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『不登校って、誰も悪くない』〜子どもの見ている世界を知るまで〜 

    第一章
    「行きたくない」の影にあったもの

    娘が小学2年生だった頃。

    転校を機に本格的な行き渋りが始まりました。

    あの時はまだ、
    この朝が、何年にもわたる親子の試行錯誤の始まりになるとは思ってもいませんでした。

    毎朝のように泣いて学校を嫌がる娘。

    私は仕事へ向かう時間を気にしながら、
    娘の機嫌を損ねないよう登校準備を進め、
    さらに三つ下の妹の登園支度もこなす。

    朝は毎日、
    綱渡りのような時間でした。

    そして迎えたゴールデンウィーク明け。

    今までの行き渋りの度合いが本格的になり、限界を感じ始めた頃。

    「もう休ませた方がいいのではないか」

    そう思うようになり、
    担任の先生に相談しました。

    すると先生から、

    「お母さん、諦めるんですか。この子は学校に来さえすれば、ちゃんと過ごせているんです。連れて来さえすれば、あとはこちらで対処しますから。」

    先生もまた、
    娘のためを思ってかけてくれた言葉でした。

    当時、ようやく掴んだ大学の保健室で働き始めたばかりの私。

    その職を手放すことに迷いがなかったと言えば嘘になります。

    それでも、

    「娘を学校へ連れて行くことが最優先」

    と仕事を辞める決断をしました。

    毎朝、
    担任の先生やクラスメイトが駐車場まで迎えに来てくれる。

    そこまでしてもらっているのに、
    私が諦めるわけにはいかない。

    ここで休ませたら、
    本当に学校へ行けなくなってしまうかもしれない。

    そんな不安を抱えながら、
    私は娘を学校へ連れて行く日々を続けました。

    ある朝、
    娘は靴も履かないまま玄関から飛び出しました。

    私は慌てて追いかけ、
    娘を抱きかかえるようにして車へ乗せました。

    けれど娘は、
    車のドアを開けて再び逃げ出します。

    私はまた追いかける。

    捕まえては逃げ、
    捕まえては逃げ。

    その間、
    幼稚園児だった妹は、
    全てをわかっているかのように姉のランドセルと靴、そして自分の幼稚園バッグを持って車へ乗り込んでいました。

    今でも忘れられない光景です。

    娘を送り届けた後、
    私の心はいつもぐちゃぐちゃでした。

    泣いて逃げる姿。

    振り返った時の泣きじゃくる顔。

    その光景が、
    頭の中にこびりついたまま離れませんでした。

    「本当にこれで良いのだろうか」

    「こんなに辛いのに」

    そう思いながらも、
    私は立ち止まることができませんでした。

    どうしたらいいのかわからず、
    子育て相談へ足を運んだこともありました。

    担任の先生。

    養護教諭の先生。

    スクールカウンセラー。

    校長先生。

    たくさんの方が関わってくださいました。

    話を聞いてもらうと、
    その時は少し気持ちが楽になる。

    けれど、
    家に帰ればまた不安が押し寄せてくる。

    根本的な解決にはならず、
    私は出口の見えないトンネルの中で彷徨っていました。

    夫もまた、

    「俺はわからない」

    と言うばかりでした。

    校長先生から、

    「お父さんは何してるんですか」

    と言われたこともあります。

    それほど私は、
    一人で抱え込んでいました。

    娘は全身でSOSを出していたのに。

    当時の私は、
    そのSOSよりも、

    「学校へ行かせなければ」

    という不安と責任に囚われていたのです。

    当時は今ほど不登校に関する情報も多くなく、

    私自身も、

    「不登校児が増えていることは知っていても、不登校になった先の歩み方を教えてくれる人は誰もいない。何としても行かせなければ」

    という固定概念に縛られていました。

    毎朝、
    担任の先生やクラスメイトが校舎の外まで迎えに来てくれました。

    教室に慣れるため、
    私が隣に座って一緒に授業を受けた時期、

    暫く保健室登校をしたこともありました。

    校長先生までが相談に乗ってくれ気にかけてくれました。

    みんなが娘のために動いてくれていた。

    それが私の活力にもなり、

    「私も諦めずに連れて行こう」

    という気持ちになりました。

    そして、その生活は約一年間続き、

    小学三年生になる頃には、

    それまでの苦労が嘘だったかのように、
    娘はすんなりと登校するようになったのです。

    私は心から安堵しました。

    「乗り越えられた」

    そう信じていました。

    だから、

    “行き渋る娘を登校させる”

