
アーク・ゼロ ~壊れた世界と、記憶の欠片~ 14. TEMPERANCE
「なんてこと」
ラヴィエルはその異常事態に焦りを感じていた。
水が確実に少なくなっている。
特に異常気象が続いたわけでもなく、本来は火の国でも地下水脈には豊富な水が流れている。
それなのに――
少しずつ、確実に、その流れが細くなっていた。
何かがおかしい。
火の国の水脈の精霊であり、この国の流れを正す調律者でもあるラヴィエルは、その様子に強い危機感を抱いていた。
ラヴィエルは、ゆっくりと目を閉じる。
耳を澄ます。
大地の奥深く――水脈の流れへと意識を沈めていった。

いつもなら感じ取れるはずだった。
絶え間なく巡り、満ちては引き、また満ちていく――
この国を支える、穏やかな鼓動のような流れ。
だが。
「……ない……?」
かすれた声が、思わず零れる。
そこに“在る”はずの流れが――
どこにも、繋がっていなかった。
本来、水は巡るものだ。
地を渡り、熱に触れ、空へ昇り、やがてまた還ってくる。
そのすべてが、ひとつの環として結ばれているはずなのに。
「流れて……いない……」
ラヴィエルは、はっと目を見開いた。
どこかで断たれているのではない。
誰かに止められているのでもない。
ただ、巡るという“理”そのものが――
失われている。
その異様さに、背筋が冷たくなる。
調律者である自分が、いくら整えようとも、
流れなければ意味がない。
均衡とは、留めることではない。
巡り続けることで、初めて保たれるものだ。
「……これは、ただの異変じゃない」
ラヴィエルは静かに呟いた。
世界のどこかで――
もっと根本的な何かが、狂っている。
ラヴィエルは、再び意識を沈めた。
「どこかに……消えている……?」
静かに呟き、さらに深く、水脈の奥へと感覚を伸ばしていく。
流れがないのなら、どこかに滞りがあるはずだ。
巡らないものは、必ずどこかに留まる。
その瞬間だった。
――!。
胸の奥に、じわりと沈むような感覚が走る。
水ではない。
もっと濁った、粘りつくような“何か”。
まるで、感情のような――
「…うっ…」
ラヴィエルの表情がわずかに曇る。
癒えなかった痛み。
行き場を失った想い。
本来なら、流れの中で溶け、巡り、やがて消えていくはずのもの。
それが、どこかに――溜め込まれている。
「……これは」
思わず息を呑んだ。
流れを断つのではなく、
巡るものをすべて――受け止めてしまう存在。
それがもし、どこかにあるとしたら。
「……違う」
これは、水の問題ではない。
別の歪みだ。
ラヴィエルは、ゆっくりと顔を上げた。
その気配は、微かに――だが確かに、ひとつの方向を示している。
大地の奥深く。
熱と水の境界を越え、さらにその先へ。
「……地の国……?」
思考が、ひとつの可能性へと繋がる。
火の国の流れが乱れるほどの異常。
それが、この国の内だけで起きているとは考えにくい。
ならば――
「流れを辿るしかないわね」
調律者である自分が、本来行うべきは“整えること”だ。
だが、今は違う。
この歪みの源を見つけなければ、解決しない。
ラヴィエルは、ゆっくりと歩き出した。
枯れかけた水脈に沿って、さらにその奥へ。
流れを失ったその先にあるものを――確かめるために。
その頃――
水の国でシーアのいる神殿へと向かっていたナギたちもまた、異変に気づき始めていた。
「……ねえ、なんか変じゃない?」
ナギがふと立ち止まり、足元を見つめる。
水辺に近いはずのその場所で、風は確かに吹いている。
それなのに、波はひとつも揺れていなかった。
「ここだけ……?」
見渡す。
だが、違った。
本来なら風に応じてさざめくはずの水面が、どこもかしこも――まるで時を止められたかのように、静まり返っている。
「風はあるのに……動いてない」
ジェネスが低く呟いた。
「なんか、気持ち悪いね」
ナギはそう言って歩き出そうとする。
だが、ジェネスはその場に留まり、周囲を見渡したまま動かない。
