
なんとなく親しみを感じる人
もう随分昔のことになる。確か、四十二、三だったと思う。約二年間、パンの営業販売のアルバイトをしたことがある。
ワゴン車に一日分のパンを積み込み、上田から北方向に向かい、新潟との県境あたりまで、結構広い範囲を走り回った。
初めて行く場所に次から次へと飛び込んで営業をかけるという、それまでの自分を知っている人なら、ちょっと信じられないような転身だった。
それまでの自分」とは…、
― 内向的でちょっと気位が高い芸術家肌の男。―
そんなふうに見えていたのではないかと思う。当の本人もそう思っていた。特に二十代の頃などは、そこに加えて、対面恐怖症気味なところがあり、苦手なことの筆頭が「世間話」だった。
ある都市の冬、火事で全財産を失った。楽器も録音機材も楽譜も何もかも…。
生きて行くには職業を選んでいられなくなった。あれやこれやと、いくつかの職種を経験したが、その中で最も続いたのが、意外にも飛び込み販売のこの仕事だった。実際にやってみて、初めて眠っていた才能(?)が目覚めた。
人というもの、変わらざるを得ない状況に追い込まれたら、変わるものである。
売り上げは順調に伸び続け、初めてから約一年後には県内でトップに上り詰めた。
そんな話をすると、まるでつまらない自慢をするために、この話を始めたみたいに思われそうだが、そうではない。
様々なお客さんがいた中に、ちょっと他とは違う、独特な印象を残した人がいた。その人のことを話してみたいのだ。
ある日、販売車を運転してると、携帯電話ショップが目に入り、さっそく立ち寄ってみることにした。
カウンターにいた若い女性店員に用件を伝えると、快く聞き入れてくれ、責任者を呼びに奥のスタッフルームに呼びに行ってくれた。
二重瞼の大きな目、席を立つ直前に一瞬浮かんだ笑顔、対応の早さ、軽やかな身のこなしが印象的だった。
奥から出てきた女性の店長さんと談判の結果、交渉成立。毎週一度、立ち寄らせてもらえることになった。
何度か足を運んでいるうちに、最初に対応してくれた女性が、商品の受け渡しの際に、それ以外のこと、たとえば、店長さんの性格についてとか、曜日によっては別な営業所にいることなど、さりげなく教えてくれた。
こんなふうに、最初に感じた気さくな感じは、その後も変わることがなかった。
長々と話し込むわけではないのだが、そんな何気ない二言三言の会話の中に、ふとプライベートな話題が混ざる。
好きな口紅の色とか、お母さんが甘いものが好きだとか、休日は風邪気味でずっと家にいたとか…。
会うたびにそういった軽い一言が積み重なり、古くからの知り合いのような親近感が生まれていた。
三か月ぐらい経ったころだっただろうか、その女性から、突然転職することを告げられた。
「辞めちゃうんだね。寂しくなるねぇ」
自然にそんな言葉が出てきた。
「新しい職場は、出入りできそうなの?」
「うん、たぶん大丈夫だと思う。来てみてね」
すでに「お客さん」というより「お友達」みたいな感じ。転職先まで教えてくれたというお客さんは、後にも先にも彼女だけだった。
新しい職場は、ガソリンスタンドだった。携帯ショップの制服姿とはがらりと違い、ツナギに身を包んだボーイッシュな姿。着ている服によってこうも印象が違って見えるものかと驚いた。
そのスタンドに何度か訪問しているうちに、今度はこんな言葉を聞くことになる。
「あたし、夜の仕事もしてるから」
― なるほど! 親しみやすさの正体は、これだったのか! ―
携帯ショップの店員さん、ガソリン・スタンドの店員さん、場所によって違った顔を見せていたが、さらにもう一つの顔もあったとは!
