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「主役であれ。」―考える子を育てる前に、自らも考えているか。ー

    第1章 日本の教育の違和感

    1. 公教育 ― 目指せ無個性

    日本の公教育に対して私が感じる違和感の一つは、「みんなで同じことをする」ことが前提になっている点である。同じ内容を、同じタイミングで、同じペースで学ぶ。そこから外れることは、基本的に想定されていない。

    もちろん、すべての学校がそうだと言いたいわけではない。現場で工夫を重ねている先生も多く、個々の子どもを丁寧に見ている教育も存在する。それでも、制度としての公教育は、「揃えること」に重きが置かれているように感じる。

    みんなと同じペースで進むことは求められる。しかし、遅れを取り戻す方法は、ほとんど教えられない。ついて行け、とは言われる。だが、ついて行けなくなったとき、どうすればよいかは示されない。

    遅れた子は、遅れたなりのペースで進むしかなくなる。しかしそのペースは、学びを深めるためのものではなく、単に「今以上に置いていかれないようにする」ための調整になりがちだ。さらに、刺激を与えることも難しい。無理に負荷をかければ、かえって苦手意識を強める可能性があるからである。そのため、結果として「無理をさせない」方向に流れていく。

    そして気がつくと、遅れた子は遅れたまま、静かに進んでいくことになる。目立たず、問題も起こさず、しかし、本来伸びるはずの力にも触れないまま。

    実は、私の娘も小学一年生の頃、半年ほど学校へ行けない時期があった。学校の内容が簡単すぎて、その先のことを学ぼうとすると「みんなと同じことをしなさい」と止められてしまう。感想を正直に述べれば、周囲への配慮が足りないと咎められる。家庭では「意見をはっきり言いなさい」と教えながら、学校では「和を乱さないこと」を求められる。この二律背反に戸惑い、大泣きして帰ってきた娘を前に、私は「教育とは一体誰のためのものなのか」と、その根幹を疑わざるを得なかった。

    これは個々の先生の問題ではない。全員を同じペースで扱うことを前提とした制度である以上、どうしても起こり得る構造的な問題である。そこでは学びは「個々の成長」ではなく、「全体の進度」に合わせて設計されることになる。

    言い換えれば、速すぎてもいけない。遅すぎてもいけない。ちょうど真ん中に収まることが求められる。この構造は、安心感を生む一方で、個性を弱める方向にも働く。飛び抜けることも、深くつまずくことも、どちらも避けられる。だが同時に、それぞれの学びの形も見えにくくなる。結果として、学びの主役は子どもではなく、「全体の進度」になってしまうのである。

    2. 私学 ― 予備校化する学校

    もう一つの違和感は、私立校の一部に見られる「予備校化」である。本来、学校とは学びの場である。知識を得るだけでなく、思考を深め、経験を積み、自分なりの関心を広げていく場所のはずだ。しかし現実には、大学合格実績を中心に設計されているように感じる場面が少なくない。

    授業は受験対策が中心となり、カリキュラムは入試日程から逆算される。進度は早まり、内容は圧縮され、「間に合わせること」が優先される。

    もちろん、進学校として成果を上げること自体を否定したいわけではない。目標に向かって努力することは大切であり、大学受験もその一つの機会だ。違和感があるのは、その過程で、学びの主体が子どもではなく学校側になってしまう点である。

    ある県内トップレベルの中高一貫校に通っていた生徒の例がある。中学三年生から「東大進学コース(仮名)」に入ることになったが、過酷なペースに自信を失い、コース変更を願い出た。しかし学校側はそれを認めず、結果として彼は勉強そのものに拒絶反応を示すようになってしまった。

    学校側も、生徒の将来を思っての指導だったかもしれない。より高い目標を設定することで、選択肢を広げたいという思いもあったのだろう。しかし、目標が先にあり、そこに合わせて学習が設計されると、子ども自身の現在地が見えにくくなる。学校が引っ張り、生徒がついていく形になる。そこに、本人の成長や納得感はあったのだろうか。

    数打ちゃ当たると言わんばかりの指導は、子どもを一人の人間としてではなく、合格実績を積み上げるための「数字」として扱っているように見えてしまう。立ち止まる余白を奪われた学びの中で、主役はいつの間にか子どもから「実績」へと入れ替わっているのだ。

    この傾向は、特定の学校に限った話ではない。中高のレベルを問わず、同様の構造は広く見られる。ただ、上位校では生徒自身の基礎学力や学習習慣が伴っていることが多い。そのため、早い進度や高度な内容にも対応でき、結果として実績にもつながる。無理のある構造であっても、無理として表面化しにくいだけで、先に挙げたような例はどこにでも存在する。

    一方で、学力の土台がまだ十分でない生徒にとっては、その負荷は大きくなる。理解が追いつかないまま進む。復習の時間が確保できない。基礎が曖昧なまま応用に入る。その状態が続くと、学びは次第に「こなすもの」になる。わかるための学習ではなく、終わらせるための学習に変わっていく。

    学校側に悪意はないのだろう。むしろ生徒の未来を思っての熱意が、いつの間にか「システムを維持すること」へとすり替わってしまっている。その無自覚な構造こそが、最も根深い問題なのだ。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――

    公教育では全体の進度が主役になり、私学では合格実績が主役になる。どちらも、学びの中心に子どもがいない構造である。

    もちろん、制度としての教育には限界もある。多数の子どもを同時に扱う以上、ある程度の標準化や目標設定は避けられない。問題は、その構造の中で、いつの間にか学びの主体が入れ替わってしまうことである。

    本来、学びは一人ひとり異なるものだ。理解の速度も、興味の方向も、つまずき方も違う。それでも、同じ進度で進み、同じ目標に向かい、同じ形で評価される。その結果、学びは「自分のもの」ではなく、「与えられたもの」になっていく。

    いつまでに終わらせるか。どこまで進めるか。どの大学を目指すか。それらはすべて外側から設定され、子どもはその枠の中で努力することになる。その過程において、「自分はどう学びたいのか」「何を理解したいのか」という視点は後回しになりやすい。

    学びの主役は誰なのか。制度なのか。学校なのか。実績なのか。それとも、子ども自身なのか。教育の違和感は、この問いに集約されるように思う。

    では、本来、学びの主役とは誰なのか。そして、子どもが主役であるとはどういうことか――大人が用意したレールを走らせるのではなく、子ども自身がハンドルを握る学びとは、いかなるものか。次章では、学習の本質について考えていきたい。

