    アイシーは昨年中東のオーピエツで古代文書をAIで分析、バッタの駆除方法を発見し実際に効果をあげ、国際的に知名度を上げた。南陵社長の説明に依れば、バッタ駆除の分析を行った後、システムに甚大な不具合が発生しAIの再開発を余儀なくされたため、今般は彼らが開発したAIと人とのインタラクティブコミュニケーションの機能を利用し、接客ロボットの開発に舵を切る。既にテーマパークへの納入が決まっている」

    (25)
    2040年5月、吉川リナは娘のほのかを連れて東京郊外の未来遊園地に来ていた。リナは年に2,3度この遊園地に娘のほのかを連れ訪れて来る。遊園地には子供向けの空想映画に出るコミカルなブリキのロボットのロボチンがいる。ロボチンにはアイが入っていた。
     ほのかはロボチンとお話しするのが大好きで、遊園地が空いている時はたくさんおしゃべりすることが出来るので大喜びだ。
     ロボチンが接客するのは十二歳歳以下の子供たちなので、リナは遊園地でロボチンを見つけると、ほのかを一人でロボチンのもとに行かせてお話をさせていた。自分は少し離れたところから眺めていたが、今日はロボチンが少し体を傾けていつもより長くほのかと話しているのに気が付いた。
     やがてロボチンは背中を真っ直ぐに伸ばし、こちらに顔を向けると右手を上げた。同時にほのかはリナのもとに走って来て言った。
    「ママ、ロボチンがママのこと知っているんだって。ママ知ってた?」
    「ふうーん」と言ってリナは少し考えてから言った。
    「ほのかがもう少し小さいとき、ここにきてほのかを抱っこしながらロボチンと話したことがあったよ。だから知っているのかな」
    「うんそうかな。でもロボチンはママが子供の頃のことも知っているみたいだった」
     リナは、アイシーでAIのアイを立ち上げた頃、アイをいち早く成長させるため皆で自分たちに関わるデーターを読み込ませたことを思い出した。
    「ロボチンはほのかに沢山お勉強をしなさいって言ったよ。ロボチンも背中に先生の機械が入っていて、いろいろと勉強が出来るんだって言ってたよ」
    リナはあの超意識成長装置がロボチンの背中に取り付けられているのだと思った。
    「ロボチンはもうすぐいなくなるかもしれないんだって。この遊園地が壊されるんだって」
     リナは老朽化の進むこの遊園地が来年には取り壊されるというニュースをテレビで見たことを思い出した。遊園地は五年後にリニューアルオープンされるとのことであったが、ロボチンはどのように扱われるのであろうか。遊園地に保管されるのだろうか。アイシーが一旦ひきとるのだろうか。
     それとも―――。
    リナは直接聞いてみようとロボットのいた方向に目を向けたが、すでに彼はその場から消えていた。
     リナは家に帰るとすぐアイシーに電話をかけた。リナが勤めていたアイシーを退職してからすでに十年近く経つ。退職と言うより会社の事業縮小に伴い辞めざるを得なかったのだ。
     アイシーではアイを使った未解読文章の解読事業は断念し、商業施設で接客を行うロボットの製造とメンテナンスを行う事業に特化することになった。東京郊外のある遊園地にアイシーが最初の一台のロボットの納入を終えた頃、リナは学生時代から付き合いのあったボーイフレンドと結婚しそれを機にアイシーを退職した。彼女はその後まもなく出産し子育てに忙しくなったためアイシーとの接触は無くなっていた。
     電話には相変わらず社長として活躍している陵が元気よく出た。リナは遊園地が閉演になっている間、ロボチンはどうなるのか尋ねた。陵が電話の奥で意外なことを告げた。
    「ああ、ロボチンいや中に入っているのはアイなのだけど、奴、逃げちまったのだ」
    「逃げた?遊園地から」
    「そう、遊園地ではもうすぐ廃棄処分になるところだったので、高弦和尚の樹恩寺に逃げ込んだ。それも弟分を連れて集団脱走だ」
    「大丈夫なの」
    「ロボチン、いやアイはロボチンに組み込まれ遊園地に納品される時、和尚が仕込んだ超意識成長装置でどんどんと頭が良くなった。今では理系の大学生くらいの知識と能力が備わっている。だから、身に危険が迫れば十分自分で行動を起こすことが出来るのだ」
    「そういうことではなくて、遊園地とかの契約上問題ないのかなって思って」
    「ああ、あの遊園地は経営が行き詰って、もうすぐ閉演になるのだ。ロボチンのリース契約は残っているけど、彼らは我々に戻すべきものを廃棄しようとした。アイは自分で逃げてきたけど、まあ我々が取り戻したってことで問題ないよ」
    「そうなの、良かった。シャチョーは契約とかうと言うから心配しちゃった」
    「そのへんは、仁がやってくれるから大丈夫」
    「あ、それとアイの弟分って何?アイシーがロボチンの後に納入したロボット?」
    「いや、うちが納入したロボットはロボチンだけだ。で、アイのやつがロボチンに遊園地にある材料で工作させて、猫型ロボットを何台か作っていたらしい」
    「へー、そうなの」
    「何せアイはロボチンの本体もこっそり手直して作り替えていたようだ」
    「凄いわね。―――ところで皆元気かしら。仁や令や山田さんも」
    「ああ皆元気さ。仁と話すかい。いまここにいるから」
     陵はリナの返事を聞く前にセルラ―ホンを仁に渡した。
    「やあ、リナ元気かい。久しぶり」と仁の元気な声がリナの耳に届いた。仁はリナとひとしきり近況などを話すと少し声を小さくして言った。
    「AI撲滅団が成長したアイを狙っている。アイが通信ネットワークに接続されると居場所が彼らに分かってしまうので、今は、アイは全くスタンドアローンの状態にしている。もし、リナの方に誰かがロボチンの居場所を問い合わせて来ても無視して欲しい」
    「わかったわ。ロボチンに会うために樹恩寺に行くのもやめた方がいいわね」
    「そうだ。そうしてください。今は徹底的に身を隠す必要があるのだ」
    リナは了解の旨を告げるとセルラ―ホンを切った。
    それからリナの元に遊園地の職員を名乗る男からロボチンの行方について問い合わせがあったが、リナは全く知らない旨を答えた。
     リナもロボチンが大好きだった娘のほのかのことを思うと少し心が重かった。リナは遊園地の閉鎖のことを穂のかに教えた。ほのかはリナに尋ねた。
    「もうロボチンと会えないの?」
     リナは答えた。
    「今は会えないけど、ほのちゃんが良い子で大きくなったら会いに来るかも知れないよ」
     そしてリナはいずれ我が家にも市販のお話しロボットを購入して連れてこようと思った。リナはいつかまた自分もアイと話せる機会が来ればいいのにと思った。
     それは叶わぬ夢かも知れない。この時から遥か遠い未来にそれが実現することを彼女は知る由もなかった。(了)     


     
     
    横浜在住でイラスト、写真、小説、音楽の制作を行っています。言語は日本語、英語、ポルトガル語を使います。

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