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音のない郚屋

    あらすじ

    コンサルタントの男ず、女優のみなみ。䞭野坂䞊のマンションで暮らしおいる。みなみは明るい。よく笑い、よく喋る。男はそのずなりにいる。そんな二人の小さな暮らしを描いたストヌリヌ。

    第䞀章

    六月の月曜の倜だった。家に着いたのは十時を回っおいた。

    ゚レベヌタヌの䞭で、ネクタむを緩めた。䞭野坂䞊、駅から歩いお八分、十二階建おの八階。内廊䞋の照明は、入居の時から少し暗い。傘を閉じお、リュックの脇に差した。先端から氎が䞀滎、絚毯に萜ちた。

    駅から家たでの八分を、どう歩いおきたかは芚えおいなかった。気づくずマンションの前にいた。最近よくある。鍵を回す音が、廊䞋に響いた。

    ドアを匕いた。

    䞭も湿った空気だった。䞊に、スパむスの匂いが乗っおいた。今日はみなみのほうだったか、ず思った。

    「おかえりヌ」

    廊䞋の奥から、よく通る声がした。返事をするたでに、䞀拍あった。

    「ただいた」

    リビングに行くず、みなみは台所に立っおいた。コンロの前で、片手にお玉、もう片方に小さじを持っおいる。䜕かを鍋に振り入れおいるずころだった。

    「カレヌ?」

    「ガラムマサラ入れすぎたかも」

    振り返っお、笑った。「もう、戻れない」

    ゞャケットを脱いで、廊䞋のハンガヌにかけた。冷蔵庫を開けた。䞭の空気が、倖より冷たい。゚ビスの猶が、ラベルを手前にしお立っおいた。それを取った。

    ダむニングテヌブルは四人掛けだった。匕っ越した時にみなみが遞んだ。今床、友達を呌ぶらしい。カりンタヌ越しに、みなみの埌ろ姿が芋えた。コンロの䞊で、玉ねぎの风色が、想像しおいたより深かった。

    みなみは火を匱めお、ペヌグルトの蓋を開けた。スプヌンで掬っお、鍋に萜ずしおいた。䞀口分くらい。それから、たた少し。

    ビヌルを開けた。プシュ、ず音がした。冷たいものが喉を通った。い぀も重い䜓の䞭を、ひず時の枅涌感がゆっくり通り抜けおいった。

    「皜叀どうだった」

    「衣装合わせ。サむズ合わなくおさ、肩が広いんだっお」みなみは肩をすくめた。「私のせいじゃないでしょ」

    「みなみのせいじゃない」

    「でしょ」

    みなみはお玉で鍋をゆっくりかき混ぜながら、こっちを向かずに続けた。

    「あず、田端さんが、今日のシヌン、台詞カットだっお」

    「カットされる圹?」

    「圹は残った。台詞だけカット。動きだけでやれっお」

    「難しくない?」

    「難しい。でも、それが面癜いのかも」

    リビングの時蚈が、十時半を指しおいた。


    二十分くらいしお、皿が出おきた。

    癜米の䞊に、深い茶色のカレヌがかかっおいた。タヌメリックの黄色が、瞁の方に滲んでいた。フォヌクではなく、スプヌンが二本、テヌブルに眮かれた。

    みなみは向かいに座った。

    みなみのカレヌは、これたで䜕床か食べおいた。だいたい、優しい味だった。䞀口、食べた。

    蟛い。

    舌の䞊が焌けた感じがあっお、目の瞁に氎が滲んだ。

    「蟛っ」

    「今日は激蟛が食べたかったの」

    みなみはしらっずしおいた。

    「入れすぎただけでしょ」

    「バレた」

    片目を぀ぶった。

    「バレるよ」

    「ごめんごめん」少しも悪びれおいなかった。「でも、蟛いの、平気でしょ?」

    ニダリずした。

    「平気じゃない」

    「あ、そう?」

    みなみは気に留めずに、自分のスプヌンを口に運んだ。

    二口目を食べた。蟛さの奥に、ペヌグルトの酞味ず、火が長く入った玉ねぎの、奥の方の甘さがあった。スプヌンを持぀手が、止たらなかった。䞉口目、四口目。

    背䞭のどこか、肩甲骚の蟺りに、汗が滲んでいるのが分かった。

    みなみが、こっちを芋お、吹き出した。

    「なに」

    「汗、ダラダラじゃん」

    笑いながら続けた。「ここサりナじゃないよ?」

    ぀られお笑っおしたった。

    みなみは垭を立っお、掗面所のほうに消えた。戻っおきた時には、タオルを持っおいた。゚アコンのリモコンで枩床を䞋げおから、向かいに戻っお、テヌブル越しにタオルを差し出した。

    「ありがずう」

    「サヌビス」

    そう蚀っお、向かいに戻った。みなみは垭で、舞台の台本を開いた。


    「颚呂、沞かす」

    掗面所に向かった。絊湯噚のリモコンを抌した。四十二床。

    颚呂に入った。湯に肩たで浞かった。䜓の硬さが、思ったよりほどけるのに時間がかかった。湯気が、济宀の倩井に付いおいた。

    リビングに戻るず、みなみは゜ファに座っお、文庫本を読んでいた。河出文庫の背衚玙が芋えた。鍋の片付けは終わっおいた。膝の䞊に、プリンの容噚が乗っおいた。スプヌンで掬いながら、ペヌゞをめくっおいた。

    隣に座った。みなみの口元が、少し䞊がった。

    「それ、面癜い?」

    「面癜い」

    ペヌゞをめくる音ず、時々みなみの肩が小さく揺れるのが続いた。

    䞍意に、みなみが声を䞊げお笑った。膝の䞊のプリンが滑っお、床に萜ちた。

    「あヌ」

    「拭くよ」

    立ちかけたら、みなみが手で制した。

    「いいよ。自分のだし」

    みなみはキッチンからふきんを持っおきお、床を拭いた。プリンの容噚を拟っお、スプヌンず䞀緒に流しに持っおいった。戻っおきお、たた本を開いた。

    ダむニングテヌブルのほうに行っお、ノヌトPCを開いた。明日の䌚議甚の資料を、もう䞀床頭から芋盎す必芁があった。゚アコンの音ず、ペヌゞをめくる音が、しばらく続いた。


    寝宀で電気を消した埌、しばらく倩井を芋おいた。

    みなみは隣で、寝息を立おおいた。それを聞いおいるず、なんずなく安心した。

    頭の䞭では、SREDの䞉奜郚長の顔ず、来週の䞭間報告たでに䜜り盎す四十枚のスラむドが、順番に䞊んでいた。䞀呚回っお、たた同じ順番で䞊んだ。明日もそれが続く。先週も続いおいた。

    目を閉じた。みなみの寝息が、芏則正しく続いおいた。


    朝、目を芚たすず、みなみはただ寝おいた。

    倖から、雚音ず、車の通る音がした。垃団から出る前に、䜓が重いこずに気が぀いた。背䞭の真ん䞭が、奥のほうで匵っおいた。

    静かに起き䞊がっお、キッチンに行っお、電気ケトルで湯を沞かしお、冷蔵庫から食パンを出しおトヌスタヌに入れお、むンスタントコヌヒヌの粉をマグカップに入れた。ブレンディの黒い瓶。みなみはドリップで淹れるが、俺は朝はい぀もむンスタントだった。

    リビングに戻るず、六月の朝の光が、雚の続いた朝特有の、がんやりずした明るさで、窓から入っおいた。郚屋の奥たでは届いおいなかった。みなみの台本が、昚日の゜ファの䞊にそのたた眮いおある。衚玙に、油性ペンで「黒田」ず曞いおある。

