見出し画像

私が読書会をする理由 ーーコガネムシとユングと、本を読むということ

大学生のころ、予備校でアルバイトをしていた。

ある日、英語の清水先生(具志堅用高似)にお茶を淹れた。

すると、どこからかコガネムシが飛んできて、先生の湯呑みの脇にすとんと着陸した。

清水先生はコガネムシを見て「ほう」と言い、続けた。

「ボブ子さん、『シンクロニシティ』って知ってる?」

知ってますとも。

というのも、その少し前、私はユング心理学の入門書を読んだばかりだったからだ。

本はシンクロニシティ製造機

この話は、2020年のFacebookにも一度書いた。

そのときのタイトルは、

「本はシンクロニシティ製造機」

だった。

スピリチュアル系か!? と、そっとページを閉じようとした方、しばしお待ちを。

そもそも私が「シンクロニシティ」という言葉を知ったきっかけは、The Policeのアルバム『Synchronicity』だった。

ポリスが好きだったので、当然「シンクロニシティって何?」となり、ユングにたどり着いた。

高校時代は授業をサボりまくって厚木の有隣堂書店の地下、人文書のコーナーで時間をつぶし、大学生になってもさっぱりトンネルから抜け出せなかった私は、ユング心理学関連の本も結構読んだ。

その中に出てきたのが、有名な「黄金虫」のエピソードだ。

心の治療を受けていた患者がユングに、黄金のスカラベが出てくる夢について話していた。すると偶然、窓のところにスカラベによく似た甲虫が飛んできた。それをきっかけに、患者の治療がうまくいき始めた。

ユングが提唱した概念である「意味のある偶然の一致」、シンクロニシティを説明するときによく引かれる話である。

そこへ、私のコガネムシだ。

しかも具志堅用高似の清水先生から、

「ボブ子さん、シンクロニシティって知ってる?」

である。

なるほどこれが、と大学生の私は驚くと同時に、深く納得した。

それを契機に鬱々とした大学生だった私が陽キャになりました、とか、そういうことは全くなかった。

ただ、とても心が動いた。

一瞬、世界と自分が少しつながったような気がしたのだ。

もちろん私は、あのコガネムシが宇宙から私に遣わされたとは思っていない。

起こった出来事自体に意味があるのではなく、そこに意味を見出すのは人間だ。

清水先生もユングの黄金虫の話を知っていたから、目の前に甲虫が現れて「シンクロニシティ」という言葉が出てきたのだろう。

身もフタもない。

でも、それであのとき感じた「なんだこれは!」という不思議さが損なわれるわけではない。

私はむしろ、そっちのほうが大事だと思っている。

本を読むと、世界に線が増える

そして2020年の私は、Facebookにこう書いていた。

「意味」を濃縮した集合体である「本」というものは、起きている事象と結び付く力がとても強い(というか、人間が勝手に結びつけやすい)。

6年経った今も、これはそうだと思っている。

ただ、読書会を5年以上続けてきて、もう少し違う言い方もするようになった。

本は「意味のノード」なのではないか。

ノードとは、ネットワーク上の結節点のことだ。

人間もまた、ひとつの意味のノードだと思う。

有機代謝する生命体であると同時に、これまでに経験したこと、読んだもの、見たもの、聞いたもの、人から言われたことなどを大量に抱え、それらを使って世界を解釈している。

そこへ、本という別の「意味のノード」を取り込む。

すると、自分の中に、それまでなかった接続が生まれる。

ユングを読んでいなかった私にとって、あの日のコガネムシは、ただの虫だった。

「うわ、虫!」

で終わる。

でも本を一冊読んだことで、

The Police
↓
Synchronicity
↓
ユング
↓
黄金虫
↓
目の前のコガネムシ
↓
清水先生

という線が突然つながった。

現実に新しいものが増えたわけではない。

本を読んだ私の側に、世界から意味を拾い上げるための新しい回路ができたのだ。

書籍という、ちょっと変わったメディア

もちろん、意味のノードは本だけではない。

音楽も映画も絵画もそうだし、人間同士の会話だってそうだ。

なんなら、この理屈でいけば何でもつながる。

それ、なんでもありじゃん!

