富士山の閉山期登山は、ただの迷惑行為と言い切れるのか
富士山の閉山中に登る人が問題になっている。
現在、富士山の主要な登山道は、開山期間外には道路法に基づいて通行禁止となっている。閉山中は山小屋も救護所も閉まり、気象条件も厳しい。それでも封鎖を越えて登る人がいて、遭難すれば救助隊が出動する。
最初にこの話を聞いたとき、私はかなり単純に、
「そこまでして登りたいなら、遭難したときの救助費用くらい自分で負担すればいいのでは」
と思った。
登山をしない人からすると、そもそも自分にはほとんど関係のない娯楽である。
そのうえ「ここから先は通行禁止です」と言われている時期に、自分の意思で入っていく。
そこで事故が起き、税金を使い、救助する人まで危険にさらすのであれば、「それはもう自己責任でいいのでは」と感じる。
ところが、少し考えていると引っかかった。
エベレストに挑戦する登山家はどうなのだろう。
エベレスト登山だって生活に必要なわけではない。
本人が「登ってみたい」と思って、自分から危険な場所へ行く。
遭難すればシェルパやガイド、他の登山者などが救助に関わり、その人たちまで危険にさらされることがある。
かなり乱暴に構造だけを抜き出せば、
「自分がやってみたいことのために危険を冒し、失敗すれば第三者にも負担が生じる」
という点では、それほど違わない。
それなのに、
エベレストなら「冒険」「挑戦」と呼ばれ、
閉山中の富士山なら「無謀」「迷惑行為」と呼ばれる。
この違いはどこから来るのだろう。
もちろん、現在の富士山については「禁止されている」という違いが大きい。
閉山中の主要登山道は、単なる「危険だからやめてください」というお願いではなく、道路法に基づく通行禁止である。
それを知りながら入るのだから、現在のルールの中では明確に問題のある行為である。
ただ、それだけで話を終えると、
「禁止されているから迷惑だ」
というだけになってしまう。
では、なぜそもそも禁止というルールが必要になったのだろう。
ここを考えていくと、「冒険」と「迷惑行為」の境界は、思っていたより複雑に見えてくる。
実は行政も、冬の富士山に登るという行為そのものを、すべて一律に「やってはいけないこと」として扱っているわけではない。
ここは少しややこしい。
閉山中の一般登山道は通行禁止なので、登山計画書を提出したからといって、その道を通る許可が得られるわけではない。
一方で、富士登山の安全ガイドラインでは、夏山期間外について、十分な技術・経験・知識と、しっかりした装備・計画を持つ登山者まで一律に否定する考え方にはなっていない。
山梨県では、12月1日から翌年3月31日までの間、富士山の標高3000メートル以上に入る場合には登山計画書の提出が義務付けられている。
つまり、
「冬の富士山に登ること自体が、すべて同じ無謀行為」
というほど単純ではない。
今でも十分な能力を持った登山者にとって、冬富士は挑戦の対象になり得る。
問題になっているのは、一般向けに管理されている登山道が閉鎖されているにもかかわらず、それを突破して登るようなケースである。
ではなぜ禁止になったのか。
一つは、単純に「行ける人」が増えたことだと思う。
昔の冬富士に登ろうと思えば、そこまでたどり着くこと自体が大変だった。
装備も今ほど良くない。
正確な天気予報もない。
GPSもスマートフォンもない。
山の中で何かあっても、居場所さえ分からない。
そして何より、
遭難しても他人が簡単には助けに行けなかった。
本人も、
「失敗したら帰ってこられないかもしれない」
というところまで含めて挑戦していた。
ところが現在は違う。
交通手段が発達した。
装備も良くなった。
天気予報もある。
通信手段もGPSもある。
遭難したことも、場所も、昔よりはるかに把握しやすい。
救助隊も組織化され、ヘリコプターもある。
つまり、
昔なら「そもそも行けなかった人」が行けるようになり、
昔なら「助けられなかった人」まで助けられるようになった。
ここで少し皮肉なことが起きる。
普通に考えれば、救助技術が進歩すれば危険な挑戦は自由になりそうに思える。
しかし社会に「助ける能力」ができると、
「助けられるのに、なぜ助けなかったのか」
という責任も発生する。
遭難者がいる。
場所も分かる。
救助する能力もある。
そうなると、
「本人が勝手に危険を冒したのだから、放っておきます」
とは言いにくい。
富士登山の公式案内でも、閉山中に封鎖を突破して遭難し救助要請があれば、救助する側が危険を冒して向かわなければならないという問題が指摘されている。
すると管理する側からすれば、
「遭難したらこちらが行かなければならないのだから、最初から危険な時期には入らないでください」