    ⚫︎一息コラム:考える力を育てる、遊びのすすめ①「将棋」のすすめ。対象年齢:8歳ごろ〜 / 2人

    言わずと知れた日本の伝統的な思考ゲーム。先を読む力、相手の意図を推測する力、そして一手の選択に責任を持つことを自然に学べる。勝ち負けがはっきりしているからこそ、「なぜ負けたのか」を考える習慣が身につきやすい。駒の動かし方を覚えるだけで始められるので、入り口は意外と低い。まだまだ息子には負けないが、息子曰く、お友達には私より強い子がいるとか、いないとか・・・。

    ※以降対象年齢は実際に理解をした上で、親も子供も楽しめる年齢で、私の体感によるものであり、実際のメーカーの表示とは異なる場合がある。

    第2章 学習の本質

    学ぶとはどういうことか。教育現場に立つ指導者であれば答えを持っていて当たり前のようであるが、実はこの問いに明確に答えられる人は意外と少ないように思う。

    学校にはカリキュラムがあり、進度があり、評価がある。塾には目標があり、対策があり、結果が求められる。その中で、学びは「やるべきこと」として提示される。いつまでに、どこまで、どのように。しかし、それらをこなすことが、そのまま「学ぶこと」なのかと考えると、少し違和感が残る。

    理解するとは何か。できるようになるとは何か。なぜそれを学ぶのか。こうした問いは、日々の学習の中で意識されることが多くない。気がつくと、学びは「終わらせるもの」「こなすもの」になっていく。だが、本来の学びは、もう少し別のところにあるはずだ。

    1. 学ぶ目的は何か

    各教科には、それぞれ本来の目的があるはずである。しかし、その目的が意識されることは、意外なほど少ない。学ぶ側だけでなく、教える側においても同様だ。

    何を教えるか、どこまで進めるか、どの問題を解くか。そうした「内容」や「進度」は共有されていても、それを通して何を身につけるのかという視点は後回しになりやすい。その結果、学習は「こなすもの」になり、教科そのものの意味は見えにくくなる。

    例えば、数学である。数学は、単に計算ができるようになるための教科ではない。論理的に考える力を鍛えるためのものであり、与えられた条件を整理し、筋道を立てて結論にたどり着く、その過程そのものに価値がある。実用的な側面で言えば、問題解決能力の訓練でもある。何が問われているのかを読み取り、必要な情報を整理し、問題を細分化する。そして、手元の細かな課題の解決を積み重ねた先に、「解決」を見据える。適切な方法を選び、矛盾なく答えにたどり着く。この一連の流れは、数学に限らず、生きていく上であらゆる場面で求められる力である。しかし、計算の正確さやスピードばかりが重視されると、その本質は見えにくくなる。「算数」と「数学」が混同されているように感じることがある。

    英語も同様だ。英語は、異なる文化や背景を持つ人と意思疎通を図るための手段であり、いわば異文化との接点を持つための教科である。ただし、その過程で行われる文法の学習には、もう一つ別の意味がある。文の構造を理解することは、情報を整理し、関係性を把握する訓練でもある。主語と述語の関係、修飾の範囲、時制の違い。それらを意識することは、頭の中を整理する力を養うことにつながる。つまり、科目としての英語は単なるコミュニケーションの道具ではなく、思考を整理するトレーニングでもある。

    この視点に立つと、会話中心で慣用表現を覚えることに偏った学習には、少し違和感が生まれる。実際に使うことは重要だ。しかし、それだけでは、教科としての本来の価値は十分に発揮されない。

    どの教科にも、それぞれの役割がある。そして、その役割は単なる知識の習得にとどまらない。学ぶとは何かを考えるとき、まずはこの点から見直す必要があるように思う。

    2. 理解と暗記は別のものである

    学習が「こなすもの」になってしまう理由の一つに、理解と暗記が混同されていることがある。覚えること自体は、学習において必要な要素だ。しかし、それが理解と同一視されると、学びの質は大きく変わる。

    解き方を覚える。手順を覚える。答えを導く型を覚える。それによって、一定の問題は解けるようになる。だが、それが「わかった」という状態かと言えば、必ずしもそうではない。

    なぜその方法で解けるのか。なぜその式になるのか。いわば「1→10」はできていても、「0→1」がなければ、理解とは言えないはずだ。そして、同じ考え方が別の場面でも使えるかどうか――これは「10→0→1」への発展とも言える。こうした問いに答えられない場合、それは理解ではなく、再現である。再現はできるが、応用は効かない。少し形が変わると対応できない。その結果、「やったはずなのにできない」という状態が生まれる。

    これは、本人の能力の問題ではない。学習の質の問題である。

    理解とは、単に正解にたどり着くことではない。その過程を説明できること、別の場面でも使えること、自分の言葉で再構成できること。そこまで含めて、初めて「わかる」と言える。

    しかし、時間や進度が優先される環境では、そこまで踏み込む余裕は少ない。結果として、「解ける=わかった」という認識が広がる。このズレが積み重なると、学びは徐々に表面的なものになっていく。そして本人もまた、「わかること」よりも「終わらせること」を優先するようになる。

    3. 定期テストの功罪

    当たり前のように課される定期テスト。これもまた、学びの現状に影響を与える一因だと思う。

    本来、テストを課すこと自体は、習熟度を測る上で必要な過程である。しかし、詳細な「試験範囲」「予想問題」「過去問」といった手厚いサポートのおかげで、学生からしてみればこれもただこなすだけ、覚えるだけの作業にしかならない。この作業すらできない生徒も散見されるが。

    さらに、数問を選抜して(それもただの入試の過去問を)、「この中から一問出します」と宣言する指導者もいると聞く。生徒は私の前で、必死にその解法を覚えていく。全体として平均点が低いクラスに対しては、あからさまに難易度を下げて平均を上げる、という話も耳にする。これに何の意味があるのか。

    作ったテストで平均点が低ければ、授業の質と子どもたちの理解度を見直すべきである。そうした意識のないまま指導者になった大人のもとで育つ子どもたちに、限界があるのは疑う余地がない。

    そして、一大イベントである定期テストを乗り越えると、子どもたちはまた学んだ気になってしまう。頑張って「試験対策」をして乗り越えた生徒ほど、その傾向は強い。

    4. 耳障りのいい学習論

    近年、学習に関する情報は以前とは比べものにならないほど増えている。書籍だけでなく、動画やSNSを通じて、さまざまな考え方が日常的に目に入るようになった。それ自体は決して悪いことではない。多様な視点に触れることは、学びにとって重要だ。

    しかしその一方で、「耳障りのいい情報」が強く支持されやすい構造も生まれているように感じる。

    例えば、英語学習に関する言説である。「学校英語は使えない」「ネイティブはそんな言い方をしない」「文法よりも会話が大事」――こうした主張は広く受け入れられている。一見するともっともらしく聞こえる。だが、これらは本来、前提条件を伴う議論である。

