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中庸ってなんだろう。迷子になった私が見つけた小さな答え

    最近、「中庸って、そもそもなんだったっけ?」と
    考え込む時間が増えました。

    古典としての中庸と、私の中で育ってきた中庸。
    その境目が、ふわっと曖昧になってきたんですよね。

    古典の中庸はとてもシンプルで、深いもの。

    「どちらかに偏りすぎず、調和がとれていること」

    ただ、私がここまで書いてきた“中庸”には、
    自分の経験や日々の気づきが自然と混ざりこんでいて──

    ・自分も大切にしながら、相手も大切にしたい
    ・理想は持つけど、無理しすぎないでいたい
    ・どちらかじゃなくて、そのあいだを選びたい
    ・日々変わる自分のバランスを、自分で見つけたい

    こういう「暮らしの中で育った意味」も
    一緒になっていました。

    そのうちに、迷いが出てきたんです。

    これって古典として“正しい中庸”なの?
    それとも、もう私なりの解釈の話なの?

    どこまでが「ほんとう」で、どこまでが重なるのか
    分からなくなってしまったんですよね。


    ■ 古典としての「中庸」

    「極端に偏らず、調和が取れていること」

    古典の中庸はとても抽象的で、
    読み解けば読み解くほど深い。

    「まんなかの一点」を目指すというより、
    そのときの状況に応じて、
    偏りすぎない状態を選ぶこと。

    私はその感覚に惹かれて、
    “ちょうどいい”という言葉に置き換えて
    使ってきました。


    ■ 私が育ててきた中庸

    一方で、私の中にある中庸には、
    もう少し「個人的な体温」があります。

    ・自分も誰かも大切にしたい
    ・現実と理想のあいだを選びたい
    ・揺れる自分を責めずに、その揺れから大事なことに気づいていきたい
    ・“ちょうどよさ”は毎日変わるから、そのつど探していけばいい

    私は、中庸って
    「揺れながら見つけていく、
    自分なりのちょうどよさ」

    だと思っています。

    でもこれは、古典そのままの意味ではありません。

    古典と私の中の“中庸”がどこまで重なり、
    どこから違うのか。
    それが分からなくなって迷子になってしまったんですよね。


    でも、少し立ち止まって考えてみたら。

    そもそも私は、古典の正しい理解を
    教えたいわけじゃなかった。

    届けたいのは、
    揺れやすい人が少しでも
    楽に呼吸できるための視点
    。

    揺れながら“自分の真ん中”を探し続ける姿勢の
    大切さや尊さを伝えたかった。

    だから、古典の定義は大事だけど、
    完璧に「正しく」あろうとする必要はないんだなって気づきました。

    古典の中庸も、私の中の中庸も、どちらも大事。
    そして、そのどちらにも揺れるのが、
    むしろ自然なんだと思います。

    これからも私は、
    “完璧な正解”より
    「今日の私のちょうどよさ」
    を一緒に探していけたらいいなと思っています。


    最後まで読んでくださってありがとうございました☺️🌿

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    「どちらか」ではなく、「どちらも」を探す人。 「これしかない」と思っていたものを一度ほどいて、自分に合う形に編み直していく庭。日常の出来事を、少し違う角度から見つめるエッセイを書いています。 🥖食べられる気づきを置く、思想パン屋 2児の母|Kindle2冊📚

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