
キッチンの床に寝ころぶ日。
キッチンの床に寝ころんだことがある。
そんなの、倒れた時くらいだと思う人もいるだろうが、そんなことはない。
私はこれまでの人生で何度か、キッチンの床に転がってきた。タピオカが上手く茹でられず、絶望の果てにうっすら粉っぽい床に寝ころんだ日もあれば、吉本ばななの『キッチン』に憧れ、冷蔵庫の音に包まれながら目を閉じた日もある。
そして今日は、あまりにも夜ご飯のメニューが決まらないから、一旦寝転んでみようと思った日だ。5分前、キッチンの床を拭き掃除した。この事実だけが私の背中を押す。
おかしい。
いざ寝ころぼうとすると、玄関のカギは閉めたかなとか、窓は開いていないかとか、見守りカメラの電源はどうかとか、どうでも良いことが気になって仕方ない。その上なぜかキッチンの床に対して、猛烈に照れている。
いやぁ、どうもなんか久々なもんでちょっと照れちゃって、なんかすみません。ではでは、いっちゃおうかな、寝ころばせていただこうかなっ!なんてもう、なんなんだろう、誰なのだろう。早く寝転びたいのに寝転べない。
私の中の何かと何かが反応して、キッチンの床に照れるというおかしな状態になっている。
水を飲む。気持ちを切り替えた。
冷たい床に、背中が触れる。そのまま全てを預けようとした瞬間「ピンポーン!」と大きくインターホンが鳴った。「ぎゃぁぁぁあ!」ボラのように反り、跳ね返る。そして心臓をバクバク言わせたまま玄関に向かって走り、何が届いたかもわからぬまま、ドア越しに、オッケーです!そこに置いておいてください!と告げた。
50mを全速力で走ったくらいの心拍数。
普段から驚きがちな人間ではある。不意に振り向いた時に後ろに夫がいただけで、ぎゃあぁぁ!と1㎝くらい浮き、トイレのフタを開けて、子供が流すのを忘れていた時も、驚きのあまり自らドアに叩きつけられたりする。怪我も多い。
いつかの帰宅途中、家と家の間のかなり細い隙間から、白い犬を抱いた白髪のおばあさんがぐっとねじり出てきた時は、うああああーー!と叫びながらそこから逃げ去った。敷地内を散歩していただけの人になんて失礼なのだろう。たまたま隙間から現れただけで、どちらも白くてふわふわの可愛らしいペアだったはずだ。
たかがキッチンの床じゃないか。
何もやましいことはない。
そう改めて意識して床に寝転ぶと、さっきの照れくささはどこかへ消え去り、すんなりと寝ころべた。
仰向けのまま、キッチンの天井を眺める。食器棚に視線をずらすと、棚からワイングラスのほっぺみたいな部分がのぞいている。
この角度から見上げるほっぺは、少し秘密めいていて美しい。これはもしかすると大人の嗜みなのかもしれない。
キッチンの床の何が良いんだろう。
この背徳感だろうか。硬さだろうか。
地球は丸いのに、私の背中はこんなにも果てしない平らさを感じている。背中にぼんやり意識を戻すと、あんなにも硬かったはずの床にそのままじんわり溶けていってしまいそうだった。こんなにもどうでも良いことに頭を使う時間は、私の中に私だけがみっちり詰まっているようだ。
なんて久々なんだろう。
ゴロリとそのまま横に寝返りを打つと、キッチン横の巾木に乾燥した玉ねぎがピッタリと張り付いていた。
先日スライス中に見失った一片だ。どこをどう探しても見つからなかった神隠しの玉ねぎは、こんなところにいたというのか。
すぐにはがそうとも思ったけれど、まあいいや。
今日はもうちょっとこうしていたい。
夜ご飯のメニューは全く決まっていない。