    ある程度の基礎がある人にとっては、より実践的な表現に触れることは有効だ。しかし、基礎が曖昧な段階でそれを優先すると、かえって理解を遠ざけることもある。文法を軽視することで、構造を捉える力が育たない。結果として、表現は増えても応用が効かなくなる。

    それでも、こうした情報は広まりやすい。理由の一つは、「楽に感じられる」からだ。難しい文法や地道な積み重ねを避けてもよい、そう聞こえるからである。もう一つは、「これまでの常識を否定する」構造にある。人は、自分が当たり前だと思っていたことを「実は違う」と言われると、強く印象に残る。正しいかどうかに関わらず、「新しい気づき」に触れたような感覚を持ちやすい。ヒトは「逆張り」に反応しやすいのだ。

    この傾向は、決して特別なものではない。むしろ自然な反応である。だが、この構造は意図せずとも、学習から意識を遠ざける方向に働くことがある。本来必要なプロセスを飛ばし、結果だけを求めるようになる。「理解すること」よりも、「それらしく使うこと」が優先される。

    この流れは、教育現場にも影響を与えているように見える。教科書においても場面設定や会話表現が重視されるようになり、一見すると実用性が高まったように見える。しかしその一方で、学習としての扱いやすさはむしろ下がっている。文法を体系的に理解するための素材としては不十分であり、かといって実際のコミュニケーションとしても中途半端である。結果として、教える側にとっても何を目的として扱うのかが曖昧になる。文法の学習なのか、コミュニケーションの訓練なのか。その位置づけがはっきりしないまま進められることで、学習全体の軸が見えにくくなる。

    学びとは、本来ある程度の負荷を伴うものである。理解には時間がかかり、定着には繰り返しが必要だ。にもかかわらず、その過程を飛ばすような情報が支持されるとき、そこには「学びとは何か」という前提の揺らぎがある。

    耳障りの良い言葉ほど、一度立ち止まって考える必要がある。それが本当に学びにつながるのか、それとも学びから離れる方向に働くのか。見極める視点が求められている。なお、情報を発信している側には何の責任もない。クリックされれば、再生されれば、それで十分なのだから。

    5. 間違いの価値

    思考のトレーニングとして学習を捉えたとき、避けて通れないのが「間違い」である。多くの場合、間違いは「できていない状態」として扱われる。テストでは減点され、評価においてはマイナスとして記録される。そのため、学習の場においても、できるだけ間違えないようにすることが重視されやすい。

    だが、思考の過程に目を向けたとき、間違いはむしろ重要な意味を持つ。なぜその答えになったのか。どこで考え違いをしたのか。どの前提がずれていたのか。そこを辿ることで、自分の思考の癖や弱点が見えてくる。

    例えば数学であれば、計算ミスなのか、条件の読み違いなのか、そもそも解き方の選択が誤っていたのか。同じ「不正解」でも、その中身は大きく異なる。

    さらに言えば、間違いには質の違いがある。一貫した間違いと、毎回異なる間違いである。

    同じような誤りを繰り返している場合、そこには一定のルールが存在している。もちろんそれは誤った理解ではあるが、少なくとも「何かしらの考えに基づいている」状態だ。この場合、誤った前提を修正すれば、一気に理解が進むことがある。

    一方で、毎回異なる形で間違えている場合はどうか。その場その場で何となく解き、その都度違う形で誤りが生じる。この場合、問題はより深い。そもそも何を根拠に考えているのかが曖昧であり、ルールや理論が意識されていないことが多い。そのため修正も容易ではなく、考え方の軸そのものを整える必要がある。時間もかかるし、本人の負担も大きくなる。

    しかし、評価の場面では、この違いが十分に反映されないことが多い。誤った理解で同じ間違いを繰り返せば、当然点数は低くなる。一方で、ばらばらに間違えていても、部分的に合っていればその分だけ点数は積み上がる。結果として、一見すると後者の方が「できている」ように見えることもある。だが、思考の質という観点から見れば、むしろ逆である場合も少なくない。

    学習において重要なのは、「どれだけ正解したか」だけではなく、「どのように間違えたか」である。間違いを通して、自分の思考の形を知る。そして、その形を整えていく。この過程こそが、学びの核心にある。指導者側においても、ここを見過ごすことは、救えるはずの学ぶ力を見過ごしていることに気づいてほしい。

    6. 学びの主役とは誰か

    ここまで見てきたように、学習とは単に知識を増やすことではない。考え、試し、間違え、修正する。その繰り返しの中で、思考を鍛えていく過程である。

    その意味で、学びは本来、極めて個人的な営みである。同じ内容を学んでいても、どこでつまずくか、何に気づくかは人それぞれだ。理解に至る道筋も、一つではない。だからこそ、その過程は本来、本人の中で積み上げられていくものであるはずである。

    しかし現実には、進度や結果が優先されることで、この過程は見えにくくなりがちだ。何をどこまで終えたか。どれだけ正解できたか。そうした外から測れるものが基準となると、学びは次第に「外に合わせるもの」になっていく。

    だが、思考そのものは、外から与えられるものではない。自分で向き合い、自分で試行錯誤する中でしか育たない。

    このとき、学びの主役は誰なのか。教える側なのか。制度なのか。評価なのか。それとも、考えている本人なのか。

    この問いは、第1章で触れた違和感とも重なる。学びが本来の形を取り戻すためには、その中心に誰がいるのかを、改めて見直す必要がある。

    次章では、「主役は子どもである」という視点から、さらに考えを深めていきたい。

    ⚫︎一息コラム:考える力を育てる、遊びのすすめ②「おむすび探偵団」のすすめ。対象年齢:10歳ごろ〜 / 2人

    論理推理系のカードゲーム。手持ちのカードから条件を整理し、答えを絞り込んでいく。「わかっていること」と「わかっていないこと」を区別する力が、遊びながら鍛えられる。突き詰めれば、その思考法は背理法そのものだ。「もしこれが正しいとすると、矛盾が生じる。だから違う」という論理の積み重ねで答えにたどり着く。これは数学の証明にも、日常の判断にも通じる力である。

    小学生の娘とやると、進まなくなるくらい考えるので、しばらく放っておく場面も多々ある。私自身、幼い頃から身近にあった遊びで、気がつけば論理的に考えることが特別なことではなくなっていた。現在は入手しにくいかもしれないが、ルールがシンプルなので自作も十分に可能だ。

