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ぼくのファシリテーションアカデミア② 奥さんの話をただ聴き続けた10年の荒行が、傾聴の原点

    奥さんの話をただ聴き続けた10年の荒行が、ぼくにとっての傾聴の原点だった。

    この記事は傾聴に関する解説記事ではあるけれど、一般的な入門解説ではない。約10年、家庭という逃げ場のない現場で、必要に駆られて向き合い続けた実体験をもとに書く、かなり偏りのある、かなり独自性の高い一次情報だと思っている。

    だから、ここに書くのは「正しい傾聴の定義」ではなく、少なくともぼくにとって傾聴とは何だったのか、どういう失敗を経て、何が少しずつ分かってきたのか、という話だ。うまく体系化された知識というより、何度も通用せず、何度も言い返したくなり、そのたびに自分を見直さざるを得なかった経験の記録として書き残しておこうと思う。

    1. 傾聴とは何をするためのものか

    傾聴は、相手の話をうまく聞くための技術ではない。相手に対して「聞いている姿勢」を示したり、ましてや「聞いてあげた感」を演出するものでもない。

    ぼくにとって傾聴は、相手が何を言っているかだけでなく、何を感じ、何を分かってほしいのかに向き合うためのものだった。結論を急がず、評価を挟まず、まず相手の世界をそのまま見ようとする営み。少なくとも、そういうものとして必要になった。

    だから、間違っても、自分の聞きたい話だけを聞いたり、自分の意見を途中で挟んだりしてはいけない。そういうことをした瞬間に、聞いているようで全然聞いていない状態にすぐ戻ってしまう。

    2. なぜぼくに傾聴が必要になったのか

    最初から「傾聴を学ぼう」と思っていたわけではない。きっかけは、約10年前、奥さんの話を日々聞く中で、「あなたは私の話を全く聞いていない」と言われ続けたことだった。今でも言われる。

    しかもきつかったのは、こっちは聞いているつもりだったことだ。ちゃんと聞いているつもり、返事しているつもり、理解するつもりでしていた質問も含め、ほとんど全ての振る舞いが、「あなたは私の話を聞いてない」とバッサリ斬られ続けた。理不尽だと思うほどに罵られることもあった。そのたびに、何をどう直せばいいのか分からないまま、それでも通用していないことだけは分かる、という時間が続いた。

    生活の場という逃げ場のない環境だったこと、そしてぼくの奥さんはとても怖い(そしてとても大切に思っている)ということもあって、無理にでも鍛えられる必要にかられた。そこで必要だったのは、自分が正しいと思うことを言いたい気持ちを我慢すること、自然と湧いて出る感情をとにかく抑え込むことだった。

    ぼくにとっての傾聴は、とにもかくにも自分の話したい気持ちと、自分の中に湧いてくる感情をどうするかの修練でもあった。しかも、その修練には、自分はちゃんとできているはずだという思い込みを壊される感じがつきまとう。これはもう学習というより、荒行だと言って良いと思っている。笑

    3. 何を支えに傾聴を理解してきたか(ぼくなりのバイブルと解釈)

    ぼくが傾聴を考えるうえで支えになった本の一つが、金田諦應さんの『傾聴のコツ』だった。そこにあった「傾聴には慈悲の心が必要不可欠」という趣旨の話は、かなり強く残っている。この「慈悲の心」という言葉は、ぼくにとってかなり大きかった。相手を裁かず、相手の事情や苦しさごと理解しようとすることが、傾聴には要るのだという話として理解している。

    ただ残念なことに、理屈や本の内容の理解だけで傾聴なんて身につくはずが無い、というのが強い実感だ。現実として、奥さんからの日常的なフィードバックと、そこで何度も通用しなかった経験が無ければ、自信を持って傾聴できますなんて言えなかったと思う。