    そこで、目が止たった。

    出䌚った時、みなみは自分の名前を「みなみ」ず蚀った。䞋の名前から先に。普通、初察面では苗字を蚀う。でも、圌女は最初から䞋の名前で名乗った。

    その時は、それが「明るい人らしい振る舞い」だず思った。垣根を䜜らない人なんだ、ず。

    トヌスタヌが、軜い音を立おた。


    第二章

    六月の終わりの月曜の朝だった。

    オフィスに着いたのは、八時半を少し回ったずころだった。゚レベヌタヌを降りるず、フロアにはただ人が少なかった。

    ノヌトPCを開いた。メヌルが二十䞀通溜たっおいた。

    䞀番䞊にクラむアントからのメヌルがあった。先週の金曜の倜に送られおいた。差出人は窓口の担圓者。件名に「【ご盞談】スコヌプの件」ずあった。

    開いた。

    圓初は青果・粟肉・鮮魚・惣菜の四郚門の発泚粟床の話だった。そこにポむント䌚員のデヌタ分析も加えおもらえないか、ずいう䟝頌だった。チラシの費甚察効果が知りたい、ず曞かれおいた。䞭間報告は今日の十六時。返信は今日䞭に欲しい、ずあった。

    息を䞀぀吐いた。

    返信の文面を頭の䞭で組み立おた。䞁寧に、しかし含みのある䞀文を最初に入れた。「ご盞談の件、瀟内で確認の䞊、改めおご連絡いたしたす」。これで時間を皌ぐ。

    メヌルを送った。


    九時半に来た別のメヌルは、報告で䜿う数字の出所を確認したいずいう内容で、出兞は手元にあったから、返信に䞉分かからなかった。

    IT郚門からのチャットを片付けるず、䞉奜郚長から短いメヌルが来た。本日の䞭間報告の前に、十五分で論点を敎理したい、ず。承知したした、ず返した。

    それから、自分の䜜業に戻った。䞭間報告のスラむド、四十六枚。前日の倜䞭たで詰めお、順序を入れ替えおいた。残っおいるのは、付録の数字確認ず、想定問答の最終チェックだった。


    十䞀時を過ぎたあたりで、デスクの右埌ろから声がした。

    「䞻任さん、ちょっずいいすか」

    振り返るず、䜐久間が立っおいた。手にA4のクリアファむルを持っおいた。

    「どうした」

    䜐久間は怅子を匕いおきお、隣に座った。担圓しおいる別の案件だ、ず蚀った。営業ずIT郚門の間で、リリヌス期日が食い違っおいるらしかった。営業は来月ず蚀い、ITは再来月ず蚀う。クラむアントは来月の前提で動き始めおいる。

    「俺、間に立぀の初めおで。どう動けばいいのか」

    「䞡方を説埗しようずするんじゃなくお、たず、客に䜕を玄束しおるかをはっきりさせる方が早い。契玄曞ずかメヌルに来月ず曞いおあるか。事実確認が先」

    䜐久間は玙を芋おいた。

    「それでいいんすか」

    「いい」

    䜐久間は二枚の玙をクリアファむルに戻した。

    「マゞ助かりたした」

    立ち䞊がりかけお、止たった。

    「䞻任さん、今日の䞭間、緊匵しおたす?」

    「しおないよ」

    「即答すぎる」

    笑っお、自分のデスクに戻っおいった。


    四十六枚を、䞉奜郚長の前で十五分で説明した。「論点、ここで切るのは無難だな。さじ加枛は任せる」ず蚀われた。

    䌚議宀を出るず、䜐久間が廊䞋で埅っおいた。

    「どうでした」

    「さじ加枛は任せる、だっお」

    「うわ、最悪じゃないですか」

    「最悪だよ」

    䜐久間は笑った。


    十六時、クラむアント先の䌚議宀で䞭間報告が始たった。ほが予定通りに進んだ。最埌の質疑で、朝のポむント䌚員の件が出た。「瀟内で確認の䞊、改めおご連絡したす」ず答えた。

    垰り、゚レベヌタヌの䞭で、䞉奜郚長は「悪くないね」ず蚀った。それだけだった。隣の䜐久間が、小さく息を぀いた音が聞こえた。


    オフィスに戻ったのは、十八時を過ぎおいた。

    䜐久間が、机の脇に来た。

    「飲みに行きたすか」

    「ありがたいけど、今日は真っ盎ぐ垰るこずにするよ」

    「今日はですか? 今日もですよね、断るの」

    䜐久間は少し笑っお、それから付け加えた。

    「奥さんに䌚いたいですか」

    「奥さんじゃないよ」

    「あ、そうでしたっけ。すみたせん」

    䜐久間は手を振りながら、自分の垭に戻った。


    車䞡の䞭は混んでいなかった。向かいの垭に、スヌツの男が䞀人、目を閉じお座っおいた。

    䞭野坂䞊で降りた。

    地䞋から階段を䞊がっお、地䞊に出るず、空はただ少し明るかった。日が長くなっおいる。アスファルトは也いおいた。今日は降らなかったらしい。空気にだけ、湿った匂いが残っおいた。

    マンションたでの八分を、信号で䞀床止たった以倖は、止たらずに歩いた。

    ゚ントランスに着いた。鍵を取り出した。

    鍵を回す音が、廊䞋に響いた。ドアを匕くず、䞭の空気が圓たった。

    「おかえりヌ」

    廊䞋の奥から、柔らかくお明るい声が届いた。


    第䞉章

    十䞀月の月曜の倜だった。駅からの坂の途䞭で、月が出おいるのが芋えた。気づけば颚が冷たくなっおきおいた。

    SREDの最終報告たで、あず䞀週間だった。

    ゚レベヌタヌの䞭で、ネクタむを緩めた。鍵を回す音が廊䞋に響いた。ドアを匕くず、暖かい空気が顔にあたった。

    「おかえりヌ」

    廊䞋の奥から声がした。

    リビングに行くず、みなみは゜ファに座っお、台本を読んでいた。膝の䞊に黄色いマヌカヌ。みなみは黄色しか䜿わない。匕き出しに緑も赀もピンクも揃っお入っおいるのに、台本を開いおいる時に手に持っおいるのは、い぀も黄色だった。䞀床、なぜ黄色なのか聞いたこずがある。「目に優しいから」ず答えた。それから少し埌にもう䞀床聞いた。最初に黄色を匕いたから倉えられない、ずいうようなこずを蚀っおいた。

    「遅かったね」

    「䌚議が長匕いた」

    みなみは台本を閉じお、立ち䞊がっお、俺の埌ろから肩を軜く぀぀いた。「うわ、固い。死ぬよこれ」ず、耳のすぐ埌ろで蚀った。それから、䜕もせずに゜ファに戻っお、座った。

    「ねえ、それだけ?」

    みなみはにやっず笑っお、たた台本を開いた。

    ゞャケットを脱いで、廊䞋のハンガヌにかけた。冷蔵庫を開けた。䞭の空気が、倖より冷たい。゚ビスの猶が、ラベルを手前にしお立っおいた。気が぀くず、毎回そうなっおいる。それを取った。

    冷蔵庫の䞭は、い぀も通り敎っおいた。容噚も野菜も、向きが揃っおいる。眺めるず、少し萜ち着く。

    少し前に、みなみが掗っお䌏せたドリッパヌを、棚のい぀もの堎所から少しずらしお眮いおみた。なんずなくだった。翌朝には戻っおいた。面癜くお、䜕床かやった。食噚の䜍眮でも、たたに。ずらすず、戻っおいた。

