
ぼくのファシリテーションアカデミア③ 深い対話をあきらめない、グラフィックファシリテーションによる相互理解
グラフィックファシリテーションは、会議の内容をきれいに整理したり、分かりやすく可視化したりする技法として語られることが多い。もちろん、それも間違いではない。
ただ、ぼくはそれだけのものだとは思っていない。互いが何を大事にしてここにいるのかを見える形にしながら、深く理解し合うための方法だと理解している。
この記事では、グラフィックファシリテーションとは何をするためのものかを、一般論の要約ではなく、ぼく自身の実践と解釈を通して書いてみたい。
1. グラフィックファシリテーションとは何をするためのものか
グラフィックファシリテーションは、会議や対話の内容を見える形にしながら、参加者同士の理解を助けるための方法である。
「見える形にする」と言っても、単に発言をきれいに並べたり、要点を整理したりすることだけを指すわけではない。その場にいる人たちが、
何を考えているのか。
何を大事にしているのか。
どこで引っかかっているのか。
何をまだ言葉にしきれていないのか。
そうしたものを、絵や図や色、形、配置や言葉も使って、その場に出していく。
それが、ぼくの理解するグラフィックファシリテーションである。
会議では、表に出てきた言葉だけを追っていると、実は大事なところが見えていないことがある。
強く言われた意見の奥に、不安や期待が隠れていることもある。
うまく言えない違和感が、その場の流れを左右していることもある。
表面的には対立しているように見えても、何を守ろうとしているのかまで見ていくと、別の共通点が見えてくることもある。
グラフィックファシリテーションは、そうした小さな違和感や見えない意見に目を向けるための助けになる。
その意味で、ぼくはグラフィックファシリテーションを、整理の技術であると同時に、理解を助ける方法だと捉えている。
言葉だけでやり取りしていると、出てきたものは流れていきやすい。誰かの頭の中にだけある像も、共有されないまま終わりやすい。
しかし、見える形になると、人は同じものを見ながら考えやすくなる。
自分は何を言おうとしていたのか。
相手は何を大事にしていたのか。
どこが違い、どこなら重なれそうか。
そうしたことを確かめやすくなる。
2. なぜぼくにグラフィックファシリテーションが必要になったのか
グラフィックファシリテーションに惹かれたのは、単に面白そうだったからではない。
多様なメンバを共に理解し合いながら前に進む必要のある仕事が増えていたからだ。
最も必要性を実感したのは、顧客との共創活動を前に進めるための事務局に所属していたときのことだ。
参加企業は、3社、5社、7社と増えていった。活動の規模が広がるのは喜ばしいことだったが、そのぶん、この取り組みをこれからどう育てていくのかが難しくなっていった。
拡大した事務局の中には、大きく二つの方向があった。ひとつは、参加企業の人材の成長を支えたい、という方向。もうひとつは、この取り組みから新しい事業を生み出したい、という方向である。
参加企業の置かれている状況や参加予定者を考えれば、教育を重視したくなるのは自然だった。
一方で、企業連携の活動として続ける以上、事業創出まで見なければ弱いという感覚にも妥当性があった。
どちらも軽い気持ちではなく、強い思いや信念に基づくもののように感じた。
だから難しかった。
どちらかを間違いだと言うこともできなかった。それぞれが大事にしているものも、簡単には譲れなかった。議論は停滞し、結論を出せずにいた。
こうした停滞は、この場だけのものではなかった。立場や前提の違う人たちが集まる場では、似たようなことが何度も起きる。
そのたびにぼくは、会議の中で人の考えや思いを見える形にしながら、互いに理解し合える方法を必要としていた。
3. 何を支えにグラフィックファシリテーションを理解してきたか(ぼくなりのバイブルと解釈)
グラフィックファシリテーションを、単なる板書や図解ではなく、場を理解するための方法として身につける際、支えになった学びがある。
