
巡り合わせの面白さ
二歳の頃聞いた子守歌。
三歳の時に出会った梅の木。
この二つが、僕の人生を動かしたのかも知れない。
・・・と、いきなりそんなことを言ったところで、
それを耳にした人は、
「一体何のことやら??」
って思うだろう。
話を切り出してはみたものの、このあとどう続けたらよいのか、自分でもまだ手探り状態だ。
本題に入る前に、まず生まれた町のことに、ちょっとだけ触れておこう。
鹿児島市加治屋町。
鹿児島市街地の少し西側にある。
西郷隆盛や、大山巌、東郷平八郎を輩出し、大久保利通も、七歳の時に越してきて、ここで育ってる。歴史好きの人や、鹿児島を訪れたことのある人ならご存じのことと思う。
でも、言いたいのは、そのことじゃない。僕がそこにいたのは、生後数カ月までなので、何の記憶も残っちゃいない。
その後、引っ越したのが鷹師町っていう町。ここには、三歳になる直前まで住んでいた。
そんなわけで、加治屋町とは違って、けっこういろいろと覚えてる。
家の前に少し広い道路があったことや、庭先からその道路に出るところに小さな石段があったこと。そこに腰掛けて、頬杖をついて外の様子を眺めていたこと。ロバのパンがやってくるのを楽しみにしていたこと、大雪が降ったこと等・・・。
そんな中に、子守歌もあったっていうわけだ。
ちょっと遠回りしたけど、いきなり話し始めるよりは、僕という人間の手触りを感じてもらえるかと思ったのだ。
で、歌ってもらってた子守歌っていうのが、有名な『江戸の子守歌』。
実は、この歌のタイトル、今の今まで全く知らなかった。
知る必要もなかったし、知ろうともしなかったんだけど、この機会に改めて調べてみて、なんと七十歳にして初めて知ったのである。
愛知県の岡崎地方に伝わっていた歌が、徳川家康の江戸幕府開府に伴って江戸に伝わり、変化したものだって言われてる。もちろん、そのことも、今初めて知った。
こうやって子守歌のことを話すなんてことがなければ、知らないまま一生を終えていたかもしれない。
この『江戸の子守歌』の中にある一節。
― あの山越えて 里へ行った ―
この部分が、二歳の頃、どうにもイメージが沸かなくて、なにやら恐ろしく感じられ、この情景が何度も夢に出てきた。
ここまでたどり着くまで、話は散々蛇行しまくったが、言いたかったのはそのことだ。
まず、「サト」っていう言葉が、よく分からなかった。
母に訊いても最後は、
「子どもには難しい。大きくなったら分かるよ」
と言われて終わる。
「山を越える」っていうのもよくわからない。
その頃、自分にとって「山」とは、家のそばから見える、緑の森に覆われた山肌だった。
そこを越える。
二歳児がイメージしたのは、その上空を鳥のように越えて行く様子だった。
夢の中で、自分は空中に浮かんでいる。緑に覆われた山の上空を、ゆっくりと移動して行く。「サト」を目指すのだが、それがどんな所、どこにあるのかも分からない。だから、いつも迷いの中で目が覚める。
そんなことが、何度も繰り返された。
そんな夢を見ているうちに、その後長きに亘って、意識の底の部分、「無意識」と呼ばれる領域に、そのイメージがしっかりと刷り込まれたんだと思う。
それから、随分時間が経って、二十七歳のとき、音大卒業後、その後の人生がはっきり見えず、気分転換を兼ねて、長野の山村に農業のアルバイトしに行った。
ひと夏をそこで過ごし、そこが気に入ったので、東京のアパートからその村へと移住した。
その村で二年を過ごした後、再度音楽の道に戻るために、その村を離れ、都市部へと移動した。
で、移住した先が、同じ長野県の上田市だった。
その上田市で、里山保全運動に出会うことになる。
唐臼山っていう里山の頂に立っていた大きな松の木に出会うのだ。
その流れが、まさに「あの山越えて里へ行った」なのである。
自分で、そうと意識していたわけではないけど、「無意識の選択」っていうやつかもしれない。
で「あの山越えて行った」その上田で、「サト」山のてっぺんに生えていた松の木に会うきっかけとなったのが、自作のエッセイを読んでもらったことだった。
その内容が、三歳の時に出会って、小学生時代まで関わった梅の木を題材にしたものだった。
結局は枯れてしまい、悲しみに暮れ、そして何者かによって知らない間に伐採されてしまったことに激怒した、そんな体験を記したものだった。
それを読んだ知人が、彼の幼馴染みと引き合わせてくれた。
その人が住んでいる地区の、里山のてっぺんに生えていた大きな松の木が枯れてしまい、その保存を呼びかけているのだが、理解者がいなくて孤立しているという。
エッセイを読んで、
「君だったら、奴のことを理解してやれるんじゃないかと思って」
というわけで紹介してくれたのである。
結局、その松のために十二曲からなる組曲を作曲することになる。
さらには、そのことが新たな縁を呼び込み、長野冬季五輪のフラワーセレモニー用音楽を担当する。
詳細は別作品に書いてある。
幼少期の梅の木の関わりがなかったら、そして、それをエッセイに書くことがなかったら、その松の木との出会いも無かった。
そして、その後、オリンピックに至る人生展開も無かったのである。
これを「運命」だとか、「宿命」だとか言うつもりはない。
でも、面白い人生を歩ませてもらったとは思う。