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最初に好きになったのは、あなただった

あらすじ


百貨店営業部長・白川めぐみ、42歳。
ひとりで訪れた老舗旅館で、オーナーの深山匠と出会う。34歳、7歳年下。
最初に好きになったのは、匠のほうだった。

まっすぐで不器用な愛情表現。
でも近づくと、するりと消える。
過去のトラウマを打ち明け、
めぐみの腕の中だけで子供のように丸くなる男が、
いつの間にか別の女とシャンパンを傾けていた。

裏切りを知った夜、めぐみは泣かなかった。
キレもしなかった。
ただ、静かに動き始めた。

これは、芯のある女性が
正々堂々と、合法的に、
すべてを終わらせる話だ。

エピローグ

「最初に好きになったのは、彼のほうだった。それだけは確かだ。」

 別れて3年が経つ。
 もっと長かったような、あっという間のような。
 初夏を迎えたオフィス街は、22時を過ぎてもなお、
 冷たい風がビルの隙間を吹き抜けていく。
 私は、静まり返った役員会議室の窓外を見下ろしながら、
 デスクの上に置いたスマートフォンの画面を、躊躇なく裏返した。
 ただ、かすかに指先が震えていた。

 あの春の夜のことを、話そうと思う。

■第一章 「春のこと」


めぐみの楽しみは
1人高級旅館に泊まって最上級の癒しを受けること。
温泉は静かにのんびり入るに限る。
もちろん誰かと行く温泉も楽しい。
でも日頃の重責をすべて脱ぎ捨てて、ただの「自分」にかえる時間。
貸切露天風呂にひとり浸かっていると、すべての感覚が研ぎ澄まされるようで
それがリラックスできて心地いいのだ。

お湯が流れる音
木々が触れ合う葉っぱの音
鳥のさえずり
風の音

目を閉じると、まるで自分が自然と一体になっているような不思議な感覚になる。

白川(しらかわ)めぐみは、扇谷(おうぎや)百貨店 営業二部部長として100名以上の部下を持つ。
学生の頃から接客のアルバイトをしていて、新卒で誰もが知る全国展開の大手百貨店に就職できたことが本当に嬉しかった。
様々な売り場を経験して、去年、営業二部部長に任命されたのだ。

今日は、最近話題の老舗旅館瑞鳳(ずいほう)にやってきた。
百貨店にいらっしゃるお客様や、取引先の方からこの旅館のよさは耳にしていた。

部長になって半年ーーー
半期の売上目標を達成できたご褒美として、ちょっと奮発したのだ。

瑞鳳は3代続く老舗旅館だが、最近経営者が代わり、和食が有名だったのが、
「老舗旅館で食べられる和食とフレンチの融合」や、近くのおしゃれなカフェと提携して「日帰り温泉とアフタヌーンティーのコラボ」など、今までの瑞鳳では考えられないような斬新な取り組みで、メディアに取り上げられて話題になっていたのだ。

特にSNSでの演出が注目を集めていた。経営者や従業員の旅館にかける熱意やオフショットのリール動画が掲載されていて『老舗だけど身近に感じる』存在に変わっていった。

「いつか泊まりたい憧れの老舗旅館であり、斬新さが目を引いたり、そこで働く人との距離の近さ」があったのだ。

部屋で和食とフレンチの融合したメニューに舌鼓を打ちながら、大好きなワインを飲み、気持ちよくほろ酔いになっていた頃、部屋に「失礼いたします」と誰かがあいさつに来た。

それが匠とのはじめての出会いだった。

「はーい」と返事をすると、着物を着た男性が入ってきた。
誰だろう?チェックインで案内してくれたのは女性だったし。

するとすぐさま男性がこうあいさつをした。
「白川様、本日は数ある旅館の中から、瑞鳳を選んでくださり、誠にありがとうございます。わたくしは、昨年就任いたしました、オーナーの深山匠(みやまたくみ)と申します。オーナーと申しましても、まだ半年の若輩者です。どうかご指導ご鞭撻のほど…」
そこまで言うと急に「くすっと」笑う声がした。

え?と思い、笑い声のほうを見ると「すみません。まだまだ借りてきた言葉みたいですよね。とにかく、うちに来てくださって、とても嬉しいんです!とお伝えしたいです」

照れたような笑顔を見せた匠の表情を今でもめぐみは覚えている。
照れたような表情の中に、でも「嬉しい」という言葉は、まっすぐにめぐみの目を見て伝えていた。

あ、この人があのSNSを書いてるのかな。

「まだ半年でもいろいろ新しい取り組みされて、話題にもなってすごいですね」

匠は目を丸くして「えっ!そんなふうに見てくださってるのですね!本当に嬉しいです!
ありがとうございます。」と言ったかと思えば、くしゃくしゃの笑顔を見せた。

あ、なんかかわいいかも。そしてこう続けた。「今日は何かの記念日やお祝いですか?」

「そうなんです。私も今の役職になって半年で、目標達成したからご褒美にこちらに来ました。」

匠は表情豊かにまた目を丸くして「お揃いですね、僕たち!半年がお揃いです!あっ、わたくしたち。すみません。なんだか白川様が話しやすくて僕たちとか言ってしまって。」

そこから二人は少し話をした。
匠はオーナーに就任して間もないので、出来る限り客室にあいさつ回りをしていること、
めぐみもいつもSNSを見ていて、オーナーや従業員、お店のコンセプトに共感できるし、応援したいと思ったこと、そして時折見せるオフショットはくすっと笑えて、身近に感じられることを伝えた。

「すみません。ついつい楽しくて長話をしてしまいました。」「いえ。私も楽しかったです。お部屋やお料理が素敵なので、SNSにあげてもいいですか?」「もちろんです!それではこの後のお時間も、そして明日も、これからのお時間も楽しく過ごせますように。何かございましたら、お気軽にお申し付けください。」

そう言って部屋をあとにした。めぐみはなんとなく、寂しいようなそんな気持ちになった。

後日、タグ付けしたSNSにいいねとともにメッセージがきた。

「ご利用ありがとうございました。お部屋でいろいろとお話出来てとてもよかったです。今度お食事でも行きませんか?」

え?これって、あのオーナーが自ら書いてるの??

■第二章 「解錠」

どうしよう…あの時は楽しく話したけど、こんなふうに個人的に食事に誘われるなんて。
若いオーナーだし、きっとモテていろんな人に声掛けてるんだろうな。いや、でもあの瑞鳳だよ?しかも最近全国放送の番組でも見かけるから、世間に顔も名前も知られてる人が、そんな悪いことしないよね?部屋で話した時も、敬語とかわいい言葉が混ざってたりして、裏表なさそうだったし。

1人脳内会議を繰り広げて、結局返信が出来ずにいた。

あー、本当にどうしよう。そうだ!今日みんなに相談してみよう。

みんな忙しい立場や年齢ながらも1~2か月に1度のペースで会っている友人たち。
隠れ家的な和食のお店。到着したのは私が1番だった。
1人でいるとまた脳内会議が始まりそうだから、2人が来る前にちょっと自分を落ち着かせよう、とビールを注文する。「めぐみさん、いいんですか?二人が来る前に始めちゃって!」大将の幸一がニヤニヤしながらビールを持ってくる。
「あら!大将自ら提供してくれるだなんて、今日はお店忙しくないの?」そうやってふざけあえるくらいここには通っている。
若い頃に外商部の先輩から「大切なお客様をおもてなししたい時に、絶対に間違いないお店だから」と教えてもらったお店。あぁ、やっぱり仕事終わりのビールは美味しい。

お店の扉が開く。
「こんばんわー」そう言いながら真里が入ってきた。
「あー!めぐみ!もう飲んでんじゃん!こうちゃん、私もビール!」
「そうなんですよ!ほら!めぐさんバレちゃったじゃないですか。なんか考え事しながら飲んでるから、真里さん来る前に飲み干せなかったですね。」「えーめぐみ、何か考え事?仕事のこととか?」

ーーー真里は2歳年上の43歳、扇谷百貨店の化粧品売り場に勤務している時、当時化粧品を管轄する営業部のマネージャーだった頃からのつきあいだ。
真里が勤務する化粧品ブランドBriller(ブリエ)はいわゆるハイブランド化粧品。
「がんばる女性管理職同士」が、扇谷の納涼会で意気投合したのだ。現在は売場チーフという立場から、本部で広報部長として活躍している。
「ねぇ真里ー、私の悩みって仕事だけじゃないんだからね!」少しふざけたふてくされた表情は、決して部下の前では出せない、気が許せる真里だからなのだ。
「もうー冗談じゃん!どしたの?話聞くよ!」そう言いながら頭をよしよししてくる。
「あのね、こないだ1人で瑞鳳に行ったんだけど…」また扉が開く。
「遅れてごめんね!」そう言いながら優(ゆう)がやってきた。
「やっと3人お揃いですね!優さん、ビールでよろしいですか?」幸一が優に尋ねる。
「もちろん!ビールお願いします。」

優はめぐみと真里が通うピラティススタジオのインストラクターだ。めぐみたちより少し歳下の37歳。もともとは生徒と先生の関係だったのだが、この幸一の店「田みや」に、めぐみと真里が訪れた時、1人カウンターで飲んでいたのが優だったのだ。
それ以来3人で何かと集まっている。部長のめぐみが、素の自分を出せる数少ない場所。

「かんぱーい」3人がグラスを合わせる。
「優ー、なんかね、めぐみ悩みごとあるみたい。さっき途中になっちゃったの。」「そうなの?どうしたの?」めぐみはゆっくりまばたきをして、あの日のことを思い出していた。
そして2人に、1人で訪れた旅館のオーナーから食事の誘いがあったこと、客にこうゆうことしょっちゅうするような人だったら怖いな、とか、嫌でもあの瑞鳳のオーナーがそんなことするわけないとか、2つの思いが交差して、どうしたらいいか分からないと吐露した。

「そっかぁ。で、めぐみはどうしたいの?」優がやさしくめぐみを覗き込む。一瞬胸がぎゅっと痛くなった。「うん…えっと…」すると真里がめぐみの目を見つめてこう言った。「会いたいの?会いたくないの?」「…会いたい…かも」
優も続ける。「会いたいってことじゃん!会ったらいいよ!」「え、そんな、大丈夫?」
「めぐみは、何を心配してるの?」「いや、だって、誰にでも声掛ける人だったらとか、遊び目的みたいな…さぁ…」「遊び目的かどうか、会って確かめたらいいじゃん。ダメなの?」
真里が2人の会話にこう続けた。「優はさ、恋愛も仕事も友達も言いたいことやりたいことガンガンいけるじゃない?でもさ、めぐみは考えながら進めたいタイプなんだよ。ね?めぐみ?」俯いて何かを考えるめぐみ

田みやを出て、真里と優はもう1軒行くと気持ちよさそうに歩き出した。
「真里、優、ごめん!明日朝からミーティング入ってるから、今日は帰るね!」
めぐみは家に向かいながら、瑞鳳で見た匠のころころ変わる表情ーーー目を真ん丸に話を聞いたり、くしゃくしゃの笑顔や敬語に不慣れで…ってくすっと笑った表情。
その1つひとつが脳裏に蘇る。

ダメだ…やっぱりもう1度会ってみたい。話してみたい。あの笑顔が見たい。

そしてめぐみはスマホを取り出した。匠のメッセージを読み返す。
「ご利用ありがとうございました。お部屋でいろいろとお話出来てとてもよかったです。今度お食事でも行きませんか?」

めぐみの指は匠への思いを乗せて動き始めた。

「お返事遅くなってごめんなさい。この間はありがとうございました!ぜひお食事行きたいです。」
すぐに既読がついた。

「わ!お返事こないと思ってたので、とても嬉しいです。そしてお食事行きましょう!よろしくお願いします。」

え!うそ!こんなすぐに返信きた。返事こないと思ったなんて、なんかかわいい。
画面を眺めてニヤニヤしていると、もう1つメッセージがきた。

「めぐみさん、いつがご都合よいですか?僕は火曜日がお休みなので、火曜日がいいです!
でも、仕事終わりで少し遅くなっても大丈夫だったら他の日も大丈夫です。仕事終わりなら、いつでも大丈夫です!今日、このあとはさすがにダメですよね?」

え?うそ?でもさすがに今から会うのは急すぎる。酔ってるから…ほろ酔いだけど今だとなんか余計な事言ったりしちゃいそうだし…それよりやっぱり強引な気がする。やめたほうがいいかな。他のお客さんにも強引かもしれないし、ここで会ったら軽い女とか、俺に気がある女って絶対思われるじゃん。

そう思って既読はつけたが返信はしなかった。

次の日も返信できなかった。返す言葉が浮かばない。「もう1度会いたい」気持ちはあるけど、なんか強引さに心配になる。

その翌日、匠からメッセージがきた。
「めぐみさん、こないだは急に誘ってすみませんでした。またお会いしたいなって思って、前のめりになって嫌でしたよね。反省してます!不快だったらメッセージスルーしてもらって大丈夫です。本当に申し訳ありませんでした!」

これは、また返事に悩む。なんかいちいち心を掴んでくる。

真里と優に相談しようか迷ったけど、もう自分の気持ちと感覚を信じると決めた。

「急だったのでちょっとびっくりしてしまいました。前もって日にちが決まってると、その日の仕事も調整できるからありがたいです。」

「めぐみさん!ありがとうございます!!!もうお返事来ないと思ってたので、本当にありがとうございます。めげずに誘わせてもらいますね!では、来週の月曜日はどうですか?仕事終わりなので夜ごはんとかになっちゃうんですけど。よろしくお願いします!」
「来週の月曜日、大丈夫です」それだけを返すのが精いっぱいだった。もうそれ以上考えられない。
匠はグイグイきたり、礼儀正しく謝ったり、顧客とオーナーという一線の丁寧な言葉を使ってきたり、感情を何度も揺さぶられる。
スマホを伏せて、そのまま私は無理やり眠りについた。
いつものように、すぐに返信がきてドキドキするのもなんだか今日は避けたかったし、逆に返信がすぐこなければがっかりしそうな気がするから。
翌朝スマホを見ると、匠からの返信はなかった。
あぁ、あんなに勇気を振り絞って返信したのにな。ドキドキして一喜一憂してるのは私だけか。そりゃそうだよね。
その日は、3年後を予定する営業二部の売場増床に関する社内プレゼンがある。
「今日は大事な日!二部のみんなで考えた売場構想を役員たちの前でプレゼンするんだ!余計なことで脳内会議してる暇はないから!!」
そうするとめぐみはプライベートスマホをバッグに入れ、デスクにしまった。そして、手には社用スマホとパソコンを持って、会議室へと向かう。
プレゼンはうまくいった。
もちろんこれは、部内のみんなの頑張りがあったからこそ。一緒にプレゼンに登壇し、ずっとめぐみのサポートをしてくれていた課長の山﨑くんがこう声を掛けてきた。
「白川部長、結果出る前にあれですけど、みんな頑張ったから、軽くいきません?」
山﨑くんの後ろには、プレゼンに向けて一緒に準備を進めてきたメンバーの笑顔が見えた。
「よし!今日はみんなで行こう!明日の出勤者もいるから軽くね!みんな頑張ったから今日は私がご馳走するね!」

みんなの「おーー!」という歓声や、「やった!部長!」そんな声が聞こえてきた。
会社の近くにある、カジュアルなイタリアンレストランでみんなで乾杯をした。
みんなここ数日は、残業して準備を進めていたので「お酒が沁みます」と、そんな声があちこちから聞こえてきた。
プレゼンが目的ではなく、ここからがまた新たな始まりなので、3年後の増床に向けて引き続きみんなで頑張っていこうと挨拶をして、お開きにした。
あぁ、やっぱりこのメンバーは最高だなぁ。そんな気持ちで胸がいっぱいになりながら、「もっと部下たちが笑顔でやりがいを持ったり、楽しく働けるようにやっていきたい」そんな思いをあらためて感じていた。気持ちよくほろ酔いになりながら家に着く。スマホの充電をしようとバッグから取り出すと1件の通知があった。
匠からのメッセージだ。「めぐみさん、お疲れ様です。昨日は仕事終わるのが遅くて、お返事が遅れてすみませんでした。月曜日、大丈夫でよかったです!どこに行きましょうかね。とても楽しみにしています。」
ほろ酔いも後押ししてか、こう返した。「私も楽しみにしてます!」

そこから月曜日は3日後。今思い出してもそのあいだの記憶がない。もちろん仕事はしていた。何かのミスやトラブルもなかった、もちろん大人だから。でも、ふわふわしていたんだと思う。
そして私に、1つの不安が生まれた。
「匠さんって何歳なんだろう?もしかしたらけっこう年下かも」
老舗旅館の3代目、就任半年と言えど、インターネットの力を借りて調べるのは容易だった。
34歳ーーー7歳も年下だ。どうしよう。いや、どうしようもない。何を心配してるの?別に恋愛感情あるわけじゃないかもしれないよ?「うわ、けっこう年上だ!」とか思われたらキツイ、立ち直れない。
そんなことを考えて、日曜の夜はほとんど眠れないまま、月曜日は仕事に向かった。夜は匠との食事があるのに…クマはない?お肌の調子は?そんなことを考えながら、お昼休みにスマホを見ると、匠からメッセージがきていた。
「今日、早くお会いしたいから、全力で仕事しますね!20時から21時頃になると思います。遅くてすみません。終わり時間が分かり次第メッセージします。」

