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マイナス150℃上のレディ

    プロローグ



    スーツを着るのさえ久しぶりだ。
    姿見と向き合い、ネクタイを締め上げる。
    映り込んだ白髪頭が、自分だとは未だに信じられない。
    ジャケットを取ろうと手を伸ばしたとき、クローゼットの奥のそれと目が合った。
    乾き、傷だらけになった革ジャン。
    ほんの出来心で袖を通してみる。
    タイトな革が、たるんだ身体を絞り上げる。
    途端に這い上がってきた革とガソリンの臭い。
    鏡の中の白髪頭が消え、あの頃の自分がそこに立っていた。

    限定解除



    1993年、夏。
    梅雨明けの足取りは重く、記録的な冷夏だった。
    だが、30℃を超えれば容赦なくアスファルトは歪む。
    夜勤明け、午前7時。気温は既に28℃を上回ろうとしている。
    疲れた身体には、冷夏と言えども流石に直射日光はキツい。
    試験会場に着く頃には30℃を超えてくるだろう。
    チョイスした相棒も悪かった。スズキ、Hi 、いわゆる原付スクーター。
    付き合いは長いが片道70kmの相棒としてはパワー不足だ。
    フルフェイスの中は汗という名の不快な液体で満たされ、試験用に着込んだ長袖長ズボンは気休めの風を撥ね付け、代わりに夏の赤外線を容赦なく吸収してやがった。

    7度目の戦場だった。
    当時、世間で言う「ナナハン」──正確には400ccを超える怪物を御すためには、「限定解除」という名の、あまりに高すぎる壁を越えなければならなかった。
    当時は「大型」や「普通」といった生ぬるい分別などない。
    免許証のど真ん中に刻まれた「自動二輪は中型に限る」という呪詛。
    その呪縛を剥ぎ取るための儀式、通称「一発試験」。
    10回、20回と通い詰めて心を折られるか、途中で己の限界を知って撤退するか。
    だが、その呪縛から逃れるルートはこれしかなかった。
    今では教習所で大型二輪が取れる。
    金さえ払えば誰でもナナハンに乗れる時代だ。悪いことじゃない。
    だが、俺たちは違った。
    そんな経緯を知らぬ今の若者は、ナナハンではなく「リッターバイク」と呼ぶらしい。
    俺は未だに「ナナハン」を使っている。

    1回目の挑戦は、まだ冬の残り香が消えぬ季節だった。あまりの緊張に、寒さすら忘れていた。
    試験官の「始めて」という無慈悲な宣告で、頭の中は真っ白になった。
    コースが右から始まるのか左からなのかすら、記憶の彼方へ消し飛んだ。
    気合を入れた新品のブーツも最悪の相棒だった。
    左の爪先はミッションの冷たい金属感をまるで伝えず、右足はリヤブレーキの居場所すら見失っていた。
    初戦は訳も分からぬままゲームオーバー。見事な撃沈だった。
    そんな無様なステップを二度三度と踏むうちに、季節は巡り、受験費用は跳ね上がり、挑戦は7回目を数えていた。
    だが、収穫はあった。
    3種類あるコースはすべて脳裏に焼き付いている。すべて経験済みだ。
    世間はそれを「常連」と呼ぶ。
    今日のステージはAコース。
    クランクの出口から間髪入れずに左の小回りが要求される、ABCの中で最も嫌な、最難関のトラップだ。
    ハズレクジを引いたわけだ。
    周りを見渡せば、すでに見知った顔がいくつかある。
    皆、Aコースと聞いただけで顔から血の気が引いていた。
    まあ、落ちたらまた片道70キロの道のりをかけて、この砂漠へ戻ってくるだけのことだ。
    たかが下道70キロ。大した距離じゃない。(が、「二度とHiでは来ない」と誓った。)
    試験開始の1時間前、コースが開放される。
    受験者たちは、己の足でアスファルトを踏みしめる。
    汗が吹き出そうが、シャツが背中に張り付こうが、紫外線に皮膚を焼かれようが誰も気に留めない。
    イメージを研ぎ澄ます者、
    コースの歪みを覚えようとする者。
    誰もが目を血走らせていた。
    常連の俺にそんな御託は必要ない。
    ……そう嘯きながら、初心者に混じって汗を流した。
    館内に冷徹なアナウンスが流れ、俺たちは控え所へと移動させられた。
    そこで受ける説明など、とうに暗記している。