    その中で、ぼくなりに分かってきたことがある。まず、他人のことなんて分かりっこない、ということだ。安直に「分かるよ」と言うのは、かなり危うい。まだろくに分かっていないのに、分かった側に先回りして立ってしまう感じがあるからだ。だからぼくは、他人のことなんて分かりっこないことを自分に言い聞かせながら、それでも分かろうとして聞き続けるのが傾聴だと思っている。

    もう一つは、相手には相手の文脈があり、その文脈は、こちらの理解しやすい形に勝手に加工してはいけないということだ。分かりやすく整理したくなるし、自分だけが分かりやすい言葉に直してしまうことが多い。けれど、それをやると、相手が話していたものと別のものになってしまうことがある。

    だからぼくにとってのバイブルは、特定の理論書というより、このことを何度も突きつけてくる日々の荒行であり、奥さんの反応そのものだ。

    4. 実践の中で気づいたこと、身についたこと

    だから、ぼくにとって一番の実践の場は、研修でも会議でもなく、家庭だった。

    最初の頃のぼくは、奥さんの話を聞いているつもりで、実際にはずっと“次に何を返すか”を考えていた。思えば人生のほとんどの時間で、こうだったかもしれない。

    途中で結論を出したくなる。何が論点かを整理したくなる。自分はそうは思わない、と言いたくなる。誤解を解きたくなる。自分の意見を言いたくなる。でも、その状態で聞いている限り、相手に「聞いてもらえた」感じは生まれない。

    結婚して話を聞き続けて、約5年経った頃、ようやく、自分の言いたいことを頭に残したまま聞くのは傾聴ではない、と分かってきた。そこで初めて、安直に「分かるよ」と言うことの危うさも分かってきた。分かるよって言いたいときは、大抵相手の話を切って、自分の意見を言いたいとき。少なくとも、自分はそう。

    そこから少しずつ、聞いたら何かを返すのではなく、ただ聞くことを心がけるようになった。もちろん、それで急にうまくいくようになったわけではない。それでも、以前よりは、自分の感情や意見をすぐ外に出さずにいられる時間が少しずつ伸びた。ただ聞くことを続けていくうち、「こういう気持ちだったの?」と確認したときに「そう!」と嬉しそうに返してくれることも増えた。誰よりも自分のことを分かってくれている、と言ってくれるときも出てきた。恐妻家(愛妻家)としてはとても嬉しい。

    家で奥さんの話を聴き続けることが傾聴の原点であり、いちばん容赦のない実践の場だった。

    5. それでも、まだ足りていないこと

    身についたのは、相手の話を通して、その裏にある気持ちと、その人自身をただ理解しようとする姿勢だった。相手の言葉を、自分の論点や正しさに合わせて言い換えたり、自分が納得しやすい話に直したりしないようにする感覚も、少しずつ育った。

    正論や整理や提案は、相手によってはただ傷つける刃物になることも深く学んだ。少なくともぼくにとっては、言葉の表面だけでなく、その裏にあるものまで必死に聴こうとすることが、関係を保つうえで欠かせなかった。

    一方で、まだ足りていないものもたくさんある。理解を深めるつもりで質問したことが、「私が話したいことじゃない」とずれる。受け取ったうえで、必要なことはきちんと伝える、という気持ちが抜けず、相手の気の済む最後まで傾聴を貫くことができない。自分の中では聞いているつもりでも、実際には相手の話を自分の解釈で変えてしまい、理解したことにしてしまっていることもある。

    自分の気持ちが落ち着いていないと、まったく傾聴できなくなることも多い。他人のことなんて分かりっこない、ということを、すぐ忘れる。自分から何かを返そうとする気持ちが前に出たとき、それは傾聴ではなく、たいてい自分のエゴなのだと思う。たいてい、そういうときは事態がこじれる。

    むしろ、相手が何を感じていたのかが少し分かったような気がしたときに、相手に確認し、それを喜んでもらえたなら、「ちゃんと聞いてもらえた」と感じてもらうことに少し近づけるのかもしれない。