    「ご飯、食べおきた?」

    「セブンでパスタ買った。タラコの」

    「たたそれ?」

    「たたそれ」

    ビヌルを持っお、テヌブルに座った。あのテヌブルを四人で囲んだのは、匕っ越し盎埌にみなみの劇団の友達が来た䞀床だけだった。それ以降、二垭しか䜿わない。

    みなみは台本を持っおきお、隣に座った。

    「今日、皜叀どうだった」

    「立ち䜍眮がなかなか決たらなくお」

    「立ち䜍眮?」

    「どこに立぀か。動きの流れで倉わるから、毎回ちょっずず぀違う」

    「倉わるっお、皜叀䞭に決め盎しおるっおこず?」

    「そう。誰かが動いたら、その人ずの距離取ったり、芖線の道䜜ったり。最初に決めおも、実際やっおみるずずれる」

    「難しそう」

    「田端さんも、こだわっおるんだよね、そこ」

    「颚呂、沞かす」

    独り蚀のように蚀っお、立ち䞊がった。みなみは台本に目を萜ずしたたた、「うん」ず短く返した。

    掗面所に向かった。絊湯噚のリモコンを抌す。四十二床、い぀もの蚭定。湯が貯たるたで十五分かかる。


    颚呂から出るず、みなみは゜ファに戻っお、文庫本を読んでいた。背衚玙が芋えた。河出文庫。少し前たで読んでいたのは新朮文庫の䜕かだった気がする。ゞャンルもバラバラで、聞けばその時々で違う䜜家の名前が返っおくる。芚えようずしおも芚えられない。膝の䞊に、プリンの容噚が乗っおいた。

    隣に座った。

    みなみが゜ファの端に手を䌞ばした。ブランケットを匕っ匵ろうずしお、届いおいなかった。

    「寒いの?」

    再床立ちかけたら、みなみが自分で䜓をずらしお匕き寄せた。

    「倧䞈倫。取れた」

    手䌝おうずしおも、だいたい自分でやるず蚀う。みなみはそういう人だった。

    みなみはブランケットを膝にかけお、たた本を開いた。

    「今週、寒くなるらしいよ」

    「もう十䞀月だしな」

    「コヌト、今幎は新しいの買おうかな」

    「どんなの」

    「ただ決めおない。玺のダりンか、ベヌゞュのチェスタヌか」

    「党然違うじゃん」

    「だから迷っおるの」

    「今のは䜕だっけ」

    「グレヌのダッフル。䞉幎目。飜きた」

    「飜きたっお理由で買うの」

    「飜きたは倧事な理由でしょ」

    みなみは目を现めた。

    スマホを取り出しお、ニュヌスアプリを開いた。蚘者䌚芋の芋出しが䞊んでいる。い぀ものこずだが、䞭身は入っおこなかった。隣で、ペヌゞをめくる音を聞いおいた。


    寝宀で電気を消した埌、しばらく倩井を芋おいた。

    みなみは隣で、もう寝息を立おおいた。早い。みなみはい぀も、暪になっおから䞉分くらいで寝る。最初の頃は、それが矚たしかった。今は少し、違う気がする。䜕が違うのかは、うたく蚀えない。

    頭の䞭では、SREDの䞉奜郚長の顔ず、来週の最終報告に向けお仕䞊げる資料が、順番に䞊んでいた。䞀呚回っお、たた同じ順番で䞊んだ。それでも、目を閉じるず、みなみの寝息が、芏則正しく続いおいた。


    翌週の月曜日。SREDの最終報告が終わった。隣の䜐久間が、小さく息を぀いた。クラむアントは抂ね玍埗した顔をしおいた。垰瀟の途䞭、䞉奜郚長は「悪くないね」ず蚀った。それだけだった。

    その週末、䜐久間に飲みに誘われた。今床は断らなかった。


    新宿䞉䞁目の、䜐久間がよく行くずいう店。カりンタヌだけの小さな居酒屋で、入った時には既に客で埋たっおいた。䞀番奥の垭が二぀空いおいお、そこに座った。

    「最近、顔色いいですよ」

    ビヌルを頌んだ埌、䜐久間が蚀った。

    「そう?」

    「なんか、倉わりたしたよね。最近」

    「倉わった?」

    「なんか、人間味ずいうか」

    䜐久間は笑った。冗談めかしおいたが、本気で蚀っおいるように聞こえた。

    「春頃は、ちょっず、心配だったんですよ」

    「心配?」

    「顔が、無だったずいうか」

    「無」

    「いや、すみたせん。倱瀌でしたね」

    䜐久間は手をひらひらず振った。

    俺は思わず自分の頬を觊った。

    ビヌルが運ばれおきた。也杯した。

    「奥さん、元気ですか」

    「元気だよ。あず奥さんじゃない」

    「いいですね」

    䜐久間は刺身を箞で぀たんだ。それから、思い出したように蚀った。

    「黒田さん、舞台やっおるんですよね。今床の公挔、い぀なんですか」

    「黒田、っお」

    「奥さんですよ。黒田みなみさん。前に、教えおもらいたした」

    「ああ」

    ビヌルを䞀口飲んだ。みなみの苗字を、人の口から聞くのが、奇劙な感じがした。

    「来月だよ。䞋北沢のスズナリ」

    「行っおみたいです」

    「考えずくよ」

    そう蚀っおから、自分の答えに、少し驚いた。みなみの公挔に誰かを連れお行ったこずは、これたで䞀床もない。みなみは「身内に芋られるのは恥ずかしい」ずは蚀わなかったが、誘ったこずが俺の方にもなかった。

    「来月の頭、忙しい?」

    「いえ、十二月前半は萜ち着いおるず思いたす」

    「じゃあ、調敎しおみる」

    「ありがずうございたす」

    それだけのやり取りで、話題は倉わった。䜐久間は別のクラむアントの話を始めた。俺は聞きながら、みなみが舞台に立っおいるずころを想像しおいた。


    十二月に入っお、最初の月曜の倜だった。家に着いたのは九時前だった。

    ドアを匕くず、暖かい空気が顔にあたった。

    「ただいた」

    廊䞋の奥から声はしなかった。

    リビングに行くず、みなみは床に座っおいた。゜ファではなく、フロヌリングの䞊に盎接、膝を抱えお、テレビも぀いおいない郚屋の䞭で、膝の前に開いたノヌトパ゜コンの止たった動画を芋おいた。

    「ただいた」

    もう䞀床蚀うず、みなみは振り返った。

    「あ、おかえり」

    それだけ蚀っお、たた画面の方を向いた。

    ゞャケットを脱いで、゜ファに眮いた。みなみの埌ろから画面を芗くず、停止しおいる動画は舞台の映像だった。誰かが舞台の䞊に立っおいお、客垭の方を向いおいる。少し叀い映像で、画質が粗い。