    本番の幕が上がる。
    最初の頃は周りの景色などノイズにすらならなかったが、回数を重ねるごとに視界は広がり、今や他の受験者の走りを品定めする余裕さえあった。
    1番手が呼ばれる。
    前方、後方のクリアを確認。
    スタンドを跳ね上げ、鉄の塊に跨る。
    ミラーを合わせ、エンジンに火を入れる。
    ニュートラルから1速へ叩き込み、再度後方を確認。試験官のハンドサインを合図に、奴は発進した。
    満点だ。どうやら奴も同類(常連)らしい。
    減点のないスムーズな走りでコースを制していく。
    「行けるな」
    そう思った刹那、奴のフロントが一本橋から滑り落ちた。脱輪だ。
    控え所に「あぁ……」という、我が身を呪うようなため息が満ちる。
    その後、数人がテストコースの藻屑と消え、俺の番が来た。
    今日の合格者は未だゼロ。コースを完走した者すら数えるほどしかいない。
    さすがは地獄のAコースだ。
    少々の緊張とじっとりとかいた手汗と共に、バイクの前に立ち、試験官に軽く会釈を交わす。
    一連の発車ルーティンをこなし、試験官のゴーサイン。じわりとクラッチを繋ぎ、路面を掴む。
    最難関のクランクから左コーナーへのアプローチを無難に殺し、波状路を抜け、一本橋をクリア。帰着席へ滑り込ませて、下車。
    疑心と暗鬼、自己採点では五分五分だ。
    サビの浮いた金属製の階段を駆け上がり、試験官の待つ2階へ。
    「次、進みましょう」
    試験官が短く言った。一次試験合格。
    脳内が歓喜で震えたが、顔の筋肉は動かさない。
    自然に溢れそうになる笑みを噛み殺し、「はい」とだけ応えた。
    声が少し上擦っていたかもしれないが、ご愛嬌だ。
    控え所に戻れば、ちょっとしたヒーローだ。
    敗者たちが群がり、質問を浴びせてくる。
    だが、少しばかりの慈悲も、ヒントも無い。
    「反復練習と、慣れだ」
    それが唯一の正解なのだ。

    結局、一次をパスしたのは俺を含めて、たったの3人だった。
    そこから先はボーナスタイムのようなものだ。
    スラローム、急制動を危なげなくこなし、運命の発表。
    電光掲示板に3つの番号が表示された。
    苦節7回。ようやく、俺の夏が報われた。
    手続きを待つ間、合格者3人、缶コーヒーで静かに祝杯を交わした。
    一人は「私、18回目です……」と呟くタフな女。
    どこかで聞いたが
    「人が恋をするのに必要な時間は7秒間」らしい。
    やめろ。
    タフなくせに嬉し涙を浮かべて見つめられりゃ、恋しちゃうだろ。
    約6秒で「8回目っす」と俺と似たような傷を持つ男に話を振った。
    よくもまあ、どいつもこいつも常連(諦めの悪いやつら)だ。笑える。だが嫌いじゃない。
    手渡された免許証の裏面には、「限定解除」の赤いスタンプ。
    栄光の証だ。
    これで今日から、前後に輪っかが2つしか付いていない乗り物なら、たとえ10tトラックだろうが公道で転がせる。

    雌鹿との邂逅


    秋がその色を深め始めた頃、彼女(レディ)は俺の前に現れた。
    限定解除のスタンプが乾かぬうちに、馴染みのバイク屋でオーダーした。
    2ヶ月かけ、海を渡ってきた。
    ショップの片隅に佇む彼女。
    「7秒間」など待たずに俺は恋に落ちた。
    いや、すでに狂っていたのかもしれない。
    限定という鎖を外さなければ、振り向いてさえもらえない高嶺の花。
    彼女のために、俺はあの地獄を這いずり回ったのだ。
    カワサキGPZ900R
    それが彼女の名前。
    108psの心臓に、赤と黒に妖しく光る艶やかな肌。
    余計な贅肉を一切削ぎ落とした、流れるような、それでいて角のあるボディライン。
    どこかのファッション雑誌に載っていてもおかしくないプロフィール。
    最高のレディだ。
    人はバイクを馬に例えたがる。
    だが、俺にとって彼女は「牝鹿」だった。
    (なんて手垢のついたキザな例えだろう。だがあの頃の俺にとって、それ以上の言葉はなかった。)
    美しく、しなやかで、他者を寄せ付けない圧倒的なオーラ。
    あのバージンシートの感触は、今でもケツにしっかりと残っている。
    心臓(エンジン)に火を入れる。
    その容姿からは想像もつかない、獰猛な咆哮を上げるレディ。
    カワサキの調教が行き届いている。
    じっくりと暖機を済ませ、俺たちは初めて、ストリートという名の荒野へ滑り出した。

