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平均でいると安心していたころ|私にとっての「馴染む」を考える

平均でいると安心する?
最近、そんなことを考えていました。


学校でのテスト。
クラスの中での立ち位置。
友人関係の中での“普通”。
会社や社会の中で、なんとなく求められる基準。


思い返すと私は、
いろいろな場所で、
周りと同じくらいでいることに
安心していた気がします。


目立ちすぎない。
浮かない。
外れない。


それは、自分に自信がなかったから、
というだけではなかったと思います。


平均のあたりにいれば、
その集団の中にちゃんと馴染めている気がしていた。


誰かに指摘されることも、
笑われることも、
妬まれることもない。


平均は、
自分の立ち位置を確認し、
安心するための目印だったのかもしれないです。



学校のテストの平均点で確認していたこと

例えば、学校のテスト。


自分の点数が50点だったとして、
その50点をどう受け取るかは、
平均点によってかなり変わっていました。


平均点が30点なら、
「周りの子も分からなかったんだ」
「テスト自体が難しかったんだ」
「それでも平均点以上取れて嬉しい」

と思えて、少し安心する。


でも、平均点が80点なら、
「私だけできなかったのかもしれない」
「私が分かっていなかったのかもしれない」
「置いていかれているのかもしれない」

そんなふうに感じていました。


今思うと、
そこで確認していたのは、
その科目に対して、
自分が理解できていたかどうか、だけではありませんでした。


自分だけが分からなかったのか。
周りも分からなかったのか。
平均から、どれくらい離れているのか。


そこを見て、
集団の中で自分がどの位置にいるのかを
確認していたのだと思います。


本当は、
一生懸命勉強した結果として、
嬉しいのか、悔しいのか、納得しているのか、
自分の中で、結果を受け止めれば良かったはず。


平均点が低いならば、
担当教諭の授業の質にも
問題があったとも考えられる。


でも当時の私は、そんなことよりも、
平均点(周り)との差を気にしていました。



以前の私は「平均=馴染む」だった

テストの点数だけではなく、
私はいろいろな場面で、
周りの平均を見ていた気がします。


例えば、
周りの子が携帯やスマホを持ち始めると、
自分も欲しくなったし。


周りの子が塾に通い始めると、
自分も行った方がいいのかなと思った。


そして、周りの子が進学するならば、
(やりたいことは特にないけれど)
私も進学した方がいいんだろうと思っていました。


それが本当に欲しかったのか。
本当に必要だったのか。
そこまでは、当時の私には分かっていませんでした。


ただ、
周りの子が持っている。
周りの子が通っている。
周りの子がそうしている。


自分だけ仲間外れのようで
なんとなく落ち着かなかった。


周りの人の平均を見て、
そこに自分を当てはめようとして、
それが、
馴染むということなのだと思っていました。


以前の私は、
「平均=馴染む」でした。


しかも、
その状態を疑うこともありませんでした。



平均から外れる怖さと「出る杭は打たれる」への違和感

平均に近いところにいると、
少し安心していました。


逆に言えば、
平均から外れることが怖かったのだと思います。


平均以下になると、
見下され、イジメられるかもしれない。


平均以上になると、
妬まれ、イジメられるかもしれない。


どちらに外れても、
イジメの対象になる感じがありました。


小学校や中学校のころ、
私は勉強ができる子ではありませんでした。


隣の席の人と答案を交換して、
お互いに採点し合う時間があって。


自分の点数や、
間違えたところや、
分かっていなかったことが、
相手に見えてしまう。


それが、とても恥ずかしかった記憶があります。


家でも、
「赤点」や「平均以下」に対して
父がすごく厳しかったです。


だから私にとって平均は、
超えたら嬉しい場所というより、
下回るとまずい基準に近かったのだと思います。


一方で、
平均より上に出ることにも怖さがありました。


目立つこと。
人よりできること。
周りから少し浮くこと。


そこには、妬まれたり、
引きずり下ろされたりするような怖さがありました。


だから私は、
「出る杭は打たれる」という言葉があまり好きではありません。


平均から出た人を、
平均の中に戻そうとする感じ。


しかもそれを、
「あなたのため」
「それが正しいこと」
みたいに
良かれと思ってやっている感じ。


そこに、強い違和感があります。


平均以下は、見下される。
平均以上は、妬まれる。


そう感じていた私にとって、
平均の近くにいることは、
打たれないための安全圏だったんだと思います。



今の私にとって馴染むこと

今の私は、
社会に馴染むことと、
平均に自分を全部合わせることは
少し違うと思っています。


以前の私は、
周りと同じくらいでいること。
平均から大きく外れないこと。
目立ちすぎずないこと。


それが「馴染む」だと思っていました。


でも今は、
馴染むことは、
自分を平均に押し込めることではなくて、
まずその場のルールを知ることだと思っています。


例えば、会社なら、
会社としての組織のルールがある。


その中で働く人たちの間にも、
明文化されていない決まりごとや、
大事にされている感覚がある。


まずはそれを知る。
その場所で何が大切にされているのか、
自分がどこに合わせる必要があるのかを理解する。


私にとっての「馴染む」は、
守破離でいう「守」に近いのだと思います。


最初から自分のやり方を押し通そうとするのではなく、
まずは、その場にある型を知る。


関係性ができてきたあとで、
少しずつ自分の意見を出していく。


今のやり方の
この部分は少し変えた方が、効率的で、
自分も周りも楽になるかもしれない。


そんなふうに、
自分ひとりだけが得をするためではなく、
自分を含めた周りの人も少し良くなる形で、
少しずつ守破離の「破」に進んでいく。


受け身になって、平均におさまるのではなく、
違和感はしっかりとアウトプットしていく。
周りの人と意見交換をしていく。


それが、今の私にとっての
馴染み方なのかもしれません。



平均にいた頃の自分を否定しない

平均にいることで安心していた頃の自分を、
否定したいわけではありません。


あの頃の私にとって、
平均は安全圏でした。


でも今は、


まずは、その場のルールを知る。
そのうえで、関係性ができたあとに、
自分も周りも少し良くなる形で、
自分の意見を出していく。


平均に自分を押し込めるのではなく、
その場を知ったうえで、
自分の関わり方を少しずつ見つけていく。


今は、そんな馴染み方が
心地よく感じます。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

もし
「自分も平均の近くにいることで安心していたかもしれない」
と共感いただけたら
スキで教えていただけると嬉しいです✨

また、
平均に合わせていた昔の自分を責めるのではなく、
今の自分にとっての
“馴染み方”を少し見直すきっかけになれば嬉しいです。



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