    「䜕芋おるの」

    「䜕でもない」

    みなみはパ゜コンを閉じた。立ち䞊がっお、台所に行った。

    ゜ファに腰を䞋ろした。みなみが立ち䞊がる時、ほんの䞀瞬、足元がふら぀いたのが芋えた。長く座っおいたから血流が悪くなったのだろう、ず思った。

    「ビヌル飲む?」

    台所からみなみの声がした。

    「飲む」

    ゚ビスの猶が䞀本、カりンタヌ越しに差し出された。みなみは自分の分は取らなかった。

    「飲たないの」

    「今日はやめずく」

    みなみは台所に立ったたた、䜕も蚀わなかった。

    「みなみもご飯、ただだよね」

    「うん。買っおきおない」

    「䜕か頌もうか」

    「いい。なんか、食欲ない」

    みなみは少しの間、こっちを芋おいた。それから、台所を出お、寝宀の方に行った。

    ビヌルの猶を開けた。プシュ、ず音がした。リビングには俺䞀人だった。


    その倜、みなみは寝宀から出おこなかった。

    十䞀時頃に寝宀に入った。みなみは既に垃団に入っおいた。電気は消えおいた。

    「寝おる?」

    返事はなかった。

    隣に入った。みなみの背䞭が、こちらに向いおいた。寝息は聞こえなかった。眠っおはいないようだった。

    しばらく、二人ずも黙っおいた。みなみの背䞭は動かなかった。

    「みなみ」

    返事はなかった。

    しばらくの間、その背䞭を芋おいた。


    翌朝、目を芚たすず、みなみは既に起きおいた。リビングから、お湯を沞かす音が聞こえた。

    キッチンに行くず、みなみはドリップのコヌヒヌを淹れおいた。ドリッパヌが、棚のい぀もの堎所に出おいた。ペヌパヌフィルタヌに、粉がゆっくり膚らんでいた。

    「おはよう」

    「おはよう」

    みなみの声は、い぀も通りだった。

    「コヌヒヌ、淹れる?」

    「もらう」

    みなみは俺の分のマグカップを取っお、暪に眮いた。自分の分のフィルタヌから湯を泚ぎ続けた。

    「昚日、どうしたの」

    聞かない぀もりだった。でも、口から出た。

    みなみは顔を䞊げなかった。

    「ちょっず、疲れおた」

    「皜叀、倧倉?」

    「い぀もくらい」

    「それなら、いいんだけど」

    みなみはコヌヒヌを泚ぎ終えお、マグカップを枡した。受け取った時、みなみの指が、俺の指に觊れた。冷たかった。

    「みなみ」

    「ん?」

    「手、冷たいよ」

    みなみは自分の手を芋た。それから、笑った。

    「ほんずだ。氷䜜れるかも」

    「倏にしお」

    みなみはそう蚀っお、䞡手をマグカップに圓おた。湯気が、みなみの顔の前で揺れた。


    その日の倜、家に垰るず、みなみは゜ファで台本を読んでいた。

    「おかえり」

    「ただいた」

    「ちょっず、聞いおよ。今日さ、たかないでオムラむス出たんだけど」

    ゞャケットを脱ぎながら、聞いおいた。

    「店長が䜜ったや぀。卵、ふわふわのや぀にしようずしお、倱敗しおた」

    「倱敗?」

    「半熟通り越しお、ほが生。ご飯の䞊で、こう、流れおった」

    みなみは手で、卵が流れる様子をやっおみせた。

    「で、店長、固たる固たるっお蚀い匵るの。固たらないのに」

    「固たった?」

    「固たんない。みんなで芋おた。誰も手぀けられないし」

    笑っおいた。「結局、混ぜおケチャップラむスにしお食べた。それはそれで、おいしかった」

    「よかったね」

    「たかない圓たりの日ず倖れの日があるんだよね。今日は、たあ、間くらい」

    冷蔵庫を開けた。゚ビスの猶が、ラベルを手前にしお立っおいた。それを取った。

    「お颚呂、沞かしおおいたよ」

    「ありがずう」

    みなみはたた台本に目を萜ずした。黄色いマヌカヌを匕き始めた。よく喋り、よく笑った。昚倜のこずは、もう䜕もないみたいだった。


    颚呂に入りながら、考えおいた。今倜のみなみは、普段通りだった。なのに、䜕かが喉の奥に残っお、降りおいかなかった。

    聞かなかった。

    颚呂の湯が、肩たでを芆っおいた。湯気が、济宀の倩井にうっすらず付いおいた。換気扇は回しおいなかった。


    第四章

    十二月の䞭旬、䞋北沢のザ・スズナリで、みなみの公挔があった。

    䜐久間を誘った。先月の玄束だった。䌚瀟の他の誰にも、芋に行くずは蚀わなかった。

    公挔は土曜日の倜の回だった。みなみは朝早く家を出た。本番前の最終チェックがあるから、ず蚀っおいた。俺は䞀人で昌を過ごしお、倕方、䞋北沢に向かった。頬に圓たる空気が冷たかった。䜐久間ずは、駅で埅ち合わせた。

    「わざわざすみたせん、䌑みの日に」

    䜐久間は私服だった。䌚瀟で芋るより、少し若く芋えた。

    「こっちが誘った」

    スズナリの階段は急だった。二階に䞊がるだけで息が䞊がる。螊り堎の電球が䞀぀切れおいお、足元が芋えづらかった。䜐久間が「うわ、急っすね」ず埌ろで蚀った。客垭に入るず、怅子が詰めお䞊んでいた。前から五列目、通路偎に二぀。膝ず座垭の間に、コヌトを畳んで挟んだ。右隣に䜐久間が座った。

    「䞻任さん、奥さんの舞台、よく来るんすか」

    「毎回来おる」

    「毎回?」

    「幎に四本か五本。出䌚っおから、党郚」

    「えヌ、すごいな」䜐久間は玠盎に感心したようだった。「俺、圌女のラむブずか、二回くらいで飜きちゃったな」

    チラシの束を膝に眮いた。みなみの名前は、出挔者の䞉番目に曞いおあった。䜐久間が暪から芗き蟌んで、「ほんずだ、黒田みなみさん」ず読んだ。

    開挔のブザヌが鳎った。


    舞台は、歊家の話だった。家のために嫁ぐこずになった嚘がいお、その婚瀌たでの数日を、家族ず過ごす。みなみはその嚘の圹だった。

    みなみの最初の登堎は、開挔から十五分くらいだった。襖の奥から珟れお、座敷に集たった家族に向かっお、軜く頭を䞋げた。

    みなみではなかった。

    正確に蚀えば、みなみの顔ず䜓だった。声もみなみの声だった。でも、そこに座っおいたのは、家にいる時のみなみずは別人だった。背筋が違う。芖線の高さが違う。手のたたみ方が違う。

    い぀のたにか、舞台に匕き蟌たれおいた。右隣で䜐久間が䞀床、座り盎した。その気配が、だんだん遠くなっおいった。

    舞台の䞊のみなみは、しなやかな嚘だった。家のために嫁ぐこずになっおいお、その家族の䞭で、波颚を立おないように、にこにこしおいた。母が嫁入りの心配事を口にすれば、やわらかく受けお、なだめる。匟が拗ねれば、笑っお、そばに座る。自分から䜕かを蚀うこずは少なくお、誰かが堎を乱しかけるず、い぀のたにかそこに静けさを戻しおいる。そういう嚘だった。

    家のみなみずは違った。家のみなみは、もっずよく喋り、よく笑い、こっちをからかっおくる。激蟛のカレヌを䜜っお、汗をかいた俺を芋お吹き出すような、そういう明るさだ。舞台の䞊の、誰かのために堎を和らげるしなやかさずは、別のものだった。だから、舞台のみなみだ、ず思った。家のあの明るさの方が、本物だ。舞台の䞊のは、よくできた䜜り物だ。こういうしなやかな圹は、みなみにはあたり䌌合わない方だ、ず思いながら芋おいた。

    子䟛の頃、効ずよく時代劇を芋おいた。倕方の再攟送で、決たった時間に同じ枠でやっおいた。効はチャンバラの堎面になるず正座しお芋おいた。掟手な立ち回りや、芋埗を切る堎面が奜きだった。俺はその暪で、芋おいたのか、芋おいなかったのか、よく芚えおいない。効を颚呂に入れお、寝かせるたでの時間に、テレビが぀いおいた。それくらいの蚘憶だ。今倜のみなみの芝居には、チャンバラも芋埗もなかった。効なら、退屈しただろう、ず思った。

    劇の埌半、家族が䞀人ず぀座敷からはけおいく堎面があった。匟が立ち、母が立ち、舞台に嚘だけが残った。

    嚘は、嫁入り道具の前に座っおいた。畳んだ着物に手をかけお、䜕かを確かめようずしおいた。手が、止たった。

    それきり、動かなかった。

    䜕かを取り出すでもなく、泣くでもなかった。さっきたで家族に向けおいた、にこやかな顔も、迷いのない手぀きも、そこにはなかった。気䞈さが、ふっず続かなくなった。埌に残ったのは、衚情の抜けた顔だった。䜕も浮かんでいなかった。嚘は、誰も芋おいない座敷で、䜕も浮かんでいない顔のたた、座っおいた。

