
『成瀬は天下を取りに行く』ミシガンに乗る――現実に触れたとき、何がずれるのか
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0. 導入――それは「聖地巡礼」なのか
小説の中に出てきた場所に、実際に行ってきました。


それはよくある行為です。。いわゆる「聖地巡礼」と呼ばれるものです。
私自身「聖地巡礼」をしたことがなかったので、初めての取り組みになります。
しかし今回、自分がやったことを、その「聖地巡礼」という言葉で片付けてしまっていいのか、少し迷いがありました。
きっかけは、『成瀬は天下を取りに行く』です。
作中に登場する遊覧船「ミシガン」。それに、実際に乗ってました。
写真も撮ったし、景色も見ました。体験としては、確かに「行ってきた」と言えます。
しかし、そのあとに残ったのは、達成感のようなものは特にありませんでした。
むしろ、「何かが少しズレた」という感覚でした。
なお、成瀬シリーズに関しては以前、以下のように書いています。
ぜひご覧ください。
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1章:ミシガンという“現実”
実際に乗ってみたミシガンは、思ったよりも「普通」でした。
観光客がいて、アナウンスが流れ、写真を撮る人がいる。
整備されたデッキ、時間通りに進む運行、観光用に設計された空間。
もちろん、琵琶湖の景色はきれいだったし、体験として悪いものではないと思います。
だが、それ以上でもそれ以下でもありません。
そこにあったのは、単なる遊覧船です。
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2章:ズレの発生――意味と物のあいだ
では、何が違ったのか考えてみます。
おそらくそれは、「意味」です。
小説の中のミシガンは、単なる船ではありません。
そこには成瀬あかりという存在がいて、彼女の行動が、その場に独特の意味を与えています。
一方で、現実のミシガンはどうか
それはただそこにある「物」にすぎず、
運行され、利用され、消費される対象としての存在
つまりここには、明確な断絶があります。、
意味を帯びたミシガンと、意味を持たないミシガン
このズレは、場所の違いではなく、
同じ場所でありながら、見えているものはまったく違っているのです。
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3章:成瀬あかりというフィルター
では、その差を生んでいるのは何か
それは場所ではありません。
主体です。
成瀬あかりは、何かを説明することはほとんどありせん。
意味を与えようともしません。
それでも彼女の行動は、周囲の世界にわずかな歪みを生じさせます。
以前の記事でも書きましたが、成瀬は「人物」というよりも、ひとつの現象に近いと言えます。
そしてその現象があるとき、場所はただの場所ではなくなる
ミシガンが特別だったのではない
成瀬がそこにいたから、特別になっていた
逆に言えば、成瀬がいない現実のミシガンは、どこまで行っても観光船のままでしかありません。
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4章:聖地巡礼という行為の正体
ここで、最初の問いに戻ります。
これは「聖地巡礼」だったのか
おそらく、一般的にはそうなのだと思います。
作品に登場した場所を訪れ、同じ風景を見る
しかし、実際に体験してみると、それだけでは説明しきれない違和感があります。
(あるいは違和感が全くない)
なぜ人は、わざわざ現実の場所に行くのか
それは、フィクションを現実で確認するためではない
むしろ逆で、
自分の中に生まれた感覚が、どこまで現実に通用するのかを確かめているのではないか
しかし、その試みはどこかで裏切られる
現実は、あまりにも現実的だからだ
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5章:結論――ズレたのは、場所ではない
ミシガンに乗っても、成瀬あかりにはなれない
それは当然のことです。
小説の中で立ち上がっていた意味や感触は、現実にそのまま移植されるものではありません。、
そこにあったのは、小説の中のミシガンではありません。、
しかし、何も変わらなかったわけでもありません。
確かに、何かがわずかにズレていました。、
それは場所ではありません。
自分の見え方のほうです。
同じ風景を見ているはずなのに、
どこかで「これはただの風景ではないのではないか」と感じさせてしまう。
その違和感は、小説を読む前には存在しなかったものです。
つまり、現実に行くことで変わるのは、現実そのものではなく、
現実を見る側の構えである。
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ミシガンは、ただの船でした。
しかし、その「ただの船」を、ただのままでは見られなくなっている自分がいます。
もしそれを変化と呼ぶのなら、
この体験は、単なる観光ではなかったのかもしれない。
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