風の流れと、水の揺らぎ。
本来、それらは互いに影響し合い、巡っているはずのものだ。
だが今、その繋がりが――どこかで断たれている。
「……おかしい」
小さく、しかし確信を帯びた声だった。
「こんなこと、ありえない」
その瞬間、ジェネスの脳裏に、ルーメンの言葉がよぎる。
ただの異変ではない。
もっと大きな何かが、静かに狂い始めている。
――そんな気がした。
その時だった。
見覚えのある白い影が、空から舞い降りてくる。
「ピクシー!」
ナギは思わず駆け寄る。
礼を言おうと口を開きかけた、その瞬間。
「急ぎ、地の国へ」
ピクシーは挨拶もなく、短く言い放った。
切迫した声音だった。
ジェネスの表情が、すっと引き締まる。
――感じる。
流れが歪み、どこかへ沈み込んでいくような、重い気配。
「……戻るぞ」
即座に踵を返した。
「ルーメンのところへ」
その声には、迷いがなかった。
彼なら、この異変の意味を知っているかもしれない。
「え、あ……」
来たばかりだというのに、あまりにも急な展開に、ナギは戸惑う。
半ば引きずられるようにして振り返ると、ピクシーはすでに再び空へと舞い上がり、遠ざかっていくところだった。
何かが起こっている。
さすがに、それだけは分かる。
ジェネスの顔は、いつになく真剣だった。
ルーメンの言っていた“嫌な気配”が、現実のものになったのかもしれない。
その正体はいったい何なのか――
火の国の王女カリナもまた、地の国へと向かっていた。
従えた猛獣の背に乗り、風を裂くような速さで駆け抜ける。
その瞳は、まっすぐ前だけを見据えていたが――
その奥には、押し殺した感情が揺れていた。
「……こんなことになるなんて……」
かすれた声が、風の中に溶ける。
風の国の神殿で開かれた会議。
カリナは終始、沈黙を貫いていた。
本当は――心当たりがあった。
運命の輪を止めたかもしれない存在に。
だが。
それを口にすることはできなかった。
否定したかった。
違うと、信じていたかった。
「……確かめなければ……」
強く言い聞かせるように呟く。
その言葉とは裏腹に、指先はわずかに震えていた。
カリナは、ぎゅっと唇を噛みしめる。
涙で視界が滲む。
猛獣は、さらに速度を上げた。
巻き上がる砂煙。
カリナの姿は、あっという間に遠ざかり――
空を漂う砂煙だけが残った。
揺らぎながら、ゆっくりと広がり、やがて静かに落ちていく。
まるで、行き場を失った想いのように。
カリナが向かったのは、地の国の神殿――法王のもとだった。
突如として現れた皇帝の妹に、神殿の者たちは慌てていたが、カリナは迷いのない足取りで告げた。
「法王に、急ぎお話ししたいことがあります」
しかし、すでに来客があるとのこと。
「構いません。どなたがご一緒でも」
相手は皇帝の妹。その申し出が退けられることはなかった。
やがてカリナは、法王の私室へと通される。
扉が開かれたその先にいたのは――法王と、もう一人の人物だった。
「マスタールーメン……!なぜ、あなたがここに」
思わず声を上げるカリナ。
だが、呼ばれた本人は静かに首を振る。
「もう“マスター”ではない。ただの老いぼれじゃよ」
穏やかにそう言って少し笑うルーメン。
かつて彼は、この世界における魔術師の頂点――マスター・オブ・ワンドの称号を持つ者だった。だがその座をジェネスへと託し、今はすでに第一線を退いている。
再会を懐かしむ余裕など、本来ならばあってもよかったはずだ。
だが今は、そんな時間すら惜しい。
「……失礼しました。ちょうどよい機会です。ルーメン殿にも、ぜひ聞いていただきたい話があります」
カリナは、意を決したようにそう言った。
法王がわずかに身を乗り出し、声をひそめる。
「――運命の輪に関すること、か」
その問いに、カリナは静かに頷いた。
そして――
あの場では語ることのできなかった、“心当たり”について、ゆっくりと口を開き始めるのだった。
↓続きはこちら