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コーヒーの香り ~ ふるさと鹿児島より

     久しぶりにコーヒーを飲みたくなり、挽き売りのコーヒーを買ってきた。
     食器棚の中から、ペーパー・ドリップを引っ張り出し、フィルターにお湯を注ぐ。
     湯気とともにコーヒーの香りが漂い始める。
     ゆったりとカップを口にしていると、コーヒーの味に重なって、いくつかの思い出がゆらゆらと立ちのぼってきた。

     音大に通っていた頃、大学最寄駅のそばに行きつけの喫茶店があった。まだオープンして間もない小さな喫茶店で、その店の看板のデザインをしたのが、音大に通っていた女の子の叔父さんだった。
     そんな繋がりから、カウンターの向こうで音大生がバイトしていたり、お客の中にも顔馴染みの学生が多かった。
     僕もそんな中の常連客の一人だったわけで、その小さな店の中に沢山の思い出が詰まっている。
     他に客がいないときなど、こっそりと只でコーヒーを飲ませてもらったり、逆にこちらが無報酬で使いっ走りをしたりと、まるで学園祭の模擬店みたいな感覚があった。マスタードの補充を頼まれ、近くの食料品店から和風辛子を調達してきてしまい、絶好のお笑いネタになった、なんていうこともあった。
     女子寮に住んでいた、バイオリン専攻の不思議な先輩のことを聞いたのも、その店でのことだった。
     その人には、予知能力や透視能力があり、失くした物などは、百パーセント出てくるという。そんな話を聞いているうちに、是が非とも会ってみたくなり、頼み込んで店に出向いてもらったことがあった。確か“さおりさん”と呼ばれていたが、それは本名ではなく、姓名判断によって考え出した通称だった。
     その不思議な能力で、探し物は確実に出て来たが、僕に関する予知だけは、外れてしまった。三十前に結婚すると言われ、相手の名前まで出てきたのに、自慢じゃないが、僕は今でもバリバリの独身だ。
     思い出は、次から次へと、芋づる式に蘇ってくる。
     看板をデザインした美術家先生の姪っ子さんも、よくカウンターに入っていて、あれこれとお喋りしているうちに、僕は、恋が育っているものと勘違いしてしまった。たとえ勘違いから始まった恋であろうとも、それが実れば美しい物語となるだろう。 
     だが、実際に待っていたのは、見事な惨敗だった。
     逆に想いを寄せられた相手には、一瞬心が動きながらも、そこまで止まりといった具合で、その方面に関しては、すべてチグハグだった。
     そこは喫茶店なわけだから、当然、“ブルマン”だの“キリマン”だの“アメリカン”だのという注文が飛び交う。そのうち、誰が何を注文するのか自然と覚えてしまったし、その頃から豆による味の違いを意識するようになった。
     あれこれと試しているうちに、甘い香り、上品な酸味、芳醇な風味が特徴とされるグアテマラ、そして、まろやかな酸味とコクが特徴のモカにたどり着き、音大卒業後は、スーパーなどでも容易に入手できるモカに絞られてきた。
     後に母校を訪ねた際、その付近を歩いてみたのだが、その店もすでに無くなっていた。あそこに集っていた仲間たち、その後どうしているのだろう。

     場面は、それから一気に二十年近く飛ぶ。
     僕は、長野県上田市に住み、作曲やピアノ指導をして暮らしていた。
     当時教えていた三十歳前後のピアノの生徒さんから、コーヒーのギフト・セットを頂いたことがあった。
     包装を解いて蓋を開けてみると、箱の中にコーヒーの入った缶が三本並んでいたが、豆の名前は、知らないものばかり。あの音大時代の喫茶店通い以来、モカ好きは、ずっと継続してたのである。
     その生徒さんの、

     「コーヒーがお好きだとおっしゃっていたので」

     という言葉を思い出しては、

     ― それだったら、もっと細かいところまでチェックしてほしかった ―

     などと、あまりにも自分勝手な気持ちを持て余していた。
     贈ってくれた相手の気持ちを受け止めるどころか、心の中で文句を言っているのだから、全く勝手なものである。
     そして、そのギフトに対する興味はしぼんで行った。
     そのうち買い置きしてあったモカも無くなり、折角だからと、あまり気乗りもせず、もらったコーヒーの缶を開け、それを入れて飲んでみた。
     口にした瞬間、カップを手にしたまま、固まってしまった。
     それまで口にしたことのないまろやかで豊かな味わい…。いや大袈裟でなく、実際にその瞬間そう思ったのである。
     そこで慌てて、箱や缶に印刷されていた説明書きを読むと、豆はブラジル産。コーヒーの豆と皮の間に甘味成分が多く含まれている部分があり、そこだけを集めたもので、通常は出荷されず、農園経営者、および従事者だけの密かな楽しみのために飲まれる…、なんだかそんなようなことが書かれていたのだが、記憶だけが頼りなので、微妙に違うかも知れない。

     ギフトの贈り主が次にレッスンにやってきたときに、改めてお礼を言い、入手先を尋ねてみたのだが、頂いてからちょっと間が開いていたこともあり、その生徒さんの記憶も曖昧になっていた。
     特に厳選したというわけでもなく、たまたまそのギフトセットが売り場にあったということだったらしい。

     その後、しばらくはその豆のことが気になりながら、徹底調査することもなく、十年近い歳月が流れた。

     今、僕は、故郷鹿児島に住んでいて、特定の豆に拘るでもなく、秋の気配を楽しみながら、ブレンドコーヒーを頂いている。

     コーヒーの味と香りの中に、こうして、数多くの思い出が漂う。

     ただし、そこに見える風景は、ほのかで淡い。
     しばらくは覚えていたはずの、あの豆の名前も、今ではすっかり零れ落ちている。
     モカとか、ブルーマウンテンなどのように短い一つの単語でなかったことだけは覚えているのだが、「コーヒー」でネット検索してみても、今のところ、それらしき名前には行きあたらない。



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