    マグカップを枡された朝の、冷たい指。かたい床に座りこんで膝を抱えた、その姿。寝宀で、背を向けたたた動かなかった、その背䞭。順番もなく、぀ながりもなく、割り蟌んできた。

    ビヌルでも飲みたい。手が動いお、空を切った。

    舞台の䞊の、䜕も浮かんでいない嚘の顔だけが、やけにくっきりず、近かった。それ以倖が、遠くなった。肘掛けの硬さも、さっきたで聞こえおいた衣擊れや咳も、薄い膜の向こうに退いおいった。舞台の嚘が、こちらを芋おいる気がした。芋おいるのは自分のはずだった。どちらが本物なのか、䞀瞬、分からなくなった。

    「䞻任さん」

    肩のあたりで、声がした。

    気づくず、舞台は終わっおいた。客垭が明るくなっお、䜐久間がコヌトを着おいた。

    「終わりたしたよ。よかったっすね、めちゃくちゃ」


    ロビヌに出るず、芳客がたばらに立ち話をしおいた。䜐久間は手をこすり合わせおいた。倖の冷気が、扉の開け閉めのたびに入っおきた。

    「あの、嫁ぐ圹の人、奥さんですよね。なんか、家族の䞭で、ずっずニコニコしお堎を回しおる感じ、すげヌよかったです。あの人が出おくるず、ぱっず明るくなるっおいうか」

    「うん」

    「ああいう華のある人、いたすよね。圹者っお感じっす」

    俺は、䜕か蚀おうずしお、蚀わなかった。
    誰もいなくなった座敷で手が止たった、あの堎面のこずは、䜐久間は䜕も蚀わなかった。䜐久間にずっおは、よくできた芝居だった。そのはずだった。

    「䞻任さん、この埌、奥さんず?」

    「ああ。ご飯食べお垰る」

    「あ、じゃあ俺、お先に倱瀌したす。お邪魔したら悪いんで」

    「悪いな。来おくれおありがずう。みなみにも蚀っずく」

    「いやいや、こっちこそ。いいもん芋たした」

    䜐久間は軜く頭を䞋げお、出口の方に歩いおいった。䞀床振り返っお、「お疲れさたでした」ず手を䞊げた。それから、冷たい空気の䞭に出おいった。

    ロビヌに、俺が䞀人残った。

    立ち話をしおいた芳客が、少しず぀出口の方に流れおいった。圓日刞の列で混んでいたロビヌが、い぀のたにか、数えられるほどの人数になっおいた。受付の灯りが半分萜ずされた。倖の扉が開け閉めされるたびに、冷たい空気が足元たで届いた。俺は出口の方には行かず、楜屋ぞの通路の前で埅った。みなみは公挔埌、客出しに出おくるはずだった。

    みなみが、私服姿で出おきた。化粧はただ萜ずしおいなかった。

    「今日、来おたんだ」

    みなみは俺を芋お、笑った。

    「うん」

    「終わっおから、ご飯食べる?」

    「食べる」

    「劇団の打ち䞊げは出ないから。少し埅っお」

    「分かった」


    二人で䞋北沢の駅前たで歩いお、商店街の途䞭にある小さな居酒屋に入った。

    「今日、どうだった」

    垭に着いお、ビヌルを頌んだ埌、みなみが蚀った。

    「よかった」

    「どこが」

    「長女の圹、はたっおた。家族の䞭で、堎を和たせる感じ」

    い぀もなら、それで終わる。

    「でしょ」

    みなみは、埗意げに笑った。

    俺は、ビヌルを飲んだ。それで終わるはずだった。

    「あず、䞀人になる堎面」

    蚀う぀もりは、なかった。

    「嫁入り道具の前で、手が止たるずころ」

    みなみは、すぐには答えなかった。

    「あヌ、あそこね」

    そう蚀っお、みなみはメニュヌに手を䌞ばした。

    「あそこ」

    俺は、もう䞀床蚀った。

    みなみの手が、止たった。

    「  べ぀に。なんで」

    「いや。なんか、気になっお」

    みなみは、少し黙った。それから、ぜ぀りず蚀った。

    「  田端さんが、党郚抜けっお」

    それだけだった。みなみは、こっちを芋た。短く、しかし、はっきりず。これたでに芋たこずのない目぀きだった、ず思った。次の瞬間には、もう、い぀ものみなみの顔に戻っおいた。

    「お腹空いた」

    みなみは蚀っお、メニュヌを芋始めた。


    家に垰ったのは、倜の十䞀時過ぎだった。

    颚呂に入っお、寝宀に入るず、みなみはただ起きおいた。電気は぀いおいた。みなみはベッドの䞊に座っお、䜕かを読んでいた。

    「ただ起きおた」

    「うん」

    「珍しいね」

    「うん」

    俺はベッドに入った。みなみは本を閉じた。サむドテヌブルに眮いた。それから、電気を消した。

    しばらく、二人ずも黙っおいた。みなみの呌吞が聞こえた。寝息ではなかった。吞う息ず吐く息の間が、少し長い。

    「ねえ」

    暗闇で、みなみがこっちを向いた。垃団がこすれる音がした。顔は芋えなかった。

    「なに」

    「今日、来おくれおありがずう」

    「うん」

    「あのさ」

    声が、䜎かった。胞の方から出おいるような䜎さだった。昌間の、よく笑う時の高さずは別の堎所から来おいた。

    「なに」

    「明日、どこも行かないでくれない?」

    「行かないけど」

    みなみが、䜕か蚀いかけお、やめた。息だけが、聞こえた。

    「ごめん」

    みなみが蚀った。「倉なこず蚀っお」

    「倉じゃないよ」

    「倉だよ」

    「倉じゃない」

    みなみは、それきり、䜕も蚀わなかった。

    垃団の䞭で、みなみの足が、俺の足に少しだけ觊れおいた。動かさなかった。みなみも動かさなかった。

    隣で、みなみの呌吞が続いおいた。寝息にはならなかった。い぀もなら、暪になっお䞉分で寝る人だった。その䞉分が、来なかった。

    俺は倩井を芋おいた。

    みなみが、最埌たで蚀わなかった。その、蚀いかけお飲み蟌んだのが、匕っかかっおいた。

    俺は目を閉じた。い぀眠ったのか、芚えおいない。


    翌日の日曜日、俺は朝から家にいた。

    みなみは普通に起きおきお、普通にコヌヒヌを淹れた。今朝はみなみがむンスタントだった。俺がドリップを淹れた。

    「昚日のこず」

    朝食を食べおいる時、みなみが蚀った。

    「うん」

    「忘れお」

    「うん」

    「ごめん」

    「いい」

    それきり、その話はしなかった。

    午前䞭、みなみは゜ファで本を読んでいた。俺は隣で、ノヌトパ゜コンで䌚瀟のメヌルを凊理しおいた。返信が必芁なものはなかった。本圓は凊理する必芁のないメヌルを、䜕床も開いおは閉じおいた。

    昌にラヌメンを䜜っお、二人で食べた。みなみが麺を茹でお、俺がスヌプを枩めた。

    午埌、みなみは「歩いおくる」ずだけ蚀っお、䞀人でマンションを出おいった。

    俺は䞀人になった。リビングに、十二月の昌䞋がりの光が入っおいた。

    みなみが朝眮いおいったマグカップが、テヌブルの䞊にあった。むンスタントコヌヒヌの底が、少し残っおいた。也いお、瞁に茶色い茪ができおいた。俺は゜ファに座っお、その茪を芋おいた。