    そんな構図が出来上がっていたあの頃。

    私は、
    自分が娘を追い詰めているとは微塵も思っていませんでした。

    むしろ、

    「支えた」

    「一緒に頑張って乗り越えた」

    「この子の未来を守った」

    そんな達成感に満ちていました。

    だからこそ、
    見えなくなっていたものがありました。

    娘がどれほど苦しかったのか。

    どれほど無理をしていたのか。

    どれほど孤独だったのか。

    一番大切な娘の気持ちを置き去りにしたまま、大きなトラブルもなく5年の月日が足早に過ぎていきました。

    娘のことを誰よりわかっているつもりでした。

    けれど、

    愛していることと、
    理解できていることは同じではありませんでした。

    私は娘を見ていたつもりでした。

    でも実際には、

    私自身の価値観や不安というフィルターを通して娘を見ていたのです。

    励ましているつもりの言葉も、

    支えているつもりの行動も、

    娘にはまったく違うものとして届いていたのかもしれません。

    後になって私は、

    そこに”愛情の翻訳ミス”が起きていたことに気づくのです。

    そして時を経て、
    思春期不登校になった娘は、
    ある日、涙を流しながら話してくれました。

    小さい頃、
    行きたくないと泣いていたのに、
    無理やり学校へ連れて行かれていたこと。

    そして、

    「あの頃、ママにいじめられていると思っていた」と。

    私は言葉を失いました。

    私は娘のためだと思っていた。

    でも娘の心には、

    「わかってもらえなかった苦しさ」

    が、心の傷として残っていたのです。

    親の「頑張れ」が
    子どもの「助けて」をかき消していた。

    親の「必死」が
    子どもの「限界」を押し込めてしまっていた。

    本当に必要だったのは、
    正解を与えることではなく、

    その子の苦しさを理解しようとすることだったのかもしれない。

    子どもの記憶には、
    出来事そのものよりも、

    「その時、自分の感情をどう扱われたか」

    の方が深く刻まれているのではないか。

    そう思わずにはいられない瞬間でした。

    あの頃の私に必要だったのは、
    娘を変えることではなく、

    娘の心の声を、
    もっと丁寧に受け取ろうとすることだったのかもしれません。

    「この子は今、何を感じているのだろう」

    そう立ち止まって考えること。

    子どもを変えようとする前に、
    その子が見ている世界を理解しようとすること。

    それが、
    私が娘から教えてもらった最初の学びでした。


    第二章
    私が守ろうとしていたもの

    思春期不登校になってから知りました。

    娘は小2のあの頃から
    「嘔吐への恐怖」
    を抱えるようになっていたことを。

    吐くことが怖い。

    吐いている人を見ることが怖い。

    そして思春期不登校になって以降は、

    人と会うと吐き気が出る

    また吐き気が来たらどうしよう

    そんな不安も抱えるようになっていきました。

    ある日は、
    公園を歩いている途中で突然脚の力が抜け、自力で歩けなくなったこともあります。

    またある時は、頭の中に、不安な思考が“ポンッ”と入り込んできて怖い、と怯えていたこともありました。

    そして、小学校高学年頃からは、
    自分の吃音を強く意識し始め、
    一人で抱え込んでいたことも打ち明けてくれました。

    不登校になった途端、
    今まで張り詰めていた糸が切れたかのように、次々に色んな症状が身体に現れ始めたのです。

    何が起きているのかわからない。

    でも、
    ただ事ではないことだけはわかる。

    後になって気づいたのは、

    限界まで抱え込んでいた苦しさが、
    身体という形で溢れ出してきたのだということです。

    それは単なる“気の持ちよう”ではなく、