だが、そのとき僕が返した言葉は、
「へえ、そうなの!」
それだけだった。
その先に興味が無かったわけではない。むしろその逆だったのだが、いきなり根掘り葉掘り聞くのもためらわれた。
その次の、またその次くらいの訪問で、ようやく訊くことができた。
「確か、夜の仕事もしてるって言ってたよね?」
「うん、そうだよ」
「稼いでるねぇ!」
「だって、あたし親も看てるんだもん」
そこで、また彼女の新たな一面を知ることになる。こうして次第に、彼女のことを思い出すことが増えていった。
勤め先のスナックを訪ねたのは、その後少し時間が経って、長野県を離れることが決まってからのことだった。
ガソリンスタンドで働いている姿は、サバサバとした喋り方や動作など、艶っぽさからは程遠い感じで、夜どんな感じで接客しているのか想像もつかなかった。だから、是非ともその様子を見てみたいと思った。
教わった店名を頼りに、街角に立つ客引きさんに訊くなどして、なんとかその店にたどり着いた。
いやまあ、驚いた。
スタンドに初めて行ったときも、その変貌ぶりに驚いたが、その時とは比較にならないほど鮮やかな変身ぶり。
― いやいや、お見逸れいたしました。―
店には、若い女の子が数人働いていたが、彼女はその中でも明らかに中心的な“ママ”的存在。ドレスアップし、夜向けのメイクに身に包んだ彼女は、昼間の姿とは、まるで別人かと見まがうほどに華があった。
内心の驚きを隠して、
「来たよ」
と、軽い挨拶をすると、実に華やいだ声が返ってきた。
「わあ、来てくれたんだぁ! こっちにも来てくれるとは思ってなかったぁ。ありがとう!」
「当たり前じゃん! お店の名前まで聞いて、来ないっていうのはちょっと冷た過ぎっていうもんだよ」
「お店の名前教えたの、ずいぶん前だったよね。よく覚えててくれたねぇ」
「忘れないように、ちゃんとメモしてあったからね」
というのは嘘で、メモ無しではっきり覚えていた。
昼間の愛嬌たっぷりの顔とは、また違った大人の顔。ドレスとラメ入りのアイシャドウも素敵だったが、それ以上に彼女自身の存在自体が輝いていた。
「なんか別人だねぇ。綺麗でビックリ! 馬子にも衣装とはよく言ったもんだ」
「ひど~い。帰っていいよ。出口はあちらでございます」
そう言いながらも、溢れんばかりの笑顔を見せている。
「あらら、いきなり怒られたか」
「ウソだよん。ゆっくりしてってね」
「うん、今日は、楽しませてね。だけど、いつものお客さんを大事にしてね。俺のことは放っておいても良いよ」
と、ちょっと格好付けて、カウンターの隅っこに席を取った。
隣にいる客と話したり、たまにカラオケ用マイクを握ったりしながら、離れた席から彼女の仕事ぶりを眺めていた。
店内の様子を見ていると、多くの客が、彼女目当てで来ているのがわかった。彼女のオーラに惹きつけられ、その姿を眩しそうに、憧れに近い目で見ている。カリスマと化している彼女の姿に驚き、それが嬉しくもあった。
プライベートな付き合いがあるわけでもないのに、昼間の姿や、親の暮らしを支えていることを知っている分だけ、他の客よりちょっとだけ距離が近いようにも感じていた。年が親子ほど離れているので、何か保護本能とでも言えるような感覚も働いてもいた。
客の殆どは、二十代、三十代のサラリーマン。それぞれの集団で固まっていて、身内で盛り上がっている。聞こえてくる会話は、ほぼ職場での話題で、その合間に斜めの視線で女の子たちの気を引くような言葉をかけている。
そんな様子が可愛くもあったが、そういった「集団で固まる雰囲気」は、自分には馴染みがなく、輪の中に加わる気も起らず、そんな中に一時間もいると、さすがに少し退屈してきた。
「ありがとう! 今日は楽しかった。来てよかったよ」
そう言って席を立つと、見送りのために、外まで出てくれた。
「昼間の姿は、全然色気無いから、正直言ってどんな感じなのかって思ってたよ」
「そうでしょうねぇ」
「だけど、すごい人気だね。みんなあなた目当てで来てるじゃん。ここで見るあなたはほんとに魅力的だねぇ。この様子だと大丈夫どころじゃないね。正直びっくりしたよ」
「そうでしょう?」
そう言いながら、イタズラっぽい笑みを浮かべる。
「なんか客層見ると、俺はちょっと浮いちゃう感じだね。空気が違う」
「うん、なんか他のお客さんと違う。みんなアタシに会いに来てるけど、こっちにしてみれば正直ちょっとつまんないんだ。でも、そういう人たちと違って、アタシのこと考えて来てくれたっていう感じで、嬉しかった」
そんな言葉に、少し心がくすぐられた。
そんなに飲んだつもりはなかったが、かなり酔いが回っているみたいだった。
潤んで見える彼女の目を間近に見ていると、一瞬恋仲であるかのような錯覚に陥った。
黙ってお互いの顔を見ているうちに顔が近づいていた。
彼女もこちらを見つめたまま顔を逸らさない。
― おっと、これはちょっといかん ―
そこで、かろうじて正気に戻った。
「顔、近いよ」
「ふふふ!」
「じゃ、元気でね」
後ろ髪引かれながら、手を振ってその場を後にした。