仕事を終えて、カフェで時間を潰す。スマホにはあえて触れない。匠からメッセージがこないかな、と何度も見てしまいそうだから。本を読みながら時間を過ごす。いつもはコーヒー派だけど、なんだかシャキッとしたくてエスプレッソを飲む。
21時少し前ーー匠からメッセージが届く。
「遅くなってすみません!もうすぐ終わります。今どちらですか?お迎えに行きますので、どこにいらしても大丈夫なのでそこで待っててください。」

どこにいらしてもって  またいちいち心が揺さぶられるのをめぐみは感じた。
少しだけこうも感じたのだ。 引き返すとしたら今なんだよな。

■第三章 「秋の霧」

鏡を見ながらため息をつくめぐみ。

「仕事帰りのこの時間だもん、仕方ないよね。しっかりメイク直して、気合い入れてると思われたくないし」

あっ!そうだ!私、瑞宝ではお風呂あがりのすっぴんだったじゃん!
初対面がすっぴんかぁ…と急に恥ずかしくなる。「よし!考えても仕方ない!」
カフェの席に戻ると、きょろきょろしている匠がいた。
1人で座ってる女性の近くまで行ってさりげなく覗き込もうとしてる。そんな姿を見て、なんだかかわいく思えた。

「いちいち一生懸命なんだよなぁ」そう小さく呟いた。

「匠さん!」めぐみが声をかけると、目をまんまるにした匠

すぐにくしゃくしゃな笑顔で「めぐみさん!」と向かってくる。
「すみません。頑張ったけど遅くなっちゃって。」「お仕事お疲れ様でした。大丈夫ですよ!」「めぐみさん、ご飯食べましたか?あ、こんな遅くに食べないですよね?」「全然食べますよ!」「よかったー。何食べましょう。」

今日もころころ変わる匠の表情。そして、ころころ変わるのは表情だけではなかった
瑞宝で会った時の着物を着たオーナーの雰囲気とはまるで違う、パーカーにデニムで現れたのだ。「すみません、こんな格好で。びっくりしましたよね?僕いつも家と仕事の往復でこんな感じなんです。さ、何食べようかな」

細い路地裏を慣れた様子で歩く匠。その後ろをついていくと、焼き鳥屋が現れた。決しておしゃれなお店ではない。
「めぐみさん、ここどうですか?」「はい、焼き鳥好きです」「よかったー」また目を細くして、くしゃっと笑う匠。

お店はこじんまりとした席数の少ない造り。扉を開けるとカウンターの中の店主らしき人が「おー、たくちゃん!」と呼ぶ。馴染みのお店なんだな。
「奥空いてます?」と聞くと頷く店主。個室に案内された。

匠は席に着くなり饒舌なトークが止まらない。めぐみに質問するよりも必死に自分から話をして、笑わせようとしているようにも見えた。

楽しい人に見えるけど、もしかしたらものすごく気をつかってくれてるのかも。
だって、旅館のオーナーだもんね。

めぐみがビールを飲みながらそんなことを考えていると、匠がこう言ったのだ。
「めぐみさんて、ほんとよく笑うんですね。」目を細めてめぐみの方を見ながら。
「だって匠さん、ほんと面白い!こんなに笑ったの久しぶりかも。」

たしかに楽しいし、たくさん笑った。でも少し違和感があったのは、匠がする話は「匠自身の話」ではなかったこと。匠の旅先でのハプニング、匠の旅館の従業員の面白いエピソード、この焼き鳥屋さんの大将の人柄なんかを話す。

「あ、やっぱり何か気をつかわれてるのかも」
めぐみは今や扇谷の営業部長だが、もともとは売場で販売員をしていた。
だからこそ、めぐみは人の言葉や態度から、心の裏側まで考える性格なのだ。

きっと一瞬上の空だったのだと思う。
「めぐみさん、どうしました?いまいちでしたか、僕とスタッフが腕相撲して負けた話」
「ふふ、そんなことないですよ」「よかったー、めぐみさん、これから海行きません?」
「え?今からですか?」もうすぐ日付が変わりそうだった。

「風待浜(かぜまちはま)だったら、この時間は道もすいてて1時間ちょいで行けるかな」
だからか!匠はずっとウーロン茶を飲んでいたのだ。
「海いいですね!行きたいです」

匠は車に乗ってからあまり話さない。なぜだろう。匠のペースに合わせてみようと、めぐみも黙っていた。すると「めぐみさんておいくつなんですか?」と聞いてきたのだ。

『きた。この質問来るだろうと思ってたけど、やっぱりきたか。』
すでに匠の年齢は分かってる。
「匠さんは?けっこう若いですよね?」「僕は34歳です。待ってください!当てますね!32歳!」お世辞で言ってるんだろうけど、10歳下に言われたよ。
「残念!ハズレです!」「え?29?27?僕よりけっこう下なんですか?」
いや、もう言いづらいって!
「いえ、歳下じゃないんですよ」そういうのが精いっぱいだった。
「36?37?」小刻みに年齢を言ってくる匠。
耐えられなくなって言った。
「私、42なんです!」へらへら笑うことしか出来なかった。なんだかとても惨めな気持ちになる。
「そうなんですね。歳なんてただの数字!何回もやりとりさせちゃいましたね。でもめぐみさんが年上って、ここ数年で1番のびっくりした出来事ですよ!」

少し他愛のない話をしたけど、やっぱり沈黙になったりした。あぁ、年下と思って声掛けたのに、がっかりさせちゃったかも。もう帰ろうって言った方がいいかなと、窓の外を流れる街灯を数えながら、とても悲しい気持ちになった。

さっきまでのテンションとは違う匠がポツリと話し出した。
「これ、僕誰にも話してないんですけど。僕、前に婚約してて。その彼女と入籍控えて同棲してたんです。でも、ある日家に帰ったら彼女いなくて。電話も通じなくなって。そしたら次の日に彼女の両親が来て『別れてくれ』って言うんです。統合失調症になって入院したって言うんです。僕、その病気のことよく知らなくて。ご両親にどんな病気か聞きました。でも、前日まで笑いながら一緒に晩ご飯食べてお酒飲んだりしてたんです。ひな祭りだったから、彼女が作ってくれたちらし寿司食べて。2人で梅酒飲んで。
それで、ご両親は『もう会わないで別れて欲しい。結婚もなかったことにしてほしい。』って。訳が分からなかったです。」

運転しながら、まっすぐ前を見つめながら話す匠の目は、どこか寂しそうだった。
そしてこう続けた。
「最後に会って話したいってお願いしたけどダメでした。病状が悪化するとか言われて。
ものすごくショックで。それとーーーーーーー」
そう言ってしばしの沈黙の後、深呼吸をして匠は続けた。

「彼女が出ていって1か月した頃に給料をおろそうと思って。給料日の翌日に残高見たんです。そしたら、彼女、僕のお金全部持ってっちゃって。給料日の前日まで残高ほぼ0でした。彼女と暮らしてた1年、お金は全部彼女に任せていて、生活費と毎月結婚資金の貯金をお願いしてたんです。その頃働いてたホテルの給料は決して高いわけではなかったけど、彼女も働いてたし、まさかこんなことになるとは思ってなくて。」
また沈黙になった。

私も聞いていて胸が痛くなるような話。何か言葉を掛けたとしても、それはつらい体験をした匠にとっては何の慰めにもならないだろうし…そう思って何も言葉を掛けられなかった。

「それから僕、彼女が出来ないどころか恋愛も出来なくってしまったんです。あと、精神的なダメージが酷かったみたいで。去年めちゃくちゃお腹が痛くなって病院行ったんです。そしたら前立腺がんの検査するって話になって。出来なかったんです。」

え?なに?何が出来なかったんだろう?めぐみは恐る恐る聞くことも出来ない。
すると匠の口から「精液検査しなきゃいけないのに、出せないんです」
え?なにこれ?この流れでそうゆうことしようとしてるやつ?
え?車走ってるけど叫んで降りる?え?この人急に何言ってるの?
私でそうゆうこと試そうとしてるとか?え?許せない!バカにしないで!

海に向かう道で車から降ろされたらどうなるんだろうとかいろんなことが脳内を巡った。
でももうここは車を降りよう。
「最初に伝えたくて。ごめんなさい。急にびっくりしましたよね、こんな話」

「あ…いえ」そう返すのが精いっぱいだった。
「今いろいろ調べてて。先生は何かきっかけがあれば、まだ年齢的にも回復するだろうって。そうじゃなければ、みんなが知ってるような薬を飲むとかの治療になるかって。でも僕それは怖くて。そしたら医療的な風俗を紹介するからって。行こうとして調べたけど、やっぱり勇気出せなくて。」

え?そんな話をいきなり2人でご飯食べた後に話す?もうがっかりした、心から。
少し沈黙した後に私はこんな扱いされるなんて絶対に耐えられないから、伝えた。
「それは、大変でしたね。でも、まだ会って2回目の私になぜそんな話をしたんですか?私だったら軽くて、そうゆうことが出来そうと思ったとか?」
匠の目どころか、顔すら見ずに強めの口調で言った。

「え!それはないです!そう思わせたならごめんなさい。ただ、僕は女性との交際とか経験も少なくて、めぐみさんと仲良くなりたいのにどうしたらいいか分からないんです。でも最初にこのことは知ってて欲しかったんです。」
車を運転しながら、まっすぐ前を見ているけれど、目はさっきよりも強さを感じるぐらい真正面を見ていて、口元もきゅっと結んでいる。

「そうゆうことをしようと思って声掛けたんですか?それならとても残念です。会ってすぐにそうゆうことすると思いました?失礼ですよ!おろしてください!」
「いや、そうじゃなくて。」その後も匠は「う…」「違うんだけど…」と小さな言葉を呟きながら「嫌かもしれないですけど、家まで送らせてください。この辺タクシー捕まらないですから。」
その言葉に返事をする気力もなくなり、窓の外を眺めながら「来なきゃよかった」そんな気持ちでいっぱいだった。

家の近くのコンビニで停めてもらい、車を降りた。
「ごちそうさまでした。」匠のほうを見ずに俯いたままで。
「いや、そんな…そんなつもりじゃなくて…めぐみさん」
名前を呼ばれた時に顔を上げたら、匠の目は薄っすら涙がにじんでいた。
「すみませんでした。」そう言って、匠は帰って行った。

あー、老舗旅館のオーナーでメディア出てるって言っても変態じゃん!
腹立つけど、もう記憶から消す!終了!

家に帰ってメイクを落としながら、鏡の中の私は呆然とした顔をしていた。悲しい顔ではない。呆れたような、虚無感というか。いたたまれなくなった。
寝ようとした時に真里からLINEがきた。
「今日の瑞鳳くん、どうだった?」
「ひと言で伝えれないから今度ゆっくり聞いて」
「え?なになに!すっごく気になる!明日扇谷行く予定あるから、ランチしよう!」
「うん!じゃあその時に!」

もやもやと吐き出したい気持ちがあるけれど、今日は寝よう。明日真里に聞いてもらう!

今日のランチはガレットが美味しいカフェにした。いつもならパスタや定食をぺろりと食べるめぐみだが、今日は食欲がなかった。
テラス席に座ってメニューを見ていると真里がやってきた。
昨日の匠のパーカー姿や、待ち合わせで1人ひとり覗き込むところが一生懸命でかわいかったこと。ご飯の後にドライブしてたらまさかの婚約解消とお金の持ち逃げ、そしてそれらが原因と思われるEDであることを言われて、帰ってきたことを話した。

「めぐみ、ごめん、展開が凄いのと、話が濃すぎて頭ついてかないよ。うまく慰めることもできなくて、ほんとにごめん。」
「やだ、真里が謝ることじゃない!私も逆の立場なら、びっくりして何も言えないと思う。いいの、聞いてもらって少しすっきりしたから。」
「その匠くんてさ、ほんと、どうゆうつもりでめぐみにその話をしてきたのかって頭にくるよね!でもさ、1個気になることがあってね。実は私も前に1人で瑞鳳止まったことあるの。その時、匠さんが就任してたけど、部屋に挨拶には来なかったよ。それに旅館をタグ付けしてSNSに載せたけど、それにもコメントとかないし、もちろんDMなんてなかった。だからめぐみのことは気に入ってたんじゃないかなとは思うんだけどね。」

めぐみはまたしても複雑な気持ちだった。
真里が言うように気に入って連絡してきたのかもしれないし、
悪く考えたら「あいつならチョロそう」と思われたのかもしれない。
それに今はそのどっちかを考えようと思う気力すらない。
「あ、めぐみーごめん!本社戻んなきゃだ!また近いうちに飲みながら話そう!」
そう言って真里は先に会計を済ませ、店をあとにした。

1人で外を歩く人に目をやりながらいろんなことが頭を巡った。

いろんな人が歩いている。私から見たら若いなぁ、30代かなぁと思う人が、実は40代かもしれないし。幸せそうに見えるけれど、実はさっき婚約者と別れているかもしれない。
人の見た印象と中身って、一致するわけではない。誰もが演じている部分は少なからずある。

久しぶりにドキドキした。それだけで、十分だったことにしよう。
心の中で自分を納得させて、カップのコーヒーを飲み干し、仕事に戻った。

やっぱり、何があっても仕事は嘘をつかない。今日も頑張ろう!
そんなある日、スマホに通知が届いた。

匠だった。あれから1週間が経っていた。
もう会うこともないだろうし、連絡もこないだろうし、するつもりもないと思っていたのに。このまま既読をつけずにブロックしようかーーーーーーーー
既読をつけずに見えたメッセージには「もう一度だけ説明させてほしいです」と見えた。
何を説明すると言うの?会って2回目の私に突然の告白ーーー出せないんですって。何なの?
蓋をしてた怒りがまたこみ上げてきた。
もうメッセージは無視!そう思って既読をつけなかった。
その後SNSを開いためぐみは思いがけないものを目にしたのだ。
瑞鳳をフォローしているのだが、昨日の投稿に目が止まった。
こないだ途中で引き返した風待浜の写真にキャプションがこんな風に書かれていた。
「今日は僕のリフレッシュ方法をご紹介します。
仕事の考え事で頭がいっぱいになったり、自分に余裕がなくなるとこの風待浜に行きます。
子供の頃から慣れ親しんだ海で、大人になってからは1人で行くことが多いこの場所。
誰かと行くときは大切な人と…って思ってます。
僕の海での過ごし方は、ぼーっと眺めることもあるし、釣りをしたり、SUPをすることもあります。…」

大切な人と…
ここから先が頭に入らない。

どれが本物の匠なの?
純粋に一生懸命だったり、敬語を使い慣れてなくてはにかんだり、でも突然体の話をしたり。

もう既読をつけずこのままブロックするか?それとも返事をするか?

めぐみの決断は後者だった。
「1度だけなら。説明お聞きします。」

すぐに既読がついた。
「ありがとうございます!今日はご都合いかがですか?遅くならないように、そして説明だけで長くお引止めしません!絶対に」
「分かりました。」
「19時にこないだのカフェでお願いできますか?」
「はい、ではこないだのカフェで。」

5分前にカフェに入ると、すでに匠がいた。
奥の席、周りに誰も座っていないテーブルに。
「めぐみさん、今日はお時間作ってくれてありがとうございます。」
「いえ。」
やっぱり普通に目を見れないし、どう接したらいいか分からない。

「僕の言葉が足りなくて、きっととても嫌な思いさせてしまったと思うんです。本当にごめんなさい。でもこれだけは言わせてください。僕はめぐみさんのことがいいな、って思ってて。だから自分のこと、伝えておいた方がいいかなってことは、最初に話しておきたかったんです。でもそれは、僕の勝手な都合で、いきなり婚約破棄とかEDの話をされたら嫌だったと思います。僕の知ってほしい気持ちばかりが先走って本当にごめんなさい。
あー、ほんとに僕のこうゆうところなんですよね。」
少し呟くように、それでいてしみじみと最後の言葉を言った匠。
少し沈黙の後に「1番嫌だったろうって思うのは、EDの話を聞かせてしまったことです。本当にごめんなさい。でもこれだけは信じてください!僕はすぐにそうゆうことをさせて欲しいとか、させてくれそうだからってめぐみさんに話したわけじゃないんです。」
「じゃあ…」
「あー、やっとめぐみさんの声が聴けた」そう言った匠の顔は心から安堵した子供のような表情で、また目に薄っすらと涙が浮かんでいる。
「じゃあ、なんでいきなりあの話をしたの?」「それは、本当に僕のことを知ってほしかったからです」「知ってほしくても、いきなりあんな話をされると…ちょっと。」
「ダメですか?」急に強い口調で匠が言った。目はまっすぐにめぐみを見ている。
「好きだから。早く自分のことを知ってほしいから。だって僕、自分に自信ないんです。久々に好きな人が出来て、距離感とかわかんないし、EDにもなってしまったし。そんな僕でもいいのかな、って。それはお付き合いする前に伝えた方がいいと思って、ああいう言い方になってしまって。」「え?付き合いたい?」
「はい。あの日、海でお付き合い申し込もうと思ってたんです。だから海に着くまでに婚約破棄とお金の持ち逃げとEDは伝えなきゃって」

めぐみは頭を殴られたぐらいの強い衝撃でふらふらしそうだった。
本気で私と付き合いたいと思ってるの?全く匠さんの心が分からない。カフェで1人ずつ顔を覗き込むように私を探したり、目を真ん丸に私の話を聞いたり、くしゃくしゃの笑顔になったり。まっすぐで一生懸命なんだなとは思う。でもよく考えてみて。あの瑞鳳の若きオーナーだよ?お店のSNSからメッセージ送ってくるとか、本当は遊んでるかもしれない。私のこともED治すための道具として利用しようとしてる?今起きてることを考えたら道具として…って思う。そしてそれは女性として悲しすぎるし許せないこと。でも、真剣なの?ころころ変わる匠の表情と、「半年お揃いですね」なんてかわいい言葉がぎゅっと胸を苦しくさせた。

