遊びを通じて、概念を学ぶ

最近よく感じることがあるので
綴ってみようと想う。
画家になるために、子どもの頃絵を描いて遊ぶのではない
木登りの名人になるために、自然の中で転げ回るのではない
虫博士になるために、昆虫採集をするのではない
音楽家になるために、鍵盤を練習するのではない
環境活動家になるために、自然を慈しみ、自然と戯れるのではない
…
最近よく想うのだが
決して、将来その活動を継続するために
その活動のプロフェッショナルになる為に
子どもの頃、遊び、一生懸命になるのではないということ。
画家になるために、一生懸命絵を描き、一生懸命何度も何度も描き
練習するのではなく
描くことが楽しくて、夢中になる中で
描く対象をよく観察し、どんな色を使えばいいか、どう絵の具を混ぜれば
作りたい色が作れるかをよく考える。
その過程の中で、観察眼を育て、考える力を育む。
音楽家になるために、鍵盤を触り、譜面を読み、
レッスンを続けるわけではなく
音楽を奏でることが楽しく、弾いてみたい曲があり、弾けるようになるまで一生懸命練習する
ピアノであれば、右手左手の両手、そして右足
エレクトーンであれば、右手左手の両手、そして右足左足の両足
3本、或いは4本の手足全てが違う動きをすることを何度も繰り返す
それは、脳を鍛え、鍛錬し、感性や、豊かな想像力を育む。
皆が皆、昆虫博士になる為に
一生懸命昆虫を追いかけ採集するのではない。
季節を問わず、夢中になり虫を追いかける、時には工夫をして捕まえようとする、どんな姿を営みをしているかじっと観察する
その過程の中で、
命の尊さと自然の摂理を知り、観察眼を育て、考える力を育む
夢中になって、遊ぶこと を通して、
五感を使って、感動する経験を繰り返し、脳に上質な刺激を与え、
脳を鍛え、観察力、洞察力を育み
大人になった時、物事への観察力、洞察力を持って、問題や課題の解決に挑める能力や人間性を育むのだと想う。
その中でも特段、自然遊びは
本当に多くのことを育むきっかけを与えてくれると想っている。
将来環境活動家になるために、自然を慈しみ、自然と戯れ、自然に勤しむのではなく、水泳選手になるために、海で泳ぎ、川で泳ぎ、水と戯れるのでもなく、クライマーになるために、木登りをし、樹々と戯れ自然の中で転げ回るのではない。
私の子どもの頃の記憶として
小学生の頃、放課後、友人たち3,4人とひたすら穴を掘って、秘密基地ごっこをした。ひたすら穴を掘り、穴の中に入り、そしてまたひたすらに掘る。
誰も敵などいないけれど、側にあった竹林から、笹を取ってきて、根付くはずのないその笹を、穴の周りに柵のように地面に突き刺し立て基地を守る。
深く深く掘り進めると、冬眠中のカブトムシの幼虫と何度も こんにちは をする。その度に騒ぎながら、こんな深さに幼虫たちは眠っているのね、と観察してみる。表面の土は乾燥してサラサラだけれど、ある程度の深さになると、水分で湿気っており、土の色や質が違うことにも気づく。たまに、何の根だろう?という根っこと遭遇したりもして、土の中の普段見えない世界の光景に、驚いたり、興奮したり、笑ったり、文字通り体全身の五感を使って、遊び感じる。
一見何の変哲もない、よくある秘密基地ごっこだが
この遊びの体験から、地面の下の普段見えない世界の存在を知る。
それは例えば、大人になった時、
物事は表面に現れていることだけが全てではなく、
水面下で表には現れていないことが必ずあること、
物事や相手の、背景や、表に現れていない事柄へまなざしを向けられるマインドが育つ。
樹は、地上に現れている樹形と同じ規模の根が地面の下に張り巡らされていることがほとんどだ。
物事の根本的解決と言う 根本 とは物事の‘根’だ。
草抜きをされたことがある方はお分かりだろうが、
雑草(このような名前の植物は本来存在しないのだが)を抜く時、
表面の青い草だけむしっても意味がない。
抜く時は、根っこごと抜いてしまわないと、日が経てば抜いた草は元気に復活する。
それはつまり、物事の解決を図る場合は、表面上だけの、その場しのぎの対処をしていても意味がない、