    心が発していたSOSでした。

    娘は、
    自分の苦しさを言葉にするのが得意な子ではありませんでした。

    吃音もありました。

    けれど、
    自分の苦しさを言葉にできなかった理由は、吃音だけではなかったのだと思います。

    言葉にしても伝わらない。

    そんな感覚が、
    少しずつ娘の中に積み重なっていたのかもしれません。

    実際、
    私は娘の苦しさを理解しているつもりでいました。

    けれど、
    十分に受け取れてはいませんでした。

    子どもの苦しさは、
    必ずしも言葉で表現されるとは限りません。

    娘の場合は、
    身体の不調という形で現れました。

    けれど、それは娘だけの話ではないのかもしれません。

    子どもによって、
    SOSの伝え方は違います。

    娘のように、
    身体症状として現れる子。

    自分を責め続ける子。

    怒りとして噴き出す子。

    部屋に閉じこもる子。

    ゲームの世界へ没頭する子。

    暴言や暴力という形で苦しさを表現する子。

    形は違っても、
    そこにあるのは、

    「もう限界だ」

    「助けて」

    という身体からのSOSなのかもしれません。

    そして私たち大人に求められているのは、

    その行動を正そうとすることよりも、

    その奥にある苦しさに目を向けること。

    私は今まで、
    SOSは「助けて」と言葉で伝えられるものだと思い込んでいました。

    でも実際には、
    子どもは一人ひとり違う方法で、
    精一杯「苦しい」を伝えているのかもしれません。

    その伝え方を変えようとするのではなく、

    「この子はどんな形でSOSを出す子なのだろう」

    と立ち止まって考えてみること。

    それが、
    子どもを理解する第一歩なのではないかと、
    娘を通して学びました。


    第三章
    日記の中にいた娘

    娘が中学3年生だった頃、
    私は毎日日記をつけていました。

    登校できたか。

    何時間目に行けたか。

    家での様子はどうだったか。

    あの頃の私は、
    娘の変化を見逃さないように必死でした。

    ところが二年経った今、

    その日記を読み返した時、
    あることに気づきました。

    そこには、
    娘の気持ちよりも、
    私が記録しておこうと思った事実ばかりが残されていました。

    それは2024年、娘が中3の新学期から書き留めた簡単な日記です。

    4月18日
    1.2時間目の国数の県模試は出ず、3時間目の英語、昼休みの歯科検診、5時間目の社会に出席できた!

    5月23日
    1時間目英語、2時間目バレーボール選手からレッスン。一旦帰宅して英語プリント模写。頭痛がしだしてイブ飲んで不安発言してたけど無事6時間目家庭科受けて放課後担任に理科を教われた!

    6月4日
    3時間目国語、4時間目家庭科、6時間目英語、放課後質問タイム。
    夕飯時から寝室に篭って寝てる。ご飯もいらないと言う。お膳で一応提供した。2時間後に食べてた。

    6月5日
    期末初日。
    1時間目理科、2時間目音楽、3時間目家庭科。全て受験できた!

    7月12日
    1、2、5、6行く予定だったのが、制服は着たけど行けず。4時間目から登校。

    7月19日
    1学期終業式。今日は2時間で終わりなので朝の会から出席した!
    結局1日しか休まず今学期は登校できた☆

    ➖当時の私は、

    「行けた」

    「受けられた」

    「出席できた」

    という結果ばかりを見ています。

    けれど今の私の目に飛び込んでくるのは、
    当時、見過ごしていた言葉たちです。

    頭痛や不安を訴えながらも学校へ向かっている姿。
    登校した日の夜は寝室にこもり、夕飯も食べられないほど疲れ切っていたこと。
    それでも翌日には期末テストを受けていたこと。
    制服を着たのに行けなかった日にもう一度立ち上がって学校に行った姿。

