
動いているものが時間なのかもしれない
ふと、こんなことを考えました。
「動いているものが、時間なのではないか。」
時計の針が動く。
川が流れる。
風が吹く。
心臓が鼓動し、呼吸をする。
私たちは「時間」を直接見たことはありません。
見えているのは、いつも「動き」や「変化」です。
だから私たちは、その変化を「時間」と呼んでいるのかもしれません。
さらに考えてみると、生命活動が止まったとき、その人にとって時間はどうなるのでしょう。
心臓が止まり、呼吸が止まり、意識がなくなれば、「昨日」「今日」「明日」という感覚もなくなります。
その人にとっての時間は、そこで静かに幕を閉じます。
しかし、周りの世界では季節が巡り、地球は回り続けます。
つまり、「時間」には二つの姿があります。
世界が刻む時間と、自分が感じる時間です。
では、仏法ではどう考えるのでしょう。
日蓮大聖人の仏法には、「久遠」という考えがあります。
久遠とは、はるか昔という意味だけではありません。
始まりも終わりもない、生命そのものの大いなる流れです。
そう考えると、「今」という一瞬は、ただの一瞬ではありません。
過去の無数の原因が集まり、未来への原因を刻む、生命の最前線です。
今という瞬間にも、久遠が収まっている。
この言葉には、とても深い意味があります。
一瞬の中に永遠があり、小さな一歩の中に人生全体が宿っている。
だからこそ、「今」をどう生きるかが、未来だけでなく、自分の生命そのものを輝かせていくのです。
時間は、どこか遠くを流れているものではありません。
生命が躍動する、その一瞬一瞬こそが時間なのかもしれません。
そして、その「今」の中には、久遠という無限の生命が静かに息づいているのです。