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チロル会音楽部~ロック青春記 第21話*ザ・レイク結成前夜

     この頃から、僕らの行動範囲は急速に広がって行った。
     天文館商店街の中に、オープンしたばかりのロック喫茶『コロネット』に出入りするようになり、社会人の先輩バンドや、ダンスホール『ヒルトン』で演奏していたプロのミュージシャンとも交流するようになる。
     そんな中に混ざって、自分たちもライブに参加させてもらうこともあった。
     知り合いになったブロード・ビーン・ブルース・バンドという社会人バンドなどとセッションし、楽し気に演奏する様子を、僕はただ指をくわえて見ているだけ。  
     そんなことが多かった。ギターは、肩から下げて、気楽に持ち運べても、キーボードはそういうわけにはいかない。

     そのブロード・ビーン・ブルース・バンドが、彼らの地元、出水市で自主コンサートを開いたときは、鈍行列車に乗って、はるばる見に行った。
     公民館を会場にしたそのコンサートで、「遠い所から来たお客様」として紹介され、数曲披露させてもらった。
     グランド・ファンク・レイルロードの『ハート・ブレイカー』を演奏したとき、末原君が、ギターソロの場面で、両膝を床に着け、上半身を反らせて熱演し、拍手喝さいを浴びている姿が、心底羨ましかった。
     コロネットでのライブで、一度だけアップライトピアノが準備されていたことがあり、ここぞとばかり、勇んで熱演したのだが、マイクで音を拾っても、ギターやドラムの音にかき消され、なかなか耳まで届かない。ムキになって鍵盤を叩き続けた結果、爪が剥がれて血まみれになってしまった。
     それを見た末原君が、「かっこいい」などと、気楽にのたまっていたが、誰も気づかない出血など、ただ痛いばっかしで、屁の役にも立ちはしなかった。

     1971年春。この年から、海外アーティストの来日公演が、急激に増えて行く。
     伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの雷雨の中での後楽園ライブを始め、シカゴ、BS&T、ピンク・フロイド、レッド・ツェッペリン、フリー、エルトン・ジョンなど。前年が、ドノヴァン、ジョン・メイオール・バンドくらいだったのと比べると、えらい違いだった。
     そういった変化の波を感じ取っていた僕らは、自分たちの力を、より大きな場で試したくなり、ヤマハ主催の『ライト・ミュージック・コンテスト』にチャレンジすることにした。翌年に、『ポピュラー・ソング・コンテスト』の第1回が開催されているので、コピー曲でも参加できたコンテストの最終回だったことになる。
     会場は県医師会館。アンプもドラムもキーボードも主催者側によって準備される。大きな会場で、十分な機材を使って大音量を出せる、その条件だけでわくわくした。
     しかも、準備されるキーボードは、ヤマハYC-30。リボン・コントローラーが装備されているのが特徴で、いつもため息まじりにカタログを見つめていた憧れの機種だ。その楽器に、直接触れられると思うだけで、胸が躍った。
     ここで、ひとつだけ困った問題が起こっていた。
     鹿屋から合流したドラムの川原君が、高校進学直後から、剣道部の活動で忙しく、バンドへの参加が困難になっていた。
     そんな折、鮫島君が通い始めたばかりの高校に、ドラムが叩ける先輩がいるという情報を持ってきた。加入した軽音楽部で、共にフルート担当だった二年生の中間和之君。彼とは、後に、キース・エマーソンの新バンド、エマーソン、レイク&パーマーのコピーバンドを組むことになる。
     参加メンバーは、ボーカル:南貞則、ギター:末原康志、ベース:鮫島秀樹、ドラム:中間和之、そしてキーボードは、もちろん僕だ。
     参加曲は、ステッペン・ウルフの『ワイルドで行こう』。他にもいくつか候補曲があがったが、南君が歌いやすくて、楽器編成が自分たちにぴったりということで決定。ドラムの中間君による提案だった。
     バンド名は、「ザ・レイク」。これは鮫島君の発案だった。

     そして、いよいよその日がやってきた。第5回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト鹿児島県大会。

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