「ごめんなさい。」めぐみがやっとふり絞ったひと言。
匠は目を大きく見開いたまま動かない。
少しの沈黙の後、大きく息を吸って目元と口元が緩んだ。これから何か言うぞという決意のような聞こえない「よし!」という掛け声が聞こえてきそうな雰囲気だった。
「分かりました。僕、必死になり過ぎて嫌な思いをさせてごめんなさい。はっきり振ってくれてよかったです。せめてこのコーヒー飲み終わるまで、めぐみさんと居させてもらえませんか?」優しく、それでいてまっすぐなまなざしで匠はめぐみを見ている。
ぎゅっと苦しくなった胸が、またひとつぎゅっとした。

「ちが…違うんです。いや、違わないか。私、匠さんのことまだ知らないし、困惑してるんです。だから、もう少し時間をかけてというか。今はお返事出来ないけど、少し待ってもらえませんか?」
匠は下を向いてしまった。鼻をすする音が聞こえる。「本当ですか?」と言いながら上げた顔には涙が光っていて、一生懸命笑顔を作ろうとする狭間で耐えしのいでいた。
涙を流しながら懸命に作った笑顔で匠は「ありがとうございます!めぐみさんにそう思ってもらえたのが嬉しくて。お断りのごめんなさいだと思ったから、う…うぅ…めぐみさん、僕の心をめちゃくちゃ揺り動かすじゃないですか!でももっと揺り動かされてみたいです!待ちます!めぐみさんのお返事待ちます!」言い終わった匠は、34歳の高級旅館のオーナーの顔ではなく、作文発表をうまく読み上げられた小学生みたいに誇らしげな表情を浮かべていた。

その日から、匠からのメッセージはこなかった。
「待ちます!」と涙を流したり、誇らしげに自分の思いを伝えたぞ!って表情をしたり。
あの日のカフェでの匠の表情の変化を1つずつ噛みしめていた。

「めぐみーめーぐ!ね?聞いてる?」真里の呼びかけにハッとする。
「あ。ごめん!なんだっけ。」
「もうーごめんじゃないよ!Briller(ブリエ) の店長の件でご迷惑をお掛けして申し訳ございませんってお話ね。でもね、決して扇谷を軽んじてるわけじゃないの。彼女はBrillerの店長陣でも1番の売上、マネジメント力、百貨店との交渉力があるのよ。だから扇谷の店長に抜擢したんだよ。でもさ、妊活したいから店長業務は外れたいって、半年前からの申し出でさ。次の子も私がよく知ってる子だから!ね?よろしくお願いします。」
「うん、山景(やまかげ)店長のことはもう大丈夫。」
「え?どうしたの?めぐみさ、ほんと最近心ここにあらずだよ!また瑞鳳くんと何かあった?」
「実はね…」あの日涙を流したり、きらきら笑って誇らしげな表情をした匠の話をした。
「え!あの旅館のオーナーだよね?たしかにSNSで瑞鳳への想いとか、お客様への想いとかオーナー代わってからすごい出してるよね。たまに従業員とのオフショットも楽しそうでさー、いい人なんだろうなって思う。変に高級じゃないって言うか。もちろん瑞鳳は高級旅館なんだけど、親しみやすさをプラスした、みたいなのあるよね。なんか昨日もあがってたような…」そう言って真里が瑞鳳のSNSの画面をめぐみに見せた。
そこに映ってたのは風待浜だった。海を見つめる匠の後ろ姿は、黒いラフなジャケットにベージュの細身のパンツーーー
パーカーにデニムはSNSには出さないんだ。そりゃそうだよね、瑞鳳のイメージだもん。そのキャプションには「僕の癒し時間 子どもの頃から大好きな風待浜 仕事の前や仕事終わりに ここ最近はよく訪れています #大切な場所 #大切な時間」

胸がぎゅっとなった。

#大切な場所 #大切な時間

自分のスマホを取り出し、SNSを開くとそこにあったのは
瑞鳳のストーリーズだった。いつもとは違う、緑色の枠があるのだ。「親しい友達限定」
公式のインスタでもこうゆうのあるんだ。しかも私が親しい友達に登録なんて。
そう思って緑の枠をタップすると

向こうに山を見ている後ろ姿の登山男性の写真と
メンションされているアカウント@takumi.F
「僕の趣味アカウントです。よかったらフォローしてください」
非公開のそのアカウントは、明らかに匠のものだった。

一瞬息をするのを忘れてしまった。
え?何?これってみんなにやってるの?それとも親しい友達が何人かいて流してる?え?分かんない。

とにかく混乱しかない。
「ねえ真里、瑞鳳のストーリーズで登山男性の写真流れてる?」
「え?ちょっと待ってね。…ん?ないよ。今日はストーリーズ自体あがってないけど。」
「ねぇ、これ匠さんだと思う。どうゆうこと?ねぇ、真里ー、私どうしたらいい?」
「めぐみ、待って!何があったかから教えて。」

それからめぐみはあの日の出来事を真里に話した。
堰を切ったように一気に話して止まらない。真里は途中で口を挟むことなく、ずっと頷きながら聞いてくれた。
「そっか。瑞鳳くんは待ちますと言ったきり連絡はない。そしてこのストーリーズが流れたんだね。」
「うん。なんかさ、いちいち嬉しくなったり、落ち込んだり、匠さんといると感情がジェットコースターみたいに揺さぶられるの。でも…」
「でも…何?」
「でも…でもね、こうゆうことをSNS使って誰にでもしてるんじゃないのかなって。だって34歳だし、遊びたいでしょ?あの瑞鳳のオーナーだもん!女の子が寄ってくると思う。」
「めぐさー、遊びたいのも女の子が寄ってくるのも、見た?違うよね?そう思うだけでしょ?」
「いや…そうなんだけど…でも」
「『こうゆうチャラい男だろう、だからやっぱり断る。でも、信じてみたい』なのか『分かんないけど心の声が“好き”しかなくて他は考えられない』なのかさ。どんな感情なの?それはめぐみにしか分からないけど。後悔だけはしてほしくない。私たちもいろいろ経験積んでるからさ、あれこれ動く前に考えちゃうしね。きっぱりやめるのもありだし、飛び込んでみて嫌なら引き返すもありだしね。どんな答えでもめぐみを応援するし、いつでも味方だから。」
「真里ー。ありがとう。」

事務所に戻っていつものように部下たちと打ち合わせをするめぐみ。
いつものようにではない。いつも以上に気合が入っているのは、何かが吹っ切れて前に進む強さすら感じる。

「お疲れさまー」
「部長、お疲れ様です!」
颯爽とオフィスをあとにするめぐみ。
あのカフェへ向かう。匠と2回会ったこのカフェ。3回目だけどなんだかもう常連になったような気持ちなる。
マンデリンを飲みながら、スマホを眺めるめぐみ。瑞鳳のストーリーズを開く。
そこにメンションされている takumi.Fのアカウントをタップする。
アカウントに飛んだ。「フォロー」ボタンを押す。
不思議と迷いや、ボタンを押すときの躊躇い、ジェットコースターのような感覚はなかった。
なんかもう、匠さんのこうゆうのに慣れたのかも。そう思ってふふっと笑った。
そりゃそうだよ、まだ3回しか会ってない匠のことが分かるわけがない。
でも今の私の1番の気持ちは「匠さんという人を魅力的に感じていること」そして「もう少しどんな人なのかを知りたい」ということ。
恋愛感情とか、付き合うかどうかとか、それはまたその次のお話。
そう自分の中の答えが出た時、自分で決めて「フォロー」のボタンを押せたとき、
清々しさすら感じた。
最近大好きな読書が全然できてなかったなぁと、めぐみは久しぶりに富永あおいの本を開く。最近こうゆう時間、取れてなかったなぁと思いながら。

深煎りコーヒーを飲んだ割には、その日はよく眠れた。
そういえば、匠さんのアカウントフォローしたけど、どうなったんだろう。

フォローが承認されていて、匠からめぐみのアカウントもフォローされていた。
DMには「ありがとうございます!こちらでもよろしくです!」

ひとことだけか。ちょっと寂しい気もしたけど。

匠の個人アカウントは旅や料理の投稿が多くて、たまに友人や家族たちとの写真があげられていた。ここ最近は投稿してないんだ。
しかしストーリーズが頻繁に更新されていた。

ラーメンの写真にひと言「やっぱり“まさ屋”の塩はサイコー」とか
文字もテキストじゃなくて手書きで書いてることがあって、匠の親しみやすい人柄を表していた。

そのストーリーズにコメントをした。「私も“まさ屋”は塩派です」

その日の夜遅くに匠からメッセージが来た。
「めぐみさん!個人のインスタありがとうございます!バタバタしててちゃんとメッセージ送れてなくてすみません。でもめぐみさんも塩派って知れてよかったです!僕たち好きなラーメンもお揃いですね!」

出た、匠さん「お揃い」って好きなのかなぁ。かわいい。
「お疲れ様です。お仕事忙しいんですね!じゃあ落ち着いたら美味しい塩ラーメン行きましょう」

すぐに既読がついた。「行きます!さすがに今日はダメですか?」

思わずくすっと笑ってしまった。時間は20時を回ったところだ。
「いいですよ!何時頃になりそうですか?」
「あと1時間ぐらいで終わりそうです!でもめぐみさんと塩ラーメンなんで、もっと早めれるように頑張ります!待っててくださいね。」

21時を少し過ぎた頃にメッセージが届いた。
「めぐみさん、終わりました!頑張ったけど早めれなくてごめんなさい。お家に迎えに行きますね!」

2人で塩ラーメンを食べた。
あの瑞鳳のオーナーが、普通にラーメンを食べるんだ。なんか意外というか、親近感がわいた。
ラーメンを食べて車に乗ると、匠が口を開いた。
「めぐみさん、もう少しおしゃべりしたいんですけど、僕明日は早朝から仕事なんです。TDJの密着1日のロケがあって。あぁせっかくめぐみさんに会えたのに、もったいない。」
おもわず笑ってしまった。「もったいないって!」
「だってそうじゃないですか!僕、今めぐみさんのこと待ってる身ですよ。ここは男らしくめぐみさんの気持ちを優先して、何回も会いたいって言うとか、デートに誘うのを我慢してますよ!」めぐみはまた笑ってしまう。
「何がそんなにおかしいんですか?」
「だって。ふふ…匠さん、いつもまっすぐで一生懸命で真剣で。そうゆうところが素敵だけどかわいいなって思っちゃって。」
めぐみの言葉を聞きながら、匠は目を見開いたり、照れて何度も首をかしげたり、ニヤニヤしていた。
「明日の早朝からのロケ、頑張ってください。私は逃げも隠れもしないので。ロケ落ち着いたらまた。」
「はい!ロケ落ち着いたら必ずまた!」

そう言って、めぐみを家に送り届けて匠の車は走り出した。

次の日の夜。
めぐみはリビングでドラマを見てぼーっとしていた。そろそろ寝ようかな。
そんな時にスマホの通知が鳴った。
匠だ。
「めぐみさん、ロケ落ち着きました!さすがに今からは難しいですか?」
「ロケお疲れさまでした。もう寝ようとしてすっぴんパジャマです。」
「そうですか。少しでもお会いするの難しいですか?」
「うーん、これからメイクして着替えたら30分はかかるからまた今度にしましょう。」
「メイクしなくてもいいじゃないですか!窓の外見てもらえますか?」
え?何??カーテンを開けると窓の外に匠の車が見えた。
「匠さん!びっくりするじゃないですか!」
「ごめんなさい。でもロケ落ち着いたらめぐみさんに会えると思って。それで朝から頑張って。ロケ終わって気づいたらめぐみさん家に来ちゃってました。ちょっとだけでも会えないですか?」
「分かりました。降りますね。」
メイクはせずに髪だけとかして、スエットを羽織りデニムを履いて部屋を出た。

匠の車をのぞき込むめぐみ。
助手席の窓が開く。
「めぐみさん、ありがとうございます!ちょっとだけ、ドライブしませんか?」
「ちょっとだけなら」そう言って助手席に乗り込むめぐみ。

匠はじっと前を見つめて運転している。あんなに強引な割には会うと話さないのか。
「ロケどうだったんですか?」
そう言ってロケの話を聞いた。今回は「若き経営者」を繋ぐリレー形式のコーナーで匠と瑞鳳が紹介されるのだそう。いつもの会話の前のめりさは一切なく、落ち着いたトーンで淡々と、でも深みがあるというか自信をもってロケの話をする匠。
「匠さんからお仕事のお話聞くのって初めてですね。なんか新鮮。」
「え、そうでしたっけ?」
「はい。なんかいつもお話してる時と全然違いますね。」
「え?どんなふうに?」
「大人っぽいというか、しっとりしてて、でもその中には凛とした自信があるというか。」
「え!恥ずかしい!なんか僕、調子に乗った感じで話してたらすみません!!」
「調子に乗るとかないですって。ふふ。むしろ調子に乗ってもいいじゃないですか。だってあの瑞鳳だし、匠さんがオーナーになってから新しいことされてて、世間の注目も集めてるし。それに私、地元の企業や学校と協業でいろいろ取り組まれていること、素晴らしいなって思ってます。自分たちの組織だけじゃなくて、周りも豊かになるようなそんな取り組みされてるの、とても素敵です。」
匠は黙ってしまった。
「匠…さん?すみません、私変なこと言っちゃいましたか?旅館のプロでもないのに、失礼な事言ってたらごめんなさい!」
匠はまだ黙っている。少ししてから息を思い切り吸い込んでこう言った。
「嬉しいです!めちゃくちゃ嬉しい!!僕のやってることをそんなふうに思ってくれる人がいることもですし、僕の好きなめぐみさんはやっぱりすごいなって。いろんなことを深く考えられる人なんだなぁって。そう思ったら…すみません、すぐに言葉出なかったです。」
また匠は、目をキラキラさせて小学生が作文を読み終えた時のような、そんな清々しい表情をしてめぐみを見ていた。

お願いだから、そんなまっすぐな目で見ないで。
そしてその表情や態度の変化球もやっぱりなんか…。

「名残惜しいけど、ちょっとって言ったから、帰りますか。」
そうキリっとした表情で匠は言った。
「はい。そうですね。」
「え?ほんとに帰っちゃうんですか?」
いや、だから…もう!めぐみの顔は一気に笑顔になった。
「そうですよ!また会えるんだから、ね?」
そう子供を諭すようにめぐみは言った。
少しすねたような、唇を尖らせるようなそぶりを見せる匠だったが、あっさり了承した。

次の日、ランチを食べながらめぐみはスマホを眺めていた。
そして一通のメッセージを送った。

「答え、出ました。
今夜会えますか?例のカフェで。」
相手は匠だ。
すぐに返信が来た。
「大丈夫です。お時間決まったら連絡ください。」

カフェに行くとすでに匠がいた。小さく手を振っている。
匠の前に座る。
匠が何かを言いかけそうになった時、かぶせてめぐみが言った。
「付き合いましょう」
匠は目を真ん丸にしたまま、しばらく動かない。
「……え?」
「だから、付き合いましょうって、私たち。」
匠がゆっくり目を細めて、くしゃくしゃに笑う——でもいつもより少し遅い。拍子抜けした後に、じわじわと嬉しさが来る感じ。薄っすら目に光るものが見えたけど、言わない。
こうして私たちは付き合うことになった。
最初に好きになったのは、匠のほうだったはずなのに。

■第4章 「シャンパンタワー」


『田みや』でめぐみは真里、優とともに日本酒を飲みながらひらめの刺身に舌鼓を打っていた。「幸ちゃん、今日も美味しすぎるよ!」「ほんと!しあわせー!」
「ありがとうございます!他にもツブとか甘エビもよかったら」幸一が頭を下げて空になったおちょこを下げる。「同じので」「なんか今日いつも以上に楽しそうですね」「うん!分かるー?だって、ね?めぐみー?」そう言われてめぐみは「まぁまぁ」という手振りをする。「めぐさんどうしたんすか?部長からさらに出世ですか?」「幸ちゃん!それは聞き捨てならないわー!」そう言って不貞腐れる表情をするめぐみだが、目じりと口元のニヤニヤが止まらない。「扇谷の部長さん、仕事だけじゃないんですからねー!ね?めぐー?」
めぐみを中心に、いつも以上に盛り上がっているのは、言うまでもない。
めぐみが匠と付き合い始めたことを真里と優に報告していたからだ。

「どうぞごゆっくり」そう言って幸一は厨房に入っていった。

「で、めぐたん!どうなの?瑞鳳くんとは?」「ね!聞きたい!聞きたい!」
「そんな、2人とも盛り上がりすぎ!別に大人なんだから普通だよー。」
「えー、普通って!だって6つ?7つ?下だっけ?」「うん、7つ下だよ」
「すごいよね!私そんな年下と付き合ったことないもん!優はある?」「年下はあるけど7つはないなー。めぐみは年下って…」「何人かいたよー」そう言ってまたにんまりするめぐみ。
「何よー、もうひと言話すごとに幸せオーラが出ているんだから!」
「そういえばさ、めぐみと付き合ってから瑞鳳のSNSちょっと変わったよね。オーナーの後ろ姿のストーリーズ多かったのが、正面からの顔出しとか増えたよね!」「真里も思ってた?私もそれ思った!」「え?2人ともチェックしすぎじゃない?」とめぐみが言う。
「だって!親友のダーリンが経営者なんだから、ねー!」真里と優は嬉しそうに声を合わせて「ねー!」と言った。

そっか。2人にはそんなふうに見えてるんだ。『匠さんが自信をつけた』と言えば、心当たりはある。でもこれは2人の秘密だから、絶対に2人には内緒。

匠と付き合う前に告げられた『ED』の話。
実際にはじめての夜、そうだった。匠は何度も落ち込んで、「やっぱりだめだ」「俺、ほんとにごめん」「どうしたらいいの」子供のように目をうるうるさせていた。恥ずかしそうに目を反らして、布団の中にもぐりこむ姿は「本当にあの瑞鳳のオーナー?」と思うほどだった。
そのうるうるしている表情を見て、たまらなく愛おしくなった。お腹にいる胎児のように布団の中で丸くなっている匠を抱きしめた。匠はこれが好きだったようで、抱きしめられるとうとうとしたり、親指をしゃぶるようになった。普通に考えたら34歳の彼氏がこんな姿になるなんて、みんなひくと思う。今まで人並みに恋愛をしてきためぐみにとって、こんな経験はなくて「守りたい」そう心から強く思ったのだ。
少しずつだけど克服出来そうになってきたある日、いざめぐみの中に匠が入ろうとした瞬間、匠が泣きそうな声で半ば叫び声に近い声でこう言った。「分かんない!動き方が分かんないの!どうしたらいい?」

『ED』だけじゃなかったんだ。
うまくいかなかった日も、2人で映画を見たり、ケーキを食べて、『そのこと』だけに集中しないようにと、めぐみは雰囲気づくりを精一杯した。
「私にこんなにおもてなしされるのは、外商のお客様か匠さんだけよ!」そう心の中でほのぼのした気持ちで呟いていた。
ある日、ついにうまくいった日、匠は泣いていた。
萎えそうになっても何度も「まだ頑張る!」「まだイキたくない!」「もっとこのままでいたい!」そう言いながらうまく出来た時はびっくりするぐらい泣いていた。

2人が言っていた『自信がついた』
その言葉にめぐみの胸はぎゅっとした。
匠が少しずつ変わっている---そんな感覚があった。うまく言葉で言い表せないけど。
匠が車で迎えに来た時、少し準備に時間がかかって車内で待っていた匠。車に乗り込むときに窓をコンコンとしたら、今までに見たことのないぐらいびっくりした表情を浮かべていたのだ。その時は「急に現れて驚かせたかな」ぐらいに思っていたのだが、触っていたスマホを体を捩るようにして私に見せないようにしていたのは、気のせいだったのだろうか。
何度か、待ち合わせた飲食店のカウンターや、めぐみが遅れて現れると『びくっ』とした反応と、スマホを急に隠すような態度が気になっていた。

まさかね。他に誰かいるの?