    第3章 主役は子ども

    学習とは思考のトレーニングであり、その過程は本来、個人の中で積み上げられていくものである。そう考えたとき、自然に浮かぶ問いがある。その学びの主役は、誰なのか。

    結論から言えば、主役は常に子ども自身である。これは理想論ではなく、学習の性質から見た必然だ。考えることも、理解することも、他人が代わりに行うことはできない。どれだけ丁寧に説明されても、どれだけわかりやすく教えられても、最終的にそれを自分の中で整理し、納得するのは本人である。つまり、学びは本質的に「代替不可能な行為」である。

    この前提に立つと、教育の見え方は大きく変わる。教えることは重要だ。環境を整えることも大切である。適切なタイミングで助言することも必要だ。しかし、それらはすべて「支える側」の役割である。主役はあくまで、学んでいる本人である。

    1. 塾はサポートである

    主役が子どもであるとするならば、教える側の役割はどのようなものになるのか。それは、サポートである。塾という場所もまた、その例外ではない。

    一般的に、塾は「教える場所」として認識されている。わからないところを解説し、問題の解き方を示し、できるように導く。もちろん、それ自体は必要な役割だ。しかし、それが中心になりすぎると、学びの構造は逆転する。

    教える側が主導し、子どもはそれを受け取る。指示されたことをこなし、示された方法をなぞる。一見すると効率的であり、短期的には成果も出やすい。だが、その学びは「自分のもの」になりにくい。なぜなら、考える主体が外にあるからだ。何をするかを決めるのも、どう解くかを示すのも、どこまで進めるかを判断するのも、すべて外側にある。この状態では、学習は「与えられるもの」になる。

    一方で、サポートとしての関わり方は異なる。何をするかは、本人が決める。どこまで進めるかも、本人が判断する。もちろん、すべてを任せるわけではない。必要な情報を提示し、選択肢を示し、迷っているときには方向を整える。しかし、最終的な決定は本人に委ねる。

    このとき、学びは「自分で進めるもの」になる。うまくいかないこともある。思ったように進まないこともある。だが、その試行錯誤こそが、学習の本質である。

    サポートとは、答えを与えることではない。考えるための材料を渡し、その過程を支えることである。すぐに結果を出すことよりも、自分で進める力を育てること。それが、長い目で見たときに、より大きな価値になる。

    2. 学校と塾の役割

    塾がサポートであるとするならば、その前提として、学校の役割も改めて考える必要がある。

    本来、学校は学びの土台をつくる場所である。知識を身につけるだけでなく、考え方を学び、思考を鍛え、学ぶための基礎を整える場であるはずだ。一方で、塾はその上に位置する存在である。学校で身につけた基礎をもとに、より発展的な内容に取り組んだり、応用力を高めたりする。あるいは、目標に応じて、必要な技術や解法を効率的に習得する。学校が土台をつくり、塾がそれを支え、広げていく。そのような役割分担が、本来は自然なかたちである。

    もし学校が、思考のトレーニングとしての学びを十分に担っているのであれば、塾は必ずしもそこに踏み込む必要はない。より実践的な演習や、受験に向けた対策に特化する形でも、全体としてはバランスが取れる。

    しかし現実には、その構造が崩れつつある。学校において思考を鍛える学びが十分に行われていないとすれば、その役割はどこで担われるのか。そして塾においても同様に思考の部分が軽視されているとすれば、子どもはどこで考える力を育てればよいのか。この問いは、決して小さくない。

    塾には、補習型のものもあれば、進学を目的としたものもある。進学塾では、より難しい問題に触れ、高度な解法やテクニックを身につけていく。本来であれば、それは思考力を前提とした「次の段階」の学びであるはずだ。しかし、その土台が十分でないまま進むと、ここでもまた学びは形を変える。考えることよりも、解き方をなぞることが中心になる。結果として、問題を処理する力は身についても、その背景にある思考は伴わない。いわば、「問題を解く機械」のような状態である。短期的には成果が出ることもある。だが、その力が長く通用するかは別問題だ。条件が変われば対応できず、自分で考える場面になると手が止まる。

    一方で、補習塾においても状況は容易ではない。基礎の定着を優先するあまり、目の前の内容をこなすことで手一杯になる。本来であれば、立ち止まり、考え方そのものを整える必要がある場面でも、そこまで踏み込む余裕がない。その結果、「そのレベルの問題が解けるようになる」ことに留まり、思考の土台そのものは曖昧なまま残る。

    進学塾でも、補習塾でも、形は異なるが同じ問題が見られる。思考の部分が抜け落ちていることである。その結果として生まれるのは、問題を解く力も不十分であり、かといって思考力も育っていないという、どちらにも振り切れない中途半端な学びである。これは、個々の塾や学校の問題というよりも、学習全体の構造に関わる問題だと思う。

    3. やらされる学びの限界

    こうした状況の中で、個人の側にも一つの問題が生まれる。それが、「やらされる学び」である。

    何をやるかは決められている。どこまで進めるかも決まっている。方法も示されている。その中で、指示されたことをこなしていく。この形の学習は、一見すると効率的だ。しかし、この状態が続くと、自分で考える必要がなくなる。気がつくと、指示がなければ動けない状態になる。

    やらされる学びには、もう一つの特徴がある。それは、責任の所在が外側に向かいやすくなることである。うまくいかなかったとき、「教わっていない」「あの先生はわかりにくかった」「時間がなかった」――そうした言葉が先に立つことが多い。もちろん、実際に説明が不十分であったり、環境に問題がある場合もある。だが、それだけでは説明しきれない場面も少なくない。

    なぜなら、このときの学びは、自分のものとして捉えられていないからだ。本来であれば、どこがわかっていないのか、何が足りていないのかを見極め、それを補う次の行動につなげていく必要がある。しかし、その視点がないままでは、「どこで教わるか」という選択に意識が向きやすくなる。ここであればうまくいくのではないか。この先生ならわかるのではないか。そうして環境を変えることに期待する。

    だが、自分の課題が見えていない状態では、場所を変えても本質は変わらない。結果として、より多くのことを詰め込む環境に身を置くことになり、ますます考える機会は減っていく。そして、与えられたものをこなすだけの学習に戻ってしまう。

    この循環の中では、思考は育ちにくい。やらされる学びが続く限り、学びは自分ごとにはなりにくいのである。

    4. 自分で決める経験

    やらされる学びから抜け出すために必要なことは何か。それは、「自分で決める経験」である。

    何をやるのか。どこまでやるのか。どの方法で取り組むのか。その一つひとつを、自分で選ぶ。もちろん、最初からうまくいくわけではない。選び方がわからないこともある。判断を誤ることもある。思ったように進まないこともある。だが、その経験そのものに意味がある。

