
いきものと、そう呼ぶ人: 第4話
あらすじ
人間は、いきものに名前をつけて呼んだり、所有したり、口にしたり、服を着せたり、値段をつけたりする。その境目の意味をつくるのは、人間だけ。本作は、いきものと人間のあいだにある見えない何かについての連作短編です。日々の暮らしの中でふと現れる小さな違和感から、人間の勝手な愛情、いきものの扱い、いきものと人の間に現れる情景を描く、一話ごとに完結する連作短編です。
第4話「閉じない目」
家は誰も触らない場所から、少しずつ、何かが傷んでいく。
帰ってきた部屋の中で、冷蔵庫の小さなモーターの音。
無機質な黒いテレビのモニター画面。
テーブルの上には、朝に飲み残した水の入ったコップ。
鍵を開けて入った部屋が、外の温度よりも一層冷めたように感じる日がある。
昔は、部屋に温度があった。
冬になると、膝の上に乗ってくる重さがあった。
毛布の中に入ってくる小さな体があった。
眠っている時に、こちらの足に背中をくっつけてくる熱があった。
こちらが動くと、不満そうに体勢を変える音がした。
その体は、いつも自分より少し温度が高い。
抱いていると、自分の手のひらに熱を帯びて湿る。
胸の下で、呼吸が上下する。
骨の形が指に当たる。
眠っていても、完全には静かにならない。
その体が、少しずつ軽くなっていく時期があった。
餌を残す。
水を飲む量が変わる。
歩き方が変わる。
病院へ連れて行く。
薬を飲ませる。
診察台の上で、どんどん小さくなる背中を見る。
最後のとき、まだ温かい体をそっと撫でた。
しばらく抱いていた。
温度が下がるのを感じながら。
それからしばらく、部屋の中に残ったものを捨てられなかった。
小さな器。
匂いの残る毛布。
使いかけの薬。
診察券。
小さなブラシ。
開封したばかりのフード。
いきものとの暮らしは、きれいごとだけではない。
自分の形の一部になる。
いなくなった時に、こちらの形がだいぶ変わる。
駅から家までの道に、小さな動物病院がある。
ガラス張りのエントランスの横に、いつも貼り紙がある。
「優しい飼い主さんを探しています」
推定年齢。
性別。
避妊手術済み。
ワクチン接種済み。
完全室内飼い希望。
譲渡条件あり。
面会は予約制。
写真にある小さなトイプードルのまん丸で黒い目は、こちらを見ている。
見ているように見える。
私は、いつもその前でよく足を止める。
足を止めるだけだ。
中には入らない。
問い合わせもしない。
貼り紙の前でいつもその目を見るだけ。
その張り紙を見たあと、歯医者に行った。
定期検診の日。
3か月ごとに来るように言われている予約の日に行く。
待合室には、大きな水槽がある。
受付の横に、自分の身長より少し低いぐらいのモダンなガラス水槽が置かれている。
歯医者の白とグレーを基調とした都会的なインテリアによく合う、真っ白な台座の備え付けの立派な水槽。
その中には白い砂が敷かれ、LEDライトに照らされている。
丸い石や流木、華やかな緑色のサンゴが入っている。
青い体に黒の模様の魚、黄色い体と顔に黒い線が入った魚。
名前を唯一知っているクマノミも泳いでいる。
待合室は白い。
白い壁。
白いリノリウムの床。
白っぽい木目の椅子。
白いマスク。
白い紙コップ。
その中で、水槽だけが青く光っている。
患者は、それを見る。
子どもはガラスに近づいてクマノミの動きを追う。
大人はスマートフォンを見ながら、ときどき水槽の方へ目をやる。
高齢の女性は、会計を待つあいだ、杖に両手を重ねて、水槽を見ていた。
私も見る。
熱帯魚が好きなのかと聞かれたら、たぶん違う。
詳しくもない。
クマノミぐらいしか名前も分からない。
水槽の中のクマノミの数も数えたことはない。
診察室の奥から、歯を削る音が聞こえる。
金属の器具が触れ合う音。
受付の電話。
誰かの名前を呼ぶ声。
そのあいだ、魚は口を小さく開けたり閉じたりしながら、ゆっくり泳いでいる。
魚の目は、閉じない。
閉じない目に何が映っているのか、私にはわからない。
歯医者の帰りに、東急ハンズに寄った。
買うものがあったわけではないけれど、ただ、まっすぐ家に帰りたくなかった。
文具の階を少し見て、キッチン用品を見る。
便利そうなものはたくさんある。
手書きの子犬のイラストがたくさん描かれたコーヒーカップは生活を楽しくするんだろうか。
ペット用品の近くに、小さな水槽が並んでいた。
はじめてのシュリンプ飼育セット。
平べったい水槽の中で、小指の爪ほどのエビが忙しなく動いている。
透明な体に赤い線が入り、細い脚を何本も動かしている。
水草の上に乗って、休んでいるようなエビもいる。
底砂。
水草。
フィルター。
カルキ抜き。
餌。
水温計。
飼育ガイド。
「初心者も簡単!癒しのシュリンプ・アクアリウム」とポップには書かれていた。
エビたちが細く小さな脚を忙しなく動かしているのを、私はじっと見つめていた。
エビは海の掃除屋と聞いたことがある。
水草の上や底砂のあいだを、透明な脚でつまむように動く。
その華奢な脚で、見えない何かを、ひとつずつ拾っている。
散歩もいらない。
毛も抜けない。
家具を傷つけない。
夜中に布団へ入ってくることもない。
足が痺れるまでじっと待つこともない。
エビは餌を入れるときっと寄ってくる。
水草の陰に隠れる。
透明な脚を動かす。
自分とは違う小さな動きが、部屋の中にあることを想像した。
水槽ごと、玄関に飾れそう。
それを思い浮かべると、部屋の空気が少し変わる気がした。
そばにある説明を読む。
水合わせ。
水質管理。
急激な温度変化を避ける。
脱皮不全。
寿命。
死骸は早めに取り除く。
小さなエビが一匹死んだら、私はそれをどうするのだろう。
エビの目は、小さな黒い点のようだった。
こちらを見ているのか、見ていないのか分からないけれど、
きっと私のことは見ていないだろう。
私はしばらく水槽の前でぼんやりしていた。
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