そんなことを思ったりもしたけれど、今までの匠の一生懸命さやまっすぐさを思い出すと「気のせい」そう思ってやり過ごしていた。

匠は付き合ってから以前ほどいろいろな話をしなくなった。「釣った魚に餌をやらない」タイプだったのか、と少し残念に思ったが、交際経験が少ない上に、女性経験のない匠が、付き合う前は精一杯頑張っていたわけで。これからは「こうされると嬉しい」とか「悲しい」を言葉にして伝えていこう。

あの頃のめぐみは、『自分を納得させていた』ように思う。
「匠は不器用なだけで、私を愛してるんだ。」って。

ある秋の日だった。「紅葉見ながら入れる温泉行きたいね。」そう言ったのは匠だった。多忙でなかなか休みが取れない時期だったから、「自分のために休みを調整してくれている」そんな匠の気持ちが嬉しかった。でも、その願いはかなわずに、紅葉温泉は中止になったのだ。匠の仕事が立て込んでしまったのだ。ならば仕方がない。
でも「今回は行けない」と言われたあと、匠とのやり取りに違和感を感じた。
「めぐ、ごめん!先月のテレビ放送の影響で予想以上に予約が入って。紅葉温泉今回は行けないや。」
「分かったよー気にしないで!紅葉はまた来年行こうね!」
「来年は地球がないかもしれないな。」

え?一瞬息が止まるかと思った。匠は冗談で言ってるのかもしれない。でも考えてみたら、匠とは来年の話はおろか、先の話をほぼしたことがなかった。
来年というより『未来』の話。「オーナーだから。瑞鳳が第一だから。先の予定は分からない。」こう言われたこともあった。
その言葉を言った匠は、めぐみの目を見ずに握ったハンドルとその先の景色に目をやっていた。まるでめぐみの視線を避けるように。『俺の未来』という視界に入れないよ、という『壁』のようなものをこの頃から感じ始めていた。

『壁』だけではない。驚く発言があって、距離を置いていたこともあった。
それは同窓会に行った匠が、帰りがてらめぐみの家に来た時のこと。
その最中に匠がこう言ったのだ。めぐみの上で腰を動かしながら。
「ねぇ、このまま顔に出してもいい?」
「え?ちょっと…無理。やだ。」
「えー!なんでー!友達みんなやったことあるって言ってた!俺だってやってみたい!ほんとにダメ?」
「いや、ごめん。無理だわ。」
「じゃあさ、動画撮ってもいい?」
「え?匠さんどうしたの?」
「どうしたって、撮りたいの」
「撮ってどうするの?」
「ストーリーズにあげる!みんなに見せつける!俺のがめぐに入ってる、『ここ』の部分思いっきり載せるんだ!」
「いい加減にして!もうやめる!しない!帰って!」
そう言って上で腰を動かしていた匠を重いっ切り押しのけた。

「え?めぐ?」
「私、こうゆうこと言われたこともないし、もちろんされたこともない!こうゆうのって大事に扱ってる彼女にはしないことだよ?風俗とかセフレにやることだと思う!私のことそうゆうふうに見てたの?」
めぐみが強い口調で半分泣きながら一気に言ったので、匠はびっくりしていた。
「めぐ、ごめん。俺…」匠は開いた口が塞がらないまま、何も言えずにいた。
「ごめん。少し会うのやめよう。今日はもう帰って。」
匠に背中を向けて、パジャマを着てベッドからめぐみは出て行った。
服を着ながら「めぐ…俺ほんとにそんな…」ふり絞るように小さな声で言う匠。
めぐみは匠のほうを見ようともしない。
「めぐ、帰るね。本当に、今日はごめんなさい。」
めぐみは、その言葉に返事もせず、顔を上げることもしなかった
玄関のドアが開いて、匠が出て行ったのが分かった。
めぐみは、悲しさや悔しさでいっぱいになった。リビングで泣いた。

それから匠からは連絡はなかった。めぐみからも連絡はしない。
そんなある日、匠個人のSNSのストーリーズが赤く色づいていた。
「あれ?そう言えば最近匠さんのストーリーズってあがってなかったような?何かあげたのかな」深く考えずにタップすると、風待浜の夕日の写真にめぐみの好きな月岡りょうの曲が重ねてあった。そこに浮かぶ文字「大切な場所 大切な人」

え?これって…不器用な匠さんの精一杯の私への『ごめんね』なのかな。

頭の中で月岡りょうの曲がリピートする。匠の車でよく聞いた曲。涙が溢れてきた。
時計は0時を過ぎていた。一瞬のためらいはあった。でも心が先に動いた。
スマホの画面には匠とのトーク画面。そこにめぐみはひと言打ち込んだ。「会える?」と
すぐに既読がついた。「今から行く」
インターホンが鳴る。モニター越しに見えた匠はすこしだけやつれたようにも見えた。
部屋に入ってきた匠は何も言わずにいつものようにソファに座る。
「久しぶり」匠のほうを見てめぐみは声を掛けた。
「久しぶり」顔を上げないまま、伏目がちに匠は言う。
しばらく沈黙が続く。ダイニングに座っていためぐみは、ソファの匠の隣に座る。
匠は何も言わないし、めぐみのほうを見ない。めぐみが匠のほうに向こうとすると、匠はめぐみの両掌を持って、自分の頬に当てた。そしてじっと目を閉じる匠。
「匠さん?どしたの?」
何も答えずに、閉じたままの匠の目じりから涙が滲んでいた。
「このまま。めぐ、もう少しこのまま、いい?」
「うん。いいよ。」
すると匠は、いつもベッドの中でそうしていたように、体を丸くして、私の両腕の中におさまろうとした。私はそれを受け入れると、匠は安心した表情を浮かべて自分の親指をしゃぶり始める。
私は知っていた。匠は裸で抱き合う時よりも、この恰好をしている時のほうが何倍も興奮しているのだ。その興奮は、久しぶりにあったからか、いつも以上にめぐみの体に熱を帯びて伝わってきた。
「匠さん…熱くなってるよ」
何も言わずに、赤ちゃんだった匠が大人の男になる瞬間。急に荒々しくなる巧みのスイッチ。

「めぐ、ごめん。久しぶりだったから早かった。」
「いいよ」そう言って荒々しさから、また赤ちゃんのように丸まった匠の頭を撫でる。この人の本当の姿はどこにあるんだろう。ふとそんなことを考えた。
丸くなって親指をしゃぶる赤ちゃんのような姿も、
荒々しくなって乱暴になる姿も匠。
涙を流したり、眼を真ん丸にしたり、ころころ表情を変えるのも、
来年の話をするとはぐらかすのも匠。

そんなことを考えながらベッドの中で匠が口を開いた。
「めぐ、元気だった?ちゃんとご飯食べてた?」「俺ね、こないだ熱出たけど、仕事出てて、ふらふらしてたの。」「そうだ、こないだお客さんに“今度キャバクラでも”って誘われた。俺行ったことないんだよね。なんか怖くて苦手。」

セックスの後、いつもは赤ちゃんになったまま眠る匠が、今日は珍しく饒舌だった。
「熱ってもう大丈夫なの?」
「うん。大丈夫。でも今日めぐのとこに来たから、熱出てるかも。めぐ看病してね!」そう言って唇を尖らせてみせる。
「はーい。看病するね!」そう言って、胸のあたりをトントンとすると匠はまた目を閉じた。
「匠さん、キャバクラ苦手って意外だね。」「そう、それよく言われる。この歳で行ったことないっておかしいかな。」「おかしくはないと思うけど、怖いの?」「うん。なんか雰囲気が苦手。病気とかも怖いし。」「え?それって風俗のことじゃなくて?」「ううん。ドレスのお姉さんのところ!怖いの!」「よく分かんないけど、怖くても行かないなら大丈夫でしょ?」そう言って目を閉じてる匠の胸をまたトントンとする。匠は眠りに落ちていった。

あれからまた匠と会うようになった。会うと言っても、最近は仕事が忙しいらしく、仕事帰りにめぐみの家に泊りに来ることがほとんどだった。
ある日の昼休み---めぐみは部のメンバーとランチをしていた。
みんなで冬休みの話題になり盛り上がっていた。入社3年目の夏帆がこういった。「年末年始に銀山温泉に行こうと思ってるんです。」みんなが「わー!すごい!」「あの銀山温泉?」と話していた。めぐみも行きたいと思っている憧れの温泉宿がある。「夏帆ちゃんすごいね!冬の銀山温泉なかなか予約取れないでしょ?」「そうみたいですけど、今回は彼氏が私の誕生日だからって頑張ってくれました!」みんなが「いいなー」「いい彼氏ー」とさらに盛り上がる。この風景を見ていて、めぐみは今の営業二部は仕事もみんなで協力しているし、成果も出せている。そしてたまにはみんなでランチして、ちょっとプライベートな話もする。みんなのことが大好きだなぁと目を細めて見ていた。すると向かいに座っていた課長の山﨑がこう言った。

「白川部長は今年の冬休みはどこ行くんですか?」

どこだろう。匠さんと行きたいなぁ。紅葉温泉が流れたまままだ旅行してないし。

「そうだねー。どこにするか迷ってるところ。」そう笑顔で山﨑に答えた。

帰宅してソファに座るめぐみ。

「白川部長は今年の冬休みはどこ行くんですか?」
山﨑の言葉が蘇る。
匠さんに冬休みの予定聞いてみようかな。

最近の匠は、以前にも増して仕事が忙しいらしい。たしかにメディアへの露出も以前より増えている。付き合い始めた頃との違いは、外で食事をすると声を掛けることがあるのだ。最初は匠も愛想よく対応していたが、何人からも声を掛けられると受け答えが面倒になってきたようだった。その気持ちが表情や態度に現れることもあって、めぐみはヒヤヒヤすることがあった。
「匠さん、さっきの人大丈夫なの?」「何が?」「だって匠さん、目も見ないで対応したから。『瑞鳳のオーナーさんですよね?』って瑞鳳の名前出されてたからまずいんじゃないかなって。」すると匠の顔から表情が消えた。そして無言のまま食べかけの焼き鳥に口をつける。
『あ、怒ったな』そう思った。匠の感情は見ていても単純明快で、怒ると無言になることが多い。めぐみもだまって目の前のだし巻き卵に箸をつける。
「めぐさぁ。」
「ん?」
「俺が忙しくてもこうやって会う時間作ってることどう思ってるの?」
「どうって。嬉しいし、ありがとうって思ってるよ。」
「じゃあさ、ああゆうこと言えなくない?俺はめぐとの時間を大切にしてて、だから他の人に邪魔されたくないの。それでむすっとしたら、大切にしてるハズのめぐに注意されるなんて本末転倒だと思う。」めぐみのほうを少しも見ずに匠が言った。
「え…あ…ごめん。もちろん嬉しいんだけど、でもやっぱり瑞鳳の看板背負ってるから、瑞鳳のためにと思って言っちゃったんだ。いやな気持ちにさせたならごめんね」
「もういい。」「ごめん!って」「めぐは俺の大変さ全然わかってくれない!」
こうなり出すと匠は止まらなくなる。ひたすら謝って、なだめて、家に連れて帰るしかない。
「うん。ほんとにごめんね。これ飲んだらお家帰ろうか。」

怒った日の匠は、家に帰るといつも以上に甘える。外で思いっきり怒った後のお決まりコースになっていった。「めぐ、一緒に来て」そう言って、帰宅してから、トイレもお風呂も全部一緒。お風呂の中でもずっとめぐみの胸に顔をうずめている。最近思う。匠はよく「めぐのおっぱいが好き」と言う。それが、セックスをしている時の男性としての興奮ではないことをめぐみは感じていた。『胸』や『乳房』ではなく『おっぱい』という表現があまりにも的確過ぎるのだ。セックスをしないで、ずっと乳首を口にほおばり続けることもよくあった。そして、そのまま安心したように眠りに落ちることもあった。

匠さんにとって私って何?ーーー考えたくない答えが一瞬頭に浮かんだが、かき消すように乳首を頬張る匠をそっと離し、めぐみが匠の上にゆっくりと腰を沈めていく。
「あっ…めぐ…あ…」ほら、違う。さっき一瞬浮かんだ答えを忘れるように、めぐみは匠の上で激しく腰を動かした。

朝、匠が帰っていく背中を見送ったあと、めぐみは考えていた。
「旅行の話、出来なかったな。」
そしてこうも思った。「なんか最近、匠さんの前で本音が言えないし、怒らせないようにとか、なだめようばっかり考えてる。これでいいの?私」

その日の夜、めぐみは匠にメッセージを送ろうとしていた。
文章を打っては消してを何度も繰り返す。
「いいや!これで嫌われてもいい!自分を押し殺してまで付き合わなくていい!」
そう自分に言い聞かせて送ったのだ。
「匠さん、ちょっと話したいことあるんだけど、時間作れる?」

いつも既読がつくのが早い匠だが、いっこうに既読にならない。
翌日、既読はついたけど返事は来ない。
瑞鳳のSNSを見る。匠があげたのだろう、スタッフのオフショットのストーリーズがあがっていた。
「よかった。体調崩して休んでるわけじゃないんだ。」ほっとしたけれど、
じゃあ、なんで?ーーーその想いが胸を突き刺した。
1週間待った。「匠さん、大丈夫?元気?」返事がないところに送るのは嫌だけど。
すると朝送ったメッセージは、翌日の日が変わる頃に返信が来ていた。
「元気ではないかな。ずっと体調スッキリしなくて」
「そうなんだ。お大事にしてね」
既読はついたが返事はなかった。

最近の怒りっぽい匠の様子もあって、めぐみは嫌な違和感のようなものを感じていた。
匠さんと話がしたい。
「旅行に行きたい」ただそれを伝えて、日にちや場所を相談したかった。
ただそれだけだったのに、『話したい』ってそんなにまずかったかなぁ。

その日めぐみは、大学時代の先輩 綾子とスペインバルに来ていた。
綾子は同じ大学の1年先輩であり、バイト先の先輩でもあった。今はご主人と一緒にワインバーを経営している。学生時代から学内でも目立つ美人だったが、年齢を重ねてもなお綾子は美しい。そしてとにかく話題が豊富でよく笑い、よく飲むのだ。
綾子に匠の話をした。
「なんか、なかなかよね、その彼氏。」
「…」何も答えられずにいる。
「でもさ、聞いててめぐは彼のこと大好きなんだろうなって思ったよ。」
その時、咄嗟に「そうです」と言えなかった。何かが胸につかえている感覚。
私、匠さんのこと好きなのかな?
付き合う前や、付き合った頃の一生懸命でまっすぐな匠さんが好きで、今はどう?
ずっと機嫌損ねないようにびくびくして、楽しめてない。

「綾子さん、私彼のことが好きか分かんないです」
「そっかぁ。今聞いてたら相当しんどそうだもんね。めぐはどうしたい?彼がどう思うとかじゃなくて、めぐが今本当にしたいことは何?」
「匠さんと本音で話したいです。」
「よし!じゃあ、今から瑞鳳行こっか!」
「え?それは、ちょっと、まずい…え?」
「冗談!でもさ、彼と連絡が途絶えても最悪ちょっと顔出してみて『話せる?』ぐらいは言えるよねってこと。極端だし、彼の立場もあるからそれはもちろんしないめぐだって分かってて言っちゃったけど。」そう綾子はいたずらっ子っぽく言う。
「だったらさ、後悔しないようにしたらいいよ。」