    なぜうまくいかなかったのかを考え、次はどうするかを選び直す。この繰り返しによって、学びは徐々に自分のものになっていく。

    逆に、すべてが与えられている状態では、この経験は生まれにくい。正解の道が用意されているとき、自分で選ぶ必要はない。しかし、その先にあるのは「指示がなければ動けない状態」である。

    自分で決めることは、効率だけを考えれば遠回りに見える。だが、長い目で見れば、それが最も確実な方法だ。

    5. 守られた環境での挑戦

    とはいえ、すべてを一人で背負う必要はない。学びの過程には、「守られた環境」が必要である。失敗しても大きなリスクにならない場所。試してみることが許される場所。立ち止まることが受け入れられる場所。その中でこそ、挑戦は生まれる。

    そして、この「守られた環境」は、人生の中でそう多く存在するものではない。特に受験という機会は、その典型だ。結果によって進路が変わることはある。しかし、もしそのチャレンジに失敗しても、それは取り返しのつかない失敗ではない。やり直すこともできる。別の道を選ぶこともできる。その意味で、受験は比較的リスクの低い状態で挑戦できる、貴重な機会である。

    しかし、この機会の主導権が外にある場合、その価値は大きく損なわれる。かつて、私のもとに泣きながら相談に来た女の子がいた。女子校に通う彼女は、理系進学を強く希望していた。しかし学校側にそれを伝えると、文系進学を強く勧められ、繰り返し引き止められたという。「どうしたらいいかわからない」と言う彼女の言葉に、途方に暮れた様子が滲んでいた。

    学校側の意図は、おそらく悪意ではない。得意とする領域――文系学部への進学実績――を積み上げたいという、組織としての論理があったのだろう。しかし、その論理の中で、彼女自身の希望は後景に退いていた。学校が引っ張り、生徒がついていく。第1章で触れた構造が、ここでも繰り返されていた。

    彼女は最終的に、学校のサポートを期待することをやめ、自分で進む方向へ舵を切る覚悟を決めた。そして実際に、結果を出した。おそらく学校では、真面目で優秀な生徒として評価されていたのだろう。だからこそ、学校の言葉には重みもあったはずだ。それでも彼女は、自分で選んだ。

    この経験は、「守られた環境」とは何かを改めて考えさせてくれる。本来、学校はその一つであるはずだ。失敗を許容し、挑戦を支え、生徒が自分で考える余地を残す場所。しかし現実には、組織の論理がその役割を上書きしてしまうことがある。そのとき、学びの主役は静かに、しかし確実に、本人の手から離れていく。

    自分で考え、試し、失敗し、修正する。その過程を経験すること自体が、大きな成長につながる。受験は、単なる結果ではない。その過程にこそ意味がある。どのように考え、どのように選び、どのように取り組んだか。その積み重ねが、次の行動につながる。だからこそ、この機会を他人に委ねてしまうことは、あまりにももったいない。

    守られた環境の中で、自分で選び、自分で進む。その経験こそが、学びを自分のものにする。

    6. 主役であるということ

    学びの主役が子どもであるとは、単に自由にさせることではない。自分で考え、選び、試し、修正する。その過程を自分のものとして引き受けることである。そこには責任も伴う。思うようにいかないこともある。だが、その経験こそが、学びを「自分のもの」に変えていく。

    教える側の役割は、その過程を奪わないことである。導きすぎず、放置しすぎず、必要なときに支える。主役はあくまで本人だ。

    この前提に立ったとき、教育のあり方は大きく変わる。何を教えるかではなく、どのように学ぶか。どこまで進めるかではなく、どのように考えるか。その視点が中心になる。


    ここまで見てきたように、学びの主役は子ども自身である。この前提に立つことで、学習の見え方は大きく変わる。では、その主役を支える存在である「親」は、どのように関わるべきなのか。手を出すべきか。見守るべきか。どこまで関与すべきなのか。

    次章では、「親の役割」という視点から、この問題を考えていきたい。

    ⚫︎一息コラム:考える力を育てる、遊びのすすめ③「CLOAK」のすすめ。対象年齢:9歳ごろ〜 / 2〜4人

    三目並べと神経衰弱を組み合わせた新感覚のボードゲーム。大きいコマで小さいコマを隠しながら、相手にバレずに3つ揃えることを目指す。「隠されたものを記憶する」「相手の意図を読む」「自分の手を悟られないようにする」という複数の思考が同時に求められる。シンプルなルールの中に、深い読み合いがある。

    トランプの神経衰弱と同じく、子どもの記憶力は大人の想像を超える。私も小学生の娘に全く歯が立たない。悔しいが、それもまたこのゲームの魅力だと思っている。

    第4章 親の役割

    学びの主役が子どもであるとするならば、その周囲にいる大人は、どのように関わるべきなのか。特に、親の存在は大きい。子どもにとって最も身近であり、日常的に関わる時間が長いからである。だからこそ、その関わり方は、学びのあり方に大きな影響を与える。

    「もっと勉強しなさい」「この問題は解けるようにしておきなさい」「次はこの学校を目指しなさい」――こうした言葉は、多くの場合、子どもを思って発せられている。少しでも良い環境に進んでほしい。将来困らないようにしてほしい。その気持ちは、ごく自然なものだ。

    しかし、その関わりが強くなりすぎると、別の問題が生まれる。学びの主導権が、子どもから親へと移ってしまうのである。何をするかを決めるのは親。どこまでやるかを決めるのも親。場合によっては、進路そのものも親が主導する。この状態では、子どもは「自分の学び」として捉えにくくなる。言われたからやる。決められたから従う。その積み重ねは、やらされる学びと同じ構造を持つ。

    もちろん、すべてを任せることが正しいわけではない。何も言わずに見守るだけでは、方向を見失うこともある。重要なのは、どこまで関わり、どこで手を引くのか、そのバランスである。

    1. 手を出しすぎることの危うさ

    子どもの学習に関わるとき、最も起こりやすいのが「手を出しすぎる」という状態だ。

    問題の解き方を教える。進め方を指示する。間違いをその場で正す。こうした関わりは、一見すると合理的である。理解が早まり、効率も上がる。実際、目の前の問題は解けるようになる。テストの点数も上がるかもしれない。

    しかし、その裏で起こっていることは別だ。考える機会が失われている。どこでつまずいたのか。どのように考えたのか。なぜその答えに至ったのか。本来であれば自分の中で試行錯誤しながら辿るべき過程が、外から与えられてしまう。その結果、「どう考えればよいか」が身につかないまま、「どう解けばよいか」だけが積み上がる。

