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夢は二人でかけめぐる

     夢で兄と会った。めったに夢なんて見ないのに、夢で死んだ兄と話をした。

     私にはいまだに「あれでよかったのだろうか」と思う罪悪感がぬぐい切れない。
     五十年も前である「お兄ちゃんが今生きていること、生きている姿の問題はひできの責任じゃなくお母さんたちの問題なのよ」そう私は台湾の母である黄絢絢に言われたことがある。絢絢は台北大学病院時代に日本に医療研修にやって来て、母が絢絢達の面倒を看た。以来、絢絢と母とは実の姉妹のような付き合いをしていた。
     私は大学への進学に対して兄への罪悪感のようなものを持っていた。「大学四年間居なくなったと思って台湾に行ってコックの修行をさせてくれ」と母に頼んで高校二年の時に単身で台湾にしばらく行ったことがある。その時に絢絢に言われたのがこの言葉なのである。
     私には自身で中華料理店を開いてそこで兄に皿洗いでもさせてやったらいいという、甘い子供の考えがあったのである。
     そして私は、きちんとした頭の整理を出来ぬまま周囲の反対を押し切り、高校卒業後、二年の間豊橋の魚市場で働き、そこで稼いだ金で東京の大学への進学を決めた。その時には何でもよかったのである。とりあえず東京に行こう。それだけの上京だったのである。

     大学で合気道に出会い、はまった。それも今考えれば逃避なのかも知れない。どう考えても兄との将来を考えれば現実的ではないのに、当時の就活シーズンであった大学四年の時には合気道で生きて行くことを真剣に考えるようになっていた。
     しかし、恩師である市橋師範からは「合気道バカにならないでくれ。社会で合気道を支えていってくれ」自身の身を振り返ってみてそう思うと、私を諭してくれた。

     それから私はゼネコンに入社し、辞め、設計事務所に勤務し、辞め、飲み屋を経営し、辞め、そして今、障害者とともにコーヒー作りの日々を送っている。ここにたどり着くためにこれまで様々な経験をして生きてきたのかと思う。
     毎日、兄のことを思い出さないことはない。兄にもこんな場所で仕事させてやりたかった。そんな夢を日中に見た続きの夢だったのかもしれない。


     昨年に急逝した兄を、死んでいなくなった父とアルツハイマーでグループホームに入った母の代わりに、私が十五年前に支援施設に放り込んだ。その時もひどい罪悪感を拭うことはできなかった。だからかもしれない、毎月必ず兄の顔を見に行った。
     そして兄の入所時に、ひどいてんかん発作を持つ兄の入所条件として毎年一度兄を静岡にある神経医療センターまで連れて行き、検査入院を行なった。

     それがいつもこの時期だった。
     車椅子の兄を自動車に乗せ、二人きりの小旅行でもあった。緑に挟まれた東名高速を走り、途中にある浜名湖SAで早い昼飯を食う。兄はいつも肉だった。トンカツかステーキを食い、また自動車を走らせる。河原が広い安倍川が見えると「ああ、もうすぐだ」そう思い、大井川を越えて市内に入り、兄と二泊三日の楽しくない検査入院にチェックインした。

     兄に私は旅行なんてさせたことはなかった。でも、この検査入院の行き帰りは楽しかったと言っていたと施設の職員から聞いたことがある。「ひできはいいヤツだ」そうも言っていたという。
    兄と二人でいれば、いつも口喧嘩をしていた。だからそんな兄の発言を聞き嬉しかった。


    「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
    この芭蕉の句のことを兄と夢の中で話していた。兄が何を言っていたかは思い出せない。私はこの句を高校の国語教諭であった後藤千恵子先生の説明で覚えている。いつも生徒に真剣な先生だった。高校で唯一好きな先生だった。旅先で病み、病床に伏せるなかかけめぐるのは枯野じゃなくてもいいのに枯野であったことに意味があると説いてくれた。
     芭蕉にとって旅は俳句創作に不可欠であり、晩年まで供を従えてそれが可能だった芭蕉を羨ましく思う。後藤先生も夢に出てきた。こちらに向かって何かを言っているが分からない。でも、その頃の先生の笑顔はそのままだった。高校からの最寄り駅近くの戸建て住宅に後藤先生はご家族とともに住んでいた。ある日曜日に前を通りかかると二階の窓で後藤先生は布団を干していた。私が「先生~!」と手を振ると、笑顔で「こんにちは~!」と返してくれた。その笑顔の先生だった。

     兄は旅をしていたのかもしれない。そして、私はその従者。
    介護って何なんだろうって思う。
    介護なんて言葉の存在を知る前から兄と一緒にいた。共にいれば出来ぬことを補ってやるのは考えるまでもない当然のことと思い兄と生きてきた。
    だから、介護という言葉を知った時に、その『当然のもの』とされる定義に違和感があった
     『ともに生きること』、それでいいんじゃないかと思う。

     兄の夢は何だったのだろうか。あんがい枯野をかけめぐることだったんじゃないだろうかと思う。子どもの頃に兄と走り回った愛知県豊川市の海軍工廠の跡地近くにあった広大なススキの原っぱを思い出す。



     
     
    60分一本勝負! 「生きる」を書き続けます。 旨い昼酒が飲めれば幸せな元気な年寄りを目指しています。 合気道六段。 木曜、日曜に何かを投稿いたします。

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