めぐみは綾子の言葉に胸が温かくなっていくのを感じた。「綾子さん…ありがとう。」
「いいの、いいの!あ、それからね、1個気になってたことあって。うちのお店とかもだけど、口コミサイトあるじゃない?今日めぐに会うと思って、軽い気持ちで瑞鳳の見てたの。そしたらさ、これ…」
綾子が取り出したスマホには瑞鳳の口コミがあったのだが、それを見せながら綾子が続けた。「客商売をしていたら…って扇谷の営業部長に言うのもなんだけどね、悪い口コミもそりゃああるじゃない?でもね、瑞鳳の見ていて気になったのが、いい口コミには『いいね』がつかないのに、悪い口コミには結構な数の『いいね』がついてるの。これって…めぐなら分かるよね?」
そこに並ぶ悪い評価の口コミの内容や、そこに『いいね』がつけられている数を見て、めぐみは息をのんだ。想像以上に具体的に書かれていて、これは顧客の揚げ足取りなんかじゃないというのが分かる。

「接客し終わった後、私たちがまだいるのに、玄関に居たスタッフの人たちはすぐにお喋りを始めて、ちょっと残念に思いました。格式高い旅館で最高のおもてなしと期待してたこっちが悪いかもですが。」
「大浴場を探していて、うろうろしていたら、お食事を運ぶスタッフさんたちがいて、声を掛けようとしました。でもお喋りに夢中で私の姿が見えなかったみたいです。結局1つ上の階のフロントまで聞きに来ました。」
「足湯とカフェのコラボがSNSで話題だったので来てみました。たしかにアフタヌーンティーはかわいかった。でもスタッフ同氏のお喋りが気になりました。作ってる時はマスクして欲しい。唾が入ってそう。映える写真撮りに行くならいいけど、1回で大丈夫です」
「SNSで話題になってたから来てみました。客の数に対してスタッフの数が少なすぎ。待たされるし、接客も雑に感じました。SNS映えや新しいことをやるのなら、老舗の看板おろしたらいい。」

しかも全部が接客に関するもの。
匠が付き合い始めの頃に「お客様にとっては一期一会。今日、今、すべての瞬間どこを切り取っても最高の時間になるように瑞鳳のおもてなしは作っていくんだ。」こう目を輝かせて話していたのを思い出した。

旅行の話とか、口コミの話はどうでもいい。ただ、匠と本音で話しをしたい。
それがどんな結果が待っていても。今の私は、とてつもなく『私らしくない』私なのだ。

匠にメッセージを送った。
「匠さん、話す時間つくれる?」
すぐに既読はついたが、返事はない。
またか…ため息すら出ない。
瑞鳳のSNSではストーリーズがあがっていた。

「同じく旅館オーナーの慎也さんのところにお勉強に来ました」

え?これって京都で有名な大和(やまと)じゃん!てことは今匠さんは京都にいるんだ。仕事で忙しいのは分かるけど、彼女なのにそれを公式SNSで知るって…悲しい。
この時、不意にめぐみは思った。「そういえば匠さんの個人アカウントはずっと更新されていない」ということを。一時期距離を置いていた頃、風待浜の写真に月岡りょうのバラードが重なっていたあのストーリーズ以来見てないかも。匠はほぼ毎日個人アカウントのストーリーズをあげていた。日によっては1日に3回ぐらいあがることも珍しくなかった。
不安がよぎった。「え?もしかして匠さんは更新してないんじゃなくて、私に見えなくしてるんじゃない?」
そう考えると息が止まりそうになった。

すると匠からメッセージがきた。
「めまいが酷くて仕事もしんどくしてた。落ち着いてきたから明日話そうか。」
体調悪かったんだ。しかもめまいなんて、前は言ってなかったけど、どうしたんだろう。
そんなことを考えながらめぐみは返事をした。
「ありがとう。明日ね、でも体調次第で無理しないでね」

次の日、匠からメッセージが来た。
「ごめん、今日行けると思ったけど、無理そう」
「分かったよ。お大事にね。」

前なら体調不良と言われれば間違いなく信じていた。
でも今は本当なのかと思ってしまうし、匠を信じられない自分が嫌になった。

もしかすると、匠さんは話をするのが嫌なのかもしれない。

匠さんから連絡が来るまでこちらからはしない!そう思って毎日をいつも通りに過ごしていた。そんなある日、ソファでテレビを見ながらそろそろベッドに行こうとしていた時、スマホの通知が鳴った。
匠だ。
「めぐ、今から行ってもいい?」
もう0時を過ぎている。この時間から来るってことは、お風呂に入って、寝て、翌朝お互いに仕事のパターンかな。話できないなら今は会わない方がいい。いや、でも話出来るかもしれないし。そんな考えが行ったり来たりしていた。すると匠からもう一通メッセージが来た。「今日無理?もうマンションまで来てるよ。無理なら帰るから」
え?ここまで来てるのに帰せないよ。
「いいよ。あがって。」
久しぶりに会う匠は、ひげを生やしていた。
「匠さん、ひげ?」
「あ、そっか。めぐは俺のひげ見るの初めてだよね。俺、瑞鳳のオーナーになる前、けっこうひげ生やしてたんだよ。」
「そうなんだ。」そう言うと、匠はソファに座る私の横に座って、私の両掌で自分の両頬を触らせた。目を閉じている。呟くように「めぐ…ごめん…」そう言って涙を流していた。今思うと、もしかしたらこれが最後に見た匠の「贖罪」だったのかもしれない。

あの時、私は「久しぶりに会えたから」「ほっとしたから」流した涙だと思っていたのだから。でも、この頃匠の中では、罪悪感や承認欲求、自己顕示欲、心理的占有感 …様々な気持ちがうごめいていたと今なら思う。

「ん?どしたの?」そう言って匠のおでこに自分のおでこを近づけようとするめぐみ。
するとおでこを反らす匠。
「えー!そこはおでこでしょ!」そう笑いながらめぐみが言うと
匠は何とも言えない表情をした。何も言わない。そして珍しく赤ちゃんスイッチが入らないまま、荒々しい匠が現れたのだ。乱暴に自分の服を脱ぎ捨てて、めぐみの服を脱がせようとする。「ちょっと、待って!匠さん!どうしたの?」それでも匠はやめない。「はぁ…はぁ…」と荒い息遣いでめぐみの上に覆いかぶさろうとする。「匠さ…ん…」それは、愛情のある行為というより、ただただ貪るような行為だった。
「匠さん…ちょっと…あ…痛い」急に我に返る匠。
「え?ごめん!めぐ!大丈夫?痛いの?ごめん、ほんとに!」
急に子供みたいな匠になる。
「うん。結構痛かったよ。もうちょっとゆっくりで、しない?」そう言うと匠は「だって!だって!」唇を嚙みしめて駄々っ子のように繰り返した。
何かがおかしい。いつもより赤ちゃん返りが酷いと思った。「だって!だって!」これだけを繰り返してそれ以上何も言えないのだ。
そのまま匠は私に背中を向けてしまった。後ろから匠の背中に近づくと、驚くぐらい体が冷えていた。そのまま2人で眠っていると、急に匠が苦しみだした。「うー…うー…あ、苦し…」びっくりして目を開けると、体を丸めて胸を押さえて唸る匠がいた。
「匠さん!大丈夫?」「うー…うー…」「救急車呼ぶね!」「めぐ、大丈夫このままいて」
「でも…この苦しみ方、普通じゃないよ」「いいから、このまま隣にいて」左手は匠の両手でしっかり握られている。ぎゅっと時折握る力が強くなるのは、痛みの波をあらわしている。右手では匠の背中をさすりながら。

しばらくすると匠は「あー、ほんとに今回はやばかった」「え?こうゆうのよくあるの?」「うん。最近けっこうある。仕事に行ってても1日1回はあるよ。」「え?病院は?なんで教えてくれなかったの?」「だって!でも病院は行った。検査入院するかも。」
胸を押さえて苦しむ匠の姿を見てしまったら、なんで私に入院の話をしてくれなかったのか、とても悲しいと感じていることも言えなくなった。

「検査入院の日にちが決まったら教えてね。病院行くから。」
匠は何も答えなかった。

それからも匠と会えない日が続いた。LINEをすれば返ってはくるが、それは近況報告というか体調報告でしかなかった。
こないだの胸を押さえて呻く匠がリアルに今でも頭を離れない。
検査入院ってどうなったんだろう。
スマホのトーク履歴を見つめるめぐみ「検査入院って日にち決まった?」
意外なほど早く返信が来た。「うん。明日からだよ」
え?また?聞かされてない。
「そうなんだ。教えて欲しかったよー」
「ごめん、仕事もバタバタだけど、検査入院前にもちょくちょく病院行ってて」
「病院ってどこ?お見舞い行くね」
既読がつかなかった。
それから二日後、朝起きるとLINEの通知があった。匠だ。
「今日退院するよ!早く元気になるからね」
なんだか言いようのない喪失感だった。
検査入院のことを直前まで知らなくて、病院も教えてもらえない。もう私は彼女じゃないのかな。

めぐみは返事をしなかった。
「退院しました」ーーーそんなことまで瑞鳳のSNSにあげるんだ。なんだか最近の瑞鳳のSNS(特にストーリーズ)は、『瑞鳳』というよりも『匠』のことばかりがあがっていた。それはスマホの向こうにいる『誰か』に、匠のことを知ってほしそうな熱を孕んでいたのかもしれない。

相変わらず匠個人のアカウントは何も更新されていない。
喪失感と呆れの入り混じった気持ちで、めぐみは「もうどうにでもなれ!」そんな気持ちで匠にメッセージを送った。

「退院よかったね!おめでとう!
なんかお話する時間もなさそうだから、ちょっと教えて欲しいんだけど。
匠さん、他に好きな人でもできた?なんか最近変だなって思うことがあって。
一時期会ってなかった時にさぁ、風待浜のストーリーズあがってたよね。私あれ見て思わず連絡しちゃったけど。あの時さ、風待浜の前に、デートっぽいのもあがってたなって。
けっこうやきもきしちゃったんだよね。でも風待浜あがって、私が連絡したあとからまたストーリーズあがらなくなったよね?あれって、『あげてない』じゃなくて、『私に見えないように』してる?」

その時は気にしていなかったが、めぐみと匠が距離を置いていた頃、風待浜の他にもう1つストーリーズがあがっていた。

どこかのおしゃれなレストランで、コース料理が2人分。
読めるか読めないかの小さな文字で「サプライズありがと」と書かれていた。

すぐに既読がついたが返事はなかった。
翌朝起きたら珍しく長文のメッセージが来ていた。それは深夜の時間帯で
「俺、こんなに忙しくて具合も悪いのに、他に好きな人出来たり、そもそも作る時間あると思う?それにデートなストーリーズあげるタイプじゃないのは、めぐが1番よくわかってるんじゃないの?今年は投稿だってひとつもしてないレベルだよ!笑」
「そうなんだ。タイプ教えてくれてありがとう。笑 私ポジティブだから、やきもち焼かせ作戦かと思った!それだったら嬉しんだけどね」
「やきもち焼かせ作戦ておもしろそうだけど、俺そんな面倒なことするタイプじゃないのも、めぐが1番分かってるはずだよ?笑」

いつもメッセージに「笑」なんてつけない匠さんが、やたらと「笑」をつける。
なんだかやましいことを隠してるのか、少し苛立ちすら感じた。
何とも言えない嫌な感覚になった。めぐみも普段つけない「笑」をつけて返すのが精一杯だった。

もうやだ。匠さんのことが本当に分からない。
分からないし、話すことから逃げてるというか、避けてる気がする。

そんなある日、めぐみのSNSにあらわれた『おすすめ』のアカウント。
いつもなら『おすすめ』が流れてきても気にもしない。でもこの時はなぜか嫌な感覚があった。そのアイコンは煌びやかなパーティールームのような場所で、シャンパンタワーをバックにシャンパングラスを傾ける女性だった。
「こうゆう雰囲気の人がおすすめに出ることないし…誰?」
きっかけはそれぐらいの軽い気持ちだった。
なんとなく嫌なざわざわする気持ちを胸に、そのアイコンをタップした。

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するとプロフィール画面に映し出されたのは『共通の友達:takumi.F』匠さんだった。

そこに並んでいる投稿は、ビキニ姿でナイトプールでカクテルを飲む姿や、砂浜でまぶしそうな顔をして海へ走っていく姿、カメラの向こうにいる誰かに向かってこう叫んでるようだった。「ねぇ、私を見て!」「ねぇ、私ってかわいいでしょ?」「みんな私のこと好きだよね?」
水着か露出しかないその写真たちを見て気づいたことがあった。
どれも『1人』で映っているということ。

え?友達いないの?それともモデルか何か?
引き込まれるようにそのプロフィール画面を見ると、「Dental Receptionist」と歯の絵文字があった。歯科受付なんだ。ストーリーズの枠が赤色に染まっていた。そこを恐る恐るタップすると、動画が上がっていた。暗い室内はパーティールームのようなところで、「かんぱーい!」といくつものシャンパングラスが乾杯される動画。暗闇の中に見覚えのある顔があったのをめぐみは見逃さなかった。「え!匠さん?」カメラが匠を捉えた瞬間、撮影していた本人がカメラに姿を現した。これがめぐみが初めて見た杏奈(あんな)の姿だった。
ストーリーズはもうひとつあった。アカウントの本人と隣に寄り添う男性。2人とも胸から下しか見えないけど、明らかに体が密着している。女性の着ている白のワンピースは、下着や体のラインがあからさまに分かるぐらいフィットしていた。下着が見えそうなぐらいのミニ丈のワンピース。「夜職の人?…じゃないか、歯医者の受付だもんね。」
待って!その写真を拡大すると、隣で体を密着させた男性がつけていた時計---それは匠がつけている時計と同じだった。見間違えるわけがない。付き合ったばかりの頃、めぐみの家で話したくれた。

「この時計、かっこいいね。なんかアンティークっぽくて」「そう?これ気に入っててさ。俺のじいちゃんが瑞鳳の創立者でしょ?じいちゃんの形見なんだよね。いつかはじいちゃんみたいになれるようにって思って身に着けてる。早くこの時計にふさわしい男にならなきゃ」目を輝かせながら、そして強いまなざしの中には老舗旅館の3代目オーナーとしての確固たる覚悟が見えた。
「え?うそでしょ?匠さん…だってキャバクラすら無理って。ドレス着た女の人いるお店怖いって…え?何が起きてるの?」

頭を殴られたぐらいの強い衝撃で、めまいすら感じる。
人って本当に辛い思いをすると動けなくて、思考が止まるんだなって思った。
真里や優の顔が思い浮かんだけど、メッセージを送る気力すらない。涙も出ない。
一睡もしないまま朝を迎えた。鏡を見ると目の下がげっそりと窪んでいる。
「やだ。こんな顔で仕事行くなんて。」そう言ってお風呂をためて入った。
仕事に行くと、意外なほど普通に仕事が出来る自分に驚いた。
今日は打ち合わせや部下との面談が多く入っていたから、常に誰かと話している。そのほうが気がまぎれる。課長の山﨑がこう言った。「白川部長、なんか今日、いつにも増して元気ですね」「え?そう?だって私はいつでも元気でしょ!」

びっくりした。
いつも仕事のサポートにぬかりない山﨑くんって、人の本質とかも見る目あるのよね。部下だけじゃなくて私のことも観察してたとは…出来た部下だわ。そんなことを考えながらめぐみの1日が終わった。「部長、お疲れ様です!」「お疲れ様ー!みんなも早く帰ってね。」「はーい」そんないつものやり取りをしながら家路に向かう。

晩ご飯を食べる気力もない。お酒を飲む気にもならない。真里や優に連絡をする気力もない。ソファに横になったまま、スマホを手にする。それは『パンドラの箱』を開くような気持だった。

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もう一度アカウントを見に行く。少し前の投稿が京都のカフェでコーヒーを飲む姿だった。
日にちを見て驚いた。「え?これって…匠さんが京都の大和にオーナー仲間を訪ねて視察に行った頃とかぶってる。でも、たまたま時期がかぶってただけかもしれないし。だいぶ前の写真を時差投稿だってあるかもしれないよね。」そう自分に言い聞かせるように、そっとスマホを閉じた。動機が止まらない。次から次へとこの女性と匠さんの関わりを疑ってしまう。

匠にめぐみ以外に好きな人ができたかもしれないこともショックだが、
過去のめぐみの前で見せていた匠の姿が大きく崩れていくのが余計にショックだった。
女性経験がほぼなくて、体に触れることさえビクビクしていた匠さんが。
はじめて出来た時に泣いてた匠さんが。
あのシャンパンタワーの暗闇の部屋で、過激に露出した女性と身を寄せ合ってるなんて。
そして何より悲しかったのは、『正直に話してくれなかったこと』
他に好きな人が出来たか聞いた時、言ってくれたらいいのに。
人が心変わりすることに追い縋るほど私は子供じゃない。

「追い縋る私じゃない」そう思った時に、めぐみの中で何かのスイッチが入った。
スマホをもう一度手にして、匠にメッセージを送った。
「匠さん、話がしたい。もう話を避けてるように感じてるから。これ以上時間作れないなら私も考えるよ。」
すぐに返信がきた。
「もう今忙しいって何度も言ってるよね?そんな話し合いばっかり無理だわ!何もやましいこともないのに、話したいってめぐおかしいよ!俺らは価値観が合わないと思う!もう限界!別れよう」
しばらく呼吸をすることを忘れていた。