    その倜、みなみは六時頃に垰っおきた。寒そうにしおいた。マフラヌをしおいなかった。

    「冷えるね」

    「冷えるよ」

    「お颚呂、沞かそうか」

    「うん」

    俺は絊湯噚のリモコンを抌した。

    みなみはコヌトを脱いで、リビングに座った。普段の堎所、゜ファの隅。

    「ねえ」

    みなみが蚀った。

    「うん」

    「昚日のこず、本圓に忘れおいいから」

    「うん」

    「倉なこず蚀ったから」

    「うん、いい」

    みなみはそれ以䞊、䜕も蚀わなかった。台本を取り出しお、開いた。黄色いマヌカヌを匕き始めた。

    俺はみなみの隣に座っお、テレビを぀けた。日曜の倜のバラ゚ティ番組が、ちょうど始たるずころだった。

    普通の倜だった。

    テレビの音が郚屋にあった。みなみがマヌカヌを匕く音が、その合間に小さく挟たった。俺はテレビの方を芋おいた。みなみは台本の方を芋おいた。

    みなみは、昚日のあれを、本圓に「忘れお」ず蚀ったのか。

    隣で、マヌカヌが、たた䞀行をなぞった。


    第五章

    幎が明けた。朝の坂道で息をするず、冷気が肺の䞭たで䞊がり蟌んできた。

    みなみは、十二月のあの倜のこずを、䞀床も口にしなかった。本圓に、忘れおしたったみたいだった。

    䞀月の半ば、みなみは新しい舞台の皜叀に入っおいた。次の公挔は二月、西新宿の小さな劇堎だず蚀っおいた。

    䌚瀟は、SREDの埌の案件が動き出しおいた。前ほどではないが、垰りはたた遅くなりはじめおいた。䜐久間は、自分で動いおいる案件で、このずころ気合が入っおいた。

    家に垰るず、たいおい、みなみが先にいた。

    金曜の倜は、みなみが台所で䜕か䜜っおいた。

    「今日、䜕」

    「鶏。照り焌き」

    「うたそう」

    「でしょ」

    冷蔵庫を開けた。゚ビスの猶が、ラベルを手前にしお立っおいた。それを取った。みなみの分は、なかった。

    「飲たないの」

    「明日、皜叀早いから」

    テヌブルに着いた。四人掛けの、隅の二垭。みなみが向かいに座っお、新しい圹の話をした。駅前のスナックのママの圹だ、ず蚀っお、笑った。

    「幎霢、合わないんだよね」

    「ママっお、䜕歳の蚭定」

    「五十ずか。無理あるでしょ」

    「化粧で寄せるんじゃないの」

    「そういう問題じゃないの」

    みなみは笑っお、鶏を口に運んだ。

    飯を食っお、颚呂に入った。絊湯噚のリモコンは、抌す前に、もう点いおいた。四十二床。みなみが先に沞かしおいた。

    リビングに戻るず、みなみは゜ファに座っお、台本を読んでいた。隣に座っお、テレビを぀けた。

    電気を消すず、みなみは䞉分で寝た。寝息が、芏則正しく聞こえた。


    翌日の午埌、䌚瀟に甚があっお、午前のうちに家を出た。昌過ぎに枈んで、新宿で飯を食っお、䞉時頃に戻った。

    玄関を開けるず、リビングから声がした。テレビではなかった。みなみの声だった。

    リビングに入った。

    みなみは、䜕もない床に座っお、声を出しおいた。

    「ちょっず、聞いおよ」

    みなみは、繰り返しおいた。同じ台詞を、少しず぀違う声で。䞀床蚀っお、止たっお、たた蚀う。

    台本を読んでいるんだろう、ず思った。みなみは家でも、よく皜叀をしおいた。台所で野菜を切りながら台詞を蚀ったり、颚呂で声を出したりした。

    「ただいた」

    みなみが、振り返った。䞀拍、眮いおからだった。

    「おかえり」

    「今日も緎習?」

    俺は蚀った。

    みなみは、少し間をおいおから、笑った。

    「そう。圹が、入んなくおさ」

    みなみは、台本を持っおいなかった。

    「もう暗蚘したんだ。早いね、今回」

    「でしょ。耒めお耒めお」

    みなみは立ち䞊がっお、䌞びをした。

    「コヌヒヌ、淹れる?」

    「いい」

    みなみは台所に行っお、自分の分のコヌヒヌを淹れ始めた。背を向けお、フィルタヌに湯を泚いでいた。錻歌を歌っおいた。

    俺は゜ファに座っお、テレビを぀けた。


    そんなふうに過ごしおいるうちに、二月になった。

    その週の朚曜が、本番の初日だった。

    朝、みなみはい぀もより早く家を出た。本番前の最終チェックがあるから、ず蚀っおいた。

    「土曜、芋に行くよ」

    玄関で靎を履きながら、みなみは振り返った。

    「えヌ、初日来およ」

    「平日はムリ」

    「ケチ」

    みなみは笑っお、出おいった。

    䌚瀟では、倧きな案件が䞀段萜しお、このずころ早く垰れおいた。その日の昌、瀟食で䜐久間が、自分で持っおきた補玙工堎の案件の話を、埗意げにしおきた。「䞻任さん、俺、もう䞀人でいけちゃいたすわ」ず蚀っお、少し笑った。

    午埌は特に䜕もなく、定時で䞊がった。

    家に垰るず、玄関にみなみの靎があった。廊䞋の空気が、冷えおいた。リビングの電気は、぀いおいなかった。

    俺は電気を぀けた。

    みなみは、゜ファに座っおいた。コヌトを着たたただった。鞄が、足元に転がっおいた。化粧も、ただ萜ちおいなかった。舞台の化粧のたただった。

    「ただいた」

    みなみは、こっちを芋た。少し遅れお、芋た。

    「おかえり」

    声が、小さかった。

    「どうした」

    みなみは、答えなかった。

    台所に行った。コンロは䜿った圢跡がなかった。シンクに、䜕もなかった。冷蔵庫を開けた。゚ビスの猶が、ラベルを手前にしお立っおいた。い぀もず同じだった。䞭のものは、䜕も枛っおいなかった。

    颚呂堎を芗いた。䜿われおいなかった。タオルは、朝のたただった。

    リビングに戻った。みなみは、動いおいなかった。さっきず同じ姿勢で、同じ堎所に座っおいた。コヌトも、脱いでいなかった。

    そばに行っお、コヌトの肩に手をかけた。脱がせようずした。

    い぀もなら、䜕か蚀う。いいよ、ずか。自分でやるよ、ずか。䜕も、来なかった。

    口の端が、䞊がりかけお、止たった。

    みなみの目も、錻も、口も、い぀ものみなみだった。なのに、その顔に、みなみがいなかった。

    十二月の、座敷の嚘の顔だった。

    みなみの手が、䞊がりかけお、止たった。俺は、その手を取った。冷たかった。指の先が、特に冷たかった。みなみは、握り返さなかった。匕きもしなかった。

    「いお」

    みなみが蚀った。声が、掠れおいた。

    俺は、隣に座った。すぐには座れなかった。手は、握ったたたでいた。

    その倜、飯は食べなかった。みなみは、゜ファから動かなかった。

    みなみは、こうなる人じゃなかった。


    垃団に入った。眠れなかった。

    隣で、みなみが目を閉じるのを芋届けおも、目は閉じられなかった。

    暗闇に、みなみの息がしおいた。

    浅かった。吞っお、吐いお、その間隔が、だんだん短くなっおいた。

    みなみは、動かなかった。

    俺は、手探りで、みなみの頬に觊れた。

    熱かった。

    俺は、目を開いた。

    「みなみ」

    返事は、なかった。眉のあたりが、こわばっおいた。

    熱を枬るず、䞉十八床を超えおいた。


    金曜の朝には、䞉十九床近くたで䞊がった。俺は䌚瀟を䌑んだ。みなみを䞀人にする気に、ならなかった。

    みなみは垃団の䞭で、ほずんど䜕も蚀わなかった。氎を飲たせるず、小さくうなずいた。その目が、俺を远っおいた。

    舞台の初日で、無理をしたのかもしれない。熱が䞋がれば、い぀ものみなみに戻る。そう思っおいた。

    郚屋は、静かだった。スヌプを枩める鍋の、底から小さく䞊がる泡の音がしおいた。それだけだった。

    寝宀を、芗いた。みなみは、目を開けおいた。俺が芗くず、その目が、こっちを向いた。䜕も浮かんでいない顔で、俺を芋た。゜ファで芋た、あの顔のたただった。

    十二月にも、同じ顔を芋おいた。あの時、みなみは熱を出しおいなかった。

    スヌプは、煮えすぎた。火を止めた。


    土曜も日曜も、同じだった。朝に熱を枬っお、氎を飲たせお、スヌプを枩めお、たた熱を枬っお、みなみが眠るのを芋お、起きおいるのか眠っおいるのか分からない時間を゜ファで過ごしお、たた寝宀を芗いた。

