
【音楽分析特別編】音楽とともにある方法
私の人生、音楽とともにありたい、という思いで生きてきています。今回は、その方法について、とあるきっかけから考察してみます。
ある業者さんと契約をする日時を決めなければ、と、こちらの契約希望日の一週間前になって焦っていました。事前に会社にいらっしゃる日時は聞いていました。でも営業さんだから、別の約束や出張が入ってもおかしくありません。焦る私に、一緒に臨む家族は言いました「いる日時は聞いていたから、別に約束無しで行ってもいいんじゃない?」。え?それで大丈夫?不安になった私ですが、この考え方の違い、私と家族の仕事と関係していると気づきました。
家族は正社員、「常駐」している仕事ですが、私は日時単位で動く「不定期な」労働者、いつも同じ場所にいるわけではないため、私と仕事場で会うためには「約束」が必要です。家族は、仕事場に行けば会える人、なので、「約束無しで」会うことが可能です(そうでない場合もあると思いますが)。
この違いは、あらゆる場面でもあり得ることと思います。
「常駐」という立場は、「いつでも変わらずにそばにいること」であり、それが「安心感」につながっています。それは例えば家族であり、血縁であり、不動産、消費するものではない身近にあるもの、自分の過去の経験、絵画や消費されない飾り物など。
一方、「不定期」という立場は、約束しなければ変化する「不安定」なものであり、時間の流れで消費されるもの、忘れ去られたもの、そして「音楽」も時間とともに流れていくもの、ではあります。
ここで私のテーマ、「音楽とともにありたい」、これは「音楽の常駐化」ではないかと気づきました。ずっと、音楽をそばに置いておきたい、だから形ある消費されないものとして、楽譜や楽器や録音物(レコード、カセット、CD等)、音楽と関連した写真やビデオやDVDを身近に置いているんだ、と気づきました。
そしてそれに飽き足らず、「音楽を頭の中で鳴らす」ことで、常駐の安心を得られていたのではないかと考えました。頭の中で鳴った音楽は自分だけのもの、それにより「音楽とともにある」、だから私は、辛い状況にあっても生きていける。その逆もしかり、辛い状況にある時は「音楽を頭の中で鳴らす」ことで、「安心感」を得られる、そんな考えも導けるのではないかと思われます。
これは、宗教や死者への想いと似ているかもしれません。どちらも目に見えませんが、「ともにある」と思うことで、安心して生きられる、につながっているかもしれません。
「音楽」という存在そもそもが、宗教とともにあり、違えた世界をつなぐ、目に見えない境目の存在であるから、目に見えなくても常駐化できているのかもしれません。
しかし私は、目に見える、音楽とともにある「常駐化した場所」が欲しかったのです。安心して音楽を楽しめる場所、そこに行けばいつでもみんなが音楽を楽しむことが出来る場所、そして、頭の中にあるものを現実で聴くこと、奏でること、発信することが出来る場所、無限に存在する音楽、それが欲しくてもがいていました。
それは、「常駐化」することでいつでもともにある「安心感」でもありましたが、ある意味その場所は、約束無しでも行くことが出来る存在であり、ある意味家族のような存在として、必要としていたのかもしれません。そうせざるを得ない弱った状態を保護し、回復させる場所を欲していたのかもしれません。
今のところ、自分にとって「音楽とともにある常駐化した場所」は、ある程度作ることが出来ました。しかしそれを、他の人にも勧める経済的場所にするのは諦めました。音楽を経済と絡めることは、私には力不足、覚悟が足りないと感じました。
せめて、「約束あり」で物理的にも時間的にも守られた空間で、音楽を楽しもうとしています。「約束という枠」があることで、安心して音楽を楽しめたら、そして安心して音楽を楽しんでいいよ、と思われる存在に自分がなれたら、それも生き甲斐になるような気がします。
それに、時間的にも空間的にも枠があることで、非日常の素晴らしいひとときを過ごせるのが、音楽の醍醐味の一つですが、非日常を楽しむための準備や振り返りも音楽を楽しむ時間と知り、「音楽とともにある」ことを実感できる日々を持つことが出来ました。「非日常だからこそ、限定的だからこそ、楽しめる音楽」を取り入れることによって、日常が潤うことも知りました。
そして、そんなことをここに書き留めること、そもそもが「音楽とともにある方法」ではないかとも思っています。
最後に、冒頭の業者さんとの約束ですが、契約希望日の3日前に家族が「予約しようか」と言ったおかげで、約束して、無事に会うことが出来ました。前日もしくは当日いきなり、ではなくてよかったです。