「匠さん、メッセージひとつで別れるなんてびっくりだよ。別れたいにしてもせめて会うか電話でしょ」
既読はすぐついたが返事がきたのは2日後だった。
「ごめん、心に余裕なさ過ぎて。今月乗り切ったら来月少し落ち着くから。そしたら雪見ながら入れる温泉でも行こうか」
「うん!楽しみにしてるね!私も何回もメッセージごめんね。二人でごめんねしたから、もっと仲良くなれるね」

今までなら本当に心からこの言葉を匠に送っていたと思う。でも今回のめぐみは違う。
匠を油断させて泳がそうと思っていた。でも、心の中には一筋の「嘘であって」という希望の光もあったのだ

雪見温泉の話をした数日後のことだった。

何気なくSNSを開いた。
おすすめに流れてきたストーリーズ。

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「来月ベガス行ってきまーす!楽しみ♡」

シャンパングラスを持った女性の隣には見覚えのある横顔があった。

■第5章 「裏アカ」

めぐみは綾子にメッセージをした。
「綾子さん、ちょっとご相談したいことがあって」「いいよ!今夜うちのお店おいで」

路地裏にある、知る人ぞ知る秘密のワインバー『Cave d'Étoile(カーヴ・デトワール) 』
扉を開けるとカウンターの中には綾子の夫 英樹がいた。
「お!めぐちゃん、久しぶり!今日は予約も少ないから、綾子は奥の席にいるよ。なんでも話してやって!あいつね、めぐちゃんのこと、かわいい妹みたいに思ってるんだよ!おせっかいだったらごめんね!」そう言ってめぐみに向かって拝むポーズをする英樹。
すると奥の席から綾子が現れた。「ちょーっと!誰がおせっかいなのよー」「え?そんなこと言ってないよ!ね?めぐちゃん」2人のいつもながらのやり取りを見て、めぐみはふふっと笑う。
そして奥の個室へと綾子が案内してくれる。「綾子さん、今日お仕事…なんかすみません。」「いいのいいの!今日は予約も少ないし。もう少ししたらバイトの子もくるし。今日はとことんめぐの話聞くから!ね?」その言葉を聞き終わるか終わらないかで、めぐみは泣き出した。ずっと我慢していたものが一気に溢れてきた。子供のように声を上げてわんわんと泣いた。綾子は何も言わずに隣でただ寄り添っていた。ひとしきり泣いた後、泣き顔を上げながらめぐみが言った。「すみません、綾子さん。力を貸して欲しいことがあって。」
綾子は優しい表情の中に、でもしっかりと目の奥には強さのあるまなざしで深く頷いた。
匠との一連の話、そしておすすめにあらわれた激しい露出の女性のこと。
それともうひとつ話した。目を閉じて、深く深呼吸をしてからこう切り出した。
「綾子さん、私のこと嫌いになるかもしれないし、ひくかもしれないです。」
「ん?話して。」もう一度深く息を吸って、めぐみは話し出した。
「この女の裏垢を見つけたんです。そしたらとんでもないことが分かって。綾子さんに助けて欲しくて。」
めぐみのおすすめに流れてきた、シャンパンを片手に匠と映っていた女性は「杏奈」
高級歯科で有名な『クレール山手デンタルオフィス 』で受付として働いている。
ーーーーそれは流れてきた表の姿だったのだ。
「これ、見てください」ほんのりぼかしているものもあれば、思いっきり顔が分かる写真も載せている。本垢より一層激しい露出姿で映りこんでいるが、それよりも驚いたのが、彼女が呟いている言葉の数々だった。

「後輩ちゃんが仕事なめすぎてて鬱。ブスな上に仕事出来ないとか何?給料泥棒ちゃん」
「鏡見るとかわいすぎてため息出るのーーーあぁーーん!誰か止めて」
「ご飯をご馳走になった身で申し訳ないが、このセンスどこから出るのかな?」
「今年もお世話になりました!来年はメンヘラ男子を作らないようにするっ!」
「うちの院長、やたら体触ってきてキモい!嫁も働いてんだから嫁触れよ!触りたくない気持ちも分かるが(ブス)」
「元彼が連絡してきたキモい。浮気したくせにどのツラ下げて?」
「来月ベガス楽しみー!まじで男としては見れないのだが、ATMとしては最高な老舗ちゃん」

綾子は絶句している。
「綾子さん、ひきますよね。彼氏と関係あるかもしれない女の裏垢見つけたなんて。」
「いや…そうじゃなくて。これが匠さんと浮気してるってこと?」
「浮気じゃなくて、もうこっちが彼女かもしれないです。」
「いや、そうじゃなくて。めぐが言ってた、彼の苦手な女そのまんまじゃん!それにだよ!あの老舗の瑞鳳のオーナーがこんな全世界にやばいことと顔と体さらけ出してるような女に捕まってたら…だってこれ…老舗ちゃんって…ごめん。言いたくないけど潰れるよ。」

めぐみはしばらく沈黙していた。
「ごめん、めぐ。さすがに潰れるは言い過ぎたね。」
「いえ。私もそう思うから、気にしないでください。それより、この辺も見てもらえますか?」

もう一度スマホを綾子に見せる。
「そろそろダブルワークしんどい。自分の楽しみのためだから仕方ないけど。支払(涙)」
「こないだのお客、同伴で行った店でたぶん酒に何か入れられた。犯罪だからな!晒すよ?まぁ、上手かったからそれでwin-winてことで!セフにはいいな」
「歩(あゆむ)のために!!ダブルワークもP活も頑張れる!私の頑張る源は単純」

「え?めぐ…この子って」
「確証ないけど、たぶん夜職と歯医者を掛け持ちしてる。何かの借金?支払がある。それと…ホスト遊びとパパ活してるっぽいですね。」
「ねぇ、これが本当だったらさ、匠さんに真実突きつけて関わらないようにしないと!取り返しつかないことになるよ!」
「そうですよね」めぐみは心なく笑った。
「え?めぐ?」
「私はそれでもいいかなって。匠さんのこと、ほんの少しはまだ信じてるけど、ほぼほぼ『黒』だと思ってます。だったら、この子と一緒に堕ちちゃえばいいのに、って。」
めぐみの目は遠くを見つめて、泣いてるような笑っているような、何とも言えないうつろなものだった。

「めぐ、今日はとことん飲もう!あ!あとご飯食べなきゃだから、英樹に言って何か作らせるね!で…さぁ。そうゆうことだよね?」
「そうです。よろしくお願いします。」
「分かった!かわいい妹の頼みだもん!まぁ、私がAMARANTHにいた頃の人脈より、英樹の夜の世界での人脈使うから!英樹にとっても、めぐはかわいい妹なんだから!気にしないの!」そう言って綾子はめぐみを引き寄せて、頭をぽんぽんと撫でた。

クラブ AMARANTH(アマランス)
それは綾子が大学時代から、英樹と一緒にこのバーを始めるまで働いていた高級クラブなのだ。

そこからは、綾子と英樹の言葉に甘えて、めぐみはいつものように仕事に打ち込んだ。
いや、むしろ仕事をしていたかった。仕事で頭をいっぱいにしたかったのだ。
帰り際の山﨑がめぐみに声を掛ける。「部長、最近残業続いてません?」
「え?そうでもないよ?」「ならいいんですけど。俺も子ども生まれて、定時で帰らせてもらってるからなぁって、ちょっと思ってたんです。なんか、申し訳ないです。」
「やだ!山﨑くん謝らないでよ!違う違う!そう思わせたなんて、むしろごめんね!一部の門脇部長と部対抗のイベント考えてたりしてね。ごめん!まだ部長止まりだったから、早めに課長たちに共有できるように詰めてくね!てかさぁ。山﨑くんて、ほんと優秀な課長だよ!みんな部下のことで精一杯なのに、上司の私のことも気にかけてくれるじゃない?しかもいつも絶妙なタイミングなのよ…」めぐみが言葉に詰まった。「部長?白川部長?」めぐみは顔を覗き込もうとした山﨑に背を向けてこう言った。「部長冥利につきます!さ、私もあと少ししたら帰るんだから!早く!娘さん待ってるよ!」「ありがとうございます。じゃ、お先に失礼します。」そう言って山﨑は帰っていった。めぐみは自席に座らずにトイレに立った。山﨑のやさしさ…いや、今は誰かのやさしさが身に沁みすぎて、やさしくされると自分を保てる自信がないのだ。

とはいえ、時々『Cave d'Étoile(カーヴ・デトワール) 』に行って、進捗確認と対策会議をしていた。奥の個室で綾子とワインも飲まずに真剣に話をしていた。
そんな時に、めぐみのスマホに通知がきた。「めぐー、スマホなんかきてるよ」「はーい」スマホの画面を見ためぐみが固まった。
「めぐ?どした?」「匠さんから」「え?なんで?」「分かんないです。動いてるのバレたのかな」「まさか!そんなことないって!めぐ、大丈夫?メッセージ見れそう?」
深く、そしてしっかりとめぐみは頷いた。
匠のメッセージを開く「めぐ、最近どうしてる?」拍子抜けした。その画面を綾子に見せる。「なんなの?めぐ、普通に返しとけば大丈夫だよ!」めぐみは考えた。そして綾子に見せずにこのメッセージを送った。
「元気だよー!匠さんは元気?ラスベガスに行くの?」
既読はつかなかった。
「ん?めぐ?どしたー?」大きな目をさらに見開いてめぐみを見る綾子。匠とのトーク画面を綾子に見せる。「え!ちょっと!めぐ!これは…」心ここにあらずの遠い目をしてめぐみは肩を落として笑いながら言った。「綾子さん、いろいろ協力してもらってるのに、すみません。どうしてもこの能天気さが許せなくて…う…うぅ…」そう言ってむせび泣くめぐみ。めぐみの肩を抱いて、「いいよ。めぐ、頑張ったから。送りたくもなるよ!だって、めぐずーっと我慢してたもんね。」まるで子供をあやすように綾子はめぐみの肩を抱きかかえながら優しく声を掛けた。
『Cave d'Étoile(カーヴ・デトワール) 』から帰宅しためぐみは、泣きつかれたせいかすぐに眠りに落ちた。朝起きると匠からメッセージが来ていた。
「元気でよかった!ラスベガスね!うん、社員旅行だよーあれ、その話したっけ?」
返事はしなかった。
匠さんは明らかに何かを感じてるはず。めぐみはそう直感した。
匠の子供ようなまなざしや、小学生のように堂々とめぐみに好意を伝えた姿、はじめて行為が出来た時に流した涙…いろんなものが一気に頭に押し寄せてきたけど、もう遠い昔の出来事か、ドラマか小説の中の出来事で、自分に起きたことじゃないようだった。
「いつ行くの?写真たくさん撮ってきてね!見たい!おみやげも期待してるね」
既読はついたが返信があったのは翌日だった。
この日は匠たちが出発する日だった。
匠から旅行に行く日にちは聞いてないけど、そんなことはあのアカウントを見れば簡単に分かった。

「あのさ、変だよね?なんで?俺が話してないのに社員旅行のこと知ってるの、気味が悪い。何か調べたりでもしてんの?もうさ、めぐおかしいよ!何もやましくないって言ってるのに、探るような言葉ばっかじゃん!!もう俺、めぐとはやってけないから!もう会わない!めぐの家にある俺の荷物は全部捨てておいて」

そういえば匠さんがスマホをこそこそするようになったころ、こんな話をしたっけ。
匠さんと出会ったばかりで、まだ付き合う前のこと。「 今度一緒に旅行いきましょう」と言われたことがずっと引っかかっていたのだ。
ある日 匠とドライブしてた時 「そういえばさ、付き合う前にいきなり旅行誘われたでしょー?あれびっくりしちゃった」「え?なんで?」「だって、いきなりだよ?付き合ってもない異性に誘う?って! もしかしたらチャラチャラと遊んでる人?って警戒しちゃったー」無邪気に笑うめぐみの隣でハンドルをぎゅっとして、表情はぎょつとしてたな、匠さん。 「え?だって俺旅館の息子だからさ。旅行イコールやましいことじゃないから。下心とかで誘うもんじゃない!そんなふうに思うなんて、めぐ変だよ!」「あ!そうなんだ!じゃあ誰でも旅行誘うってこと?」「いや、誰でもじゃないけど、フィーリング合いそうって思ったら、会って間もなくても誘うかな」どこか目が泳いでいた。
今ならわかる あの時はすでにラスベガスが決まってたから動揺したんだ。

めぐみは既読だけをそっとつけた。
もう何も迷わない。そのメッセージを綾子に転送した。綾子からの返信は「めぐ、もういいのね?ほんとにいい?」「はい。もう迷いはないです。お願いします。」
綾子からの「了解。」の返信を受けて、 めぐみはSNSを開いた。
杏奈のアカウント。「1日何度あげるの?」ってぐらいストーリーズをあげていた。

「はじめてのラスベガス、どきどき」自分1人で撮ったパスポートを持った動画には思いっきり涙袋を持ったフィルターがかかっていた。
「ラスベガスに到着ー!!すごい!!リムジンにシャンパンー!」リムジンとシャンパンの動画にはこの文字と共に小さく「ありがと♡サプライズ♡」と書かれていた。

この2つのストーリーズを見た時、カメラにはおさまっていないけれど、確実に匠がいるのが分かった。そしてこのリムジンとシャンパンが『匠から杏奈へのサプライズ』だということも。
いつも瑞鳳のSNSでスタッフオフショットを見ていたから、スタッフの顔はどれも分かる。ひとつひとつ杏奈があげるストーリーズをスクショした。
「めぐ、辛くなったら私が代わるし。無理しちゃだめだからね」綾子からメッセージが届く。「大丈夫です。もはや『無』ですよ!」

この時、めぐみは決して忘れなかった。杏奈の表のアカウントだけでなく、裏垢のスクショを撮ることを。
ラスベガスでのストーリーズは頻繁だった。
襨では
水着姿のナイトプールで「みんなだーいすき♡ずっと♡連れてきてくれてありがと♡」
瑞鳳の社員たちに混ざって「最高の仲間に入れてくれてありがとうございました!」そこには小さな文字で「これからもよろしくお願いします♡」と見えた。
「まだ帰りたくない!明日が最終日だなんて終わってほしくない!!」
ナイトプールのベンチで顔から下の水着姿を自撮りしている動画に「しあわせすぎて泣いた!仲間ってサイコーで泣けるものなんだね!」

裏垢では
「今回80万出したんだけど?初海外でよく分かってないがそんな出すもん?甘かった、失敗」
「普通に考えてケチすぎん?なんで私から80も取るわけ?あのびびりオヤジくそだな」
「他のスタッフが教えてくれた。初日のホテルって会員制で1泊150万なんだって!80万でも結構出してもらってるのかも。ごめん!って思いつつも、やっぱ全額出してくれないケチぶりには腹立つが」
「あいつ、やっぱ最後まで手出さなそ!旅行前のいきりどこ行った?ケチな上に手出せないってどんだけだよ!笑」最後の一文はこんなスクショも添えられていた。

男:「お前、そんな服ばっかじゃん!てか服じゃなくて布?もうさ、面積狭いんだし布取れって!」
杏奈:「そっか!だね!ベガス行ったら布なしってことでOK?」
男:「分かってんじゃん!全裸にローター入れて過ごしてな!部屋から出れなくするから」

気持ちが悪い…そしてこの『男』、アイコンをぼかしているけど間違いなく匠さんだ。

匠さん、この子の前では親指しゃぶりもしないで赤ちゃんじゃないんだ。そう思うと笑える。

そしてもうひとつ見つけた。
「明日は帰国したら彼とごはん。嫉妬深いからね。まぁおみやげと軽くご飯でOKでしょ」

杏奈の裏垢を過去にさかのぼっていた時、『男嫌い』『男なんて信用しない』『恋愛なんてしない』この言葉が何度も出てきたのだ。杏奈の過去の背景が悲惨すぎて、こんな人格を作り出すのかと読みいってしまったのだが、だからと言って同情はしない。一切。

杏奈は29歳、今は歯科での受付をしてるがそれまでにも職を転々としていたようだった。

恋愛や家庭環境も職場でも壮絶な様子だった。
・5年付き合った彼氏に浮気された上に振られた。しかもサプライズで早く遊びに行ったら彼氏と浮気相手の行為を目撃してしまった。これがもう3年もまえなのに、今でも時々裏垢で恨みを綴っている。
・彼氏はその浮気相手と付き合うことを決めて杏奈と別れた。しかもその相手は杏奈が知る人で、共通の知人がいる中で自分だけが蚊帳の外のようで強い疎外感を感じた。
・同じころ、父の浮気が発覚した。発覚した理由は簡単だった。相手の女性が家の前まで来たからだ。母は取り乱し、杏奈が女性と話をした。父が出張でいない時を女性はあえて狙ってきた。聞くと相手の女性は父の会社の部下で、23歳だった。自分とたいして年齢の変わらない女性と不倫をした父に嫌悪感を感じた。

彼氏の浮気と父の不倫がほぼ同時期におとずれた。それは20代前半の杏奈にとっては大きな精神的ダメージとなったのだ。
しかし、だからと言って『奪われたから奪う立場になっていい』とはならない。

『男嫌い』『男なんて信用しない』『恋愛なんてしない』
杏奈の裏垢に書かれていたこの言葉たちは常にファイティングポーズの杏奈にとって『本心』からのものだったのだ。同時にめぐみはこうも感じていた。
「この子はきっと壊れていく」

