
神様のごはん
わたしには子供がいない。もの作りをしているけれど、かれこれ12年、ほぼ専業主婦として生きている。
数年前、すこぶる体調悪く、製作も捗らず、はぁ自分は一体なんのために生きているんだろう。毎日何もしていない。社会にとって何の役にも立っていない。わたしなんて生きていていいんだろうか。
落ち込んでいた時期に、ふと、人は死んだら、神様のごはんになるのだと気づいた。
だいたい、人間が食物連鎖の頂点だなんて、誰が決めたのだろう。
何もしていない。
そうは言っても毎日、夫と自分のために料理をする。
私が今日食べた鯖だって、自分が人間に食べられることを知りながら泳いでいるんだろうか。 プランクトンを食べた小さい魚、を食べた大きい魚。それを人間が食べる。あぁ美味しかったな鯖の塩焼き。皿に残るは骨。
その人間も誰かに食べられるのなら?
神様は、火葬場の煙突の上に居られる。
あ、埋葬であれば土の中? 骨となって残る、以外のところはごはん。
もちろん神様にも好き嫌いはある、いや、美味しく食べたいと思われている。
そして、おいしいごはんになる、とはつまり、寿命を全うすることで、よく熟れた果実のように。冬のよく太ったブリや、秋鮭のように。
道半ばで絶ってしまうとは、まだエグい洋梨とか?、切るの早すぎたなのアボカドみたいな、、いや、焼き足りなくて半生の鶏肉だろうか。
そんなもの食べたらお腹壊すよ、っていう状態で火葬されたって、神様、食べられないんじゃないかな。あ、それが、成仏できないってことなのかしら。
妹が妊娠したと聞いたとき、とてもとてもうれしかった。
でも、子供を産まないという選択をした自分は、これで良かったのかな?と、つわりに苦しむ彼女を見ながら、母と三人のLINEのトークも、わたしにはわからないことばかりだった。
あれから時間が経って、母が倒れたりコロナになったり、シミが増えたりシワが増えたり、痩せたり太ったり、して、分かったことは、後悔、じゃない。
わたしは子供じゃなくて、自分に自信が欲しかったんだと思う。
相も変わらず体力なく、縫うの遅く、いや、家事も食べるのも歩くのも書くのも撮るのも全部遅い。
最近の若者は、映画も早回しで見るって?
こんな、わたしのような生き方は、時代遅れのお荷物なのかもしれない。
でも、神様のごはん。
わたしはごはんだ。
母が、女手一つ、朝から晩まで働いて、作ってくれたごはん。
所謂、できちゃった結婚で生まれた。
昔は、わたしがいなければ母はもっと違う人生を歩めたのではないかと思って、苦労させた、かわいそうだと思っていた。
でも母は、全然そんな風を見せない。
家のDIYに精を出し、パンを焼き、もちろん働き、毎晩アイスを食べて(これはどうかと思うけどいたって健康なのである)、
孫がかわいくて仕方がないばぁば。なんとも楽しそうにしている。
親というのはやはりすごいものだ。
こないだ帰省時に目の当たりにした妹の生活ぶりなんて、中華鍋こそ握らないがピーク時の厨房の料理人顔負けの忙しさで、なんてたくましい、いや勇ましかった。
あれが年中無休。レストランのように定休日なんてない。全世界の子育て中の皆さま本当にお疲れさまです。
今日もわたしは、いつもどおり亀より遅いペースで縫って、洗濯掃除して、三食ごはんを作った。
夫と、今日なんかあった?と聞き合って、何もないよ。と、答えあう。
いつもどおり。鶏のトマト煮込みと、焼いただけの直売所のピーマンがおいしい。良い日だった。
こないた二年ぶりに会った甥っ子は、別れ際、「今度は俺の誕生日にきてほしい」と言った。え、おばちゃんに会えるのがプレゼントだって?あら可愛い。
ねぇいつの間に〇〇ちゃんと自分を呼ばなくなったの?抱っこ!も、トイレ付いてきて、も言わなくなったね。可愛い。ゲームに負けて泣くも可愛い。どんどん生意気になるそれすらも可愛い。
毎年夏になるとやってくる近所のツバメは、まぁ一体何羽生まれたのよ、の賑やかさで鳴き、電線相手にヒナが飛行訓練をしている。日に日に上手くなるよう。
そっか、神さまのごはんになるというのはあくまで結果で、ごはんになるために生きているわけではないのだ。
たぶん、会いたい人に会うため、なんじゃないかな。
大好きな人、だけじゃない、食べたいものや見たい景色も。聞きたい音楽や、来年の桜だって、生きていなければ、会えない。
会って、一緒に時間を共有する、楽しい日々を過ごすことが、いつかのおいしい、に繋がるのだと思う。
さぁ今日は何を食べよう?