    この状態は、短期的には問題がないように見える。だが、少し条件が変わると対応できなくなる。なぜなら、考え方ではなく、手順だけを覚えているからだ。

    さらに、もう一つの変化が起こる。子ども自身が、考えなくなる。わからなければ誰かが教えてくれる。止まれば次の指示が出る。その状態が続くと、自分で考える必要がなくなる。気がつくと、「どうしたらいい?」と聞くことが習慣になる。

    これは能力の問題ではない。環境の問題である。本来持っているはずの力が、使われないままになっているだけだ。

    もちろん、すべてを放置することが良いわけではない。適切なタイミングでの助言や、必要な情報の提示は重要である。だが、それはあくまで「補助」だ。答えに至るまでの過程を奪ってしまえば、その時点で学びの質は変わってしまう。

    手を出すことは簡単である。見ていられない場面もある。だからこそ、あえて手を出さない選択には、意識と覚悟が必要になる。

    2. 比較がもたらすもの

    子どもの学習に関わる中で、もう一つ避けて通れないのが「比較」である。他の子と比べる。兄弟と比べる。過去の自分と比べる。比較そのものは決して特別な行為ではなく、状況を把握するための一つの手段でもある。

    しかし、それが学びの中に入り込むとき、必ずしも良い影響をもたらさない。「あの子はできているのに」「この前はもっとできていたのに」――こうした言葉は、発する側にとっては軽いものであっても、受け取る側には強く残る。

    このとき、学びの軸が変わる。何を理解したかではなく、誰よりできたか。どこがわかったかではなく、どれだけ上にいるか。評価の基準が外に移る。すると、学びは次第に「他人との位置関係」を意識するものになる。

    この状態では、本来の目的である思考や理解は後回しになりやすい。できるようになることよりも、負けないことが優先される。あるいは、できないことを避けるようになる。比較の中では、できないことは「劣っていること」として認識されやすいからだ。

    しかし、学習の過程において、できないことはむしろ重要である。どこでつまずいているのか。何が理解できていないのか。それを見つけることこそが、次の一歩につながる。だが、比較が前面に出ると、その視点は失われる。見せたくない。知られたくない。避けたい。そうした感情が先に立つようになる。

    比較は、わかりやすい。順位や点数は明確だ。だが、そのわかりやすさの裏で見えにくくなるものがある。それは、本人の思考の過程であり、理解の深さである。

    学びの主役が子どもであるとするならば、比較はあくまで補助的なものであるべきだ。中心に置かれるべきものではない。

    3. 声かけのズレ

    子どもの学習に関わる中で、言葉の影響は想像以上に大きい。日々の何気ない声かけが、学びへの向き合い方を左右することもある。

    「もっと頑張りなさい」「なんでできないの」「ちゃんとやったの」――こうした言葉は、決して特別なものではない。多くの場合、子どもを思って発せられている。もう少しやればできるはず。可能性を引き出したい。そうした気持ちの表れだ。

    しかし、その言葉がどのように受け取られているかは、必ずしも同じではない。「頑張れ」と言われたとき、すでに本人なりに頑張っている場合もある。そのとき、その言葉は「まだ足りない」と評価されているように感じられる。「なんでできないの」と言われれば、理由を説明する前に、否定された印象が残る。「ちゃんとやったの」と問われれば、やったことそのものが疑われているように受け取られる。

    こうした小さなズレが積み重なると、学びに対する感覚は少しずつ変わっていく。できたかどうか、結果がどうだったか。その部分ばかりが意識されるようになる。すると、過程に目を向ける余裕がなくなる。どのように考えたのか。どこでつまずいたのか。何を試したのか。本来であれば重要であるはずの部分が、言葉のやり取りの中で後景に退く。

    その結果、子ども自身もまた、結果だけを見るようになる。できた、できなかった。点数が良かった、悪かった。それだけが判断基準になる。しかし、学びの本質はそこにはない。思考の過程にあり、試行錯誤の中にある。

    声かけがその過程に目を向けるものであれば、学びの質は大きく変わる。どう考えたのか。どこまでわかっているのか。次に何をすればよいと思うか。そうした問いかけは、子ども自身に考える余地を残す。一方で、答えを求める言葉は、考える機会を減らす。

    言葉は小さなものだ。だが、その積み重ねは大きい。学びの方向を、静かに、しかし確実に変えていく。

    4. 見守る勇気

    ここまで見てきたように、親の関わりは学びの質に大きく影響する。では、どのように関わることが望ましいのか。一つの答えは、「見守ること」である。

    ただし、この「見守る」という言葉は、決して何もしないことではない。必要なときには声をかける。困っているときには支える。方向がずれていれば整える。その上で、最後の判断は子どもに委ねる。このバランスが重要だ。

    しかし、これを実践することは容易ではない。目の前でつまずいていると、手を出したくなる。遠回りをしているように見えると、正しい道を示したくなる。結果が出ていないと、つい口を出したくなる。それは自然な感情である。だが、その都度手を出してしまえば、子どもは自分で考える機会を失う。効率は上がるかもしれない。結果も出るかもしれない。しかし、その代わりに「自分で進む力」は育ちにくくなる。

    見守るというのは、その葛藤を引き受けることである。すぐに結果が出なくても、あえて待つ。うまくいかない経験も含めて、子どもの学びとして受け止める。そのためには、親自身が不安と向き合う必要がある。このままで大丈夫なのか。もっとやらせるべきではないか。そうした思いが浮かぶこともある。だが、その不安に押されて関わりすぎると、主役は再び外に移ってしまう。

    だからこそ、必要なのは「勇気」である。子どもを信じる勇気。任せる勇気。待つ勇気。見守るとは、そのすべてを含んだ関わり方である。

    5. 親の役割とは何か

    親の役割は、学びを代わりに進めることではない。正しい道をすべて示すことでもない。学びの主役が子どもであるという前提に立ち、その過程を支えることである。

    ときに助言し、ときに方向を整え、そして必要なときには手を引く。その繰り返しの中で、子どもは自分で考え、進む力を身につけていく。

    重要なのは、「どこまで関わるか」ではなく、「どのように関わるか」である。同じ言葉でも、同じ行動でも、その意図によって意味は変わる。管理するのか、支えるのか。主導するのか、任せるのか。その違いは、学びのあり方そのものに影響する。

    親の関わり方は、目に見えにくい部分で、子どもの学びを形づくっている。

    6. 寄り添うことと、合わせること

    ここまで、親は見守る存在であると述べてきた。しかし、この「見守る」という考え方は、誤解されやすい側面も持っている。

    子どもに合わせることが大切である。無理をさせないことが大切である。そうした考え方が強調される中で、親の側が一歩引きすぎてしまう場面も見られる。だが、寄り添うことと、合わせることは同じではない。