    6. ぼくのファシリテーションにどう繋がっているか

    今のファシリテーションにいちばん繋がっているのは、人の話を聞きながら、すぐ結論を出さないことだと思う。誰かが話しているときに、「つまりこういうことですね」と急いでまとめない。「それは違うのでは」とすぐ口を挟まない。「じゃあ、こうすればいい」とすぐ解決に持っていかない。

    その人が何を言いたいのか、その言い方の奥にどんな引っかかりや困りごとがあるのかを聞こうとする。相手の言葉を、自分がわかりやすいと思う形に勝手に言い換えない。言い換えた形で違いがないか、相手に確認する。

    奥さんからは過剰なほど「言い換えないで」と言われ続けてきた。理解しづらくてもそのまま受け止めて、その曖昧さを持ち続けることが大切な時もある。家庭での傾聴が荒行だった分、社会人として傾聴が必要な場面で話したいことを我慢するのも、湧き出る感情を小脇に置くのも容易だったように思う。

    だから、家で奥さんの話を聴き続ける中で覚えたことを、ファシリテーションの現場でもそのまま使い続けることができた。もちろん、仕事の場には仕事の場の難しさがある。それでも、自分の考えを急いで出さず、相手が何を持ってきているのかを先に聞く、という順番で振る舞うことは、とても自然にできている。

    一対一で人の話を聞けない人が、多人数の場で本当に人の話を聞けるのかといえば、ぼくはかなり怪しいと思っている。だからぼくにとって、奥さんの話をただ聴き続ける対話で鍛えられた傾聴は、ファシリテーションの周辺ではなく、かなりど真ん中にある。

    7. いま振り返って見えること

    当時は、とにかくしんどかった。今も、とてもしんどい。笑

    でも今振り返ると、この10年は、傾聴を頭で理解する時間ではなく、できていない自分を何度も見せつけられる時間でもあった。

    何か言い返したくなる。自分の方こそ分かってほしいと思う。「それは違う」と言いたくなる。整理して返したくなる。でも、そのたびにうまくいかず、自分が聞いているつもりで全然聞けていなかったことを思い知らされる。

    その繰り返しの中で、傾聴とは、相手の話を否定しないことだけではないのだと少しずつ分かってきた。自分の中に出てくる言い分や正しさや反論を、すぐ口に出さないこと。相手の話を、自分がわかりやすいと思う形に勝手に言い換えないこと。こちらが納得できる形に急いでまとめないこと。他人のことなんて分かりっこないことを自分に言い聞かせたうえで、それでも分かろうとして聞き続けること。

    ぼくにとって傾聴は、相手の話をオウム返しすることではないし、機械的に「そのように感じたのですね」「辛かったですね」などと言葉にすることでもない。ここからはかなりぼくの持論だけれど、相手の話を相手のものとしてそのまま見ることだ。相手の話から情景を思い浮かべ、その情景の中にいる相手の隣で同じ気持ちを味わうことが、傾聴なのだと思っている。

    言葉にしていいとしたら、その相手の気持ちの中で、まだ言葉にできていないことを代わりに言葉にすることだけだと思う。それも、自分の想像にしか過ぎないことを分かったうえで、違っていたら違うと言ってもらうつもりで。

    そして毎日続くこの荒行は、ファシリテーターとして役に立ったというより、その前に、人として少しまともになるために必要な修練だったと自信を持って言える。少なくともぼくにとって、奥さんの話をただ聞き続けた10年の荒行は、傾聴の原点だ。そしてこれからも、ただ話を聞き続ける日々が、傾聴の羅針盤になり続けるのだろうと思う。

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    共に考える人/みちくさくう代表。複数人で何かを始めたり、変えたりするときに、一緒に考える仕事をしています。企画と計画は一緒に。実行は原則、あなたたちで。兼業会社員。 SE/PM→新規事業→人材・組織開発+みちくさ なう アニメ/メダカ/スキー

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