というツッコミは甘んじて受けよう。

世界のすべてを説明できる理論はだいたい怪しい。ユング先生からも、そのあたりは学んでいる。

それでも私は、書籍というメディアには少し特殊なところがあると思っている。

書籍は、社会に存在する意味のノードの中でも、長命種になるべく洗練されてきたメディア形式のひとつだ。

本のすべてのページは、同時にそこに存在する。

映像や音楽のように、作品側が決めた時間に従わなくていい。

速く読んでもいい。三ページ戻ってもいい。途中で閉じてもいい。半年後に再開してもいい。

読むという経験のスピードや順序を、読み手がかなり自由にコントロールできる。

そして、書かれたテキストは同じでも、そこから生まれる意味は読者によって違う。

それまで何を知ってきたか。

誰と出会ったか。

何に傷ついたか。

何を面白いと思ってきたか。

20歳で読む『百年の孤独』と、50歳を過ぎて読む『百年の孤独』は、同じ本なのに同じ本ではない。

さらに面白いのは、まだ起きていない未来の経験までが、その本の意味を変えるし、本が未来の経験自体を変える。

大学生の私が読んだユングの本の意味を、その後飛んできた一匹のコガネムシが変えたように。

何十年も前に読んだ一文が、ある日突然、

「ああ、あれはこういうことだったのか」

と立ち上がることがある。

本そのものは一字も変わっていない。

変わったのは、私だ。

だから、本は読み終わった瞬間にも、意味が確定しない。

これは書籍というメディアの、かなり面白いところだと思う。

差こそが価値

そして2021年から、私は仲間と月に一度、読書会をやっている。

テーマは、

「今すぐ役に立たないけれど、いつかは読みたい本を読む」

である。

『嵐が丘』も読んだ。『夜と霧』も読んだ。『バガヴァッド・ギーター』も読んだ。小林秀雄もバタイユもハンナ・アーレントも読んだ。

一人だったらたぶん永遠に積んでいた本も、みんなで読むならどうにか読む。

という実利(?)も、もちろんある。

でも、5年以上続けてきて、私が読書会で一番面白いと思っているのは別のところだ。

同じ本を読んでいるのに、みんな全然違う。

私が「ここ、ものすごく面白かった!」と思ったところを、誰かは完全に読み飛ばしている。

逆に、私が何とも思わなかった一文について、誰かが延々と話す。

「私はこの人が一番気になった」

「え、そこ?」

ということが毎回のように起こる。

だから私は読書会でよく、

「差こそが価値」

と言う。

同じテキストを読んでも、それぞれが持っている意味のネットワークが違うのだから、できあがる読みも違う。

そして他人の読みを聞くと、

「あ、そんな線の引き方があったのか」

と、自分にはなかった接続がひとつ増える。

するともう一度本を見たとき、その本が少し違って見える。

本の文字は一字も変わっていないのに。

同じ本だから、違うことに意味がある

ただし、「人それぞれでいいよねー」で終わる話でもない。

読書会には、同じテキストがある。

「私はこう読んだ」

「ここにはこう書いてある」

「じゃあ、この一文はどういう意味だろう」

と、全員が戻れる場所がある。

だから違いが面白い。

同じ本があるから、違うことに意味がある。

違うからこそ、「本」と「私(の読み)」と「誰か(の読み)」の間に、新しい意味の線が引かれる。

差がなければ、ただの答え合わせだ。

他人が作った意味の線を交換する。
本を基準点に、互いのノードの座標で三角測量をする。

それはあるときはスポーツのようで、あるときは一つの映画のようで、たまにはお清めやお祓いだ。

その場がどうにも魅力的で、読書会を続けている。

私が読書会をする理由

本を一冊読む。

自分の中に、それまでなかった意味のノードがひとつ増える。

それが、目の前の出来事や、昔の記憶や、別の本や、他人の言葉とつながる。

そして他の人と話せば、自分一人では絶対に引かなかった線まで増えていく。

その線が何の役に立つのかは、読んでいるときにはわからない。

来週役に立つかもしれない。

30年後かもしれない。

一生何の役にも立たないかもしれない。

それでいい。

だから私は、「今すぐ役に立たないけれど、いつかは読みたい本」を毎月読む。

そしてああでもないこうでもないと話している。

本を読むことで、世界に線が増える。

人と読むことで、その線がさらに増える。

そうして世界は、読む前とほんの少し違って、ほんの少し面白く見えるようになる。

たぶん、それが私が読書会をする理由なのだと思う。

ちなみにユング心理学を科学だと思っているかというと、私は思っていない。

私にとってユング先生とは、オカルティズムに猛烈に魅了される自分を一生かけて説明しようとしていたら、いつの間にか巨大な心理学体系ができあがり、本人までカリスマになってしまった人である。

でも、私はそんなユングが結構好きだ。

世界のすべてを説明できる理論は疑ってかかったほうがいい。

でも、世界をちょっと面白く見るためのレンズなら、いくつ持っていてもいい。

あの日、予備校の講師控室に飛んできたコガネムシも、客観的にはただの虫だった。

それでも40年近く経った今まで、こうして何度も人に話し、本について考えるきっかけになっている。

そう考えると、あのコガネムシ、ずいぶん長いこと働いている。

意味というものは、案外そういうふうにできているのかもしれない。



【追記】
ちなみに、ユングの「黄金虫」の元ネタであるスカラベ(フンコロガシ)は、古代エジプトでは糞球を転がす姿を太陽の運行になぞらえられ、再生・復活・創造の象徴になったそうだ。

40年近く意味を転がし続けている私のコガネムシも、なかなか働き者である。

……まあ、スカラベが転がしているのはう○こなんだけどね。

いいなと思ったら応援しよう!