ラスベガスでの行動は、杏奈のSNSで把握できた。
ベラージオの噴水ショー の前で、白いワンピースを着て「アメリカすごい!エンターテイメント感じる」フィルターが今日も涙袋を盛っている。
シルクドソレイユの看板の前でおめかしした自撮りには「今日はart感じる日!刺激受けた!」
グランドキャニオンに行くセスナに乗り込む動画でめぐみの動きが止まった。杏奈が、仲間たちが乗り込む姿を1人ずつ撮影していた。瑞鳳のSNSで見かけたスタッフが次々と乗り込む。そんな中で小さな声で「たくちゃん」と聞こえたのだ。すると、勇んで乗り込んでいく男の背中が見えたと思うと、顔を咄嗟に隠したのだ。カメラに映らないように明らかに横に向いたーーー匠さんだ。その瞬間をめぐみは、画面を拡大してスクショした。

その日の午後、杏奈のストーリーズで「成田到着ー魔法が解けたみたい」と飛行機が離陸する動画と共にあがっていた。
『あなたの魔法もいろいろ解けるからね』そう心の中でめぐみは呟いた。
少しすると瑞鳳のSNSに長編のリール動画が投稿されていた。

「僕がオーナーに就任してから、一緒に戦ってくれた仲間たちとご褒美の旅行に行ってきました」ほぼ瑞鳳の従業員と思われる人物や景色、アクティビティで遊ぶ姿が映っていたが、めぐみは一瞬映りこんだものを見逃さなかった。赤いワンピースを着て、シャンパングラスを頭上にあげて、乾杯する杏奈の姿を。
ーーーーー絶対に許さない。私が苦しんだのと同じように味わってもらうから。

杏奈のSNSは恐ろしいほどに赤裸々で、下品で、人間の欲望のままに生きている、それはまるで理性のない『動物』のようだった。時折自分の考えを理路整然と語っているけれど、それは小説やエッセイから抜き取られた言葉ばかりだった。
職場の後輩の無能さや、容姿が劣っていると言ったことを日常的に裏垢で呟いていた。
そして、クレール山手デンタルオフィスの齋藤院長のセクハラを日常的に呟いている。
「大丈夫なのかな、コンプライアンス的に」画面を見ながらめぐみはふふっと笑った。力なく笑っているように見えて、目の奥はまっすぐと遠くを見据えていた。

翌日オフィスにいると夏帆ちゃんが声を掛けてくれる。
「白川部長、14時にお約束の森様がお見えになりました。」
「夏帆ちゃん、ありがとう。」「部長、お茶ご用意しますか?」「ううん、大丈夫。じゃあ行ってきます!」
応接室に入っていくめぐみ。打ち合わせの相手は、めぐみが外商部にいた頃の上得意のお客様、『森不動産』の森会長だった。
「白川さん、お久しぶりだね。あの頃はいつも無理ばかり言ってたけれど、すっかり立派になられて。」「森会長のおかげです。あの頃、無理難題もいろいろ言われましたけど、営業の基礎やVIPな方へのおもてなしの心が身についたので、感謝しかありません。」「相変わらず辛らつだねー!無理難題とは!」「あ、すみません!会長の前ですと、どうしてもあの頃の鼻っ柱の強い営業の白川が出ちゃうんです」「あはは!そんなところを買って、僕も妻も君には多大な信頼を寄せているよ。それで?そんな白川さんが折り入ってご相談とはどうしたんだい?」「会長、実は…」

都内に数多く不動産を所有する『森不動産』は、都心の一等地のビルも数多く所有している。その中のひとつに都内有数の医療機関が入っている『プライム・メディカルタワー 』
がある。そしてその中には杏奈が働く『クレール山手デンタルオフィス』 が入っている。

「私がかつて森会長に教わった言葉の中で『誠実であれ』というものが、私のビジネスの根底に今もあり続けています。ですが、森会長のお持ちのビルの中で、このようなことが…」そう言ってめぐみは森に何やら資料を見せている。
森を1階の玄関まで見送り、車が見えなくなるまで深くお辞儀をした。

「さてと。送っとこうか。」めぐみはそう言いながらオフィスに戻っていった。

■第6章 「ハエ退治」



久しぶりに森会長と話して、いい意味で背筋が伸びた。あとは、明日からのお楽しみ。
めぐみはスマホに目をやる。「よし!最後の送ろっか」そう言ってLINEを開く。

匠とのトークルームは、ラスベガスに行くことを尋ねためぐみに対する一方的な逆ギレと一方的な別れの言葉だった。
画面に向かってめぐみが言った。
「最後の瞬間に逃げるとはね。まっすぐで一生懸命なあなたが好きだったんだけどな。ね、たくちゃん!」高らかに大声で笑うめぐみ。
「たくちゃん」なんて呼んだことがない。セスナに乗り込むときに聞こえた、甘えたあの子の声が耳に残る。大笑いをしながら、いつの間にか涙が溢れていた。声を出して泣いた。
「よし、もういい。終わり。」

めぐみはメッセージを送った。それはためらいもなく。
「匠さん。こんなふうに一方的な別れを突きつけられてショックでした。話し合うことすらもしないなんて。ラスベガスのことを聞いたことで、こんなに酷い言葉を投げられたこと、一方的に逃げたんだって受け取ってます。具合が悪いって話してたけど、ラスベガスでジェットコースター乗ったり、いろんなアクティビティしてたから、嘘つかれてたのもショック。他に好きな人いるなら、正直に言ってほしかった。
とにかく今は嫌な気持ち、残念な気持ちしかありません。許せないって思ってる。
でも、出逢った頃や付き合った頃は本当に楽しくて幸せだったから。あの頃のことだけは、ありがとう。」

次の日になっても既読はつかない。
2週間後、スマホに着信があった。森会長だった。
「白川さん、調査に時間がかかってしまって、申し訳ないね。君のおかげで、僕の大事なビルに入っていたハエは、無事に退治できそうだから。本当にありがとう。ここから1週間もしないでハエはいなくなるはずだから、もう少し待っててくれ。」

それが何を意図するのか。めぐみはスマホでSNSを開いた。杏奈の表垢だ。
あれから見ていなかったが、ラスベガスの投稿がされていた。匠の姿は一瞬映ったり、わざとなのか見切れていたり。
ストーリーズが赤くなっていた。シャンパングラスを掲げて、ウインクをしている自撮り。また激しい露出のワンピースだ。「今日もたのしい ベガス行ってみんなと絆深まった♡ありがと」ゆうべあげたものだ。
すぐに裏垢を見に行く。文字だけの投稿があがっていた。「うちのセクハラ院長に呼ばれた。しかも院長室じゃなくて、このビルの最上階!え?まさか眺めのいいところに連れてってお触り?終わり次第報告します!」
本当に、この子の頭の中はどんな思考回路してるんだろう。そう思って冷ややかな気持ちで投稿を見ていた。自意識過剰とリスク管理ゼロ。この子はそういう子なんだと、めぐみは静かに思った。
数時間後、裏垢に投稿が増えていた。
「どなたか存じませんが、ここに書いてることをリークしましたね?やるならこちらは徹底的に戦うんで!うちも後ろに強いのいるんでね!」

そうきたか。この子は想像以上の子だった。綾子にLINEを送る。
「綾子さん、森会長、さっそく動いてくれました。でもあの子、宣戦布告してて。あれお願いできますか?」「OK!すごい子だねぇ。なかなかだよ!ちなみにこれやったら瑞鳳くん諸共終わっちゃうと思うけど、いいのね?」「はい。構いません」「OK!また連絡するね!今日は寝るんだよー」
綾子に寝るように言われたけど、杏奈の挑発的な投稿が頭に浮かんできて眠れない。杏奈が言ってる「後ろに強いのいるんで」は匠さんのことかな?匠さんて強いんだ?
そうだ、匠さんに送ったLINEは?と思って見てみると未読のまま。想定内だ。
「あの子も終わってるけど、匠さんも終わってるね。」そうスマホの画面に吐き捨てるようにめぐみは言った。
眠れずに杏奈の投稿をさかのぼって見る。言葉を失うものがいくつかあった。
その中に今回のラスベガスの詳細が書かれていた。
杏奈が自腹で払った旅費80万円のこと、1泊150万円の部屋を取ってくれたこと、
みんなで毎晩「しあわせー」って泣いて、抱き合ってたこと、
一生モノの仲間に出会えた、大人になってはじめての友達が出来たこと、
ひとつひとつ、スクショを残した。
そして1番驚いたのが
「あーこんなラグジュアリーな旅、サイコーだったー!でもね、結局最終日までチキン野郎だったぁ老舗くん!メッセージでは絶倫・いきりな俺演じてるけど、なんか寸前でやめてた!うける!まぁ、やってもいいかもって思ったけど無理だよね、旅費全額出してくれて、ブランド品買ってくれるぐらいじゃないと!annnaは手に入りません!まだまだよろしく!ATMくん!」
あの子の前で、赤ちゃんを出せないどころか、しなかったんだ。そんな匠を想像して、ますます嫌悪感いっぱいになった。
これもスクショして。

最後のスクショだけ、メッセージで送った。
送り先は匠。
スクショを送ってすぐにメッセージも送った。
「すごいね!老舗くんにチキンにATMって名前たくさんなんだけど!笑わせてもらったー!
赤ちゃんしないの?絶倫いきりの老舗くん、ひよっちゃったぁ?
もっかいEDになったほうが世間のためよ。
でも寸止めで安心したー挿れてたら、下手くそ♡って書かれたと思うよ。こわいね!」

昨日は匠に怒りのメッセージを送り付けて、すっきりしたのかよく眠れた。
触りたくない、でも確認したい。そう思って匠に送ったメッセージを確認した。2週間前に送ったメッセージも昨日のメッセージもすべてが既読になっていた。
意外だったような、予想通りのような。
続けてSNSアプリを開いた。杏奈の裏垢はアカウントごと削除されていた。

綾子にLINEをした。
「匠さんのLINEが既読になって、杏奈の裏垢消えました」「早っ!こっちもそろそろ確証出るよ」「了解です。ありがとうございます」

それから瑞鳳のSNSはしばらく更新されなかった。匠の海に向かった姿も、従業員たちのオフショットも、不気味なぐらいに。

それから少しした午後、綾子からLIEが来た。「今日来れる?」「20時ぐらいに伺えます」「OK!待ってるね!」

『Cave d'Étoile(カーヴ・デトワール) 』に入ると英樹さんが笑顔で迎えてくれた。「めぐちゃん、いらっしゃい。奥に綾子いるよ。」「英樹さん…あの…」「ん?どーしたの!」「いや…だって…お2人に…う…うぅ…」「泣かないの!めぐちゃんはさ、綾子だけじゃなくて俺にとっても妹だからさ!妹が傷ついてるの、放っておけないでしょ!ほら、綾子待ってるから」「めーぐ!まだ泣くの早いから!あれ?もしかして英樹が面白くないオヤジギャグでも言った?」「何言ってんの!面白いギャグ言ったから笑い泣きしたんだよね?」「ほら!めぐ!奥行こう!」めぐみは笑いながら奥の個室に入っていった。綾子と共に。

「めぐ、いろいろすごかったよ、あの子。なかなかだった。やっぱ私たちの頃とは時代が違うんだねー。えっと。まずはこの子ね、ガールズバーで働いてる。英樹も知らなかったからまぁ新しい店っぽい。もう5年ぐらいになるみたいよ。昼は歯医者、夜はガルバで働いてるから、ベガスに80万とか出せちゃうみたいよー。それと、お金の話ね。彼女の借金というか、ホストに貢いでるみたい。SNSに『歩(あゆむ)のために働く』って書いてたでしょ?普通に貢ぐレベルじゃなくて、毎月1番ボトル入れてるいわゆる…太客ね。で、自分のガルバの客たちからもらった貢物をお金に換えて歩に献上してるってわけ!その中の1人が『老舗のATMくん』だった。めぐ大丈夫?一気に話しちゃったけど」
「全然大丈夫です。想像してましたけど、ガルバでしたか。クラブ AMARANTH(アマランス)で私が出会った諸先輩たちとはやっぱり格が違うなって思ったので。1年だけだったけど、大学時代のあの経験が扇谷での接客や営業に活きてるのは、綾子さんと私だけの秘密ですよ!」
「あはは!クラブ AMARANTH(アマランス)はすごかったよね。めぐ、あのまま働けば絶対売れたよー!1年でスパッと辞めて老舗百貨店で働くところがめぐらしいよねー」
2人で笑い合う
「大学生の時点で大人気で、卒業して本業にしたらあっと言う間にナンバーワンになった綾子さんにはとても敵いません!」
「あはは。それで、ここからどうする?」
2人の顔から笑顔が消えた。神妙な面持ちになる。
「綾子さん、私はもうここまでで綾子さんと英樹さんからは手を回してもらわない方法を選びます」「めぐ、遠慮ならしなくていいから!杏奈って子がガルバに居づらくなるようにするなんて、英樹に言ったらすぐだよ?それにさ、夜の世界だけじゃなくてこの界隈の経営者って狭いでしょー?瑞鳳のオーナーが入れ込んでる子ってなったら、匠さんも瑞鳳もかなりのダメージ与えられるよ?」「あの子、たぶん…歯医者さん解雇されると思うから。ガルバもクビになったら何するか怖くないですか?」「確かに。あの子さ、歯医者さんでも同僚たちから相当恨みかってるみたいだしね。本人、今怖いと思うよ。だってリアルな世界にもネットの中にも相当敵がいるわけだから。」「はい。だからここまで調べていただいて、本当にありがとうございました。次の定休日、英樹さんと綾子さん、田みやでご馳走しますね!なんでも好きな物食べてください。」そう言うめぐみの目にはいつものあどけなさが少しずつ戻っていた。

スマホに誰かから着信がある。森会長だ。急で申し訳ないが、午後来社したいという。
めぐみはスケジュールを確認する。「今からなら準備も間に合う。」そう思ってお受けした。森会長は今までに見たことのない神妙な面持ちで現れた。「白川さん、その後連絡が遅くなって申し訳ない。例の件だがね、ハエ退治は無事に終了したよ。ただね…」そう言って森会長が少し次の言葉までに間があった。なんだろう。
「はい。どうかなさったのですか?」「斎藤院長が、もともと手を焼いていた子だったそうでね。それがどうやら彼女の同僚や後輩へのパワハラがあったそうなんだ。それで、内部調査を進めていたところに今回のSNSの件が明るみになってしまって。斎藤院長に泣きつかれてしまったよ。『僕は誓ってセクハラなんてしていません!彼女の素行が悪くて、解雇する予定だったんです。』ってね。それで、
斎藤院長も私と昔から懇意にしている医療業界の方を連れて、わざわざ謝罪に来たんだ。それでね、今回は『下品なハエ退治』だけで、クレール山手デンタルオフィスの閉院は勘弁してもらえないだろうか。」あの森会長が深々と私に頭を下げるなんて。「会長!森会長!頭をお上げください!そんな!閉院だなんて!」すると森会長はゆっくりと頭を上げながら「そうなの?」「もう!そうですよ!ただ私は、森会長のお顔に泥を塗るような出来事が起きてますよ!とお伝えしただけじゃないですか。だから諸悪の根源である『下品なハエ』さえ出ていけば安泰ってことですよね?」森会長の神妙な表情が安堵に変わった。「いやー、よかった。そうゆうことだよな。あはは。私も昔の血が騒いでつい力強く突っ走ってしまって、恥ずかしい。」「そんなことございません!とても勇ましかったです。」「さぁ、会長。こちらの『志むら』の豆大福!召し上がってください」「さすが白川くんは今でも私の好物を覚えてくれていて。うれしいなぁ。しかも急な訪問なのによく準備してくれた!そうゆう気遣いなんだよ、君に仕事をお願いしたいと思うところは」そう言って大福を頬張った。

「ハエ退治」という言葉を聞いて、ふと思い出したことがあった。

匠さんの裏垢を、一度だけ見つけたことがある。動物の写真で埋め尽くされていた。その中のほとんどが、交尾する動画だった。

赤ちゃんになる匠さんも、
荒々しくなる匠さんも、
あの動画を撮り続けていた匠さんも——
どれが本物だったのか、もう分からない。

分からなくていい。

■第7章 「壊れる」


あれから平穏な日常が戻ってきた。あの出来事は全部夢だったのかと思うぐらい、なんだか激しい出来事が続いてたなぁ。そう物思いにふけっていた。
今日は仕事終わりに真里と優と一緒に田みやで待ち合わせだ。
1番乗りで到着しためぐみは、2人を待ちながらビールを飲んでいた。
2人は知らない。私が綾子さんや森会長にお願いして動いてもらったことを。知っているのは『匠さんと別れた』ということだけ。
2人がやって来て、一気ににぎやかになる。「めぐ、今度ワイン会行こうか!なんか友達がね、彼氏とか飲み友達できたって言ってたよ!」そう言って優がめぐみの手を握る。「うん!行こう!そうゆうの行ってみたい!真里も行こう!」「ん?真里?どしたの?」とめぐみが真里を見る。すると「あー、うん。ちょっと…」ワインを飲みながらスマホを触っていた真里の手から、優がいたずらっ子のようにそのスマホを取り上げた。「もう!真里!話してるんだから!そんな夢中になってるのは何?」そう言ってスマホを覗いた優の目が見開かれて、口が開いたままだった。「あ…」
「何ー?どしたの?」スマホを覗きこむめぐみに、真里が「ダメー!」と言った。「え?」めぐみの目に飛び込んできたのは、瑞鳳のSNSだった。頻繁に更新されていた投稿は止まっていた。ただ、トップに固定されていたのは『求人募集』の投稿だった。
「なに!なにー!もう気にしてないのに!2人が気にしすぎだよー!」そう言ってめぐみは笑い飛ばしていた。「いや、ごめんね。つい見ちゃってさ。なんか最近ちょっと噂あるじゃない?」真里が言った。「え?噂ってどんな?」優が真里の顔を覗き込んだ。「経営状況がどうとか…なんか京都の老舗に買い取られるとか。」「へーそうなんだ。」めぐみは平静を装うのに必死だった。「ちょっとお手洗い行ってくるね」と席を立った。

もう瑞鳳の名前を聞いても動揺なんてしないと思っていたのに。
鏡の中のめぐみは明らかにうろたえていた。「仕方ない!あんなことがあったんだから!時間が経てば忘れられる!」そう鏡の中の自分に言い聞かせて席に戻った。その後のことはよく覚えていないが、酔いが一気にさめた。

家についてからも匠と杏奈への怒りが蘇ってしまう。
消えたアカウントを検索する。すると、消えたはずのアカウントが復活していたのだった。
そう、杏奈の裏垢だ。
恐る恐る投稿を見ていくと、相変わらず杏奈は赤裸々に呟いていた。

アカウントが復活した頃の投稿にさかのぼる。
「誹謗中傷されて、気味悪かったから消えてました!まじで許さないんだからっ!」
誹謗中傷の意味、分かってないんだ、この子は。嘘偽りのことじゃないじゃない?全部本当なのに、自分にとって都合悪いことを言われると『誹謗中傷』ってどんだけ自分に都合よく解釈してるの?

