メインコンテンツへスキップ
見出し画像

夜のりんご畑で

     平成九年。長野冬季オリンピックが開催される前の年。僕は、ある男性と長野市のバーのカウンター席にいた。
     その男性とは、オリンピック事前盛り上げ運動で知り合った。
     最初の出会いは、上田城址公園でのコンサートだった。当時県議会議員だった母袋創一氏から電話があり、協力してほしいとの申し出に応えたものだった。
     そのコンサートを企画したのが、その男性、長野オリンピックの儀典課主幹を勤めていた、三歳年上の中学校教諭、唐沢史比古氏だった。
     上田でのコンサート時、彼が作詞作曲した合唱曲『きこえる』を、参加者全員で声を合わせて歌った。命の共鳴を高らかに歌いあげる感動的な内容で、歌いながら涙を流している女子中学生の姿が印象的だった。
     歌詞の中から一部を紹介させていただくことにする。

     ― きこえる 風の中で  きこえる あなたの声
       きこえる 波の中から きこえる 時を超えて
       ひとりずつ 生きているよ
       つながっているよ ひとつずつ
       ひとつずつ 生きているよ
       つながっているよ ひとりずつ ―

     歌に共感した僕は、シンセサイザーによる伴奏を作成し、県内各所で開催されたコンサートへの二回目以降の参加時に使ってもらった。

     バーに誘われたのは、長野市の運動公園でのコンサートを終えた夜のことだった。
     グラスを傾けながら、彼が二十七歳だった頃の、こんな体験を話してくれた。

     ― ある夜、りんご畑の横を歩いていると、月明かりに照らされた美しい情景が目に入った。
     月の光が地上を照らし、その光が自分の目に飛び込んでくる。
     その、調和に満ちた美しい光景に、この世のすべてと自分との繋がりを感じ、その途端に胸に熱いものがこみ上げて、涙が溢れてきた。
     自分が何を感動しているのか良く解らない。
     目に映る全ての現象が、それまでとまったく違って、勢いよく目に飛び込んでくる。 ―

     飲み会の帰りのことだったので、酔っているせいかとも思った。一夜明けると、また以前と同じようにしか見えないかも知れない。それだったらそれでも良いと思った。
     酔いのせいなのか、そうでないのか…、目が覚めたときに世界がどう見えるか楽しみで、幸福感の中で眠りに就いた。

     天気の良い朝だった。果たして世界がどう見えるだろうか…。
     身を起こすと、真っ先に窓に歩み寄り、カーテンを開けた。
     すると、前夜と同じように、目に映るもの全てが、こちらに向かって鮮烈に飛び込んでくる。前夜と同じように、再び感動が押し寄せてきた。
     職場に向かう道でも、胸の内に幸福感が溢れ、回りに登校中の子供たちも歩いているというのに、涙が溢れそうで困った。
     それ以降、何も怖いものが無くなったという。
     
    「誰にでもは話しません。あなたなら、こういう話を受け止められるのではないかと思って話してみたかったんです」

     そう言ってもらえたのが嬉しかった。
     その話を聞いて、自分が体験したあることを思い出し、それについて話してみることにした。
     奇しくも同じく二十七才のときのあの体験。エッセイ『雨音に包まれて』で書いた、長野県南佐久郡で農業のアルバイトをしていたときのこと。
     雨の日曜日、雨の音から世界の広がりを感じ、高校時代に甑島で見た夜空に浮かぶ無数の星々を思い出し、世界と自分とのつながりを感じた。
     話し終えると、彼は言った。

     「そう、それと同じだと思います」

     こちらにしても、誰かにそんな話をしたことなど、それまで一度も無かった。
     甑島で、夜空を見上げ、友と共有したあの感動の時。その体験があったからこそ成立した出会いだった。

     心を開かせてくれる。いつもそんな雰囲気を漂わせている人だった。
     その先生の研究授業を実際に見てきたという方からこんな話を聞いた。
     授業終了後、参観者から感想が述べられたのだが、その中で、ある若い女性教師。
     「今日・・・、ここに来れて・・・、ほんとうに良かったです」
     それだけを言うのに、涙で声を詰まらせながら、やっとの思いで言い終えた。
     彼の笑顔は。人の心を解きほぐし、暖かい気持ちにさせてくれる。そんな彼の人柄の魅力について、多くの人が、僕の目の前で熱っぽく語った。
     長野冬季五輪フラワーセレモニー用の音楽を担当したのも、この方が仕事を振ってくれたお陰だった。
     その後、こちらは故郷鹿児島に居を移し、さらに二十年以上が過ぎた。
     今では、連絡先も分からなくなってしまったが、彼のことを思い出すだけで胸が温かくなる。

    あなたへのおすすめ