となる。
つまり、
助ける能力が高まったことで、危険を冒す自由まで管理されるようになる。
これが現代の冒険を考えるうえで、かなり大きな変化なのではないかと思う。
そして、もう一つ重要なのが「人数」だ。
太平洋を小型ヨットで横断する人はいる。
南極を単独で横断しようとする人もいる。
未踏峰や未踏ルートに挑戦する人もいる。
どれも実用上は必要のない行為である。
太平洋を移動するだけなら、大きな船や飛行機を使えばいい。
それをあえて小さな船で、一人で、無寄港で、人力で、と条件を付けることで再び難しい課題にしている。
それでも社会は、それをある程度「冒険」として受け入れている。
なぜなのだろう。
一つの理由は、挑戦する人が非常に少ないことではないかと思う。
仮に毎年5万人の日本人が、
「小型ヨットで太平洋を横断してみたい」
と出航し、そのうち5000人が遭難するようになったら、今と同じ扱いのままでいられるだろうか。
おそらく難しい。
航海経験を求める。
装備基準を作る。
航海計画の届出を義務化する。
保険を求める。
気象条件によっては出航を制限する。
救助費用をどうするかも議論になる。
一人や十人の冒険家なら、
「本人が危険を理解したうえでやっていること」
として処理できる。
ところが、それが何万人にもなると事情が変わる。
事故の確率が同じでも、事故の絶対数が増える。
救助回数が増える。
救助する人が危険にさらされる回数も増える。
行政の管理業務も増える。
環境への負荷も増える。
さらに参加者同士が混雑によって新しい危険を作り始める。
そこで初めて、
「これはもう個人の自己責任だけでは処理できない」
となる。
この変化が実際に起きつつあるのが、エベレストなのだと思う。
かつてエベレストは、本当に限られた登山家が挑戦する山だった。
しかし現在は商業登山が発達した。
ガイド会社が遠征を組む。
固定ロープが張られる。
高所ポーターが荷物を運ぶ。
酸素も使える。
気象予報や通信手段も進歩した。
もちろん、それでも非常に危険な山であることには変わりない。
ただ、「エベレストに挑戦できる人」の範囲は広がった。
そして人数が増えれば、今度は混雑そのものが危険になる。
2026年5月には、ネパール側から一日で270人を超える登山者がエベレスト山頂に到達し、混雑問題が改めて議論された。
普通の観光地なら、混雑しても「待ち時間が長い」で済む。
しかし8000メートルを超える高所では、そこに長時間とどまること自体が危険になる。
他人が多すぎることそのものが、事故要因になる。
そこでネパールでは、まさに今、エベレスト登山者を事前に選別する制度が検討されている。
2026年2月にネパール上院を通過した観光法案には、エベレストの登山許可を得るために、事前にネパール国内の7000メートルを超える山を少なくとも一つ登頂していることを求める規定が盛り込まれた。
健康状態についての要件も設ける方向である。
さらにその後の議会審議では、
7000メートル峰だけでは足りないのではないか。
8000メートル峰の経験まで求めるべきではないか。
登山訓練の修了証を必要とすべきではないか。
健康診断を義務付けるべきではないか。
そもそも一つの山に、一シーズン何人まで入れるのかという「収容能力」を決めるべきではないか。
と、さらに強い規制案まで議論されている。
まだ最終的にすべて決まったわけではない。
しかし方向性は興味深い。
世界で最も象徴的な「冒険」の一つだったエベレスト登山が、
参加者が増え、
商業化され、
能力差の大きな人たちが同じ場所へ入るようになり、
事故や混雑や救助負担が無視できなくなった結果、
行政から、
「あなたには、この冒険をするだけの経験がありますか」
と選別されようとしている。
つまり、
冒険が大衆化すると、冒険家の自己判断だけでは処理できなくなり、外部からレギュレーションを与えられる。
ということなのではないか。
これは富士山にもかなり似ている。
もちろん富士山とエベレストでは難易度が全く違う。
しかし、
少数の人しかやらない
↓
本人の自己責任として処理できる
↓
技術や交通やサービスが発達する
↓
参加できる人が増える
↓
事故の絶対数や混雑が増える
↓
救助・環境・管理の負担が増える
↓
社会が放置できなくなる
↓
届出・資格・人数制限・禁止などのルールが作られる
という構造は似ている。
ここで「冒険家」という存在についても、少し見方が変わる。
私たちは「冒険家」と聞くと、
何か厳しい選抜を突破し、その危険なことをする資格を認められた人のように感じてしまう。
プロ野球選手なら、それはかなり正しい。
