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静かな怪物は、沈む船を知っていた。

    ウチの支店の営業課は、タカナシ課長の意向で全営業マンの日報を課内で共有している。

    ある時、タカナシ課長の動きが変わった。

    最初にそれに気づいたのは、後輩のオオタだった。

    「フクシマさん、タカナシ課長ってカネモト機工さんに最近あまり行ってないですよね」

    「そうか?」

    「ここ2ヶ月、月1回しか訪問してないですよ? 以前は週1で行ってたのに……」

    僕はモニターの共有ファイルを開いた。

    言われてみれば、その通りだった。

    カネモト機工は地場の中堅メーカーだ。

    タカナシ課長が長い時間をかけて関係を築いてきた顧客で、担当者とも懇意だった。

    取引量も安定している。

    普通なら、むしろ重点的に訪問していてもおかしくない。

    「何かあったのかな」

    「聞いてみます?」

    「やめとけ」

    僕はオオタを止めた。

    タカナシ課長の行動には、いつも理由がある。

    ただ、その理由を本人が細かく説明することは滅多にない。

    だが、その頃からタカナシ課長は課員にひとつだけ明確な指示を出していた。

    「カネモト機工に依存している顧客は切れ」

    説明は無かった。

    それでも課員たちは、自分の担当顧客の中でカネモト機工への売上依存度が高い企業への売り込みを控え始めた。

    タカナシ課長がそう言う時は、たいてい何かある。

    みんな経験的に知っていた。

    それから一ヶ月後。

    僕はタカナシ課長の売上高月次報告を見て違和感を覚えた。

    カネモト機工への納品量が急減している。

    グラフにすると、綺麗な右肩下がりだった。

    昼休み、喫煙所で缶コーヒーを飲んでいたタカナシ課長に聞いてみた。

    「カネモト機工、取引量が減ってますね」

    「そうだな」

    「理由は何ですか?」

    タカナシ課長は缶コーヒーをゆっくりと指先で回した。

    そして短く言った。

    「売るべきじゃない状況になったからだ」

    それだけだった。

    先方から減らされたわけではない。

    明らかにタカナシ課長の意思で減販している。

    オオタが訪問頻度の変化に気づいたのが先で、取引量の減少はその後だった。

    つまり、何かを察知して動いたのだ。

    その時点で。

    さらに二ヶ月が経った。

    営業フロアでカネモト機工の噂話が増え始めた。

    「カネモト機工さん、支払い遅延の噂が出てるな」

    タナカさんが言った。

    「そういえば、資材部長が変わったらしいですよ」

    オオタが続ける。

    「社長の息子が入ってきて、現場がまとまってないって聞いた」

    「俺の顧客も取引を控えているらしい」

    そんな話があちこちから聞こえてきた。

    僕は横目でタカナシ課長を見た。

    課長は新聞を読んでいた。

    何も言わない。

    何も反応しない。

    ただ、カネモト機工への納品量はほぼゼロになっていた。

    それから三ヶ月後の朝だった。

    信用調査会社からアラートメールが届いた。

    カネモト機工破綻。

    営業フロアがざわつく。

    負債総額。

    破綻理由。

    債権者リスト。

    各自がモニターを見ながら声を上げていた。

    幸い、ウチの課員はカネモト機工への依存度が高い顧客との取引を既に絞り込んでいた。

    被害は最小限だった。

    僕はタカナシ課長の売掛残高を確認した。

    ゼロ。

    完全にゼロだった。

    昼休み。

    喫煙所でオオタが聞いた。

    「課長、カネモトさんの件、いつから分かってたんですか」

    タカナシ課長はタバコに火をつけた。

    煙を吐いてから答えた。

    「だいぶ前にトぶ兆候が見えたからだよ」

    「兆候って、何を見てたんですか」

    タカナシ課長は少し考えた。

    そして静かに言った。

    「経理担当者が辞める会社は珍しくない」

    オオタが頷く。

    「社長の息子が入る会社も珍しくない」

    「じゃあ何が違うんですか」

    タカナシ課長は灰を落とした。

    「全部同時に起きるんだよ」

    オオタが黙る。

    「人事が荒れる。支払い条件が変わる。担当者の顔色が変わる。取引先への態度が変わる。現場の空気が変わる」

    タバコをもう一口吸う。

    「変化がひとつだけならノイズだ」

    少し間を置いて続けた。

    「だが、3つ重なれば兆候になる」

    喫煙所に沈黙が落ちた。

    オオタが言う。

    「でも、そんな細かいこと普通気づかないですよ」

    タカナシ課長は少しだけ笑った。

    「気づかないんじゃない」

    そして続けた。

    「見てないんだ」

    僕もオオタも何も言えなかった。

    タカナシ課長はタバコを灰皿で消した。

    そして立ち上がりながら言った。

    「売上を上げないと、という強迫観念は観察力を削ぐ」

    その言葉が妙に残った。

    さらに出口の手前で振り返り、最後にこう付け加えた。

    「営業の仕事ってのは、売掛を回収して初めて〆なんだよ」

    それだけ言って去っていった。

    僕はカネモト機工の破綻資料を見直した。

    債権者一覧には、業界で名前の通った大手企業が並んでいた。

    F社(カトウ課長)5,000万円。

    B社(キウチ課長)3,500万円。

    誰もが知る企業ばかりだった。

    だが、その中にタカナシ課長の名前だけは無かった。

    僕は資料を閉じた。

    そして、ふと喫煙所で聞いた言葉を思い出した。

    「営業の仕事ってのは、売掛を回収して初めて〆なんだよ」

    あの時は意味がよく分からなかった。

    営業の仕事は売ることだと思っていた。

    だが違った。

    売った先にあるものまで見て、初めて仕事は終わる。

    あの日から、僕は顧客の見方を変えた。

    訪問するたびに観察する。

    支払い条件の変化。

    担当者の表情。

    社内の空気。

    組織の温度。

    全部が少しずつズレていく。

    タカナシ課長は、そのズレを見ていた。

    そして、誰よりも早く動いていた。

    沈む船に気づく人はいる。

    だが、本当に少ないのは。

    沈む前に降りる人だ。

    今なら、それが少しだけ分かる。

     
     
    どうすればライバルに勝てるのか? どうすればバックオフィスを味方に付けられるのか?タカナシという人物にそれを投影させています。僕の営業マン時代の実体験をショートストーリー仕立てで書いています。