    子どもの状態を理解することは必要だ。どこでつまずいているのか、何に困っているのかを知ることは重要である。しかし、それにすべて合わせることが最善とは限らない。ときには、親の目線に子どもを引き上げる必要もある。ここまではやるべきだという基準。この程度の努力は必要だという認識。そうした軸がなければ、学びは次第に「できる範囲だけやるもの」になっていく。

    理解を示すことは、甘やかすことではない。寄り添うとは、その場に留まることを肯定することではなく、次の段階に進むための支えである。

    7. 布石を打つ

    もう一つ重要なのは、関わり方の質である。ここでは、布石を打つことを考えたい。多くの場合、親は言葉で働きかける。「勉強しなさい」「ちゃんとやりなさい」「もっと考えなさい」。こうした声かけに共通しているのは、「今」に対して働きかけているという点だ。今日の宿題をやらせる。今夜の復習を促す。今の成績を上げる。その都度の言葉は、目の前の状況に向けられている。

    しかし、布石を打つとはそういうことではない。「先々」に対して働きかけることである。今すぐ結果に結びつかなくても、数年後の学びの土台になるような経験や習慣を、日常の中にそっと組み込んでおく。言わなくても動く状態を、時間をかけてつくっていく。それが布石である。

    そのためには、環境を整える必要がある。机に向かう時間が自然に生まれるようにする。考える場面が日常の中に組み込まれている状態をつくる。小さな積み重ねの中で、行動が当たり前になるように仕向けていく。言葉はきっかけにはなる。だが、それだけでは続かない。仕組みとして組み込まれて初めて、習慣として定着する。


    学習において本当に重要なものは何か。それは、早い段階での習慣である。考えること。文章を読み、理解すること。自分の頭で整理すること。こうした力は、ある日突然身につくものではない。積み重ねの中でしか育たない。そして、この土台がないまま次の段階に進もうとすると、どこかで行き詰まる。

    勉強が難しくなったから塾に通う。成績が下がったから対策をする。もちろん、それ自体は必要だ。しかし、その時点ではすでに遅れが生じている場合も少なくない。問題は、その前の段階にある。考える習慣があるか。文章を読んで理解する力があるか。その土台がなければ、どれだけ内容を積み重ねても、定着しにくい。

    学習とは、上に積み重ねるものである。だからこそ、土台の部分に目を向ける必要がある。何をどこまで進めるかではなく、どのように学ぶ力が身についているか。そこに意識を向けることが、長い目で見たときに大きな差になる。

    こうした習慣は、一朝一夕で身につくものではない。日々の関わりの中で、少しずつ形づくられていくものだ。その意味で、親の役割は「教えること」よりも、むしろ「布石を打つこと」に近い。

    うまくいっている家庭ほど、表立って「勉強しなさい」と言う場面は多くない。その代わりに、自然と学びにつながる経験が、日常の中に組み込まれている。海外に触れる機会がある。パズルのように考える遊びが身近にある。本を読む時間が当たり前になっている。家族でゲームを通じて、考えるやり取りがある。一つひとつは特別なことではない。しかし、それらが積み重なることで、考えること、読み取ること、試すことが、自然な行動として身についていく。結果として、いわゆる「勉強」と呼ばれる場面においても、それらの力が土台として働く。

    重要なのは、それが「勉強として」行われていないことである。やらされているのではなく、日常の中で繰り返されている。だからこそ、無理なく続き、習慣として定着する。

    こうした布石は、目に見える成果としてすぐに現れるものではない。効果が実感できるのは、少し先の段階であることが多い。しかし、そのときにはすでに、「考えること」が特別な行為ではなくなっている。この差は大きい。同じ内容を学んでいても、土台があるかどうかで、吸収の仕方はまったく変わる。

    親の関わりが直接的であるほど、短期的な結果は出やすい。だが、長期的に見たとき、より大きな影響を持つのは、こうした間接的な関わりである。見えにくいが、確実に効いてくる。それが「布石」である。


    学びの主役は子ども自身であり、親はそれを支える立場にある。では、その学びは最終的にどこへ向かうのか。何のために学ぶのか。結果のためか。進学のためか。それとも、別の意味があるのか。

    次章では、「教育を取り戻す」という視点から、その問いについて考えていきたい。

    ⚫︎一息コラム:考える力を育てる、遊びのすすめ④「マンカラカラハ」のすすめ。対象年齢:9歳ごろ〜 / 2人

    アフリカ発祥の古いボードゲーム。石をくぼみに配りながら、相手より多くを自分の陣地に集めることを目指す。ルールはシンプルだが、石の配り方一つで流れが大きく変わる。先の手を読む力と、数の感覚が同時に鍛えられる。小さな子でも始めやすく、大人が本気で挑んでも奥深い。

    実際、小中学生の姪に全く勝てない。こちらが真剣に考えていても、子どもはどこかで先を読んでいる。「子どもだから」と侮ると、足元をすくわれる。それが、このゲームの本質かもしれない。

    第5章 教育を取り戻す

    ここまで、学びについていくつかの視点から見てきた。

    教育の中にある違和感。学習の本質。主役は誰かという問い。そして、それを支える親の関わり。それぞれは別の話のようでいて、すべて一つの点に集約される。学びとは何か、という問いである。

    本来、学びは個人的な営みである。誰かに代わってもらうことはできない。誰かからそのまま受け取ることもできない。自分で考え、試し、間違え、修正する。その過程を通して、少しずつ形になっていく。

    しかし現実には、その過程が見えにくくなっている。進度があり、評価があり、目標がある。それらは必要なものである一方で、学びの中心を外側へと移してしまう。いつまでに終わらせるか。どこまで進めるか。どの結果を出すか。それらに意識が向いたとき、学びは「自分のもの」ではなくなる。

    では、どうすればよいのか。答えは単純ではない。特定の方法や制度によって解決できるものでもない。だが、一つ確かなことがある。それは、主役を取り戻すことである。

    1. 主役を取り戻すとは何か

    主役を取り戻すとは、どういうことか。それは、特別なことをすることではない。新しい方法を取り入れることでも、これまでのやり方をすべて否定することでもない。学びの中心に、本人を戻すことである。

    何を学ぶのか。どのように取り組むのか。どこでつまずいているのか。それらを、本人が考え、選び、引き受ける。その状態を取り戻すこと。それが、主役を取り戻すということだ。

    もちろん、最初からそれができるわけではない。迷うこともある。うまくいかないこともある。選択を誤ることもある。だが、その経験そのものに意味がある。自分で考えたことは、残る。自分で選んだことは、次につながる。