お金があるだけではプロ野球の一軍には出られない。
競技制度そのものが実力を選抜している。
しかし「冒険家」には、統一された資格があるわけではない。
もちろん、実際には大きな参入障壁がある。
技術も必要だ。
経験も必要だ。
お金も時間もかかる。
スポンサーやガイド会社から信用されなければ成立しない挑戦もある。
だから誰でも簡単にできるわけではない。
ただ、それは、
「社会が能力を審査し、この人なら危険なことをしてよいと認定した」
という意味ではない。
かなり酷な言い方をすれば、
冒険家が自由に冒険できてきた理由の一部は、挑戦者が少なすぎて、社会が細かく管理する必要がなかったから
とも言える。
そしてエベレストで起きていることは、その仮説をかなり分かりやすく示している。
人数が増えた結果、
「本当に経験がある人だけにしよう」
「一度に入れる人数自体を管理しよう」
という話になっている。
つまり、これまで自然な参入障壁に任せていた「選抜」を、大衆化したことで後から制度として作ろうとしている。
さらに、一般の富士登山には別の変化もある。
富士山を登ることは、本人にとっては大きな挑戦かもしれない。
運動経験の少ない人なら非常に難しいかもしれない。
人生で一度はやってみたい目標にもなり得る。
でも社会全体から見ると、富士登山そのものはもう希少ではない。
登山道も整備されている。
山小屋もある。
情報も大量にある。
毎年、多くの人が登っている。
すると、
「その人にとって難しいこと」と「社会的に希少な挑戦」が分離していく。
本人にとっては人生最大級の挑戦でも、社会から見れば多くの人がやっていることの一つである。
その状態で、あえて危険な時期や条件を選び、遭難して救助が必要になると、
「挑戦したことの価値」より、
「なぜその個人的な挑戦のために第三者がコストと危険を負うのか」
の方が目立つ。
これは、本人の挑戦に価値がないという話ではない。
その価値の大部分が、本人に帰属するようになったということだと思う。
そして価値が私的なものになればなるほど、
「だったらリスクや費用も、できるだけ自分で引き受けてください」
という要求が強くなる。
結局、「冒険」と「無謀」の境界は、危険度だけでは決まっていないのだと思う。
本人の能力。
準備。
共有された作法。
第三者への負担。
社会がその挑戦に感じる価値。
そして意外に大きいのが、
同じことをする人が何人いるのか。
一人なら「変わった冒険家」で済む。
十人なら、まだ冒険の世界かもしれない。
それが何百人、何千人、何万人となり、事故や救助が日常的に発生するようになれば、社会はその行為を管理し始める。
そこで、
「誰ならやっていいのか」
「どんな条件ならやっていいのか」
「何人まで認めるのか」
「失敗したときの費用を誰が負担するのか」
というレギュレーションが作られていく。
もしかすると冒険とは、
「特別な人だけに認められた危険な行為」
なのではなく、
挑戦者が少なく、その失敗による社会的コストがまだ管理可能だから、個人の自由として残されている危険な行為
という面もあるのかもしれない。
その冒険が成功し、技術が進歩し、参加者が増えれば、かつての冒険は大衆化する。
大衆化すれば事故の絶対数も増える。
救助能力が上がれば、社会はその事故を放置しにくくなる。
そして最後には、
「自由に挑戦してください」
だったものが、
「この条件を満たした人だけ挑戦してください」
へ変わっていく。
そう考えると、
「昔の冒険家は勇敢だった。今の閉山中の登山者は愚かだ」
と単純に分けるより、
冒険する人だけではなく、冒険を取り巻く技術、人数、救助能力、そして社会が引き受ける責任そのものが変わった
と考える方が、少し実態に近いのかもしれない。
【参考資料】
・富士登山オフィシャルサイト「夏山期間以外の富士登山について」
・山梨県「富士山における登山計画書」
・山梨県警察「富士山における登山計画書の提出について」
・静岡県「夏山期間以外の富士登山について」
・Kathmandu Post「Upper House passes tourism bill with tougher Everest rules」(2026年2月)
・Kathmandu Post「Everest crowding debate resurfaces after 270 climbers summit in a day」(2026年5月)
・Kathmandu Post「Lawmakers seek tougher Everest climbing rules with 263 amendments to tourism bill」(2026年7月)
