
「嫌い」で終わらせない
私は、嫌いなものが少ないタイプだと思っていた。だけど、たくさん嫌いなものがあると分かった。それは、物体的に嫌いなものが少ないだけ。
「カタチのない」嫌いなものはたくさんあったということだった。
相手にその自覚はなくとも、物の扱いが雑だとか、物音がうるさいだとか、ボーリングの投げ方が変だとか。所作には特に、私にとっての地雷があるらしい。
声の周波数にも嫌いというか苦手なものがあると最近分かった。
私にとっての声の苦手さは、注意力を持ってかれる類の周波数や物言いのトーンにあるようだ。周波数も、やけにリズミカルなのも、集中力が削がれるのと、私のライブラリにはないグルーヴや抑揚があるからだろうかと推測したが、一向に慣れないところをみると、生理的な反応でもあるのかもしれない。私のコンディション次第なところもあるが、声の持ち主に罪はないのにとても罪深い人かと思ってしまう。
音つながりだと、マリオのゲームオーバーの音楽で泣いていた子供時代、あれはすべてが終わったという黒画面がこの世の終わりのように感じたのと、音楽的には明るい終止なのに音が低い感じが胸をキュッとさせていたからだと分析している。今は、もうさすがに泣かないけれど笑
きっとたくさんの人が「嫌い」にさいなまれているんだろうと思う。比較的おとなしい私でも、こんなにもグラグラと業を煮やして生活しているのだ。それぞれの尺度は分からないけれど、みんなお疲れ様ですとハイタッチしたいぐらいだ。
前置きが長くなったけれど、「嫌い」で終わらせないための私の方法は、良く言えば型抜きのように「好き」を見つけようとすることだ。悪く言うと消去法になるのかもしれないけど、消去しているつもりはない(たぶん)。
本当の型抜きもそうだけど、境目が微妙でごっそり割れてしまうことがある。つまり好き嫌いで言うと「嫌い」なパーツにまとめて分類してしまうようなものだ。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」みたいな話で、その対象に付随したものも対象とみなしやすいということだ。
だから、何かを嫌いになるということは慎重でなくてはならないのだと思う。好きになることもそうなんだけど、嫌いなほうはぞんざいに扱いがちなのでより慎重に。
「嫌い」を型抜きして残った「好き」を眺めていつも感じるのは、物足りなさである。矛盾しているかもしれないけれど、「嫌い」が場外に行ったとて、「好き」の中にも「嫌い」はあるのだ。しかも、最初の「嫌い」が今は「嫌いじゃない」になっていることも少なくない。
全部を好きにはなれないし、嫌いなものは期間こそ違えどそのときは嫌いなんだから正直でいい。ただ、その型抜きはその瞬間の型抜きでしかなく、終わったころには型自体が変わっているんだろうと思う。
キレイに型抜きできたものが正解でもないって、なんか禅問答みたいだけどそういうことなんだと思う。
嫌いに傾く自分のコンディションにも、根っから嫌いなものもせめて確認しないと今はどうなのかが分からない。
気が向いたときにまっさらな状態から型抜きをする。また新しい「嫌い」が見つかって、それを抜いたら「好き」が現れてくる。
この循環を維持することが、自分をアップデートするひとつの方法だと、今私は思っている。