    今の私なら、「休もう」と声をかけていたと思います。
    私は"できた""できなかった"という結果の見方しかわかっていませんでした。

    でも娘は、
    その結果にたどり着くまでに、
    毎日必死に戦っていたのです。

    頭痛がしても。

    不安に飲み込まれそうになっても。

    制服を着たまま動けなくなっても。

    一度立ち止まりながら、
    それでも何とか前へ進もうとしていました。

    当時の私は、
    「今日は行けた」
    という結果に安心することで自分を保っていたのかもしれません。

    一つひとつの結果の裏には、
    娘が積み重ねていた日々がありました。

    今の私には、
    「できた」という結果よりも、
    その裏にあった苦しさや努力の方が鮮明に見えます。

    本当に見るべきだったのは、
    その結果にたどり着くまでの”過程"です。

    そして、それは娘の日記だけではありません。

    私たち大人もまた、
    結果で人を判断する社会の中で生きています。

    成績。

    出席日数。

    進学先。

    就職先。

    学歴や経歴。

    そんな目に見える結果で人を評価しがちです。

    でも、その結果の裏には、
    人それぞれの見えない努力や葛藤があります。

    娘の日記を読み返しながら、
    私はその裏側に目を向けようとすることの大切さを改めて教えられました。

    変わる必要があったのは、
    娘ではなく、

    娘の見ている世界を理解しようとする
    私の視点でした。

    そしてそれは、
    子育てだけの話ではないのかもしれません。

    私たちは、
    目に見える結果だけではなく、

    その人がそこへたどり着くまでの過程にも、

    もっと目を向けられる社会でありたい。

    娘の日記は、
    書いた当時には見えていなかった大切なことまで、
    二年後の私に教えてくれました。


    第四章
    思春期不登校になって見えた姿

    「私、これあるんよ」

    それは、私が娘の不登校の背景を知りたくて、

    発達特性。

    繊細な気質。

    吃音。

    食物アレルギー。

    さまざまな本を読みあさっていた時のことでした。

    娘は一冊の「吃音」の本を指さして、
    そう言ったのです。

    驚きました。

    それまで娘は、
    自分の吃音について一度も話したことがなかったからです。

    そして娘は続けました。

    「小5の放送委員会の時、声の出しづらさを感じてた」

    「小6の卒業式の呼びかけも、声が出るか不安だった」

    毎日一緒に暮らしていたのに、
    私は何も知りませんでした。

    日常会話ではほとんど吃音を感じなくなっていただけに、
    娘がそんな不安を抱えながら学校生活を送っていたことは、想像もしていませんでした。

    娘は長い時間をかけて、
    誰にも言えないまま、
    一人で抱え続けていたのです。

    思春期不登校になって、
    ようやく見えてきた娘の姿。

    そこにいたのは、

    怠けていた子でも、

    弱い子でもありませんでした。

    不安と向き合いながら。

    周囲に合わせようとしながら。

    精一杯、自分なりに生きていた一人の子どもでした。

    そして私はようやく、

    学校へ行けているかどうかではなく、

    娘がどんな気持ちで毎日を生きていたのかを、

    見ようとし始めたのです。

    第五章 
    不登校って、誰も悪くない


    娘が不登校になった時、

    私は原因を探していました。

    何が悪かったのだろう。

    どこで間違えたのだろう。

    私の育て方だろうか。

    学校だろうか。

    友達関係だろうか。

    答えが欲しかったのです。

    けれど振り返れば、

    不登校とはそんなに単純なものではありませんでした。

    娘には繊細な気質がありました。

    吃音もありました。

    アレルギーもありました。

    不安を抱えやすい特性もありました。

    学校という環境。

    思春期という時期。

    周囲との関係。

    様々な要素が重なり合っていました。

    娘なりの限界を迎えていたのだと思います。

    だから私は、

    「不登校って、誰も悪くない」

    という言葉で、

    誰かの責任を否定したいわけではありません。

    私自身も、

    「あの時、違う関わり方ができていたのではないか」

    と、何度も何度も考えました。

    娘を傷つけてしまったこともあったでしょう。

    後悔が消えることはありません。

    それでも、

    あの頃の私は、

    娘を守りたい一心で、

    その時の最善だと信じる選択をしていました。

    先生方もそうでした。

    家族もそうでした。

    みんな、

    娘のことを思い、

    それぞれの立場で精一杯だったのです。

    ただ一つ、

    足りなかったものがあるとすれば、

    娘が見ている世界を理解しようとする視点だったのかもしれません。

    実は、この原稿を書いている最中、

    娘はパニック障害を発症しました。

    回復へ向かっていると思っていた矢先の出来事でした。

    私はまた混乱しました。

    「どうして?」

    「何が悪かったのだろう。」

    そんな思いが頭の中を何度も巡りました。

    けれど、パニック障害について学ぶ中で、

    私は少しずつ希望を持てるようになりました。

    強い不安は、

    さらに不安を呼び、

    身体にもさまざまな反応を起こすこと。

    そして、

    それは本人の弱さではなく、

    適切な治療や認知行動療法などによって回復を目指せる病気であることを知りました。

    現在、娘は少しずつ笑顔を取り戻し、

    自分のペースで日常を歩き始めています。

    もちろん、

    まだ道の途中です。

    これからも、

    立ち止まる日があるかもしれません。

    迷う日もあるでしょう。

    でも、以前の私と一つだけ違うことがあります。

    私はもう、

    娘を「みんなと同じレール」に戻そうとは思っていません。

    娘が見ている世界を理解し、

    娘に合った環境を一緒に探しながら、

    その歩幅に合わせて歩いていきたい。

    そう思っています。

    そして今私は、

    置き去りにしてしまったあの頃の娘の心に、

    少しずつ寄り添い直しています。

    この物語を書き終えた今、

    私が伝えたいことは一つです。

    子どもの行動だけを見れば、

    見えないものがあります。

    その子が見ている世界を知ろうとした時、

    初めて見えてくるものがあります。

    不登校は、

    誰か一人が悪いから起こるものではありません。

    だからこそ、

    原因探しよりも、

    子どもの心を理解しようとすること。

    そこから、新しい一歩が始まるのだと、

    娘から教えてもらいました。




    #創作大賞2026
    #エッセイ部門



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