
早漏で候、届きて候
人は、自分に届いたものを、自分のものだと思い込むものです。封を開ける前に確かめる者などほとんどいない。笹森慎之助がその封を受け取ったのも、まったくの手違いからでした――それが、どれほど取り返しのつかないことだったか、気づいたときにはもう遅い、とはまだ言いません。
冬の夜は、音が少ない。
笹森慎之助、六十三歳。定年退職後、古書の整理と目録作りを請け負う小さな仕事を細々と続けていた。依頼人の蔵から運び出された本を、六畳の作業部屋で一冊ずつ数え、記録する。それだけの仕事だ。正確であることが唯一の取り柄で、在職中から「笹森の数に狂いはない」と言われてきた。
十二月の初旬、宅配便が一つ届いた。
送り状の宛名には「笹森」とあったが、住所の番地が一桁違っていた。隣のマンションへ届くはずだったものが、配達員の見間違いで慎之助の部屋に置かれていったのだ。箱は薄く、縦長で、和紙を思わせる渋い茶封筒に入った冊子が一冊だけ収まっていた。
表紙に、墨で三文字。
『早漏で候』
古い写本か、あるいは私家版か。慎之助は職業柄、中身を確かめてから返すつもりで、封を開いた。毛筆で書かれた短編集のようだった。収録作は七篇。各篇の末尾に、細い字でそれぞれ日付が記されていた。
奇妙なのは、日付がすべて未来だったことだ。
最も早いもので、三日後。最も遅いもので、来年の春。慎之助は苦笑して冊子を机に置き、隣のマンションへ返しに行った。管理人に預けて、それで終わりのつもりだった。
翌朝、冊子は作業部屋の机の上にあった。
管理人に渡したはずだった。慎之助は指で表紙をなぞり、それから収録作の数を数えた。
七篇、あるはずだった。
六篇しかない。
一篇、消えた。
慎之助は冊子を三度数え直した。六篇、六篇、六篇。誤りようがなかった。在職中から「笹森の数に狂いはない」——その言葉が、今は少し冷たく響いた。
冊子を捨てることにした。燃えるゴミの日は翌火曜日だったが、待てなかった。近所のコンビニの店頭ゴミ箱に押し込んで、早足で帰った。
水曜の朝、机の上にあった。
ページを開くと、残った六篇のうち、一番手前の日付が昨日の日付に変わっていた。昨日、コンビニへ行った日だ。慎之助は表紙を閉じ、しばらく手を離せなかった。
月に一度、目録の確認のため顔を出す古書仲間の蛭田という男がいた。七十近い、口の重い男だ。その蛭田が作業部屋に入るなり、机の上の冊子を見て、小さく息を飲んだ。
「それ、どこで手に入れました」
慎之助が経緯を話すと、蛭田は冊子には触れず、ただ一言言った。
「返せるもんなら、とっくに返せてますよ」
それ以上は何も言わなかった。
翌週、また一篇減った。五篇。
気になって、残った篇の日付を書き写そうとした。ノートを開き、万年筆を走らせた——はずだった。書いた数字を見ると、日付ではなく、自分の名前が繰り返されていた。笹森、笹森、笹森、と。筆跡は確かに自分のものだった。
試しに冊子を鍵付きの抽斗に入れた。翌朝、抽斗は施錠されたままで、冊子は机の上にあった。篇数は四篇になっていた。
慎之助は気づいていた。篇が一つ消えるたびに、日付が一つ、過去になっていく。冊子は何かを数えている。
問題は、何を、だった。
三篇になった朝、慎之助は蛭田に電話をかけた。
「冊子が、何かを数えているような気がする」
受話器の向こうで、蛭田は少し間を置いた。
「返せるもんなら、とっくに返せてますよ」
同じ言葉だった。一字も違わず、同じ言葉だった。
慎之助は電話を切り、冊子を開いた。残った三篇の日付を、今度は指でなぞるだけにした。書こうとはしなかった。ノートの、笹森笹森笹森と埋まったページが頭をよぎった。
二篇になったのは、年が明けてすぐだった。
冊子を燃やすことにした。台所のガスコンロに火をつけ、表紙を炎に近づけた。紙はあっさり焦げた——端が黒くなり、においが立ち、煙が上がった。慎之助はそのまま手を離した。
翌朝、机の上にあった。
焦げた跡は、なかった。篇数は一篇になっていた。
残った一篇の日付は、来週の木曜日だった。
慎之助はその日、作業の手を止めて、冊子を長い時間眺めた。一篇だけになった収録作の題名を、初めてきちんと読んだ。
墨で三文字。
『早漏で候』
表紙と同じ題名だった。
木曜日の朝、冊子は机の上になかった。
慎之助は三度、部屋を見回した。抽斗を開け、棚を確かめ、ゴミ箱を覗いた。どこにもない。篇数を数えようにも、数えるべきものがなかった。
在職中から「笹森の数に狂いはない」——。
慎之助は作業台に向かい、いつものように古書の目録を書き始めた。万年筆を走らせ、冊数を記録した。書き終えて、読み返した。
数字の代わりに、日付が並んでいた。
来週、再来週、春、またその先。どれも見覚えのない日付ではなかった。万年筆を持ったまま、慎之助は手を止めた。筆跡は確かに自分のものだった。
冊子は、最初から笹森慎之助のものでした。届け先が、最初から正しかったのです。
— 完 —