ひとつは、グラフィックファシリテーション協会の講座で学んだこと。
もうひとつは、その講座の中でも繰り返し触れられていた、アーノルド・ミンデルの三つの現実レベルという考え方である。
講座では、山田夏子先生、通称なっちゃんから学んだ。
山田夏子先生の著書『グラフィックファシリテーションの教科書』にも通じる内容だが、印象に残っているのは、どう描くか以上に、何を見ようとして描くのか、ということだった。
アーノルド・ミンデルの三つの現実レベルは、場で起きていることを、表に出ている言葉だけで捉えないための見方だ。
言葉として共有されている事実や論点の層がある。
その下には、まだはっきり言葉になっていない感情やイメージの層がある。
さらにその奥には、場全体の空気や方向を左右する、より深い感覚の層がある。
この見方を知ったことで、会議や対話の場には、表面に見えているものだけではない何かがあるのだと理解しやすくなった。
ぼくにとって大きかったのは、グラフィックファシリテーションが、出てきた発言をうまく整理するためのものではなく、まだ言葉になっていないものも含めて、その場を見ようとする方法なのだと分かってきたことだった。
その理解の土台をくれたのが、講座での学びと、アーノルド・ミンデルの三つの現実レベルだった。
4. 実践の中で気づいたこと、身についたこと
グラフィックファシリテーションについては、講座で学んだことや、アーノルド・ミンデルの三つの現実レベルを通して、頭ではかなり納得していた。
会議や対話の場には、表に出ている論点だけではないものがある。
言葉になっている主張の下に、まだ言葉になりきっていない思いや感覚がある。
そういう見方そのものには、早い段階から強く惹かれていた。
ただ、そのころの理解は、まだ頭で分かっているという感じだった。
理論としては面白い。
たしかにそういうものはあるだろう。
でも、自分の中で本当に分かったとは言い切れなかった。
それが少しずつ変わったのは、実践の中で、見えていなかったものが見える形になった場面に立ち会ったからだと思う。
とくに大きかったのが、顧客との共創活動を前に進めるための事務局で、その共創活動全体のビジョンを描く対話をしたときのことだった。
事務局の中には、教育を重視する方向と、事業創出を重視する方向があり、どちらにも妥当性があった。
だからこそ簡単には決まらず、議論は停滞し、結論を出せずにいた。
そこでグラフィックファシリテーションを使って、参加企業や事務局メンバーが何を求めてこの活動に関わっているのかを、少しずつ見える形にしていった。
すると、話し合いの質が変わり始めた。
相手が何を大事にしているのか。
なぜそこを外したくないのか。
何を期待してここに来ていたのか。
そうしたことが見えてくると、相手の言葉の奥にある背景や、その人なりの理由を、前より丁寧に見ようとするようになる。
互いが何を守ろうとしていたのかが分かってくると、その違いそのものにも敬意を持って向き合えるようになるからだ。
あの場で起きたのは、どちらかを負かすためのやり取りではなかった。
どちらかに決めるための討議でもなかった。
互いが何を大事にしてここにいたのかを確かめ合う対話だった。
二つの目的を対立したまま残すのではなく、片方を消すのでもなく、両方を入れたまま、この活動は何を目指すのかを言葉にしていく対話だった。
そして最後に、一枚のビジョンスライドができた。
そこにたどり着くまでの対話の中で、参加企業に向けてこの活動が何を大事にするのかを言い表すテーマとして、「ビジョン・ファースト」という言葉が導き出された。
教育か事業創出かというような二項対立ではない二つの方向を、その手前で、まず何を目指すのかを共に描くことから始める。
みんなが大事にしたいことを全て含める道はある。
そういう納得が、場に生まれたのだった。
その結果、事務局の中でも、向いている先を共有しやすくなった。
何を優先するかではぶつかっていた人たちが、何を大事にして進めるかでは足並みを揃えられるようになった。
いま振り返ると、あのとき本当に大きかったのは、きれいなスライドが一枚できたことだけではない。
