
社会的弱者でいる必要はない~不登校の息子が教えてくれたこと~
こんにちは、めげないやつ子です。
不登校は個人の問題ではなく、社会の在り方を問い直すサインなのかもしれない。
そう思うようになってしばらく経つ。
でも私はそれをどんな行動に変えてきたのだろうか。
息子の生き方を見つめながら、私の中でも少しずつその意味が変わってきた。
与えられた中から選ぶ世の中への疑問
「与えられた中から選ぶ」のではなく、自分の疑問を放置せず意思を持って選ぶことができる大人でありたい。
そう思うようになったのは、息子の姿を通してである。
息子は小学校6年生のときに不登校となり、今は18歳になった。あれから息子はずっと、自分の気持ちに正直に生きている。
やりたいことを見つけ少しずつ実行しているが、もちろん思うようにいかない日もある。疲れて立ち止まる日もある。
理想と現実の間で葛藤することもあるようだけど、いつも最後には自分と向き合い、次に進もうとする。
それは簡単なことではない。しかし、その姿は以前に比べ明らかに、周りに振り回される様子が少なくなってきた。
息子には、自分の価値観やその基準に対する自信があるのだろう。
ただ誰かの言うことに従うのではなく、自ら考え調べ、納得して選ぶという姿勢が感じられる。
テレビで言っていたから
ネットに書いてあったから
そんな理由だけで信じるのではなく、受け身のまま疑うのでもなく、自分の意思を持って向き合うということが何よりも重要なのだと教えられている。
違和感に気づける感性は、社会に必要な力である
意思を持って行動するためには、自分の中にある「違和感」に気づくことが出発点である。
その感覚に優れているのが、不登校の子どもたちだと私は思ってきた。
彼らは社会の「べき」や「普通はこうである」に違和感を覚え、自分に正直であろうとする。
しかし、今の社会にはそうした感性を否定し「元に戻すこと」ばかりを望む大人がまだまだ多い。
子どもを普通に引き戻そうとする行為は、自分の意思で考えるという事から最も遠い事である。
確かに、与えられたことを素直に受け入れて行動することは時には必要である。でもそれが成立するには、自分で考える力が育っていることが前提なのだ。
今は、社会全体が大きく変化しようとしている時代、
その中でこれまでの常識や多数派の考え方にとらわれない感性こそが、未来をつくる鍵になるのではないかと感じている。
不登校の子どもたちが持つ違和感に気づく力は、これからの社会にとって必要不可欠なものであると私は信じている。
小さな行動が、大きな選択肢を生み出す
私たちは日々、何を信じ どう行動するかを選びながら生きている。
報道の在り方
お金の使い方
ネットでの振る舞い
選挙の行方
教育のかたち
これらは、社会的に力のある誰かによって決まるものではなく、私たち一人ひとりの選択によって変えていかなければならない。(本来は)
一人の力は小さいかもしれない。でも自分の意思を持って選び、行動する--- その積み重ねが、『社会の大きな力』を動かす事になり得るのだと思う。
「この人達に選んでもらえる人(コンテンツ)にならなければ…」
そんな風に思わせるためには、希望やその逆のNOという意思を表し、それを行動に移していく事が大事だと考えている。
例えば、
■媒体や発信者を選び、NOと言いたいものは見ない選択をしていく。
■自分や大切な人にとって、未来に繋がることにお金を使う。
■発信の真意を読み取る力をつける、自分の偏りに気付く。
■選挙に行く。自分で調べ誰が得をしているのか深く考える力を鍛える。
■みんな一緒…ではなく教育の本質、子ども達が育つ事や伸ばしたい能力について私たち大人が自分で考える。
ここに書いた事は、いくつかの例でしかないが、それでも一人一人がちょっと意識するだけで変わっていくと思えてくる。
それだけ、まだ希望があるのだ。
不登校を経験した私達だから出来る事がある
私たちはもう、「不登校の子を持つ親」「助けが必要な人」「社会的弱者」などという枠には当てはまらないのではないか。
私はそう伝えたい。
もちろん、少数派であることに変わりはないし、偏見やレッテルに傷つくこともある。将来に不安がないと言えば嘘になる。
しかし、それは「受け身でいる理由」にはならない。
子どもが選んだ道、その選択を可能にした感性、生きづらさを「違和感」として捉える力。それは何よりも価値あるものだ。
そして、その力を一番近くで見てきた私たちだからこそ信じてあげることができる。
不登校を経験した子どもや、その様子を近くで見てきた私たち親の多くがたどり着く、
[本当に大切にしたいこと]
それは変化のスピードが早い今の社会にこそ必要な価値観なのだ。それを世の中に伝えていけるのは私たちしかいない---
私は本気でそう思っている。
それではまた。