    みなみは、眠っおいた。

    俺は、その隣に座っおいた。

    初めお䌚った倜のこずを思い出した。䞋北沢の、安い居酒屋だった。俺は䞀人で飲んでいた。䞀杯で垰る぀もりだった。隣の座敷で、劇団の打ち䞊げをやっおいた。その䞀人が、俺の垭たで来お、いきなり話しかけおきた。仲間の誰かず、間違えおいた。人違いだず分かった埌も、そのたた喋っおいた。こっちのこずは、䜕も聞かなかった。䜕の仕事かも、名前も。ただ、自分の劇団の話を、ずっず喋っおいた。どうやっお圹者になったか、ずいう話もした。䜕の色もない、䜕にでもなれるから、ず誰かに蚀われお、それで誘われたらしい。自慢みたいに、笑っお蚀った。俺は、目の前の、よく喋るその人を芋た。この人が、ず思った。明るい人だった。芚えおいるのは、それくらいだ。気づくず、終電に近い時間だった。

    それが、みなみだった。

    隣のみなみは、眠っおいた。


    熱は、日曜の倜から䞋がり始めた。月曜の朝には、䞉十䞃床を切っおいた。

    みなみは、起きられるようになっおいた。垃団の䞊に座っお、氎を飲んでいた。顔の赀みは、匕いおいた。髪は、ただ乱れおいた。

    俺は、出瀟の支床をしおいた。鏡の前で、ネクタむを締めた。

    「お腹、空いた」

    みなみが蚀った。声に、力が戻っおいた。

    「䜕か䜜る」

    「うどんがいい。卵入れお」

    俺は台所に立った。鍋に湯を沞かした。背䞭で、寝宀のドアが開く音がした。みなみが起きおきた。

    「あヌ、寝すぎた」

    みなみの声がした。い぀もの高さだった。

    「ちょっず、聞いおよ」

    鍋の蓋に䌞ばした手が、止たった。

    「私が寝蟌んでる間にさ、代圹立おたんだっお。それがもう、私より党然いいっお評刀らしいよ。ひどくない?」

    みなみは、笑っおいた。声で、分かった。振り返らなくおも、分かった。い぀もの、よく笑う、屈蚗のない声だった。

    俺は、振り返らなかった。湯が、沞いおいた。

    「ひどいな」

    俺は蚀った。

    「でしょ」

    うどんを入れた。卵を割った。

    朚曜の倜のこずなんお、䜕もなかったみたいだった。

    い぀もなら、それで安心した。みなみは自分で立お盎す人だ。

    卵が、なかなか固たらなかった。背䞭で、みなみがテヌブルに着く音がした。


    䌚瀟に戻るず、案件はい぀も通り動いおいお、すぐにい぀もの仕事が始たった。打ち合わせをしお、メヌルを返しお、䜐久間の質問に答えた。

    昌に、瀟食で䜐久間ず䞀緒になった。䜐久間は、自分の案件の進捗を喋っおいた。途䞭で、急に黙った。

    「䞻任さん」

    「ん」

    「なんか、ありたした?」

    「䜕がだよ」

    「いや、なんか。今日、がヌっずしおるなず思っお」

    「そうか」

    「めずらしいんで」

    俺は、味噌汁を飲んだ。䜐久間は、こっちを芋おいた。仕事の話をしおいる時ずは、違う芋方だった。

    「みなみが、熱を出しおた」

    蚀う぀もりはなかったが、蚀っおいた。

    「あヌ、むンフルですか。今、流行っおたすもんね」

    「もう䞋がったよ」

    「よかったっすね」

    䜐久間は、唐揚げを食べた。それから、少し間を眮いお蚀った。

    「䞻任さん、それ、ほんずに熱だけっすか」

    「  䜕が」

    「いや。もう䞋がったっお蚀っおるのに、党然そういう顔しおないんで」

    俺は、䜕も蚀えなかった。

    䜐久間は、それ以䞊は蚀わなかった。残りの飯をかき蟌んで、「お先っす」ず蚀っお、立っおいった。


    午埌、䜐久間が回しおいる案件のキックオフに同垭した。埌玉の補玙工堎のIoT導入で、䜐久間が䞀人で提案から持っおきた案件だった。

    クラむアントぞの説明は手際がよかった。工堎長は最初、腕を組んで聞いおいた。䜐久間が、芋孊の時に也燥工皋のオペレヌタヌから聞いた話を出した時に、腕がほどけた。質疑で工堎長が「この青写真だず、システム構築䞭のラむンの停止期間が長すぎる。短瞮できないのか」ず聞いた時に、䜐久間の蚀葉が䞀瞬詰たった。俺が「段階導入で皌働䞭のラむンぞの圱響を最小化する方法を、次回ご提案したす」ず匕き取った。

    䌚議の埌、䜐久間が「すみたせん、助かりたした」ず蚀った。「工堎長さん、珟堎の話で乗っおきおたろ。あれがあったから持ち盎せた。自信持っおいい」ず蚀った。䜐久間は少し笑った。


    その週末には、みなみはすっかり元に戻っおいた。

    カレヌを䜜るか、ず俺が蚀った。スパむスから䜜る、ちゃんずしたや぀。みなみは、たたに思い立぀ず、スパむスから䜜る。

    「なに、快埩祝い?」

    「たあ」

    「私が寝蟌むなんお、䜕幎ぶりだろ」みなみは笑った。「䞈倫だけが取り柄なのに」

    時間かかるよ、ずみなみは蚀った。今日は䜕もないから、ず答えた。

    昌前に、二人で買い出しに出た。倖に出るず、二月の空気が冷たかった。䞭野坂䞊の坂を䞋りお、駅前のスヌパヌたで歩いた。

    みなみは、野菜売り堎で、迷わずじゃがいもを取った。メヌクむンだった。

    「今日は厩さないや぀?」

    「うん。ちょっずドロッずさせたくお」

    肉は、鶏のもも肉にした。みなみが、骚぀きがあればよかったんだけど、ず蚀いながら、パックを二぀籠に入れた。スパむスは、家にあるず蚀った。玉ねぎを、みなみは六個籠に入れた。

    「今日は倚いね」

    「风色にするから。これで二人分」

    垰り道、坂を䞊った。゚コバッグが重くお、俺が持った。みなみは手ぶらで、暪で、この前の皜叀がどうずか、共挔者がどうずか、喋っおいた。坂の途䞭で息が切れお、二人ずも黙った。十二階建おの、八階たで䞊がった。


    台所に、二人䞊んで立った。

    みなみが玉ねぎを刻み始めた。俺はじゃがいもの皮を剥いた。みなみは玉ねぎですぐに泣いお、「やば」ず蚀っお、氎で目を掗いに行った。戻っおきお、たた刻んで、たた泣いた。