この人はこういう思いでここにいたのか、と互いに分かりながら、同じ青写真を見て理解し合いながら話せる状態が生まれたことの方だった。
この経験を通して、自分の中ではっきりしてきたことがある。
グラフィックファシリテーションは、話をきれいに整理するための技術ではない、ということだ。
発言を要約して並べることが中心なのでもない。
その場にいる人が、何を見ていて、何を気にしていて、何を言い切れずにいるのか。
そこにあるものを、みんなが見えるところに出していく営みなのだと思うようになった。
実践の中で分かったことがある。
描くこと以上に大事なのは、相手が何を大事にしているのかを粗く決めつけず、そこにある思いや願いを分かろうとし続けることだった。
その中で、自分なりに身についたこともある。
ひとつは、すぐにきれいにまとめようとしないこと。早く分かりやすくしようとすると、まだ言葉になっていないものを削ってしまう。だから、自分の中で分かったつもりになっても、少し待つ。いま出ている言葉の奥に、まだ別の思いがないかを見る。この経験を通して、描くことは整理である前に、待つことでもあるのだと分かってきた。
もうひとつは、対立している意見を、すぐに二者択一にしないこと。実際には、ぶつかっているように見える主張の下に、別の共通点が隠れていることがある。守りたいものが違うのではなく、守り方が違うだけのこともある。見えている主張だけで分けるのではなく、その下にある願いや恐れまで見にいけると、場の進み方が変わることがある。
ビジョンづくりの経験は、そのことを強く教えてくれた。
5. それでも、まだ足りていないこと
ここまで書いてきたのは、グラフィックファシリテーションを通して得てきた価値の話でもある。
見えていなかったものが見える形になることで、対話の質が変わる場面には何度も立ち会ってきた。
だからこそ、自分にとってこれは大きな武器になったのだと思う。
でも、毎回そんなふうにいくわけではない。
むしろ、うまくいかないことのほうが多いくらいかもしれない。
いちばん難しいのは、相手が大事にしていることを簡単には表に出せないときだ。
こちらが分かろうとしても、相手が殻にこもったままだと、そこにあるものは見えてこない。
問いを置いた瞬間に、相手がスッと引いてしまうこともある。
そういう守り方が、その人の中に深く染みついていることがある。
だから、自分に足りていないものもはっきりしている。
ひとつは、急かさずに待つことだ。
相手が出してくれないと、こちらは焦る。
何か言ってほしくなるし、少しでも前に進めたくなる。
でも、その焦りは相手に伝わる。
まだ開いていない扉を、早く開けようとする圧になる。
自分にはまだ、相手の間に合わせて待つ力が足りていない。
もうひとつは、相手の世界に合わせて近づくことだ。
こちらが良かれと思って踏み込んでも、その入り方が相手に合っていなければ、相手は言葉を引っ込めたり、無難な答えに戻ったりする。
開いて話せる人もいれば、慎重に距離を測る人もいる。
理屈を前に出して身を守る人もいれば、沈黙の奥に多くを抱えている人もいる。
相手がどんな守り方をしているのかを見ながら、その人に合った近づき方を選ぶ力が、自分にはまだ足りていない。
たぶん自分は、分かれば人は近づけると思っている。
「分かれば」というのは、全部同じ意見になれるという意味ではない。
対立がなくなるという意味でもない。
この人は何を守ろうとしていたのか。
なぜそこで強く言ったのか。
なぜそこでは黙ったのか。
そういうことが少しでも分かると、人は相手を雑に扱いにくくなる。
話の持っていき方も変わる。
自分が信じているのは、そういう意味での「近づける」だ。
だからこそ、いまの自分にはまだ足りていない。
急かさずに待つこと。
相手の世界に合わせて近づくこと。
相手が自分の大事なものを少しずつ表に出せるような関わりを、もっとできるようになりたい。
グラフィックファシリテーションを学び実践してきた今でも、道半ばだと感じる。
6. ぼくのファシリテーションにどう繋がっているか