    1993年、秋。
    それが俺たちのプロローグだった。
    行き先なんてどこでもよかった。
    もう、俺を値踏みする試験官の視線はない。
    思い通りのラインを、思い通りのスピードで駆け抜ける。
    ほんの少しのルール違反なら、夜がその闇へと消し去ってくれた。
    あれから、どれだけの距離を共に駆け抜けただろうか。
    アスファルトに削り取られていくタイヤと反比例するように、俺たちの記憶は積み重なっていった。春、夏、秋、そして冬。
    いつでも恋をしていた。狂おしいほどに、焦がれていた。
    あれから30年が過ぎた。
    理不尽で、それでいてどうしようもない大人の事情で別れることになった今でさえ、
    俺の胸の奥では、まだ彼女への火が消えちゃいない。

    マイナス150℃


    風が哭いていた。
    彼女ごと横倒しにされそうな突風だ。
    耐えかねて傾くレディを、左足一本でアスファルトに踏み留まらせる。
    立ちゴケなどと言う恥辱は絶対に避けねばならない。
    南風が冬の冷気を北へと押し返し、陽光がアスファルトの体温を上げていく。
    とは言え、雌鹿を駆るにはまだ幾分冷え込んでいた。
    誰が言ったか、体感温度は時速1kmにつき1℃下がるらしい。
    そんなわけがない。
    1キロで1℃も下がれば、真夏でも極寒のシベリアだ。
    まあ、ここでは細かい理屈は抜きにして、時速マイナス1℃のルールでいい。
    陽気に誘われ、冬眠から目覚めた駄獣どもがそこかしこで咆哮を上げ始めている。
    だが、寝起きの身体はどれも鈍重だ。
    俺の雌鹿(レディ)は冬眠など知らない。
    暑いだの寒いだのというのは、人間の都合だ。
    火を入れれば、彼女はいつでも獰猛な嗎を上げる。

    レディと付き合い出して数年。
    その間、たっぷりと彼女に貢いできた。
    マフラーを替え、足回りを組み替え、ブレーキを奢り、冷却系を見直し、エンジンにも手を入れた。
    「これで終わり」
    そう思った改造は、一度だって終わらなかった。
    少しでも彼女を美しく、少しでも速く。
    世界中のショップの記事を読み漁り、休日になれば工具を握る。
    ガレージにはオイルの匂いが染み付き、財布はいつも軽かった。
    車体だけで百万円。
    手を入れた金額は、その倍以上。
    良い女ってやつは、総じて金がかかる。

    レディはアクセルの開度に敏感に反応し、心拍数を跳ね上げていく。
    彼女の心臓と直結した蹄が、アスファルトを冷酷に蹴り上げる。
    体感温度はみるみるうちに急降下していった。
    そうだ。寝呆けた駄獣どもなど、すべて蹴散らせ。内臓まで鍛え上げられたレディにとってはただの餌だ。
    喰らえばバックミラーの彼方に消え去る、ただの障害物に過ぎない。
    手綱を引き絞るようにアクセルをさらに開ける。
    いつの間にか体感温度は、マイナス150℃を下回っていた。