    逆に、すべてが与えられている状態では、その過程は積み上がらない。正しい答えにたどり着くことはできても、「なぜそうしたのか」は残りにくい。

    主役を取り戻すとは、効率を追うことではなく、過程を取り戻すことである。遠回りに見えることもある。時間がかかることもある。だが、その中でしか育たないものがある。それが、考える力であり、自分で進む力である。

    2. 教育の再定義

    教育とは何かという問いに、もう一度向き合う必要がある。

    教育とは、知識を与えることなのか。正解に導くことなのか。より良い結果を出させることなのか。もちろん、それらも一つの側面ではある。だが、それだけでは十分ではない。

    教育とは、考える力を育てることであり、自分で進む力を支えることである。何を覚えたかではなく、どのように考えたか。どれだけ正解したかではなく、どのように向き合ったか。その部分に価値を置くこと。それが、本来の教育の姿に近いのではないか。

    その意味で、教育は特定の場所に限定されるものではない。学校だけでもない。塾だけでもない。家庭の中にもあり、日常の中にも存在している。問いかけ一つ、関わり方一つ。その積み重ねが、学びのあり方を形づくる。

    だからこそ、教育を変えるということは、制度だけの問題ではない。一人ひとりの関わり方の問題でもある。教える側が変わること。支える側が変わること。そして、学ぶ側が主役であるという前提に立ち戻ること。それらが重なったとき、学びは本来の姿を取り戻していく。

    3. 「思考力」という言葉の一人歩き

    近年、大学入試の変化が続いている。知識の再現を問う問題から、思考のプロセスを問う問題へ。その流れは高校入試にも波及しつつある。方向性としては、本書でここまで述べてきた「考える力」を重視する流れと一致している。

    しかし、「思考力」という言葉が広まるにつれて、その実態は少しずつ薄れていっているように見える。


    思考力を問う問題が出題されると発表された途端、「思考力対策講座」が生まれた。考える力を問うはずの入試に対して、その「解き方」を教える予備校や講座が次々と登場し、受験生とその親たちが群がる。構造は何も変わっていない。問われる内容が変わっただけで、「対策してこなす」という姿勢はそのままだ。

    これは、予備校や学校だけの問題ではない。「対策があるなら対策をしたい」という気持ちは、ごく自然な反応である。しかし、そこには根本的な矛盾がある。考える力とは、対策によって身につくものではない。日々の積み重ねの中で、試行錯誤を繰り返す中でしか育たない。その過程を飛ばして「思考力の解き方」を覚えることは、第2章で述べた「理解ではなく再現」と同じ構造である。

    さらに問題なのは、対策講座を提供する側もそれを知っているはずだという点だ。それでも講座は生まれ、消費される。ニーズがあれば供給は生まれる。悪意があるわけではない。しかし、結果として「考える力を育てない環境」が、また一つ積み重なる。

    本当に考える力を身につけたいのであれば、対策の前に立ち返るべき問いがある。そもそも、日常の中で考えているか。答えのない問いに向き合う経験があるか。そこを飛ばしたまま「思考力入試対策」に向かうことは、土台のないまま上だけを積もうとすることと変わらない。

    入試が変わることは、一つのきっかけにはなり得る。しかし、その変化が本当の意味で学びを変えるかどうかは、関わるすべての人間の姿勢にかかっている。

    4 すべては、楽しく生きるために

    大人になって何かを学ぼうと思ったとき、どう動くか。これだけ情報が溢れ、自由に手にすることができる時代に、その主導権を他人に委ねてしまうのは、あまりにももったいない。

    自分で学ぶことを知らずに育った大人は、常に「どこで教わろうか」から入る。本来なら自分の時間で、必要最低限の費用で得られるはずの学びを、決められた時間に、他人主導で与えられる形でしか受け取れない。

    自由に考えることが許されているはずの自分の頭が、外からのインストールを待つだけの箱になってしまう。そしてその状態は、悪意あるものに乗っ取られる隙にもなる。

    自分の頭は、誰からの侵入も許さない、完全に自分だけのものである。その頭を、もっと自由に、もっと楽しく使えるように。そのために「考える力」を身につけておくことが、学びの本当の意味ではないかと、私は思っている。

    終わりに

    学びとは何か。この問いに対して、一つの答えを示すことはできない。人によって違い、状況によっても変わる。ただ、一つ確かなことはある。学びは、誰かに与えられるものではなく、自分の中で形づくられていくものだということである。

    その過程には、時間がかかる。思うようにいかないこともある。だが、その積み重ねの中で、少しずつ自分の力になっていく。

    教育という言葉は、どこか大きなもののように聞こえる。制度や仕組み、学校や組織。そうしたものを指すことも多い。しかし実際には、もっと身近なところにある。日々の関わりの中にあり、何気ないやり取りの中にある。

    どのように声をかけるか。どのように見守るか。どのように任せるか。その一つひとつが、学びの形をつくっていく。

    特別なことをする必要はない。主役を誰にするのか。その前提を見失わないこと。それだけで、学びのあり方は変わっていく。

    この先、どのような環境に身を置くことになっても、考えることを手放さないこと。自分で選び、自分で進むこと。その積み重ねが、その人の学びを形づくる。


    本書の中で、私自身が実際に使ってきた中でおすすめしたい遊びをいくつか紹介してきた。私自身の幼少期に身近にあったもの、比較的最近(子育てタームに入ってから)購入したものも含めて、特別なものは何もない。しかし、続けることで確かに「考えること」が日常になっていく。

    これらは一例にすぎない。我が家も子供たちの成長とともに、いろいろ試して、いろいろ学んできた。大切なのは、特定の遊びをやらせることではなく、考えることが楽しいと感じる経験を日常に置いておくことである。

    ―――と、偉そうに書いてはみたものの、実際のところ、今の我が家の子どもたちは特に声をかけなければすっかりマインクラフトにご執心である。大人たちは「プログラミングに繋がる」などと前向きに捉えたがるが、当の子供たちにとっては、ただの楽しいゲームにすぎない。解説動画の真似をして時間を費やす姿を見ては、「せっかく打った布石はどこへやら」と苦笑いしてしまう場面も少なくない。綺麗事のようにはいかないのが現実である。大人がいくら環境を整え、狙いを定めても、子どもはその通りには動かないが、まあ、投げ出す必要も、難しく考えすぎる必要もないのだろう。

    あれこれ悩んだ日々のすべてが、何かしらの布石になる。

    と、私は思っている。


    #創作大賞2026 #ビジネス部門

     
     
    MEL English Lab 英語の「なぜ?」を言葉にする塾経営者・児童発達支援士。 15年超の英文法指導に基づき、学校英語を一歩深く理解するヒントを発信中。 文法・表現の違いから「学ぶ楽しさ」を再発見するノートです。 公式LINEで学習相談(無料)も実施しています👇

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