問題を解決すべくは、‘根’本的に、根っこ部分を引き抜き対処しないと、
本当の意味での解決は訪れない。
そのような考え方を持って、課題や問題と向き合える人間性を育む。
つまり
遊び、自然遊びを通して、物事の‘概念’ を学ぶのである。
その学びに対して、自然体験、自然遊びは、この上ない良質な教科書となってくれる。宇宙の摂理、森羅万象のしくみを、惜しげもなく私たちに与え、教えてくれる。
今年はスペインの建築家 アントニ・ガウディの没後100周年。
各地でガウディの展覧会など、彼を知る機会に恵まれそうですが、その中の一つの展覧会で彼はこのように言っていました。
The great book, always open and which we must make αn effort to read,
-is that of nature
いつも開かれていて、私たちが丁寧に読み取るべき偉大な書物
ーそれは自然です。
私も心から共感します。
自然体験に勤しむこと、自然と対峙し、自然の中で遊ぶことを通じて
世界の摂理を知り、物事の成り立ちや仕組みを学び、向き合い方を育んでいく。そして自然は、いつも私たちに開かれている。
もう1つ想うことが、現在の遊びの主流である、
タブレットを通してのゲームや動画鑑賞は、
確かに、端末の中は、‘世界’と繋がっている。
指先のその先の画面の向こう側には世界と地球と繋がっている。
ただ、それは、全て100%人間が創り出したものだけの世界です。
その世界の中からだけ、感じ、遊び、学び、物事の概念を学ぶには、
あまりにも視野が狭い、できる経験が浅いと感じる。
自然とは、人間は太刀打ちできないものです。
いつも開かれていて、優しく、そして偉大で、厳しく、
人間が支配するとか、コントロールするとか、乗り越えるべきという文脈の相手ではない。
いつも私たちを凌駕するほどの圧倒的な力で存在する、偉大なものです。
人間が作ったものだけの世界に身を置いていると、
あたかも人間が何もかもを創り出した、
偉大で高尚な生き物のように思いがちですが、それは錯覚です。
思い上がり自身を驕らない為にも、そんな自分達を常に凌駕し続ける
自然のそばに身を置いたり、自然と対峙することは、
物事の本質を見抜く眼を養い、概念を理解し、そして観察力と洞察力を持って、物事と対峙できる、豊かな人間性を育むと感じる。
人間性を育むにあたり、
やはり人間の作り出す世界の中だけの体験から学ぶだけでは、
不十分であると感じる。
その為、自然は、そんな体験を補う恰好の遊び場となり得る。
遊びは、本来 ‘遊び方’ や ‘ルール’のないものです。
寧ろ、自分達で考え、自分達でルールを創るその過程すら、
遊びの大切な要素となり得ます。
そして、忘れてはならないのは
私たち人間も、そんな自然の一部だと言うこと。
子どもの頃、高鬼、色鬼、氷鬼が流行れば、
自分達で新しく◯◯鬼を、皆で考え遊んだり、
ゴムとびの型をオリジナルなものを考えてみたり、
秘密の文字を考えて友人と暗号文をつくってみたり
遊びは、学びです。
そして、その目一杯遊んで五感を育んだ経験は、大人になった時、
物事の成り立ちを理解し、概念を理解し、
生きる上での大切なパーソナリティと能力となる。
たくさんの遊びをたくさん経験して
いっぱい感動し、脳に上質な刺激をたくさん届け、
物事の成り立ちに気づき、観察眼を育て、考える力を育てる。
その経験は、多ければ多いほど良い。
それもいいし、これもいいよねな感じで
動画鑑賞、SNS、オンラインゲーム、アプリもいいけれど、
自然遊びもする、お絵描きもしてみる、音楽を奏でてみる、生き物を観察してみる…、自分達で遊びを創ってみる、
そんな中で自分が夢中になれることを、見つけてみる。
1つと言わず、幾つでも。
そうやって、夢中で没頭し遊んだ記憶は、いつか必ず大人になった時
遊びを通して学んだ 概念 を元に、よく考え、よく考察し、よく向き合い、粘り強くしなやかに、社会の中で、人との関係性を育む中で、
きっと大きな力となり、大きな助けとなり
この世界で生きるあなたを支え、導いてくれる糧となると想っている。