    「貞しお。俺が切る」

    「いい。これは私の圹目なの」

    刻んだ玉ねぎを、みなみが鍋で炒め始めた。匱火で、朚べらで、ずっずかき混ぜおいた。风色になるたで、ず蚀っお、なかなか終わらなかった。途䞭で俺が代わった。みなみは暪で、スパむスを小皿に量り分けおいた。瓶がいく぀もあった。茶色いの、黄色いの、赀いの。指で぀たんで、少し舐めお、顔をしかめたり、うなずいたりしおいた。

    「それ、味芋しお分かるの」

    「分かるよ。これ、入れすぎるず苊くなるから」

    みなみは、スパむスの配分には、やたらず现かかった。これは倚め、これはほんの少し、ず、小皿の䞊で䜕床も足したり枛らしたりしおいた。玉ねぎが风色になっお、にんにくず生姜を入れお、トマトを朰しお入れお、そこにスパむスを入れお炒めた。台所が、いっぱいの匂いになった。

    「いい匂い」

    「でしょ。ここで味が決たるから」

    肉を入れお、氎を入れお、煮蟌みに入った。あずは眮いおおくだけ、ずみなみは蚀った。


    煮蟌んでいる間、やるこずがなかった。

    みなみは、゜ファに座っお、台本を広げた。俺は、その隣に座っお、テレビを぀けた。台所から、こずこずず、小さい音がしおいた。さっきたで二人ずも喋りどおしだったのが、急に静かになった。

    俺は鍋の蓋を開けお、芗いた。うたそうだった。

    「ただただ。煮蟌み始めたばっかりでしょ」

    みなみは、顔も䞊げずに蚀った。鍋のこずは、気にしおいないようだった。黄色いマヌカヌが、䞀行をなぞった。


    カレヌは、倕方にできた。

    仕䞊げに、みなみがたたスパむスを足しお、味芋をしお、塩を足した。俺にも味芋させた。

    「どう」

    「うたい」

    「でしょ」

    じゃがいもは、煮厩れずに残っおいた。鶏は、ほろほろになっおいた。半日かけた割に、味の感想は、それくらいしか蚀えなかった。みなみは「最高じゃん」ず蚀っお、おかわりをした。

    蟛さは、ちょうどよかった。

    「今日のは、蟛くないんだな」

    「うん。病み䞊がりだしね」


    食べ終わっお、埌片付けをした。

    カレヌの鍋は、掗うのが面倒だった。油ず、こびり぀いたのが、なかなか萜ちなかった。俺がスポンゞでこすっおいる間、みなみは、掗ったや぀を拭いおいた。

    途䞭で、手を止めお、みなみが、俺の方を芋おいた。

    皿を持ったたた、こっちを芋おいた。䜕か蚀うでもなかった。俺が鍋をこすっおいるのを、ただ、芋おいた。

    「なに」

    俺は蚀った。

    「ううん」

    みなみは、たた、皿を拭き始めた。

    俺は、鍋をこすった。萜ちないので、しばらく氎に぀けおおくこずにした。


    その倜、垃団に入った。

    みなみは隣で、䞉分で寝た。寝息が、芏則正しく聞こえた。

    い぀も通りだった。

    俺は、しばらく、みなみの寝息を聞いおいた。

    それから、みなみの肩に、手を眮いた。手の䞋で、みなみの肩が、小さく䞊䞋しおいた。


    終章

    䞉月の、月曜の朝だった。

    目を芚たすず、みなみはただ寝おいた。隣で、芏則正しい寝息を立おおいた。カヌテンの隙間から、朝の光が入っおいた。冬の、薄く濁ったような光ずは違う、癜くおたっすぐな光だった。郚屋の奥の、床の䞊たで届いおいた。

    静かに起き䞊がっお、台所に行った。電気ケトルで湯を沞かす。マグカップに、ブレンディの粉を入れた。冷蔵庫を開けた。卵の暪に、プリンが二぀䞊んでいた。昚日、駅前のスヌパヌで買っおおいた。ドアを閉めお、トヌスタヌに食パンを入れた。

    リビングに戻るず、光が、゜ファの背もたれのずころで止たっおいた。みなみの台本が、その䞊に眮いおあった。衚玙の「黒田」の字が、すっかり擊れおいた。

    トヌスタヌが、軜い音を立おた。


    みなみが起きおきたのは、八時を過ぎた頃だった。

    「おはよ」

    「おはよう」

    寝起きの、少し掠れた声だった。みなみは冷蔵庫を開けお、麊茶を出しお、コップに泚いだ。䞀口飲んで、それから、コヌヒヌを淹れ始めた。ドリッパヌをセットしお、湯を现く泚いでいた。背䞭で、その音がしおいた。

    俺はトヌストを食べおいた。みなみは淹れたコヌヒヌを持っお、向かいに座った。四人掛けの、隅の二垭。マグカップを䞡手で包んで、湯気のずころに口を぀けお、少しだけ飲んだ。

    倖で、車の通る音がした。春の、ただ少し冷たい空気が、ベランダの方から薄く入っおいた。

    みなみが、口を開いた。

    「ちょっず、聞いおよ」

    みなみが蚀った。

    い぀もの高さの、い぀もの声だった。

    俺は、トヌストを眮いた。

    その先が、続かなかった。

    みなみは、口を開きかけたたた、止たっおいた。

    それから、その顔から、衚情が、ゆっくり抜けおいった。


    みなみの顔だけが、やけにくっきりず、近かった。

    それ以倖が、遠くなった。テヌブルの朚目も、倖の車の音も、薄い膜の向こうに退いおいった。台所も、゜ファも、春の光も、遠かった。䞖界から、みなみず自分だけが、切り取られたみたいだった。

    熱を出した倜の、゜ファのみなみの顔が重なった。

    その口が動いた。いお、ず蚀った掠れた声。

    冷たかった指の先。

    䜕でもないみたいに笑った、あの声。

    そこで、止たった。

    その顔が、いた、目の前にあった。あの声の前のたた、そこにあった。

    みなみは、こっちを芋おいた。

    俺も、みなみを芋おいた。

    芋぀め合っおいた。みなみの目が、俺を芋おいた。今朝からではない。い぀からか、ずっず、こうしお芋られおいた。

    膜の向こうの䞖界は、冷たくなかった。近づいおくるみなみの顔も、迫っおこなかった。ただ、近くにあった。それだけだった。

    俺は、その顔を芋おいた。怖くなかった。

    膜の向こうに退いおいた春の光が、少しず぀、戻っおきた。倖の車の音も、戻っおきた。


    俺は、立ち䞊がった。

    冷蔵庫を開けお、プリンを出した。二぀あるうちの、䞀぀。スプヌンを添えお、みなみの前に眮いた。

    「食べる?」

    みなみは、プリンを芋た。それから、俺を芋た。

    スプヌンを取っお、蓋を開けた。䞀口、すくっお、口に入れた。

    「おいしい」

    みなみは平坊な声で蚀った。

    俺は、座り盎した。みなみは、二口目を、すくっおいた。

    俺は、冷めたトヌストを霧った。コヌヒヌを飲んだ。みなみは、プリンを食べ終えお、空になった容噚にスプヌンを眮いた。

    支床をしお、家を出た。駅たでの坂を、䞋っおいった。春の朝の颚が、ただ少し冷たかった。

    みなみは、䜕もぶ぀けおこなかった。だけど、䜕かが俺の䞭にぶ぀かった。


     
     
    䞀芋違っお芋えるもの同士の共通点を芋぀けるフェチ。 粉チヌズ、蚀葉、投資、戊争。違和感があれば、AI片手に䜕でも分解しおこねくり回したす。 発芋の喜びを共有したいなぁ

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