グラフィックファシリテーションを通して考えるようになったことは、そのまま、いまのぼくのファシリテーションにもつながっている。
いちばん大きいのは、結論を急ぐより先に、まず互いを理解し合える状態をつくろうとするようになったことだ。
ぼくは、話し合いが止まるとき、たいてい結論の出し方に問題があるのではなく、その前の理解が足りていないのだと思っている。
それぞれが何を見ているのか
何を大事にしているのか
何が気になっているのか
そこが揃わないまま進めると、一旦の結論に至っても、あとで異論や抵抗が起きて止まりやすい。
だからぼくは、まずそこを確かめにいく。
場に入っても、すぐに論点整理には行かない。まず聞く。
何が気になっているのか
どこで止まっているのか
内心で心配なことがあるんじゃないか
言いづらいことがあるんじゃないか
そうやって、相手が何を抱えているのかを少しずつ出してもらう。
そのうえで、見えてきたものをすぐ断定しない。
自分の中で筋が見えた気がしても、まず返して確かめる。
こういうことですか
こういう言い方だと近いですか
いま大事なのはこの二つですか
そうやって、相手の理解と自分の理解をすり合わせながら進める。
可視化も、そのために使う。
きれいにまとめるためだけではない。
言葉だけだと流れてしまうものを、その場に残すために使う。
誰かの頭の中にしかなかったものを、みんなが見られるところに出すために使う。
そうすると、同じものを見ながら話しやすくなる。
どこが違うのか。
どこなら重ねられるのか。
そこを確かめやすくなる。
対立があるときも、すぐにどちらかを選ばない。何と何がぶつかっているのかを見る。
言葉の違いなのか
守りたいものの違いなのか
進め方の違いなのか
そこを見ないまま整理しても、互いが引っかかっている点や譲れない点が残ったままになりやすいからだ。
こうした進め方をしていると、ぼくのファシリテーションは、何を決めるかの前に、私たちは何を一緒に持てるかを探しにいくものになっていった。
同じ意見に無理やりそろえるのではなく、違いがあるままでも、何を共有できるかを探す。
そのためにまず、互いが何を大事にしているのかを理解し合う。
いまのぼくにとって、ファシリテーションの中心はそこにある。
もちろん、このやり方にも偏りはある。
理解を丁寧にやるぶん、まどろっこしく見えることもある。
早く決めたい人からすれば、なぜそこに時間をかけるのかと思われることもある。
関係性の状態に応じて、どこまで丁寧にやるかを調整する必要もある。
それでも、自分はこのやり方を手放さない。
相互理解を飛ばして前に進んだ場が、あとで止まったり、別の形でこじれたりするのを何度も見てきたからだ。
逆に、序盤で丁寧に相互理解を重ねられた場は、その場では少し遠回りに見えても、後半の合意や意思決定がむしろ早いことがある。
実際、組織系ファシリテーターの人の研修ワークでも、ぼくの進め方と場の進み方に驚かれたことがあった。
最初に互いをよく理解するところに時間を使っていたのに、そのあと合意や意思決定がするすると進んでいったからだ。
急がば回れ、という言葉がある。
ぼくにとってのファシリテーションは、たぶんそれに近い。
丁寧に相互理解を重ねることが、結果として物事を早く進めることにつながる。
だからぼくは、今日もまず分かろうとする。
前に進めるのは、そのあとでいいと思っている。
7. いま振り返って見えること
いま振り返ると、グラフィックファシリテーションを通して手に入れたのは、うまく描く技術だけではなかった。
「この人はこういう思いでここにいたのか」と分かることがある。
そういう瞬間が、場の空気を変えることがある。
自分にとって大きかったのは、そのことを実感できたことだった。
わかり合うなんて無理だろ、とどこかで思っていた自分がいた。
いまも、その感覚が完全になくなったわけではない。
それでも、もう少し近づけるかもしれない。
グラフィックファシリテーションは、その可能性を自分に見せてくれた。
その感じを知ってしまったから、自分はいまも深い対話をあきらめきれない。