    花弁の行方


    レディは、いつだってアクセルに忠実だった。
    捻れば獣のように吠え、緩めれば何事もなかったように街へ溶け込む。
    何百万円掛けようが、最後に彼女を操るのは右手一本だった。
    春になると、そんな彼女を連れて決まって同じ堤防へ向かった。
    ゆるくアクセルを捻り、堤防沿いを流す。
    もちろん、俺のレディはこんな従順な走り方も心得ている。
    平日の堤防は、花見のシーズンだというのに人影もなく閑散としていた。
    ちらちらと散り始めた花弁が、黒いアスファルトをピンク色に染め始めている。
    特等席にレディを停め、フルフェイスをミラーに引っ掛けた。
    俺は彼女の鼻先にあたる路面に、どさりと腰を下ろす。
    まずは革ジャンの胸ポケットからお気に入りの煙草を一本引き抜き、火をつけた。
    春の柔らかな空気とともに、肺の最奥までニコチンを充填する。
    続いて缶コーヒーを煽る。
    あんなに熱かったはずの液体は、すでにすっかり冷めていた。
    見上げれば、満開の桜の隙間から、どこまでも深い青空が覗いている。
    青とピンクの強烈なコントラスト。
    1年のうちの、たった1週間。
    この短い猶予にしか許されない、奇跡のような景色だ。
    春の柔らかな陽射しという催眠術をかけられそうになりながら、根元まで吸い尽くした煙草をアスファルトに押し付けた。
    もちろん、吸い殻はポケットへ回収する。
    タチは悪いが、マナーだけは一流でありたい。
    催眠術に負けアスファルトへ仰向けに寝転がった。革ジャンがガリガリと硬い路面に削られる音がしたが、気にするだけ野暮だ。
    年中着倒しているこいつは、とうにズタボロの傷だらけだ。
    そっと目を閉じる。
    エンジンが春の風に冷やされ、「キン、キン……」と静かに金属の悲鳴を上げている。
    静かな平日の昼間、催眠術に堕ちようとしていた。

    ──その時だった。

    突如、周囲の桜が一斉にざわめき立った。
    突風だ。
    目を開けると同時に、俺は本能的に身体を起こした。
    視界に飛び込んできたのは、人生で一度も目にしたことのない、圧倒的な桜吹雪だった。
    世界のすべてがピンク色に染まり、
    空の青さえも完全に遮断される。
    無限とも思える花弁の嵐が、猛烈な風とともに、俺とレディを完全に包み込んでいた。
    息を呑んだ。
    いや、息をすることさえ忘れていた。
    ほんの数秒間の出来事だ。
    だが、30年が過ぎようとする今でも、俺はその光景を鮮明に思い出すことができる。
    たった数秒間の永遠を、
    俺の脳細胞は、冷徹に、
    そして完璧に切り取っていた。

    どうやってあの狭い入り口を潜り抜けたのか、手元の冷え切った缶コーヒーの中に、一枚の花弁が静かに浮かんでいた。

    エピローグ


    革ジャンを脱ぎ、静かにクローゼットへ戻した。
    革とガソリンの匂いだけが、まだクローゼットの奥に残っていた。

    格好つけて乗るのがハードボイルドなら、バイクってのはその最たるものだ。
    だが、現実はいつだって不条理で、二枚目を気取ってはいられない。
    股座で猛獣のように吼えていた彼女は、もう俺のガレージにはいない。
    姿見の俺の髪には白いものが混じり、あの頃アスファルトに背中を預けた革ジャンも、クローゼットの奥で静かに眠っている。
    時代は変わった。
    2ストロークの白煙は過去の遺物となり、キャブレターの吸気音を知らない世代が、電気で走る静かな乗り物を転がしている。
    だがな、今でもふとした瞬間に、身体が震えるんだ。
    108馬力の暴力をねじ伏せながら、マイナス150℃で駆け抜けたあの狂気。
    そして、奇跡のように舞い落ちた一枚の桜の花弁。

    俺の人生は、あの「牝鹿」と出会ったことで完全に狂わされた。
    モディファイにつぎ込んだ大金がありゃ、もっとまともな人生設計ってやつができたのかもしれない。周りは「ただの鉄の塊に、よくそこまで命と金を賭けたな」と呆れ顔で笑う。
    だが、あの圧倒的なオーラを放つ艶やかな肌を、獰猛に嗎くあの声を、一度でも知ってしまったら、引き返せるわけがないだろう。

    あの限定解除の赤いスタンプを握りしめ、目の前に「極上の女」が佇んでいたとしたら。
    人生を狂わせると分かっていて、それでも、その手綱を掴まずにいられたかい?

    鏡の中に、白髪頭の俺が立っていた。

    あの頃の俺は、もういなかった。



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