「老舗くん、まじ使えなかった!昼職のトラブルで助け求めたのに知らんぷり。やらなくてまじで正解!金銭面でもケチだけど、心の余裕もない人ってかわいそ!確実にあっちもいけてないの想像できるし!」
「新しいATM!どこに行ったら会えるんだろ。最近うちのガルバも常連ばっかで新規来なくて釣れねー」

「私がパワハラってどのツラが言ってるわけ?仕事できないんだから、寝ないで明日までに解決策考えてきてねって、笑顔で後輩ちゃんに言ったのがアウトって!まじ狂ってる!仕事出来ないうえにブスなんだから!中身も見た目も勝てないからって妬まないでくださーい」

「時々思い出すと眠れないし、消えたくなる。『杏奈さんに怒られちゃいました』『杏奈さんに嫌われたかもです』表では『杏奈さん!すきです』って懐いてて、一緒にカフェ行ったり、海行ったり、飲みに行ってた子が、社内の通報窓口に駆け込むとか、なんのいやがらせ?嫉妬?結局嫉妬される運命?」

「昼職の面接全然受かんない。ダメだったメール見るとまじでおちる。私の何がいけないんだろう」

「仕事決まらんし、夜だけで生きてくのツラ。最近睡眠時間2時間もない。寝れない。病院行った方がいいかもだけど、行こうとするとわんわん泣いちゃう。壊れてるかな、わたし」

この子は、何と戦ってるんだろう。
本垢を見ると、以前と変わらない煌びやかな動画を載せていた。
壮絶なSNSの裏と表、人間の裏と表をを見た。
それにしても匠さんは、歯医者を解雇になった後も知らんぷりなんだ。やっぱりチキン。

■第8章 「右腕の秘めた想い」


私は匠さんがオーナーになる前からずっと支えてきた。
瑞鳳に入る前、私は暁星出版(ぎょうせいしゅっぱん) の手帳部門で営業事務として勤務していた。1年上の先輩であり、入社当時の指導係が営業の匠さんだった。

そう過去のことを振り返り、パソコンの画面を見つめているのは檜山沙也加(ひやまさやか)。瑞鳳の総務課長兼オーナー付け。
彼女は匠が瑞鳳のオーナーに就任する時、暁星出版から引き抜いて、総務部で縁の下の力持ちとして働いていた。暁星出版の頃から、外面は自信があるように見えても、内心いつも不安を抱える匠の性格をよく理解していた。
匠が大事なプレゼンの前、緊張のあまり食事が喉も通らないと言った時に「これなら食べれる!」というたまごサンドを隣駅まで買いに行ったりしていた。
「檜山ってほんと、すごい気が利くよね。絶対いいお嫁さんになれる!俺が保証するわ!」
そう言ってまっすぐな目で沙也加を見る匠に、何度も胸がぎゅっとした。

『匠さんのことが好き。でもただの後輩としてしか見られていないことは分かってる。
何度か自分の気持ちを伝えようとしたこともあった。でも、今の関係を壊したくない。
そう思って、ずっと私のこの気持ちは誰にも話していない。
だから、瑞鳳の総務課長として招いてもらえた時は本当に嬉しかった。
恋愛感情はずっと隠して、匠さんのそばで匠さんと瑞鳳をずっと支えていくって決めた。』

「檜山!」匠がオフィスの中で沙也加を呼ぶ。
「はい!オーナー、どうされましたか?」すっと立ち上がる。
「お前さ、今オフィスに俺しかいないんだから、オーナーって言わなくていいよ。2人の時は前と同じで『匠さん』でいいって何度も言ってるじゃん!たまには『オーナー』以外の呼ばれ方したいんだって。」そう言って匠はいたずらっ子のようなおどけた表情を見せた。「はい。分かりました。」沙也加はあえて匠のほうを見ない。ドキドキしてる今の表情を匠に悟られたくないからだ。
「それでさ、来週の市長との対談なんだけど、その時のネタって何かないかな。例えば、地元の高校生のインターンシップみたいな、『地域』『子供』『未来』みたいなワードが続いてさ。『将来瑞鳳で働いてみたい』でも『大人になったら瑞鳳に泊まってみたい』でもいい。子供たちの未来に少しでも関わりたいんだよね。それ見た地域の人たちもさ、瑞鳳に対して敷居高いって思ってたり、わざわざ近くでうちには泊まんないじゃん?でも知ってもらって身近に感じて欲しいんだよ、俺は!」
あぁ、これだ。暁星にいた頃も、匠さんはアイディアが豊富で、それをこうやって何気ない時によく私に話してくれたのだ。そんな時の目がキラキラしていて、でも強い情熱を感じる匠さんに私は惹かれていったんだった。

「ねぇ、檜山ー。俺の話聞いてる?」「あ…はい、もちろんです。すごくいいと思います。」「だろー?瑞鳳の中でもこの話を理解してくれるのは檜山だ!って思ってさ。思いついてまっさきに話にきたよ!悪いんだけど、今の俺の話したこと、市長との対談用に資料にまとめといてくれる?ごめんな、総務の仕事で忙しいのに。」「いえ。大丈夫です。」「ありがとう。それとさ、こないだからSNSに求人募集あげたけど、あれってその後どう?SNSN経由では申込も問い合わせもないけど、事務所には連絡入ってる?」「入ってはいるんですが、非常に少ないですし、問い合わせで終わってしまって、応募には至ってないです。」「そっかぁ。給与面とか改善必要なら、変えるから。檜山の意見聞かせてよ。な?頼りにしてます。」「え…あ、はい。ありがとうございます。」「じゃあ、部屋のあいさつ回り行ってくるな!」
そう言ってオフィスを出ていく匠の後ろ姿を見届ける。

頼りにしてる
その言葉を噛みしめながらも、やはり胸が締め付けられる想いだった。

でも、匠さんは、私にはバレていないと思っている。
さわやかで、情熱的で、親しみやすくて、メディアに注目される若き瑞鳳のオーナー裏の顔を。
大学生アルバイトの音葉(おとは)が女子トイレで泣いていた時のこと。
沙也加は「音葉ちゃん、どうしたの?」と声を掛けたのだが「なんでもないです!戻ります!」そう言って走ってトイレを出て行った。音葉から「勉強に専念したいから」と退職の申し出があったのはその翌日だった。
それから一月ほどした頃、休憩室を通るとアルバイトの瑠香(るか)と翔子(しょうこ)が休憩室で話していた。「ねぇ、音葉ちゃんのさぁ…ほんとかわいそうだったよね。」「もう、ほんと許せないよ!だって去年辞めた愛ちゃんの時と同じじゃん!」「てか、これ社員に言ったらどうなるかな。私、せっかく仲良くなったバイトが、あいつのせいでどんどん辞めてくの、もう耐えれない!」「うーん…分からないけど、相手はオーナーだからさ。握りつぶされて私たちがクビになるんじゃない?」咄嗟にめぐみは2人の会話に割って入った。2人は目を真ん丸にして微動だにしない。
「あなたたち、今の話を詳しく聞かせてくれる?」2人は俯いたまま沙也加を見ようとしない。「ねぇ、瑠香ちゃん!翔子ちゃん!お願い。あなたたちの悪いようには絶対にしないから。約束する。だから音葉ちゃんや愛ちゃんに何があったのか、私に全部話してくれる?」
2人は目を見合わせた。ぽつりと瑠香が切り出した。「檜山課長になら…ねぇ」視線の先にいる翔子も「うん。檜山課長、本当に私たち、クビにされたりとか、しないですよね?」と答えた。「もう!何を心配してるの!そんなことあるわけないから。私を信用して、話せるところから話して欲しい。」そう言って2人の目を見た後、沙也加は深く頭を下げた。
瑠香はゆっくりと話し始めた。
「音葉ちゃん、辞めちゃったじゃないですか。あれって、実はオーナーといろいろあったんです。」沙也加はぎゅっと心臓がえぐられるような気持ちになった。平静を装い、ゆっくりと頷きながら話を聞く。「音葉ちゃんは付き合ってるって思ってたみたいなんですけど、急にオーナーの態度が冷たくなって。LINEも無視されるし、バイト中にすれ違っても目すら合わせてくれなかったみたいなんです。それで、帰りに駐車場でオーナーを待ってて、声掛けたら酷いこと言われたって。『こんなとこで待ち伏せなんてストーカー?』って半笑いで言われたって。それで…」「それで?」また俯いて、口をつぐんでしまった。「いいよ、話せたら話してくれたら。」沈黙があった後、意を決したように翔子が続けた。
「音葉ちゃんが、オーナーに『遊んで捨てられたってみんなに言う』って言ったそうなんです。そしたら、オーナーがスマホ出してきて。音葉ちゃんとしてるところ…隠し撮りしてたみたいで。『こっちこそみんなに見せるよ?』って言われたんですって。」唇を噛みしめながら、悔しい表情を浮かべている。
「2人とも、よく話してくれたね。ごめんね。音葉ちゃんの辛いこと、思い出させてしまって。でもね、これはあなたたち2人もだし、他のアルバイトのみんなを守るために、とても大切な話なの。安心してね。2人の立場が悪くなることは絶対にないから。ね?」
そう言うと2人は安心した表情で目を合わせていた。「もし、オーナーに何か言われたりしたら、すぐに私に教えてね。絶対に守るから。」
もうここまできたら動くしかない。
沙也加はそう心に強く決めた。そしてもうひとつ、沙也加が抱えている対処すべきことがあるのだ。
契約社員の沢村和哉が社内チャットで沙也加に連絡をしてきたのだ。
「突然すみません。お話したいのでお時間いただけますか?」その日のうちに沙也加は沢村と話をした。
「オーナーが社員旅行に、社員じゃない人を連れて行った」ということ さらには杏奈のSNSを見つけたアルバイトたちが、瑞鳳の公式SNSでは流れていない豪華な光景に不満の声が爆発しているというのだ。 俺たちは最低賃金で働いているというのに、自分たちはリムジンカーで移動して、シャンパンタワーで乾杯をする。セスナで移動する姿も見ており、社員旅行としては豪華すぎるし、社員ではない女性が同伴していて、オーナーの見栄が下品に感じるとまで言うのだ。沢村の表情は怒りというよりも呆れに近いものだった。
税務署に告発するとか、SNSに投稿するというスタッフが何人も出ていて、自分も異論はない。でも、その前に檜山課長にはひと言伝えた方がいいと思った。だから今はまだ誰にも動かないように待ってもらっているというのだ。
「誰かが税務署に告発する前に、やましいことがなければスッキリできるから、証明できるならしてほしい。オーナーのことは軽蔑しかないけど、でも俺たちは瑞鳳もここにいる仲間も好きだから」と。
「沢村くん、少しだけ時間をもらえる?」「分かりました。僕を採用してくれて、入社後もいろいろ教えてくれた檜山課長の言うことです。待ちます。」「ありがとう。1週間。1週間だけ待ってくれる?」「分かりました。」沢村は一礼して応接室を後にした。扉を閉めるときに向き直り、「檜山課長、よろしくお願いします」そう言って深々とお辞儀をした。
沙也加もまっすぐに沢村を見て、深く頷いた。沢村が出て行ったあと、自席に戻ると沙也加がパソコンにUSBを差し込んだ。 それは、ラスベガスの旅費の内訳が書かれたものだった
私がやるしかない。
アルバイトたちの話を聞く前に、沙也加の心を押した出来事がある。
ある日の夜、残業をしていた沙也加が、オーナー室の扉が開いているのを見たことがある。匠も残業してるなら、コーヒーでも買いに行こうと扉を開けようとした時、女性の声がした。
「あ…あぁ…匠…さん、ダメ…だよ、ここ職場で…しょ?あ!声…出ちゃう」
「めぐ、すっごい興奮してる…あ、俺も今日早そう…う…めぐ…」
噓でしょ?私の尊敬する匠さんが、職場でこんなことを。この時から沙也加の心は深い霧の中にいるようだった。

エピローグ


デイサービスセンター結(ゆい)の家
ロッカーで着替えを済ませ、退社する男。
「お疲れさまでした!」パーカーにデニムで通用口を出ていく男の名前は『深山匠』。ここだ働き始めて2年が経つ。以前はメディアに取り上げられ、老舗旅館を映える旅館へと変身させた若きオーナーの姿はそこにはない。3年前、すべてを失った。祖父の代から築き上げたものが崩れるのは一瞬だった。一緒に働いていた仲間たちを心底落胆させ、家族や親族からは勘当された。当時は『理不尽だ』と怒りでいっぱいだった。みんな、俺を持ち上げて、俺も精いっぱい努力をして旅館を大きくしたいと思った。「何が悪いのか?」「俺の成功の下には、多少の犠牲や涙は必要」
それぐらい、俺は人としてあるまじき考えを持っていたのだと、今なら思う。オーナーでいた期間はわずか2年。その2年で俺はたくさんの人を傷つけてしまったし、それは決して許されることではないことも分かっている。大きな十字架を一生背負っていく。かつての人脈も経験もなく、家も失った自分が『誰かのために』出来る仕事を探していたーーーそこで見つけたのがこの結(ゆい)の家だ。
そしてこの場所に決めたのはもうひとつ理由があった。

スーパー得得ひろば 喫煙所
そこでエプロンをして足を組み、たばこをふかす女。喫煙室に小さな声で「お疲れ様です」と言いながら入る男性の声を一瞥して無視をする。一瞥した後に目を落とすのは彼女のスマホ。SNSでキラキラしている女性起業家のアフタヌーンティーや、ラグジュアリーなホテルでバスローブを羽織り朝からシャンパンを飲む姿をスクロールしている。小さな声で「ブスが!調子乗んなって!」と吐き捨てるように呟く。喫煙室に居た男性は、気まずそうにそそくさとたばこの火を消して喫煙室をあとにするのだ。女の名前は『杏奈』。
かつては審美歯科クリニックの受付とガールズバーのダブルワークをしていた彼女は、歯科を解雇され、ホストクラブの売掛が払えなくなってしまった。狭い世界だから、ガールズバーでは金銭トラブルの噂はあっという間に広まった。居づらくなり、他の店舗の面接を受けても受からない。ーーーこの街の夜の世界で彼女は働くことが出来なくなったのだ。
昼間の仕事の面接もなかなか受からずに、やっと決まったのがここ『得得ひろば』のレジ担当。かつての長くて派手なネイルをすることも出来ない。そもそもネイルをする金銭的な余裕もないのだ。それでも必死にフィルターを使って自分の姿をあげている。『はぁぁぁ、今日も鏡を見てかわいさにため息出る』涙袋を盛って。

風待浜
夕日に照らされた男女が散歩しながら話している。
「ねー、今日もほんとに楽しかったね!」「うん!今日も楽しかった!ここにきて正解だったね」「お魚は釣れなかったけどね!あはは!」「ごめんって!そんな笑わないでよ!」「だって、だいちゃんヒトデばっかり釣ってるから!あはは!」「ほんと、めぐちゃんといたら、ちょっとのことも10倍楽しくなる!」「あはは!ならよかったー。ね、晩ご飯どうする?お魚ないからさ!あはは」「こら!なんか食べてく?この近くに美味しい焼き鳥屋さんあったよね?」女は一瞬表情が消えたがすぐに笑顔に戻る「あー、今日は焼き鳥より家でだいちゃんの手料理食べたい!」「オッケー!スーパー寄って帰ろう!」その時2人とすれ違う男性がいた。
「めぐちゃん、さっきの男の人って知ってる人?」「え?さっきの人?えー知らないよ!」「そっか!なんかめぐちゃんのこと一瞬凝視してたように見えたから」「なに!やきもち焼いてるの?かわいい!」「あはは!そうだよ!だって俺の奥さんかわいいし、こんなに楽しい人だからさ!すれ違った人にもそれ伝わっちゃうんだよ!」「あはは!ありがとう!そうゆうまっすぐに言葉にしてくれるだいちゃんが旦那さんでよかった!」
すれ違った男は涙を流して二人の話を聞いていた。「本当に…本当にごめんなさい。俺に言う資格はないけど、幸せになっててよかった。う…うぅ…本当に…ごめんなさい。」


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